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「若者がかわいそう」はもう止めよう


連日のように各国の財政問題が取りだたされ、ついに為替は80円を割り込んだ。これは日本企業の輸出競争力を一段と低下させるに違いない。そして日本の産業は益々世界、特にアジアに拠点を移していくことになるだろう。でもこの現象は輸出産業だけでなく、あらゆる業界に波及している。テクノロジーの目覚しい発展や日本の高税率に嫌気して、金融業界でもシステム管理業務をはじめ、多くの業務でアウトソーシングに歯止めが掛からないのが現状である。


そんな中、大学生の就職内定率は過去最低を更新し、当面回復することはないだろう。なぜなら、もはや産業の形態そのものに変革がもたらされているからだ。こうしたことを受けて、テレビや新聞では「今の若者はかわいそう」という論調の記事が踊り、学生自身も、悲劇の運命を背負ったように悲壮感を漂わせ、なかにはこんな時代に生んだ親を恨むなんて思っている哀れな小僧もいるのではないだろうか。



現代の若者は本当にかわいそうなのだろうか。



僕はあまりかわいそうだとは思わない。これには理由がある。確かに90年代後半から10年ほど続いた就職氷河期世代は、「かわいそう」かもしれない。この世代は偏差値という定量評価を受け入れ、社会は中学⇒高校⇒大学⇒大企業というレールを走ることを「成功の印」とでもいうように示してきた。だからこそ、どこかでこのレールを踏み外せば、大企業で正社員になることは非常に難しかったのだ。1つの評価基準によって、また1本のレールによって物事が決定されるということは、ある意味シンプルで分かりやすい。この基準をある一定程度クリアすれば、必ず成功するという法則が作られているわけだから。ただ裏を返せば、その特定の基準をクリア出来なければ、競争に脱落するということになる。



現代は機会に溢れている。AO入試や自己推薦制度を使用すれば、勉強が出来なくても有名大学に入学出来るし、語学や何か特技はあるけど、事情があって大学には行かなかったという人も大企業から熱烈なオファーがあるかもしれない。もはや「一流大学卒=大企業」という法則だけが有用ではないし、下克上を行なうチャンスであると言えるかもしれない。


これからはグローバル化により、クリエイティブクラスとマックジョブの二極化が日本でも本格的に進むだろう。厚生労働省が先日発表した調査によれば、2010年における相対的貧困率は16.0%となり過去最高となった。恐らくこの数値は今後も上昇していくことになるだろう。


ただ日本の貧困層も世界と比較すれば、まだましだ。筆舌つくしがたいほど貧しい国は世界中に存在し、その日の食事にもありつけない貧民の街、路上で暮らす親のない子供達、かっぱらいで生計をたてる一家、それぞれが最極貧、生死のせとぎわで暮らしている人々がいる。それと比べて日本では、ホームレスと称して都内の一等地にダンボール小屋というマイホームを建てて、毎日炊き出しの弁当や寄付を貰ってそれを利用して生活している人もいるだろう。



ただ現在は欧米の財政問題が注目されているが、日本の財政も非常に深刻であるので、過度な保護は今後出来なくなってくるだろう。ミルトン・フリードマンは著書『資本主義と自由』で「負の所得税」の導入を提案している。一般的には、国民は所得税を支払う義務があるが、所得が一定額よりも低い場合は、税金を免除される。そして、所得がゼロに近い人には生活保護という形で政府が援助資金を提供することになっている。でもフリードマンはこれに対し、一定のルールに沿って、所得税を徴収することを提案しているのだ。当然フリードマンは貧困層を無視しているわけではない。セーフティネットの張り方を変えようという提案をしているのだ。働かずに生活保障をもらおうとするインセンティブを極力軽減していく仕組みである。つまり、所得がゼロの人よりも100万でも所得のある人のほうが、結果的に受取総額が増えるようにインセンティブをつけるという考え方である。こうすることで働く意識が高まり、税収増につながるかもしれない。


さて世界がフラットになって市場が拡大したのは、何も新興国の住人だけではない。先進諸国の人々にも同様に拡大されたのだ。つまりこの機会を生かすも殺すもその人次第であって、それだけ面白い時代になったということなのだ。


もう若者はかわいそうという風潮はやめて、広い世界に目を向けて(特にアジアかもしれないけど)この変化に富んだ素敵な未来を謳歌していこうではないか。


参考文献

経済古典は役に立つ (光文社新書)
資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

ツイッターについて意見というか感想でも


ツイッターを始めて10ヶ月余りが経過しようとしている。なので感想でも書いてみようと思う。つまりどういうことかというとネタがないってこと(笑)


僕がツイッターを始めた理由は、自分の主張を世の中に浸透させたかったからでも、「なう♪」なんておしゃれにつぶやきたかったからでもない。それは現代の優秀な若者の考え方を知りたかったからという単純な理由だ。競争社会というのは、人材の流動性が激しい。プロスポーツに代表されるように、多くの場合は後から入場してきた才能溢れる若者によって強制的に退場させられることになる。基本的には成果主義を採用している企業も同じようなことが起きているが、何が異なるかといえば、プロスポーツでは体が資本であるのに対し、企業では思考プロセスやテクノロジー技能が資本であるということだ。そういう意味で現代の優秀な若者の考え方を簡単に触れることが出来るならやってみようかと思ったのだ。



ところが考えていたツールとは違い、ツイッターは主義主張の交換場というよりも、お手軽に自分の身の上話を報告する場所に過ぎなかった。まあそれだったらせっかく始めたことだし、就職支援やら簡単に自分の主張でもしてみようかと思い色々やってみた。そうこうしている内にブログでも書いてみたりと幅が広がっていったのだ。


ツイッターが浸透した理由はフェイスブックと同様に、個人に権威を付与することに成功したからだろう。フェイスブックは写真などのツールを使って個人に権威を与え、ツイッターは140文字という言葉を発信することによって個人に権威を与えている。こう考えていくと結局、創始者の巨大な権威に振り回されているだけなのかもしれないけど。


ツイッターが知識人を始め、多くの人を中毒にさせるのは、「フォロー」と「リプライ」という機能があるからであろう。これは本当に恐ろしいシステムだ。全くの個人的な意見であるが、世の中である程度上手くやっている人の持っているモノは主に2点あると常々思っている。それは「継続性があること」と「1つの小さな達成に喜びを見出せること」だ。


勉強でもスポーツでも成功するためには、ひたすら同じ事を繰り返し、継続しなければならない時がある。イチローのような天才的な身体能力を持った選手でさえも、幼少時代から恐ろしいほどの反復練習を行なっていた。


さらにこれが1番重要なことだと思っているが、1つの小さな達成に喜びを見出せるということは、興味を持続して物事に取り組めるということだ。人は興味があることに打ち込んでいる時、脳内でドーパミンを多く分泌させ、脳は覚醒されて、集中力が高まることは脳科学的にも広く知れ渡っていることであろう。フォロワーが増えることはまさにこれにあたる。


ひょっとすると、つぶやくごとにフォロワー数が上昇し、1つ1つのことを的確に処理し、達成感を覚えることが可能な人ほどツイッターを止めることは困難なことかもしれない。怠惰や弱さでタバコを止められないということとは少し意味合いが異なるような印象を受ける。



ツイッターに関してもう少し触れておくと、自分のフォローする人数を限定して、フォロワー数を伸ばしている人にはある傾向があるように思う。それは、より個性を全面に押し出しているということだ。ここで言う所の個性は権威や権力に近いのかもしれない。ツイッター社会において、フォロワー数の多寡が意見や思考の正誤を決定させてしまうところがあるからだ。そして中には自分の権威や権力をコントロール出来なくなって、人を卑下したり、権力者のように振舞う人もいる。こういう人を見ているだけでもツイッターは非常に面白いツールだとも言える。



さて僕自身はどうかと言えば、この記事 をブログに書いてから、いきなりフォロワー数が増加した。これは喜ばしいことではあるのだけど、フォロワー数が増加すると沢山の人に見られるわけで、程度の低い輩からリプライをもらう数も増加することになる。


ただここでもツイッターはいくつかの防護策を使用者に与えている。特定の人をブロックすることやつぶやきに鍵をつけて特定の読者にしかつぶやきを見せなくすることが出来るのだ。


こうして思い返しただけでも色々な機能を持っているこの情報発信ツールは便利で魅力的なものであるように思う。ただこれをリアルの社会に持ち込みたいかと言えば、それほどでもない。やはり皆リアル社会ではリアル社会で自分の世界や交流を持っており、あくまで便利な意見交換場として使っているのでないだろうか。僕自身はブログも書いているので、価値ある反応という便益と不愉快なリプライや使用するための時間という費用を天秤にかけて、費用が余りにも重くなった時にすっぱり止めることになると思う。ただ今のところ、知的でユーモラスなフォロワーに恵まれたおかげで全然止められずにいるのだけれど。


参考文献

高学歴高収入女性の獲得方法 リベラル日誌

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること
クラウド化する世界


「未来の価値ある自分」を夢見て投資するのは結構難しい


世の中は明日を夢見る希望と不安で満ち溢れている。ネットや新聞紙面では、毎日のように世界各国の財政問題が取り沙汰され不安を助長している。さらにテクノロジーの目覚しい発展により、グローバル化が加速していることを受け「外国人留学生は就職活動に有利」や「世界各国の人材を適材適所に配置」などが声高に叫ばれ、若者を煽りに煽っている。


このようなグローバル市場で生き残る方法を教授するかのように、自己啓発本や資格学校が溢れ、若者をさらに混乱の渦に巻き込んでいるのだ。巷にあふれる自己啓発本の多くは、僕らに「這い上がるための気持ち」と「成功への道しるべ」を昏々と諭すように語りかける。しかしながら、それらの方法が実際に効果があるかどうかは定かではない。


果たして自己啓発を読み漁ったり、資格学校に通い詰めて、貴重な時間とお金を費やすことは本当に価値のあることなのだろうか?僕は最近の胡散臭いテレビCMや書店での売り出しを見ると、常に疑問に思ってしまうのだ。



橘玲の著書「残酷な世の中で生き延びるたったひとつの方法」の中で紹介されているアメリカの教育心理学者アーサー・ジェンセンによれば、知能の70パーセントは遺伝で決まるのだそうだ。


僕のこれを読んだ感想はと言えば「まあそうだろうな」くらいのものだった。なぜなら身体能力、身長、容姿などあらゆる場面で十二分に遺伝の可能性は証明されているからだ。にも関わらず、当時アメリカ社会では大変なスキャンダルになったようだ。


恐らくウサイン・ボルトは生まれながらにして人並み以上に速く走れただろうし、日本では練習量ばかりが注目されるイチローも、きっと生まれながらにして光り輝く原石であったに違いない。


ところが知能という側面については、これまであまり注目されてこなかった。もちろん一部では話題になっていたであろうが、世間一般で大々的に発表されるなんてことはなかった。もしこんなことを発表すれば、社会問題になることが予想出来たからであろう。そうなれば、学校という教育システムは崩壊するだろうし、人間社会自体が成り立たなくなる。


しかしながらこの不都合な真実を受け入れることにすれば、思ったより人生は明るいのだ。山田詠美の著書「ぼくは勉強ができない」で主人公の時田は勉強が出来なくても、人気者であって、女にモテればそれでいいという精神をつらぬいて、自身の生活を満喫している。



僕が深く関わっている超競争組織においては人材の流動性が激しい。それは自分の能力に限界を感じたり、あまりにも厳しい組織体系に耐えられなくなったりして自ら企業を去る人達がいることや結果を出せなかったことによる強制退去システムにより企業を去らざるをえなかった人達がいることが主な原因だ。



でもこんな組織に毎年のように膨大な量のラブレターが届き、そこには大抵「私はとても優秀です。御社に必ず貢献します」と書いてある。さらに面接では「グローバルの環境の中で、切磋琢磨しながら、自分の能力を最大限に活かして、御社に貢献したいと考えるだけでなく、社会貢献にも寄与させて頂きたいと思います」と目を輝かせて話してくれる。


僕はこのような高尚な思いで入社を希望する人達と会うと、とても慌ててしまう。



僕は美味しいワインを飲んで、素敵な女性とセックスをする生活さえ出来れば、他のことにはあまり干渉しないというライフスタイルでこれまで生きてきた。だから僕が働く理由は、そんな素敵な女性との食事代やホテル代を稼ぐためという事以外にはない。確かにマネーゲームに明け暮れることに高揚感を覚え、仲間と切磋琢磨することに充実感を持つことはあるが。


最近は不況によってAO入試増加や私立大学では学部増設などが行なわれている。これは今まで本質的な能力ではその大学に入学できなかった人達に門戸を開いた形であろう。当人からすれば、高い授業料と引き換えに学歴というステータスをゲットできるわけだ。


僕は最近このトレードは非常に割高なんではないかと感じている。企業側もこの制度によって学生の能力低下を憂慮してか今まで以上に採用試験に高いハードルを課してきているからだ。つまり大学進学の最大目的である将来キャッシュ・インフローの増加が見込めないことを意味する。


日本が、せめてアメリカ型のAO入試制度のようにSAT統一テストを面接や成績と共に生徒に課すことになれば話は変わってくるのだろうが、そんなことは数十年後にも訪れるかどうかはわからない。



自己啓発や資格学校を始め、大学などの教育システムに貴重な財産をはたいて参加してみても、リターンが何もないのであれば、それは詐欺と同じようなものだ。これからの残酷な時代を生き延びるために必要なことは、自分の能力をしっかりと見つめ、適切に投資することではないだろうか。



参考文献


ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

















この残酷な社会で生き残る為の3つのアイテム


戦後の高度成長期は、期待とエネルギーに満ち溢れていた。例えば僕らの生活は、60年代において年率9%~10%という驚異的なスピードで豊かになった。80年代はスピードダウンしたと言っても年率4%で走ってきた。この時代は親よりも豊かになるのが当然で「ニューリッチ」世代と呼ばれた。給料もうなぎ上りに上昇し、下がるなんてことは考えることもなかったであろう。90年代は「失われた10年」と言われた時代に突入し、成長は止まり「ニート」なんて言葉が出来たり、「ニュープア」なんて呼ばれる世代になってしまった。そして多くの人達は堅実に、確実にケチになっていったわけである。



ようやく「失われた10年」を巨額な財政赤字と引き換えに脱出したと思ったら、100年に1度の危機と言われるリーマンショック、1000年に1度の危機と言われる東日本大震災によって、脱出後の成長率を吹き飛ばす形で成長が止まってしまった。もう全くもってイケテナイ時代に入ったわけだ。今までの日本は諸外国と比べて「リッチ」に暮らしてきた。それは解雇規制も厳しく、医療保障も厚く、増税からは逃げてきたことが原因と言えるだろう。今後こうしたことは急速に変化し、国や企業は手のひらを返したように「素敵な個人になりましょう」と言って僕らを引き離してくれるに違いない。そうなった時、いったい僕らはどうすればいいのだろうか。




1.組織において自分の代わりはいくらでもいるということを知る勇気


「明日は休めないんだ、僕がいないと会社が回らないからね」とか「僕はムードメーカーだから、学校で重要な役割を演じているんだ」というセリフをどこかで聞いた事があるかもしれない。これは過信以外の何者でもなく、大きな組織の中で、特定の個人の必要性はほとんどない。たとえ年間10億稼ぐトレーダーがいなくなったとしても、会社の利益の中では多寡がしれてるし、トップセールスが辞めた所で痛くもかゆくもないだろう。


プロ野球界という優れた個人で組織された集団でさえも、名プレーヤーが一人や二人いなくなったところで、ファンはあっという間に新しいスター選手を見つけ、その人の虜になることだろう。芸能界で「キムタク」や「AKB48」が急に引退しても、きっと1年も経てば新しい優れた才能を持つ人が誕生し、世を賑わせているに違いない。


だから企業で勤務しても、無理して愚痴や不平不満をぶちまけながら働くよりも、転職をしたほうがよほど素晴らしい世界が待っているかもしれない。今までの日本は転職という概念に閉鎖的で、受け入れてこなかった。だから、転職をすればするほど生涯獲得賃金は下がっていったのだ。しかしながら近年、企業は人材育成費用を軽減出来、ある程度確定利益が見込める転職市場に確実に魅力を感じている。これは最もなことであるし、今後も増加していくに違いない。


ただこの足かせとなっていたのが日本の厳しい解雇規制である。相撲の八百長問題が現在も問題になっているが、本件で解雇された力士も訴訟を起こせば、解雇不当により現場復帰出来る可能性は大いにある。それほど、従業者有利な法律なのだ。


こうした不透明な時代に突入した現在、こうした解雇規制は、企業にとって人材流動性を低下させ、人材コストを高止まりさせている悪しき慣習に過ぎないわけだから、きっと国に対して是正を求めるはずだ。そうした時僕らはもう無理して同じ会社で30年以上も過ごす必要性もなくなるし、他企業での受け入れも活発するに違いない。それはちょっぴりと賃金低下を招くかもしれないけど。


ただその分あなたは「自由」と「選択」を手に入れる事が出来るのだ。マーガレット・サッチャーはこうした時代を予期してこの言葉を発したのかもしれない「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」と。


2.誰かを解雇するという勇気


外資系企業では、「ダイバーシティ(多様性)」の観点から年齢、性別、人種に縛られることなく出世が可能であるし、現実にそうなっている。つまり自分よりも年上である人が、自分の部下になる可能性も十分に考えられるわけである。日本企業では想像も出来ないかもしれないが。また、結果を出し続けていれば、30代前半、はたまた20代後半でその部門のヘッドになることも十分に可能である。


恐らくこの慣習も余裕のなくなった日本で波及していくことは間違いないだろう。人を解雇するということは非常に厳しい事である。とりわけこれほど解雇規制が蔓延っている日本で1度解雇されれば、働き口は相当減る事になるからである。そうした文化背景を知りながら人を解雇に追いやるには覚悟と勇気が必要である。しかし、企業存続と発展のために必要なのであれば、誰かがやらねばならないだろう。


解雇を行なった多くのヘッドは精神的なダメージを背負う。ただヘッドはその分の業務コストを給料に上乗せされているので仕方のないことなのだが。陰口を叩かれ、時には自宅の窓ガラスが割られ、無言電話や嫌がらせのメールに遭遇するかもしれない。人材の流動性を上昇させれば、このようなことは起こるだろう。


これから日本企業も外資系企業と同じように解雇規制が緩和されれば、多くの人が誰かを解雇しなければならない局面を経験する可能性はあるのだ。その時がいつかくることを常に意識しておくことは大切なことであろう。



3.次に繋がる解雇をされる勇気


正直僕が解雇されたことがないので適切な意見を述べることは難しいが、人材流動性が過熱すれば誰もが経験しえることだ。現在の日本においては、不当解雇を訴え裁判にもちめば従業員がほとんどのケースで勝訴することになるだろう。そして勝訴すれば、その期間中の給料もしっかり手にする事も出来るし、多額の退職金も請求する事が出来るかもしれない。これがさらに人材流動性の低下に拍車をかけているのだ。敗訴すると分かっていることは企業もなかなか出来ないから、無理にでも窓際社員を作り、新人社員の雇用人数を削るわけだ。


ただ規制が緩和されれば、香港やシンガポールのように企業側の判断が優先されるに違いない。こうした時に企業に文句を言っても仕方のないことなので、潔く解雇通知にサインをし、次の職を目指す事が必要である。


これも流動性が高い国では、あらゆる企業で様々な人が行き来することになるので、職探しもスムーズであるはずだ。だから解雇規制の緩和は何も悪いことばかりではないのだ。ここでも個人の選択と自由は促進され、企業から開放されることになるにちがいない。こうしたことは若手社員が企業に新しい空気を入れる、そして上層部では野望とやる気を企業にもたらす適切な循環が起こる組織が構成されるに違いない。




年金制度は存続できるかわからないし、医療保障も継続できるかわからない。もう国や企業を頼るのをやめて、個人で運用や保証を思考・獲得していこうではないか。そしてこの残酷な世の中を「選択」と「自由」というアイテムを持って、楽しみながら過ごしていこうではないか。






*参考文献

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)
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