そうだ!リッチになることを夢見てアフリカに行こう!
日本の経済は冷え切っていて、そこから回復する兆しはどこにも見えない。3.11東日本大震災の影響により安全神話が完全に崩壊し、製造業のサプライチェーンは寸断され、電力の安定供給は見込めない、税金は上がる一方、しかも円高が急激に進行しているという無数の負の鎖が僕らをきつく縛りつけている。さらに現在、欧州では大半の政府が過剰債務を抱えていて、銀行の多くが高い債務比率と資産内容の劣化に直面し、債務超過に陥った国の国債を大量に保有する銀行も少なくない。こうした状況がユーロ圏さらには欧州連合(EU)全体で三重の危機を引き起こしている。またこうしたことを背景として、人々は政治システムに不安を覚え、ニューヨークのウォール街では抗議デモが勃発した。オバマ大統領の「チェンジ」に期待して投票した人々は変化の遅さに失望し、金融危機や失業などの経済問題を引き起こした人々が政権入りしたことに不満や怒りを感じている。
世界的にグローバリゼーションが高まり、新興国市場に多くの恩恵をもたらすと同時に、先進国住民の不安を増加させている。グローバルな市場で労働規制が撤廃されると、貧しい国に住む膨大な数の人達は、今よりずっといい暮らしができるようになるけれど、アメリカ、ヨーロッパ、日本といった先進諸国で働く高賃金の労働者は、賃下げやリストラが起きて構造変化の波に飲み込まれてしまうかもしれない。地球全体で見れば良いことかもしれないけれど、こうした能力主義や市場経済に反対する人も少なからず存在するに違いない。
第二次世界大戦後、新興国は物凄いスピードで成長し、経済史上類をみないペースで豊かになっている。その終着点にあるのは、人口の75%以上が先進諸国に住み、その最大の恩恵である誰もがリッチな生活を満喫する世界であろう。軒並み中国、インドの成長は目覚しく、これらの国が先進国並みの所得水準に達することになれば、それぞれの経済規模はアメリカやEUの4倍になるのだ。当時、専門家やアナリストがこうした成長スピードを予測することはできなかった。
マイケル・ペンスは著書『マルチスピード化する世界の中で』で成長に対する研究成果を卓越した論理展開と共に説明している。例えば『「全要素生産性(トータル・ファクター・プロダクティティビィティ、TFP)」という言葉を聞いたことがある読者もいるかもしれない。これは一定量の生産要素に対して、どれだけの量を生産できるかを意味している。これは先進国などの既存の技術や知識が新しい環境に持ち込まれ、活用された場合にも向上することがある。これこそが新興国が経験することであり、主に先進国に存在する技術や知識、能力やノウハウといったものを輸入しているのだ。先進国と比べて途上国が非常に速いスピードで成長できる最大の理由はここにある。イノベーションとは、新たな製品や生産技術の創造、またはコストを引き下げることによって、付加価値を高めるのに役立つ新たな知識である』
これは広く知られていることかも知れないけれど、このように考えると新興国の成長スピードも納得がいくし、何より将来的にアフリカ諸国の急成長の可能性も見えてくる。もちろんここには先進諸国において雇用創出以上の雇用喪失といった犠牲はあるかもしれないけれど。
(出所:UN World Population Prospectsより筆者作成)
これは主要国の人口増加率を示している。ヨーロッパ地域及び日本の2000年から2005年の人口増加率は各々0.08%、0.12%と低水準で、その後グラフを見ると分かるように、2005年以降はマイナスに転じ、2045年~50年には各々-0.26%、-0.79%へと落ち込む見込みである。他方、アジア地域及び中南米地域については、増加率は低下するものの、2010年までは1%を上回る水準で推移する予測となっている。だけど、これらの地域の少子化のスピードが先進地域よりも急速であることから、2050年までには増加率は各々0.15%、0.1%へと落ち込む予測となっている。今後2050年までに最も人口増加率が高い地域はアフリカ地域で、2015年までは年率2%を上回り、2045年以降も1%を上回る水準で推移する見通しである。
また先進地域の老年人口の動向をみると、2010年時点で15.9%となっていて、2025年には20%を上回る推移になっている。とりわけ日本の高齢化は急速で、2025年、2050年のいずれの推計でも欧米先進諸国を上回っていて、極めて老年人口の割合が高い国になることが予測されている。新興国はどうなのかと言えば、現在は比較的出生率が高い地域でも、出生率の低下と平均寿命が伸びることにより、高齢化の進行は急速であるとされているし、特に成長著しい中国とインドの高齢化が先進諸国より異様なほど速い。
多国籍企業は今後も世界中でサプライチェーンの最適化や市場機会を探し続けることになるだろう。その多くは高成長を遂げる新興国にあるはずだ。ヒト・モノ・カネが国境を越え、自由に移動できるグローバル経済システムが定着すれば、僕らは常に次の市場を意識して動いていかないといけないということだ。もちろんリッチに生活したければという条件はつくけれど。
たぶん成長そのものに関心がある人などいない。興味があるのは、生産的でクリエイティブな仕事に就くこと、社会にとって有益な人材であること、詰まる所、自らのポテンシャルを最大限に発揮するための自由や機会に結びつく事柄に関心があるに違いない。確かに大富豪レベルになると、資産の価値は単なる成功の指標の1つに過ぎないのかもしれない。だけど一般的にリッチになることは、物質的な側面であらゆることをかなえることが可能になる素晴らしい武器だ。
じゃあこれからの50年を見据えた戦略を練るにはどうすればいいんだろう。今後安定志向の若者を中心にこのような思想が広まっていく事になるかもしれない。その頃には不安を助長して財産をかすめ取る自己啓発本やセミナーも進化して、「ここの国いけば、あなたはきっと豊かで幸せになれる」という情報を与えてくれるかもしれない。あながち全てが間違っているわけではないだろうから、その国はきっとアフリカ諸国に違いない。確かにアフリカ諸国は国づくりや統治体制の確立に手を焼き、国ごとのバラつきも大きかった。また全般的に天然資源が豊富であったために、それのもたらす富や収入を確保する事ばかりの政策が重視されて、長期的な取り組みが疎かになったことにより成長がこれまで阻害されてきた。
だけど、これからますます開かれた国際貿易システム、海外直接投資が比較的自由になり、国境を越える知識の習得といったことが可能になれば、アフリカ諸国はどんどん発展することになるだろう。それに現在はインターネットをはじめ通信技術やそのアプリケーションの進化を追い風に、労働集約的で知識集尺的なサービスも、国際的に容易に取引可能になってきている。何よりアフリカ諸国は人口も増加し続けることが予想されているし、若年労働者も大量に溢れている。
グローバル化は何も先進国が犠牲になる構図ばかりではなくて、ある意味では新興国は知識を獲得するのと引き換えに、低賃金をはじめとする様々な好条件を先進諸国に提供しているのだ。うがった見方をすれば、搾取しているとも言えるかもしれない。だからこれからは不安に怯えるばかりではなくて、新興国市場と共に豊かになる構図を模索しないといけないのだ。そこには語学や文化など越えなければいけない壁は無数に存在する。7日の日経新聞によれば、語学学校に通う受講生の言語ニーズも多様化し、新興国言語の需要が増していることが見て取れる。これは企業が常に新たな市場に目を向けていることを証明している。
確かにアフリカ諸国はガバナンスの側面で問題もあるし、成長を不安視されてもいるけれど、僕達のモデルや将来を見通す能力といったものは限られていて、予想が外れることは例外ではなくて日常茶飯事である。そして持続的な富の創造には、人的資本、知識、絶え間ない経済構造の変化、資産の生産的な活用を可能にするような経済体制が必要不可欠だ。こうした時にアグレッシブでフットワークの軽い有能なベンチャー企業が数多く参入することになれば、きっとそうした体制は容易にできあがることになるだろうし、魅力的な市場に変わるかもしれない。日本でどうやったら生き残れるかを模索することも大切だけど、これからはどこの国に向えば成功できるかを考えることも必要になってくるのかもしれない。
参考文献
マルチスピード化する世界の中で――途上国の躍進とグローバル経済の大転換
セイヴィング キャピタリズム
グローバリゼーションを擁護する
イノベーションとは何か
あなたも不合理な世界の恩恵を受けている1人かもしれない リベラル日誌
自由に生きることは案外難しい
日本はこれまで高度成長期の60年代を経験し、人口はどんどん増えて、経済の規模が拡大していく時代が長く続いていた。成長のベクトルは常に上を向いていたし、製造業を中心にあらゆる業種、業界で、人々は明日に向って突き進んでいた。給料は毎年上昇し、がむしゃらに、愚直に、ひとつのことだけをやっていれば、順調に課長、部長などのポストは用意され、定年になれば、会社から奉公のお礼とも言わんばかりに多額の退職金を受け取ることが出来た。息子からは尊敬のまなざしを向けられ、孫にはお受験のための費用まで捻出することができ、悠々自適な年金生活が待っていたのだ。ここには個々人の意志は組織で反映されることはなかっただろうし、また必要ともされていなかった。
60年代には学生運動が活発化して、マルクス主義が広く普及した。資本主義制度に強く反対し、大企業に就職することは、何やら資本主義の犬になりさがるような風潮まであったようだ。ジョージ・オーウェルは著書『1984』でビックブラザーの世界を描き、全体主義国家を痛撃した。全体主義国家では国民は1人の大きなリーダーの思想を受け継ぎ、日々がむしゃらに、目の前のゴールに向って走っていれば幸せが約束されたのだ。
日本の大企業は「根性と成長」を合言葉に、多くの学生を囲い込んだり、教育を行なったりすることによって、個性を剥ぎ取り、1人の立派なソルジャーになることを強要した。でもそこで働く人々は希望に満ち溢れ、何の疑問も持たずに、明るい未来を夢見てひたすら仕事に打ち込んでいたのだ。こうした行動を冷ややかに「社畜」と呼ぶ人もいたけれど。
バブル崩壊やリーマン・ショック以降、誰も彼もが「この国には希望がない」と口を揃えて憤慨している。そこには早期退職を求められたり、課長や部長職のポストにつけない中年社員達の大きな犠牲をだしながら。それから企業はこれまでの方針であった「よりよい集団の1人になること」から「優れた個人になること」という正反対のスローガンを掲げ直して何事もなかったかのように突き進んでいる。
僕はこれから求められる人材は「創造力を兼ね備えたリーダー」だと思っている。時代は「個人主義」に移行しつつあるけれど、個人単体のレベルでは専門性は全然足りないし、あまり有益ではない。だからきっと、もっと中間層的な「小集団(チーム)」を中心に組織は形成されていくだろう。つまり、個人としての高い能力が求められ、尚且つ意思決定の責任も負わないといけないリーダーになることを強いられるのだ。こうした方針や機能システムが正しいかどうかは分からないけれど、望むと望まざるとに関わらず、僕らは時代に沿って歩んでいったり、時代を先読みしながら生活しないといけない。そうしないと社会で生き残っていくことが出来ないからだ。
最近「就活ビジネス」も盛んだ。エントリーシートの書き方や面接の方法などを指導する塾ができたり、ツイッター、フェイスブックなどのSNSツールを通じた情報合戦もしきりに行なわれている。「これをやらないと一流企業に就職できない」と学生達の不安を利用したビジネスも山のようにでてきている。でも「創造力を兼ね備えたリーダー」を一朝一夕で形成することはできない。長期的な教育が必要なのだ。
近年ますます男女共学の学校が増加しているようだ。でも僕は男女別学を推進することによって、未来の「創造力を兼ね備えたリーダー」を生み出すことが可能になるのではないかと思うのだ。教育と就職を一緒くたにするなと批判はあるかもしれないけれど、企業に余裕がなくなってしまったし、今や親が就職活動の説明会に訪れる時代になったわけだから、「教育=就職」と考えてもそれほど問題はないのではないだろうか。
男女別学が日本で少なくなったのは、戦後、GHQの指導の下、公立学校の男女共学化が進められてきたからだ。男女別学のメリットは様々点でもたらせられる。中井俊巳は著書『なぜ男女別学は子供を伸ばすのか』で論理的にデータを検証し、男女別学の良さを示している。
例えば『最近は「草食系男子」「肉食系女子」と言われるように男子よりも活発な女子が目立つようになりましたが。皆が皆そうではなく、依然としておとなしく控えめな女子も多いのは事実です。とはいえ、実際にリーダーとしての役割を与えれば、伸びていく要素を持っている女子も少なくありません。けれども、共学にいるとその特性を生かすチャンスに恵まれにくいという面があるのは否めません。その点、女子高ではリーダー的役割を男子に頼ることも譲ることもなくなります。…略…女子もリーダーとしての企画・運営力を養えるのです。…略…「草食系男子」と言われる、優しいけれど、どこかひよわな男子が増えています…略…男子高の中には、知力だけでなく気力・体力などを意識的に向上させ、たくましい男子を育てようとする学校があります』
帰国子女はとりわけ一流企業に入社するケースが多い。それは学歴や語学面で有利なことも当然あるけれど、きっとそれだけではない。彼らは自由という空間で生き延びてきた強い精神力があるからに違いない。礼儀作法などに関してはお世辞にも褒められたものではないけれど、グループの中で「個性」を活かす力や技能は高い。海外の授業はグループワークを頻繁に行ない、意思決定能力や個人の能力形成を自然に学ばせる。だからこそ「格差社会」で高い能力が求められる現代においてさえも、成功している人が多いのだろう。
僕は教育の専門家でもなければ、能力も人より優れているわけではないから、本ブログで書いたことは、あまりに基本的で、専門家はもちろん、ビジネスの現場で活躍する人達から見ると「今更そんなの当たり前だ」と思われるかもしれない。だけど、その一方で自己啓発や就職ビジネスが賑わっているのもまた事実だ。高度成長期には会社と国家に依存しながら、がむしゃらに毎日を送ればそれで何も問題はなかった。だけど、給料は上がらない、解雇はされるかもしれない、国家だっていつギリシャのようになるか分からない時代になったいま、誰もが世界市場と共存していく術を見つけないといけないのだ。「自由」って一体なんだろう。
参考文献
抗議デモで金融機関を占拠してはいけない理由
ギリシャ情勢が混迷とする中、リーマン・ショックを彷彿とさせる世界的な金融危機が再発することが予想され、人々を震撼させている。こうした市場の不安に配慮した形で、欧州中央銀行(ECB)は3日、政策金利を0.25%引き下げ、1.25%とすることを決定した。ギリシャを中心とした欧州債務不安に伴う景気減速や市場混乱を防ぐことが狙いだろうけれど、どこまで効果があるかは不明だ。日本は安全かと言えば、当然そんなことはなく、ソニーは2日、2012年3月期の連結最終損益が900億円の赤字になる見通しだと発表した。テレビの販売不振、タイの洪水、円高など様々な影響が予想できるけれど、日本が世界に誇るソニーが4期連続の赤字になったことは、製造業で生計を立てている日本人に精神的なダメージを与えたに違いない。
では金融業は好調なのかと言えば、相当な痛手を被っており、野村ホールディングスが1日発表した11年7-9月期決算は、最終損益が460億円の赤字となり、10四半期ぶりに赤字に転落した。就職活動が始まった学生は「一体どこに就職すれば安定が待っているのだろう」と不安に怯え、説明会や面接に参加しているに違いない。
こうした不安や不満の矛先をどこに向けたらいいのか訳が分からなくなった若年世代を中心に、米国ニューヨークのウォール街で抗議デモが勃発した。失業問題や収入格差の問題が深刻化する米国では、将来に希望を抱けなくなってしまったのだろう。米国の2010年の失業率は9.6%と高止まって推移しているし、若年世代の失業率に至っては約20%にも及ぶのだ。
全米各地で起きた抗議デモは留まることはなく、10月にはインターネットを通じた呼びかけに共感した若者達が世界中で同じようなデモ活動を実施した。とりわけ債務危機に見舞われて、若年世代の失業問題が深刻化する欧州では激しい抗議デモが巻き起こり、イタリアでは『Give us Money』を合言葉に、大手金融機関に押し寄せ、窓ガラスを割るなど暴徒化する事態にまで発展したようだ。
日本の失業率は世界各国と比較しても数字の上ではまだましだ。だけど08年のリーマン・ショック以降、数字は上昇傾向をたどるようになり、さらには3.11東日本大震災も影響して高止まって推移している。2010年の失業率は5.1%に達し、過去最悪の数字(5.5%)に迫っている。でもこの5.1%という数字は政府の雇用対策である雇用助成金を含めての数字であるから、この雇用対策が打ち切られでもしたら、あっという間に過去最悪の数字は更新されることになるだろう。
グラフを見て分かるように、日本の失業率は5%前後で推移しているけれど、若年層(15-24歳)の失業率は10%程度とかなり高めだ。他の先進国と比較すればそれほど高い水準ではないけれど、深刻な数字であることは間違いない。
現在グローバルな視点で考えると、あちこちで自由主義経済に基づく競争が激化して、優勝劣敗が明確化するようになってきている。そして、そのダイナミズムの中からイノベーションが生まれるという企業経済社会のメカニズムが全世界に猛烈な勢いで浸透していることが見て取れる。人は誰でも負けるのは怖くて、競争から逃げ出したくなる時もあるけれど、好むと好まざるとに関わらず、僕達は資本主義と市場経済の中で生きていかなくてはならない。人類はこれ以上の経済制度を持ち合わせていないし、これからいきなり新たな制度が開発されるとは到底思えないからだ。
また震災の影響もあって、増税・原発の問題が浮き彫りとなり、グローバル化はさらに進行することになるだろう。簡易的業務は益々アジア諸国に移転され、生産拠点であろうが、開発拠点であろうが、日本という市場は、世界中に存在している産業立地の1つに過ぎなくなってしまうのだ。もちろんここには、先進国と後進国の収入格差が縮まるという光の面もあるけれど。
さらにここに追い討ちをかけるように、年金支給年齢引き上げによる定年延長義務化が議論されているようだ。もしこんなことになれば、若年層の失業率は益々上昇し、スペインの40%とは言わないまでも、暴徒化騒動が起きたイタリアの27.9%(2010年)に迫る可能性は十分にある。
では、格差社会によって最も得をしたのは誰だろう。財産を抱え込んでいる老人やヒルズ族が頭に浮かぶかもしれないけれど、彼らは時代の浮き沈みの中で偶然、運と実力が人よりあって成功した数少ない人達だ。一番得をしたのは、公務員や日本の大企業に務める人達だ。終身雇用、年功序列制度を今も尚、後生大事に守っている。基本的に給料は下がらないし、解雇されることもない。デフレになればなるほど、さらに給料が上積みされていく。「ウォール街で占拠デモが起き、東京でも数百人規模のデモが起こった模様です!」とテレビのナレーターが伝えるのを聞いて「かわいそうに…」と言うだけでまるく収めようとしている人もいるかもしれない。
これから産業空洞化が加速してこのまま政府が手をこまねいていたら、若年世代の失業率が深刻化し、きっと日本でも若者を中心とした抗議デモは発生するだろう。だけど抗議に参加する人達は、どうか金融機関に向うのだけはやめてほしい。お金がある所に集結したいのは分かるけれど、きっと政府に直談判した方が効果はあるし、金融機関は人材が財産であり、コストである世界だから十分痛めつけられている。もしかしたらグローバル化の渦に巻き込まれ、大手金融機関も日本を見捨てて本社機能をアジア諸国に移しているかもしれない。そんなことになれば、外資系金融機関は当然のように一部機能を残して日本から去っていることになるだろう。
日本で若年世代の失業が深刻化することになれば、それは紛れもない年功序列制度や終身雇用制度を見直さない政府の責任が大きい。また消費税より先に所得税や法人税を増税するようなことをしているのは、ひょっとしたら産業空洞化を進行させたいのかもしれない。こうした政府の方針を見ても、あなたは金融機関を占拠するのだろうか。
参考文献
新潮選書 日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学
マルチスピード化する世界の中で――途上国の躍進とグローバル経済の大転換
若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)
【書評】宗像教授伝奇考(漫画) 星野之宣
潮出版社
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ジブリ映画から見えてくる若者の世界観
「安定した就職先に入社したい」と望む新卒学生の多くが、有名企業に殺到し、大企業はどこも軒並み数百倍の倍率となり、100社受けても一つも内定がでない学生が大量に溢れている。連日のように新聞やテレビでは就職状況の厳しさが伝えられ、新卒の内定取り消しが相次ぎ、どこを見ても暗い話題しかない。バブル景気の頃と比較して、この理不尽な世界に憤慨している若者もいるかもしれないが、心の力点をどこに置くべきか模索している若者もいるかもしれない。若者はいつの時も、時代の変遷と共に心を進化することを迫られているのだ。
こうした現状の中でさえも「最近の若者はなってない」、「連中の考えていることは分からん」といった中高年世代のぼやきは鳴り止む事はない。こうした世代間ギャップは、別に今に始まったことではなく、いつの時代にもあったことだ。では今の時代の世代間ギャップはどこから来るのだろうか。
ジブリ映画『コクリコ坂から』は、60年代の日本を舞台とした作品だ。当時の日本は全共闘運動が活発化した時であり、大学内でデモとかストライキが頻繁に起きたり、しまいには政治セクトの学生同士の内ゲバやら何やらで大学は混乱状態であった。そうした流れは地方の高校にまで広がって、一部の高校では暴徒化した騒ぎまであったようだ。こうした時代的運動を描きたかったのかどうかは分からないけれど、映画では文化部教室『カルチェラタン』の取り壊しを巡った学生同士の争いを物語の核にしている。まさに、当時の日本で巻き起こった革命対保守といった二項対立構造を見て取ることができる。
また当時の日本は、社会の矛盾を資本主義体制に向けていたこともあって、マルクス主義が広く普及した。宮崎駿もこうした影響を受けたのかどうかは分からないけれど、製作映画で度々資本主義を批判したような描写を行なう。映画『千と千尋の神隠し』では、「カオナシ」という気味の悪いキャラクターが登場する。カオナシは食べ物を与えてくれた人に対し、金(ゴールド)を渡すことによってお礼をする。だけどしばらくすると、無秩序に、そして無制限に食べ散らかして、組織を混乱させる。いつまでたっても満腹になることはなく、最後は大量の排泄物を垂れ流すことで冷静さを取り戻すのだ。宮崎駿はこの作品について、「僕はあの異世界を日本の近代だと思ってやってた」と述べている。この「カオナシ」こそ、宮崎の目から見える資本主義世界のイメージなのかもしれない。
話を『コクリコ坂から』に戻すと、主人公松崎海と、海が思いを寄せる風間俊達男子学生集団は「カルチェラタン」の取り壊し反対運動を見事に成功させる。取り壊し反対を直接的に呼びかけるために、実業家であり、港南高校理事長である徳丸に直談判をしたのだ。ここで理事長は、当時男性社会であったにも関わらず、男子生徒の意見を取り入れるのではなく、そこにたまたま居合わせた海の意見を聞き、心を動かすのだ。理事長は男性社会の中で、集団の中心人物に認められているという海の実力と、海の父親が朝鮮戦争で世を去っているという境遇に共感し、賛同したに違いない。
ジョージ・オーウェルは著書『1984』で、「ビックブラザーの世界」を描いている。ここで言うビックブラザーとは、スターリンであったり、毛沢東であったりといった全体主義国家の独裁者を意味している。全体主義国家において、国民は国家と一体であって、1つの大きな集団になることを求められる。これは大企業でも同じようなことが言えるかもしれない。特に高度成長期の日本の大企業は、個性を胸の奥にしまい、社長の号令のもとに一致団結するソルジャーになることを強要した。これも毎年景気が上昇していくような世界では、とても合理的で快適なシステムであったに違いない。一つの方向に突き進むスピードと勢いだけが求められ、各人が創造性を持つ必要性がなかったのだから。
またかつて、全日本の85%が、一斉に同一の行動をした。田植えの時には、全日本人が田植えをしなければならず、ゴーイング・マイ・ウェイの精神で行動すれば、確実に餓死するか、他人の世話にならなければならなくなる。集団主義になることが求められるだけでなく、そうした行動が人々に良い結果を与えたのだ。でも度重なる不況によって、そうした仮面は剥ぎ取られ、「部長職ならできます」といった犠牲者を生み出してしまった。
最近のビジネス書の多くは、若者に「コモディティ化」することに対する注意喚起を行い、しきりに他人とは違った「スペシャル」になることを強いている。瀧本哲史は著書『僕は君たちに武器を配りたい』で、これから日本で生き残ることが出来る4つのタイプと、生き残れない2つのタイプを時代背景と共に示唆している。これは、日本が集団主義から急激に個人主義に移行していることを表わしているのだろう。こうした急激な時代の変化の波を巧みに利用して、不安に刈られた若者を食い物にするような自己啓発が流行している。こうした変化は若者の心にも大きな変革をもたらしたに違いない。
最近の若者を評する時に「上から目線」だということを耳にする時がある。「先輩にしてはいい決断だと思いますよ」、「うちの部長も成長したよね」というような発言をする輩が増加したからのようだ。榎本博明は著書『上から目線の構造』で、こうした現状を的確に表現し、「自己愛の視線を相手を通して自分に向けていて、相手そのものなど眼中にないのだ。人の目に自分がどう映っているかが気になるだけで、他人そのものに関心が向いているわけではない。今特に求められるのは、自己中心的心性から抜け出して、もっと他人に関心を向けることである」と説いている。
欧米人も個人主義ではないかという人もいるかもしれない。欧米人は言うなれば「チーム主義」である。山岸俊男は著書『信頼の構造』で、これまで言われてきた「欧米人は個人主義である」という概念を、様々な実証研究を紹介しながら、周到な議論で打ち砕いている。僕は外資系企業の欧米人の接し方を見てきているので、彼の論理が容易に理解出来た。彼らはチーム内で重要な意見やビジョンに対立が起きると、家での昼食会に招待したり、ミーティングを繰り返し行なうなど、根気強く議論を重ねることを試みる。
現在日本で起きていることは、集団主義から個人主義に天秤が急激に傾いていることだ。だから変化に敏感な若者に対し、様々な意見や議論が出てきているのだろう。僕はビジネスで成功するためには、欧米の「チーム主義」システムに近いような「小集団主義」とも言うべきあり方が適していると考えている。しかしながら、時代や企業が、個人主義を求めているのであれば、このまま天秤は傾いたままであろう。そして時代が経た後、もし個人主義が行き過ぎたということになれば、もう少しあいまいな、中間層に位置する「小集団主義」になるのかもしれない。でもこうした答えの分からないことを議論してもあまり意味はない。それにこの答えは、きっと近い将来若者達が僕らに示してくれるに違いないのだから。
参考文献
「上から目線」の構造 (日経プレミアシリーズ)
僕は君たちに武器を配りたい
千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
フィルム・コミック コクリコ坂から 1(アニメージュコミックス)
フィルム・コミック コクリコ坂から 2 (アニメージュコミックス)
フィルム・コミック コクリコ坂から 3(アニメージュコミックス)
フィルム・コミック コクリコ坂から 4(アニメージュコミックス)
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム


