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部下は上司の力量を正確に見極めないといけない


スペインには『Ver los toros desde la barrera, eso lo hace cualquiera(闘牛を柵の外から見物するのは誰でもできる)』という諺がある。これは実行するわけでもなく、外野から批判ばかりしている人を揶揄した諺だ。人のやっていることをただ見て批判するのは簡単だけど、実際にやってみると結構難しい。しかも批判するのに、カネもかからなければ、汗をかく必要もない。これは人間社会の構図としてよくある光景だ。会議で代案も出さないのに人の意見に文句ばかりつける人、専門的知識もないのに批判だけは立派な人、子供の成績には口うるさく言うけど家ではテレビばかり見ている親、例示を挙げればきりがないほどだ。闘牛士も、ただあの円の中に立っているわけじゃない。観客には想像もつかないほどの努力と経験を積んで、500キロという巨体を持つ闘牛の前にいるのだ。何事においても本質に関わろうとするならば、実際に柵の中に入ってみることが大切なのだろう。また、その分野に精通したほど、思慮深く、軽々しく意見を言うようなことはしないのかもしれない。



またこれとは反対に『Ver los toros desde lejos, es mi consejo(闘牛は遠くから見たほうがいい)』という諺もある。あまり問題に巻き込まれたくなければ、深入りしなほうがいいという助言だ。責任を持てないのに軽々しく問題に取り組むと、後でエライ目に合うということを僕達に示唆してくれている。人生時と場合によっては、観客になって柵の外にいたほうがいい時もあるのだ。こういった柵(境界線)は、僕らの生活に無数に存在する。柵を越えるか、越えないかという選択は、時に自分の人生を大きく変えるのかもしれない。



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(出所:Wikipedia サグラダ・ファミリア)

スペインの景気は依然として低迷しており、2010年の実質経済成長率は前年比で-0.1%と、2年連続してマイナス成長を記録した。消費はプラスに転じたものの(0.7%増)、投資は依然として低迷(-7.6%減)、失業率も20%を超える結果となり、11年度の見通しも同水準の結果となることが予想されている。だけど、スペインはこうした経済状況を吹き飛ばすだけの文化を持っている。スペイン産ワイン、イベリコ豚、サッカー、絵画に彫刻と幅広い。



バルセロナはスペインでもマドリードにつぐ第2の都市だ。しかもスペインで最初に産業革命を成功させ、港湾の規模も商工業活動も国内最大規模の産業都市である。サグラダ・ファミリア聖堂は、サン・ホセ(聖ヨセフのスペイン語)を崇敬する信徒会がサグラダ・ファミリア(聖家族)へ捧げる聖堂として計画したものであった。1882年に、ガウディが学生時代に働いたことがあったビリャールの設計で着工したが、彼は早くに降り、翌年補佐役であったマルトレールの紹介でガウディが受け継ぐことになったのだ。そして当時から物珍しげな視線を集めていた彼のユニークな建築は、100年を経た今も尚古めかしさを感じさせないばかりか、すっかりバルセロナの「顔」となっている。ガウディの建築家としての独創性は稀有なものであるけれど、これを理解し、実現化に尽力したジュジョールをはじめとする助手達の存在も大きいことを最近の研究は明らかにしている。それが完成する日がいつ訪れるのかは、誰にも分からないのだけれど。



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(出所:Wikipediaカサ・バトリョ)


この美しいカサ・バトリョのファサード(正面デザイン)はジュジョールが手がけ、しかもジュジョールの自由なイニシアチブのもとで製作されたのだ。ジュジョールが集中的にガウディに協力したのは、1906年から6年間くらいだったと考えられている。ジュジョールが駆け出しのころである。ジュジョールの作品に対する評価は、大きく二つに分かれる。ガウディを凌ぐほどの功績を残した作家だったとするものと、あくまでガウディの助手だったとするものに。だけど、ジュジョールが色彩感覚や絵画的なセンスに恵まれた建築家だったことを否定するモノはいないのだ。ガウディまでも「ジュジョールは画家になるべきだった」というような主旨の発言をしたようで、ジュジョールの色彩センスに並々ならぬ才能を感じ取っていたに違いない。


僕はガウディの偉大さは、その懐の広さにあるのではないかと考えている。ガウディは自分よりも27歳も年下のジュジョールの才能に敬意をはらい、自由に創作させていたことを考えると、自分の才能に足りない色彩感覚を、ガウディはジュジョールの才能によって補おうとしていたのではないかと思えるほどだ。つまりガウディは自分の色彩感覚を客観的に評価でき、ジュジョールの類稀な才能を認めることができたのではないだろうか。



ガウディほどの才能に溢れた建築家であれば、全て自分の考えた通りにしてしまいがちだ。またそうしなければ個性は出せないに違いない。だけど、ガウディはジュジョールに思い通りにやらせることで、自らの作品の完成度を完璧なまでに高めたのだろう。「いいよ、ジュジョール」が彼の口癖だったことからもそれは十分理解できる。



企業においては、全ての上司がガウディのような人物ばかりではない。むしろ逆のケースの方が多いかもしれない。権力を持つ人は権力の座に留まりたいと望む。彼らは自由な競争により権力が脅かされることをひどく恐れている。自由競争は新参者に対し、機会を与え、多くの人に「のし上がる為の道標」を提供してくれる。彼らは理解していないのだ。一企業の小さな組織でミクロな競争を排除しようとしても、何の意味もないことを。僕は今まで多くの有能若手社員が、その能力を発揮することなく会社を去っていったのを目にしている。それは自らの希望であるケースもあるが、そうでないケースもあったかもしれない。



企業という組織において、上司は仕事の配分や人事決定権など巨大な権力を握っている。だからこそ、ガウディがジュジョールにしたように、有能な若者には機会を与えてあげるべきだなのだ。そうすることによって、自分のチームや自分自身の技能向上に繋がるだけでなく、何よりチームのパフォーマンスが上がり、好循環が生まれるに違いない。才能を持つことも難しいが、人の才能を評価し、活かすこともまたとても難しいことなのかもしれない。



部下が上司の力量を正確に見極めることが必要になってくるのだろう。上司と部下という関係には、闘牛場のように大きな柵が立っていて、それを乗り越えて闘牛場の中に入るのか、それとも柵の外から傍観した方が得策なのかは、その上司の資質に依存することであろう。やはり人間は感情の動物であることを忘れてはいけないということだ。




参考文献

ガウディの影武者だった男―天才の陰で忘れ去られたバルセロナ建築界の奇才
GAUDi ガウディが知りたい! (エクスナレッジムック)
ふしぎの国のガウディ-建築図鑑-

スペイン広報 84 
セイヴィング キャピタリズム








教育や自己啓発に対する投資は難しい


僕は昔から人の心が「ブランク・スレート(空白の石版)」であるということについて疑問に感じていた。「ブランク・スレート(空白の石版)」は、中世ラテン語の『タブラ・ラサ』の訳語で、哲学者のジョン・ロックによって提唱された言葉である。「心はいわば文字を全く欠いた白紙で、どんな観念も持たない」として、生得観念説を否定し、経験論を唱えたものである。ロックは教会の権威や国王の神聖な権利など、それまで当たり前とされてきた、政治の独断的な正当化に反対し、社会のシステムは、一から論理的に考えられるべきだと主張したのだ。



でも、人間には生得的な部分は全く存在しないのだろうか。最初に断っておくけれど、僕はブランク・スレート説に疑問を投げかけるだけであって、社会ダーウィニズムや優生思想を広めたいわけでも、賛成の立場でもない。人の集団同士の生活状態の違い(収入や地位や犯罪率などの違い)が、生得的な資質に基づいていると言って、不平等を許容するのは愚かなことであるし、そうした恐ろしい考え方が蔓延するのを忌み嫌う。でもある一面で、こうしたことを上手く取り入れることで、世界が明るくなるのではないかと思うのだ。



僕は、タイガー・ウッズのようにゴルフボールを遠くまで飛ばすことは出来ないし、イチローのように弾丸のようなスピードで向ってくるボールを、鮮やかにヒットを打つことも出来ない。もちろんウサイン・ボルトのように速く走ることなんて夢のまた夢だ。小さい頃、運動会の徒競走で、猛烈なスピードで隣を駆け抜けていく同級生を見て、速く走るには才能が必要なのだと子供ながらに落胆したのを覚えている。



僕が通っていた高校は、そこそこの進学校で、教師は偏差値の高い大学に生徒を送り込むことを使命のように感じていた。ある時、数学の授業で、いつものように教師が黒板に証明問題の解答を書き込んでいた。僕が必死にノートに書きとめていた時に、ある生徒が「先生、そんなやり方じゃなくて、もっとシンプルに証明する方法が2つあるよ」と言って立ち上がり、スラスラと黒板に書いたのだ。教師はその方法を黙って見つめていた。


僕はこうした経験を通して、自分の心がブランク・スレートだなんて、とてもじゃないけど思えなくなった。でも心は晴れやかだった。生得説の否定は、子供に高い期待を抱く親の心を蝕んでいる。親が子を粘土のように形成できるという説の為に、子供に期待を寄せる親たちは、不自然に、そして時として残酷な育児体制を子供に強いている。毎日違う習い事に通わされ、コンビニでお握りを買い食いしている子供達は疲れきっているし、何よりも子供が希望通りに育たなかった親は、自分の育児方法を悔やみ、苦しみを倍加させている。


ジュディス・リッチ・ハリスは著書『子育ての大誤解』で、親の育て方が子供の性格を形づくる決定的な要因であるという普遍的な思い込みを周到な議論で打ち砕いた。ハリスによれば、親による社会化が子供に与える影響は取るに足りず、同年代の友達の影響が非常に大きいとした。



能力が形成されるのは、「遺伝なのか?環境なのか?」という議論はこれまで何度となくされてきた。安藤寿康は著書『心はどのように遺伝するか』でIQの血縁相関を算出した研究結果を示している。それによれば、同環境で育った一卵性双生児は0.86、生後の生育環境は共有していない一卵性は0.72、同環境で育った二卵性双生児は0.60の相関があることが分かる。また村上宣寛の著書『IQってホントは何なんだ?』に掲載されているパルらの研究によると、一卵性では0.90、二卵性双生児では0.50の相関があったようだ。でも村上は、こうしたデータを冷静に分析して、遺伝率は特定の個人内部での遺伝子の影響力を表わす数値ではないと、はっきり言っている。さらに、遺伝率が90%であっても、ある特定の個人のIQが遺伝で決まるものではないし、そのような数値は存在しないと主張している。


またリチャード・E・ニスベットは、著書『頭のでき』で遺伝とIQの相関をはっきり否定し、環境こそが子供の能力を決定すると主張している。結局、遺伝と環境と、どちらが僕らの能力を決定するのだろうか。



僕は、人間の能力を形成する際、遺伝と環境のどちらか一方が100で、どちらか一方が0であるという、絶対論を主張することは出来ないと考える。世の中には、自己啓発本や自己啓発セミナーが溢れ、「努力しろ」と僕らの背中を押すけれど、僕は実際、そんなに簡単に、資格や技能が獲得出来ないことを知っている。自己啓発を叫ぶ人達の懐は潤うかもしれないけれど、それに時間と手間をかけた人達は、「やっても出来ない」ことに苦しんでいるかもしれない。それは、人の心がブランク・スレートだと信じて、子育てをしている親たちのように。



また環境要因が全てを決めるとして、大学や大学院の授業料を税金を投入することによって、無償化し、機会均等を叫ぶ人達もいる。米国や日本をはじめ、多くの先進諸国の教育コストはとても高いから、一定程度抑えることは賛成だけど、話はそんなに単純ではないだろう。



橘木俊詔・松浦司共著『学歴格差の経済学』では、親の収入が高ければ、子供が高い学歴を得る確率が高いという一般的な話を認めると同時に、子供の能力がその後の収入に影響するということを丁寧に説明している。ここで言う能力とは、「算数が好きかどうか」という点であり、多くのサンプルを用いて数学的に証明している。



これからさらにグローバル化が進み、人の評価が仕事の処理能力と示された実績でなされる時代が到来することになれば、学歴を得たり、資格を得たりといった形式的な能力ではなくて、判断能力や創造力が求められるに違いない。だから教育コストや自己啓発に大事な資産を投資することもいいかもしれないけれど、こうしたビジネスに「食い物」にされることなく、好きなことを見つけたり、自由に生きることによって、形成された付加価値を大切にした方がいいのではいか。教育や自己啓発は、それほど単純でもないし、人の心もそれほど単純にできてはいないのだから。



参考文献


人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) )

頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か
学歴格差の経済学

IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実

心はどのように遺伝するか (ブルーバックス)

子育ての大誤解―子どもの性格を決定するものは何か

ウォール街占拠デモの愚かな実態


G20財務省・中央銀行総裁会議で、議長国フランスを中心とした欧州諸国は、欧州債務危機の収束に向けた具体案を実施することを世界に公約した。それは、ギリシャ不安解決策、銀行の自己資本増強、欧州内の財政規律の強化へ向けた制度の見直しなどを柱とする包括策である。こうした一連の欧州不安は、90年代後半のバブル崩壊後の日本経済と酷似している。それは当時、日本政府が銀行の自己資本増強のために公的資金を注入し、100兆円規模の不良債権問題解決に乗り出したことだ。日本経済はそれから「失われた10年」と呼ばれる長期的な停滞を余儀なくされた。しかしながら、今回の欧州問題は、リーマンショック解決に向けて多額の資金を失った政府の財政余力が憂慮され、当時の日本よりも状況は悪いかもしれない。また相互連関を背景に多くの国に影響する事から早期の対応が求められる。



こうした混沌とした状況に、若者を中心として『Occupy Wall Street(ウォール街占拠デモ)』が起きた。これは「アラブの春」と呼ばれるアジア世界で発生した前例のない大規模反政府デモや抗議活動を主とした騒動と同じように、インターネットを通じて、デモ活動が始まったようだ。しかしながら「アラブの春」とは異なり、主張があいまいで、緊張感が全く伝わってこないのが実情である。それは、恐らくリーマンショックが起きた時に公的資金を注入することにより、AIGを始め多くの金融機関を税金で救済したことに憤慨しての行動だと思うが、結局公的資金は返済されたうえに、借入金利が高かった為に政府としても黒字となった。つまりウォール街としては、占拠される理由がないのだ。また、一連の財政問題や金融規制により、金融機関も大きなダメージを負い、ゴールドマン・サックスは、第3四半期に赤字に転落するという驚愕の事態が予想され、また他の大手金融機関も軒並み減収・減益となることが予想され、今後の存続が危ぶまれている機関さえあるのだ。



金融機関は生き残りに必死で、多くの従業員を解雇し、これからも一定のペースで解雇を行なうに違いない。アメリカは、日本のように新卒一括採用制度を行なっているわけではないので、一定年数経て、ある程度景気が回復した段階で就職することも可能だが、大手金融機関において、一定年齢を超えて解雇された従業員は、次の働き口がないかもしれない。また勤務している従業員は、毎日解雇リスクと戦い、利益追求に奔走している。多くの自由な時間を犠牲にして、マーケットと対峙し、顧客満足を考えている。また専門的知識や技能を詰め込むだけでなく、日々同僚と、時に切磋琢磨し、時に蹴落とすような政治を繰り広げているのだ。派手な生活というイメージばかりが先行し、極限状態の緊張感は伝わっていないし、理解していないに違いない。そうして苦労に苦労を重ねた給料から高い税金を払い、国の税収に貢献しているのだ。



こうしたことを考えれば、一連のデモ活動には疑問しか残らない。またアメリカは「格差を許容する国」ということをある種誇りにしていた一面もある。格差は光と影を持っている。影の面は、多くの人が認識しているように、一部の人だけが豊かになり、多くの貧困層が犠牲になっているという構図であろう。光の面は、競争に勝つことが出来れば、いくらでも豊かになることが可能だということである。そしてそれこそが「自由の国アメリカ」のシンボルであったはずだ。まさに今、自由の女神が泣いているように僕には見える。



さらに、若者達は「税金で儲けた金融業界」を占拠デモの目的として挙げているが、占拠デモに参加している年齢層の大半が20代前半だということを鑑みれば、彼らは「納税をしていない若者達」というカテゴリーになるわけである。これは酷く滑稽に見える。税金を払っていない人達が、「税金を返せ」という主張は、あまりにムチャクチャであろう。こうした主張は世界各国に広がり、イタリアではゴールドマン・サックスのビルを占拠して「Give us money」と訴えかけたようだ。つまり彼らは、キュルケゴールが言う所の富裕層に対するルサンチマン(非難)が根底にあり、同じように豊かになりたいだけなのだ。


また格差が全くない国というのは、果たして幸せなのだろうか。どれだけ技能や知能を研磨しても、意欲のない人達と同じ給料、同じ生活を強いられるのであれば、誰も努力をしなくなるに違いない。まさに共産主義の失敗を繰り返すことになるだろう。


日本にもこうした流れは波及し、『Occupy Tokyo(東京占拠デモ)』が起き、300人ほどの若者が参加したようだ。これも格差是正を求めてのことだと思うが、日本ほど格差がない先進国はないだろう。今後所得税の累進性が上昇することになれば、益々富裕層は多額の税金を払い、デモ活動を行なっている若者達に間接的に資金提供を行なうことになる。


何よりも問題なことは、こうしたデモ活動が、一昔前の活動のように中止させることが難しいということだ。それはSNSツールを活用し、呼びかけに共感した人々の集合体であるから、リーダーが存在しないのだ。つまり烏合の衆であるから、交渉する事が出来ない。恐らくこのデモの呼びかけをしたリーダーが存在すれば、「裕福になりたい」という単純明快な目的であるわけだから、金銭を渡すことによって、簡単に解決できたはずだ。


また、ウォール街占拠デモでは、若者達の公共の場でのフリーセックスや食の配給を目的に集まるホームレスでごった返しているようだ。こうした記事を目にする限り、反自由主義や反体制を掲げるような崇高な目的は微塵も感じることが出来ない。やはり一連の占拠デモをアラブの春と同一視してはいけない。



参考文献

東京でも反社会デモー新宿駅周辺に300人

Students storm Goldman Sachs building in Milan

Occupy Wall Street protesters make love as well as class war with sex and drugs on tap

メディアに情報操作されるウォール街占拠デモ実態

共産主義が見た夢 (クロノス選書)

絵画を堪能しながら現実世界を眺めてみると


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本日は趣向を変えて、著名な絵画を使いながら話題となっているトピックに迫っていこうではないか。僕は小さい頃から絵画を鑑賞したり、自分でモノを描くことが好きだった。小中学生の時は、教科書の隅にパラパラ漫画を描いたり、教師の似顔絵を描いたりして、よく教師から小突かれたのを覚えている。そうしたいたずら心があることも変わっていないが、絵画を鑑賞する習慣も変わらず残っていて、1月に1度程度のペースで美術館に足を運ぶことにしている。とりわけ六本木にある国立新美術館には散歩がてらに立ち寄っては、画集やポストカードを購入し、帰りがけにカフェで眺める時間を楽しんでいる。



さて本題であるが、この添付作品はドガの「エトワール(踊りの花形)」である。ドガは「人は私のことを『踊りの画家』と呼ぶが私にとって踊り子は美しい衣装や動きを表現するための口実にすぎない」と画商に語ったと言われている。その言葉通り、この作品でも舞台の縁にあるフットライトを浴びたエトワール(踊りの花形)の気品あふれる優雅な動作の一瞬を見事なデッサン力で的確に捉えている。さらに衣装の描写も見事で、モノタイプとパステルを巧みに駆使して、フットライトに照らされた踊り子の衣装を、半透明の輝きと共に鮮やかに表現している。また彼は踊り子の美しさを表現するだけに留まらず、舞台裏で繰り広げられる人間模様までも冷徹に描き出しているのだ。



当時、バレリーナのパトロンになることは、上流階級の人間にとって一種のステータス・シンボルであった。当然踊り子の側にもパトロンを必要とする理由があったのだろう。パトロンの支援なしでは、公演が成り立たず踊りが踊れなかったのかもしれない。つまり、そこには純粋な愛だけではなく、憎悪も渦巻いていたに違いない。こうした悲喜劇を見逃すことなく捉えているのだ。本作品では、舞台のすそに立つ顔の見えない黒服の男がパトロン、あるいはパトロン志願者を意味している。ドガは表面上見えるバレエの美しさ(光)だけを表現することなく、現実の実態(影)を恐れることなく描いているのだ。



踊り子の世界に留まらず、人は光と影という相反するモノと共存している。先日、人気芸能人であった島田紳介氏が突然引退したことは記憶に新しいだろう。彼は多くの番組で司会者として活躍していた。豪邸に住むだけでなく、副業として行なっていた不動産事業も成功していたようで、多額の資産を保有している。また多くの女性芸能人との関係が噂され、人が羨むような輝かしい芸能生活を送っているかのように見えた。しかし、そうした光り輝く表舞台だけでなく、「反社会勢力との関係」という影の部分も持っていたのだった。好んで関係を持っていたのかもしれないし、関係を断ち切りたくでも断ち切れなかったのかもしれない。それは僕には知りえないし、また知りたいとも思わないが、彼は芸能界での成功という夢のような表舞台とその醜悪な現実という舞台裏が存在することを世の人々に改めて教えてくれた。



しかしながら光と影はあらゆる業界に存在するだろう。金融業界においても一時期「枕営業」なんて言葉がよく聞かれた時期があった。金融商品を多量に売りさばく、やり手セールスマンの社内での輝かしい実績という光の側面は、夜の営業という犠牲を伴ったものであるかもしれない。また企業内政治でも同じようなことは起きているに違いない。表面上は、ある派閥に属しているように見えても、裏で誰かを追い落とすことを画策しているなんてことは日常茶飯事として存在するに違いない。



ドガも、踊り子が厳しくもつらい稽古に励み、表舞台で輝くという光の側面だけに捉われることなく、舞台の表と裏で繰り広げられるドラマを、冷徹な観察眼で容赦なく描き出していると言えるだろう。多くの人が少なからず、光と影を抱えているはずであるが、人はある側面は見てみないフリをしているのかもしれない。絵画を鑑賞する事は、時として画家の鋭さによって、心がえぐられるような感覚に陥ることもあるだろう。また現実世界を容赦なく映し出しているように感じることもあるかもしれない。



1人1人の人間がそれぞれ違った人生を送るように、絵画1つ1つも様々なドラマを持っているいるのだ。何となく絵画を眺め、感慨にふけるのも1つの楽しみ方ではあるが、その絵画が描き出された背景や画家の心情を思い描きながら、また現実世界と対比させながら鑑賞するのも一興と言えるのではないだろうか。






















子供は勝手に育っていく


08年のリーマンショックによる「世界同時不況」で景気後退が深刻になって以降、日本で妊娠する女性は増えてきているようだ。厚生労働省の調べによると、2010年の合計特殊出生率は1.39と対前年で0.02上昇している。景気の波と出生率の間には正の相関関係があって、景気が良くなると子供を作る夫婦が増え、それとは逆に景気が悪くなると子供を作る夫婦が減るというのが、これまでの一般常識であったのにもかかわらずである。景気が悪い時に子供を作らないことは、ある意味では当然であろう。なぜなら不景気によって夫の収入が伸びなかったり、もしくは減少したりすることになるので、収入に対して、出産・育児コスト負担が重くなるからだ。


しかしながら、震災以降、この「不景気にも関わらず、出生率が増加する」という新たな流れも元に戻ってしまうかもしれない。子供を授かった人は、この時代に生まれてくるだろう子供達を哀れみ、悲観しているようである。僕の知人や友人の話を聞いても、経済悪化による育児や教育コストを憂慮している人は、少なからず存在する。そして親が仕事に追われることによって、適切な育児が出来ないことを切実に悩んでいる人は多いようだ。


ただ、このような環境は子供にとって、それほど都合が悪いのだろうか。



ジュディス・リッチハリスは著書『子育ての大誤解ー子供の性格を決定するものは何か』で、親の育て方が子供の性格を形づくる決定的な要因であるという普遍的な思い込みを周到な議論で打ち砕いた。ハリスによれば、親による社会化が子供に与える影響は取るに足らないようだ。行動遺伝学によれば、遺伝、家庭環境、家庭外の環境が子供の発達を左右する割合は大雑把に言って、50・0・50の比率なんだそうだ。つまり遺伝的要因が50%、学校や社会で決定される割合が50%、家庭環境で決定されるのは0%だというのだ。


彼の主張は親不要論であるかのように捉えられ、メディアや政治家から猛反発をくらったようだが、ここでは彼の主張を受け入れて考えていくと、このような厳しい経済環境や同じような環境で育った学校での友人などが、子供の成長に少なからず寄与することになるということであろう。



このように考えていくと、競争が著しい現代で生を受けた子供達は、恐らく、思慮深く、競争力のある若者に成長していくはずだ。ただ僕はここで1つだけ問題があると思っている。このような外部環境に子供の成長が影響するのであれば、間違った意見を彼らに投げかける人間を信奉すると、その進路は一気に危うくなるということである。


現代は大学生の就職内定率も悪化傾向をたどり、11年春卒業の大学生の就職内定率は、70%を割り込み過去最低を更新した。こうした背景から、大学生は教授や親の知人に意見を求めることも増加していることであろう。こうした時に注意が必要なはずだ。企業での勤務経験がないにも関わらず、無謀なアドバイスをする教授は多数いるようであるし、親の知人ともなれば、世代が離れすぎていて、現在の職業マーケットの状況を適切に理解していないかもしれないからだ。「○○業界は将来的に魅力があるから志望したほうがよい!」と言われても、正しいかどうかは疑問である。



つまり、親は学校や社会で決定される50%の中で、子供が間違った決定を下そうとする時に、適切なアドバイスをすることによって、数パーセントでも影響を与えることが出来ればいいのではないだろうか。そうすることにより、遺伝という影響に加えて、家庭外の環境化においても少なからず、彼らの成長に貢献出来ることになるのではないだろうか。


このような混迷な時代がしばらく継続することを鑑みれば、あまり悲観的になりすぎずに、逆にこの環境こそが有望な若者を育成する糧になると信じて、親子共々邁進していけば、ずいぶんと道は明るいのではないだろうか。



参考文献

子育ての大誤解―子どもの性格を決定するものは何か