都乃錦についての訂正 | 忠臣蔵 の なぞとき

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 まえに書いた「浅野内匠頭の辞世は誰の作品?」 http://ameblo.jp/cyushingura/entry-11088679471.html  のところで、下のように書きましたが、その後の調査によって訂正させていただきます。


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 都乃錦は元禄十六年五月(1703年6月)に大坂から江戸に出たとき無宿人として捕えられ薩摩の永野金山に配流され、脱走を試みるも失敗し、宝永二年七月(1705年8月)に鹿籠(かご)に移された。「播磨椙原」は鹿籠金山で執筆されたということです。浅野内匠頭切腹の4年後ということですが??? 宝永八年(1711)という説もあります。


 上の画像にあるように「寶永年中」に書かれたものでしょうが、無宿者として佐渡に流され金山で水汲人足として働かされた者の労働状況を照らしてみると、金山配流中にはとても執筆活動などできません。


 宝永六年七月十六日(1709年8月21日)の大赦で釈放されたのち、上方に戻って執筆活動を再開。宝永九年(1712)に『当世智恵鑑』を著しています。

『薩摩椙原』は、宝永八年(1711)成立という説のほうが正しいとみたほうがいいでしょう。

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 下記のように訂正します。


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 都乃錦は元禄十六年五月(1703年6月)に大坂から江戸に出たとき、市中見回り役の布施孫兵衛に無宿人として捕えられ、同年十月(11月)に薩摩の永野金山に配流されて水汲人足として働かされることになります。

 宝永元年七月二十二日(1704年8月22日)の夜に脱走を試みるも失敗し、牢獄に送られました。ここでも苦痛に耐えかねて「斬首嘆願書」を提出。

 その嘆願書には自分の血筋や家の系図があって、何も罪を犯していないのに無宿人狩りという理不尽な落とし穴に落ちた。そんなことを書いた最後に、こんな辞世まで載せていたのです。


 捨てにけり 今日の命は惜しからず 亡殻になる 恥のかなしさ


 ちょうどそのころ、島津家二十一代の綱貴が江戸で亡くなり、吉貴が二十二代島津家の当主となった。

 そんなことから都乃錦の訴状は吟味され、家系のよさや学識があることなどが認められて同年十二月「公儀流人」として再び永野金山に送られます。役人はいうにおよばず、鉱夫たちの見る目がちがうようになった。水汲人足から坑外雑役にまわされることが多くなったといいます。


 そして宝永二年七月十日(1705年8月28日)には、鹿籠(かご)に移された。鹿籠金山では罪人として服役した様子はなかった。文筆活動とあわせて寺子屋を開いていたようです。


 ということで、『播磨椙原』執筆は、浅野内匠頭切腹の4年後ということになります。