江戸時代には都道府県のようなものとして 「藩」 があり、それぞれの藩は大名が治めていた、と思っている人が多いようです。じつは私も、そう思っていました。
ところが、忠臣蔵の調査をはじめてまもなく、江戸時代を通じて公式には 「藩」 は使われていなかったことを知りました。
元々は 「藩」 という語は、古代中国、周の時代(紀元前1046年頃~紀元前256年)に天子である王によって決められた国の支配者の支配領域を指したもので、日本では元禄十五年(1702)成立の新井白石著 『藩翰譜』[はんかんふ] に載ったのが最初。徳川将軍によって与えられた大名の領土を指す言葉として使われたのでした。
新井白石の 『藩翰譜』 は、大名などの家伝・系譜書で、337家の由来と事績を集録したものです。この書に書かれたことは伝説的なものが多く含まれていたことから、実用にならなかったようです。
いずれにせよ、浅野内匠頭が刃傷事件を起こして切腹した翌年に和製の 「藩」 が産声をあげたので、浅野内匠頭が生きている時代の史料をいくら探しても 「赤穂藩主」 というのは出てこないのです。
新井白石は、儒者(儒教学者)です。「藩」 は、『藩翰譜』 成立以降、儒者の間で細々と使われてきたらしいのですが、私が見たなかでは 『藩翰譜』 を除けば江戸時代後期にまとめられた徳川実記と総称する史料のなかで使われたもの初めてでした。
江戸時代も終わりに近づくと、手紙や随筆のなかに 「藩」 がでてきます。インテリっぽい流行語だったのかも知れません。しかし統一した表記はなかったようで、領土の地名によって 「赤穂藩」 のようにいったり、領主の姓から 「森藩」 などといわれることもありました。
ちなみに森家が支配していた赤穂藩は、二万石です。
赤穂浅野家の前領土は笠間(現在の茨城県内)で、五万三千石でした。赤穂に転封(領土替え)になったときは、笠間のときと同じ五万三千石の領土を与えられましたが、そのうちの三千石と新田を内匠頭(長矩)の二人の叔父(祖父・内匠頭長直の養子)に分与したので赤穂浅野家の表高は五万石でした。
赤穂が領土といっても、森家の時代は浅野家の半分以下の石高しかありません。
これからもわかるとおり、大名の領土は一定の区域を指すものではなかったのです。
もともと赤穂の地は、播磨国主の池田武蔵守照正の領土でした。
赤穂が独立した領土となったのは、播磨国の一部であった赤穂郡三万五千石を五男の右京大夫政綱に分知したことがはじまりです。
池田政綱が亡くなったあと、佐用郡平副で二万五千石を領していた弟の右近大夫輝興が赤穂の領土を相続したのです。
「藩」 が公式に使われたのは明治二年六月二十二日(1869年7月30日)の 「版籍奉還」 から。赤穂森家十二代の森忠儀[もり・ただのり]が赤穂藩知事に任じられ、明治四年七月十四日(1871年8月29日)の 「廃藩置県」 で藩知事を免官されたのでした。