「手打蕎麦」 の起源は忠臣蔵だった | 忠臣蔵 の なぞとき

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「手打蕎麦(てうちそば)って江戸時代からあるのよね」


「え? おそばを作る機械(製麺機)は江戸時代にあったの?」



「手打」 が機械をつかわない手作りの意味だとして、「手打蕎麦」 という言葉が江戸時代からあったとすれば、製麺機も江戸時代からあった・・・ということになりますが、


 実用的な製麺機が出来たのは、明治16年(1883)の春です。
 これだって、手動式ですよ。


「江戸時代のおそばは、全部が手打だったの? それじゃ、わざわざ手打蕎麦ということもないのに」


「手打蕎麦切」 という言葉は、たしかに江戸時代からあったのです。


「蕎麦切」 は、今日でいう「そば」。そば粉を水で練って延し、麺状に切ったもの。


「手打蕎麦切」 は、江戸時代中期、宝暦(1751-1764年)頃からの言葉です。


「宝暦」といってもピンとこないかも知れませんが、『仮名手本忠臣蔵』 の初演は寛延元年(1748)なので、そのちょっと後です。


 ちなみに、「鬼平」のモデルとなった長谷川平蔵は延享二年(1745)生まれ。ということで、「手打蕎麦切」 は、長谷川平蔵が子どもの頃に生まれた言葉といっていいでしょう。


『仮名手本忠臣蔵』の題材は、初演の47~45年前にあった一連の事件です。


「手打蕎麦切」 は元禄時代にはあった、と主張する人がいるけれど、元禄時代に書かれたものをどんなに探してもみつからない。


『仮名手本忠臣蔵』は人形浄瑠璃で大ヒットし、すぐに歌舞伎にもなりました。


歌舞伎のセレモニーの一つに 「手打」 というのがあります。「手打衆」 と呼ばれる贔屓(ひいき)筋が公演のヒットを願って手打ちをするというものです。


この「手打ち」と同じように事の成就を願って 「手を打つ」とか、無事終わったことを祝して 「手を打つ」。それに 「手討ち」 をかけたものとして、「手打蕎麦切」 ができたというのが私の説です。


『仮名手本忠臣蔵』の題材になった元禄の事件にまつわる話のなかに、討入前に蕎麦屋の二階に集合したという話がでてきます。

 序文に元禄十六歳と書かれた 『易水連袂録』 という史料のなかに、饂飩屋久兵衛(うどんや・きゅうべえ)が登場します。

 この話のなかでは堀部弥兵衛(ほりべ・やひょうえ)が饂飩屋久兵衛(うどんや・きゅうべえ)に金子三両を渡して吉良屋敷討入前の集合場所としたということになっています。


『泉岳寺書上』 という史料では、饂飩屋久兵衛が蕎麦屋の楠屋十兵衛にかわっています。
 九から十に出世した(笑)


で、この 『泉岳寺書上』 のなかに 「手打蕎麦切」 がでてくるのです。


『易水連袂録』 にしろ 『泉岳寺書上』 にしても、史料とはいうものの

史実からはかけはなれた 「物語」 で、『泉岳寺書上』が書かれたのは事件から半世紀以上のちであると考えられます。


 四十七士のなかでただ一人切腹を免れた寺坂吉右衛門の自記によれば、吉良屋敷討入前に、向川岸町の亀田屋という茶屋で数人が 「蕎麦切などを食べた」 ということです。これは史実とみてよいでしょう。


「討入前に蕎麦を食べた」 という話が大きく膨らんで、「手討ち前の蕎麦切」 となったのでしょうね。


さて、ほうとうや饂飩(うどん)を作ることについては、「打つ」 という表現は古くからみられます。

このことから、元禄時代にはすでに 「手打蕎麦切」 という言葉はあったと主張するのでしょうけど、ちょっと待った!
宝暦以前に書かれた史料には、上に書いたように 「打つ」 という表現はあっても、「手打蕎麦切」 という言葉は見当たりません。


「蕎麦切を打つ」 からいきなり一般名詞の 「手打蕎麦切」 が生まれたのでしょうか。

そもそも「手」は何に由来するものか。


「手打蕎麦切」 は、商売上の差別化につかわれたものと考えます。それがいつの時代からなのか。


「手打蕎麦切」 という言葉は 「宝暦頃からのもの」 と記しましたが、その出典は越智為久の 『反古染』(宝暦三年写)で、そのなかにこうあります。



「元文の頃より夜鷹蕎麦切、其後手打蕎麦切、大平盛り、宝暦の頃、風鈴蕎麦切品々出る」


元文は、1736~1741年です。元禄は、十七年(1704)三月まで。

なので、元禄の頃から「手打蕎麦切」があったというのはおかしい。


「手打蕎麦切」 は 「宝暦になる直前」 に現れて、宝暦になると広く用いられるようになったと考えられます。


宝暦三年の写本に書かれたことなので、「手打蕎麦切」 は新造語のひとつであったと考えるべきで、下記をみても忠臣蔵に深く関係していたことが明らかです。



 以下、「仮名手本忠臣蔵」より

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 いや夫は。ハテ扨祝ふて手打の蕎麥切。ヤ手打とは吉相。然らば大鷲矢間御兩人は跡に殘。先手組の人/\は。郷右衞門力彌を誘ひ。佐田の森迄お先へ。

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「手打蕎麦切」 の 「手打」 は、そもそもは 「自家手製」 ではなく、事の成就を願って 「手を打つ」、無事終わったことを祝して 「手を打つ」、「敵を打(討)つ」 などの意を持たせた造語であったとみるべきでしょう。


下記は、大田蜀山人の「そばの文」(文化六年三月二十七日/1809年5月11日)より


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 それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど、食料にあつる故に麦と名つくる事、加古川ならぬや本草綱目にみえたり、されば手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり・・・

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「加古川」は、「仮名手本忠臣蔵」に出てくる加古川本蔵(かこがわ・ほんぞう)。

「天河屋」も、「仮名手本忠臣蔵」の登場人物です。「天河屋義平は男でござる」という科白(せりふ)は有名ですね。



元禄のころといえば将軍綱吉が大名を集めて、中国の古典を原語で講義していたことは有名です。


当時の教養人は漢詩をたしなむことは当たり前。


で、中国語の 「打」 の用法をみると、


 打賭:賭けをする
 打針:注射を打つ
 打工:仕事する
 打傘:傘をさす
 打包:梱包する
 打飯:食べ物を売り買いする 食べ物をのこす 
 打禅:座禅を組む
 打車:車に乗る
 打架:喧嘩する
 打魚:魚を獲る


調べていただければわかりますが、「○○を打つ」 というのはうどんや蕎麦に限らず昔から使われていました。


「○○を打つ」=「○○をする」


しかし、「手打蕎麦切」 という言葉は、宝暦のころにならないと出てこないし、中国語にもこの言葉はなかったものです。


「ネズミを打ちに行こう」 は、「ミッキーマウスのいるディズニーランドに行こう」 という意味で使われています。


忠臣蔵 の なぞとき-鬼あざみ