リベラル日誌 -5ページ目

独裁者よりも怖い民衆

公務員が何かと非難される昨今、Twitter上である匿名男性とNHKのやり取りがちょっとした社会現象になった。この話題の経緯 は、すでによく知られている。最初に男性が「ちょっとつぶやく頻度を減らしてください」とNHKのアカウントに意見し、NHKが「アンフォローをおすすめいたします。」と男性に伝え、その対応に不満をもった男性が「NHKは、受信料をもらって運営されていますよね?その職員の職務時間内のつぶやきは、半ば以上、職務なはずです。NHKのPRを知る権利がこちらにはあります。安易にアンフォローしろとはなにごとですか?」とケンカを売り、議論が泥沼化して大きな反響を呼んだのだ。


この後も色々とやり取りは続くわけだけど、二人の意見交換は平行線のままだから続けて読んでもあんまり意味はない。


最初に断っておくけれど、ぼくはこのやり取りを面白おかしく紹介したいわけでも、二人のやり取りに白黒をつけたいわけでもない。なぜこの話題を取上げるかというと、このやり取りが現代の世の中の状況を理解する重要な手がかりとなるからだ。



世間ではシンプルな言葉が求められ、言い切り型の物言いであふれている。技術や商品は日ごとに進歩し、世の中は分かりにくいことばかりだけど、言葉巧みに因果を説いて「~は~だ」とズバッと明快に説明するのが特徴だ。最近流行りの占いやスピリチュアルなケースで言えば、「あなたは現在不幸だ。私を信じれば、あなたは幸せになれる」なんていうのが典型で、心が弱っていたり、宗教的な物言いに疑いを持たないと「運がよくなる」、「絶対成功する」、「必ず儲かる」といった安っぽい奇跡に惹かれてしまうことがある。これらは怪しげな団体が勧誘の「つかみ」として行なう一般例でもある。


消費者は生産者に対し、すっかり強い立場になってしまった。高度成長期の景気拡大に伴う消費社会化の中で、消費者は大量に溢れる商品の中から自分にとって「良いもの」を容易に取捨選択することが可能になって、選択権を持つ権利者になった。とにかく販売することに重点をおき、「売ってしまえば、後はあんたの責任」、という悪徳業者もあったはずだから、「クーリングオフ」や「PL法」の制定などの法整備に意味はあったのだろうけれど、少しでも生産者の側に落ち度があれば、猛然とクレームを続ける消費者を野放しにするような「消費者に対し過保護」な風潮も見られるようになった。



普段は分別のあるように見える人でも、病院や学校という場に赴くとともすれば「患者様」、「保護者様」に変身し、医者や教師に頭を下げさせる。市役所などの公的機関では、「おまえたちは国民の税金で飯を食っているんだ」と大きな声でどなりちらし、慇懃無礼な態度で接する人もいる。そうした行動を批判されれば一小市民として振る舞い弱者を装うのだからたちが悪い。



もちろんこの話は少し大げさかもしれない。でも物事の善し悪しは別として、時代を読み解く重要な事実が隠されている。それは一般大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実だ。このような状態をスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』で次のように述べている。



「大衆を構成している個々人が、自分が特殊の才能をもっていると信じ込んだとしても、それは単なる個人的な錯覚の一例にしかすぎないのであって、社会的秩序の攪乱を意味するものではない。今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである」



大阪市長・橋下徹の政治手法をめぐる独裁論争が世の中を賑わしている。すでに広く知られているように、両者の論争はかみ合っていないから、論争そのものに注目してもあんまり面白くない。橋下派は「これまでの既存組織が構造的な問題に目を向けず、赤字を垂れ流してきた。だからお前たちは無能なんだ」と主張するし、反橋下派は「権力を振りかざし、改革を断行するなんて異常だ」と主張して独裁ぶりが露呈されたと溜飲を下げている。双方の勝ち負けには興味はないけれど、不思議な決着だ。


橋下市長は不況下においても給料が上がり続け、民間企業と比較しても相対的に給料が高い公務員を猛然と批判し、公務員改革を押し進めている。また原発問題が叫ばれる中、大阪市は6月の株主総会で、関電の原発全廃を「速やかに」に実施することを要請するそうだ。既得権益に対し嫌悪感を抱いている民意に忠実に従い、声の大きい大衆の声を聞き漏らさないように注意をはらっている。


国家と大衆は、ともに匿名であるという点においてのみ一致している。だけど大衆は自分が国家であると信じこんでいて、「ある勢力が勝手な行動をしている」ということを口実に作っては国家を動かし、国家を使って、国家の邪魔になる創造的な少数者を押しつぶそうとする傾向がある。



ファシズムが実は典型的な大衆人の運動であったことは広く知られている。ヒトラーやムッソリーニによって造られたように見えた国家は、まさに彼らが攻撃していた力とか思想といったもの、つまり自由主義的デモクラシーによって造られたものであって、彼らが造りあげたものではなかったのだ。独裁者と呼ばれた彼らは、多くの政治家とは異なり、常に民意に気を配り、大衆に耳を傾けていた。



オルテガは分別のない大衆が、実質的に社会的権力を握っている状況を「大衆の反逆」と呼んで危惧している。つまりぼくらが恐れたり、憎んだり、議論しているのは、橋下市長やあの匿名男性なんかではなくて、ポピュリズムそのものなのだ。ぼくたちが本当に恐れなければいけないのは、凡俗を逆手にとって振舞い続ける大衆であり、そうした大衆の民意に忠実に従う「独裁者」なのだ。ぼくたちが変わることができなければ、これからも「独裁者」は誕生するだろうし、権威や権利を主張するアブナイ消費者がいなくなることはないだろう。



参考文献

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

君が代「口元チェック」問題から見えてくる日本社会の変化

大阪府立和泉校の中原徹校長が、卒業式の国家斉唱の際、教職員の起立と共に、口元の動きをチェックし、1人を「不斉唱者」として府教委に報告していた問題を、メディアが様々な形で報道したため、橋下大阪市長も巻き込みながら世間から大きな反響を呼んでいる。


事の経緯は、すでによく知られている。学校行事での国歌斉唱時に教職員が起立するよう義務付けた大阪府条例が昨年6月に施行したことを踏まえ、府教委は府庁で開かれた府立学校の校長会で、2~3月に開かれる卒業式での国歌斉唱時に、全教職員が起立するよう職命令を出していた。中原校長は、決められたルールを守る形で指導を行なったに過ぎない。こうした処置を、メディアが「思想の自由と規律遵守」という側面で取上げる中、中原校長が橋下市長と旧友だったことにかこつけて、何かと世間で注目を集めている橋下市長に対し、記者が意見を求めたことがそもそもの始まりである。そこに橋下市長が中原校長の対応に対し、「良いマネジメントだった」と評したことから「口元チェック問題」として社会現象にまで発展してしまったのだ。




テーマから少々離れてしまうかもしれないけれど、ここで橋下市長について少し見ていきたい。最初に断っておくけれど、僕は橋下市長と一面識もなく、当然政策に直接関わったこともないから、あくまで個人的な分析ということになるわけだけど。


橋下は類稀なる意思決定能力を持っていて、近年言われ続けている政治家の「リーダーシップの欠如」を解消してくれるヒーローとして、大阪をはじめ多くの日本国民から支持を集めている。ただ彼の下で働く社員にとっては、相当厳しいものが予想され、給与削減による生活レベルの低下や仕事上の過剰なストレスにより、「ユートピア」と呼ばれるような公務員でさえも、これから退職する人がぞろぞろと出てくるかもしれない。


彼は欧米の機関、いわゆる外資系企業でマネジメント職として採用されたならば、逸材レベルの技量を発揮するに違いない。民間企業において、最も重点が置かれるのは「株主にいかに還元するか」ということなわけだから、プロフィットを上げている部署なりチームが一番評価されて、そうでない部署やチームは解体される。言葉で表すととても単純なのだけれど、プロフィットを上げている部署だけに報酬を付与することも出来なければ、プロフィットを上げていない部署は、既得権を巧みに保持し、ありとあらゆる手段を尽くして解体させないように奔走する。こうした時に必要なのが、スピード感を持った決断力と実行力である。こうしたレベルのマネジメントに求められることは意外と限られていて、次の5つくらいに集約できる。


・リストラ策などを感情に流されることなく断行し、コストを最小限に抑える

・優秀な人材を社内に留め、必要であれば外から集めて、利益を上げられるチーム編成を行なう

・市場環境を的確に読み、新規事業をスタートさせる、もしくは事業を廃止する

・問題に直面した時に会社のレピュテーションを守り、いち早く解決する

・責任を取って辞任する


彼は自分のレベルで必要な仕事を行っているに過ぎないのだ。ひとまず正しいかどうかは置いておいて、橋下は教育問題、市営バス・鉄道問題、原発問題とあらゆる問題に対し、これまでのリーダーとは比較にならないほどのスピード感で、物事を決定してきている。ただ民間企業でない組織で、あまりにスピード重視で、かつ合理的に物事を進めすぎると大きな弊害も出てくるわけだけれど。





これまでに日本という国は高度経済成長を達成し、サラリーマンの給料は毎年のように上がり続ける中で、日本文化に裏打ちされた日本的経営、そして日本人労働者の持つ文化的な価値観こそが日本の経済的成功の要因であると、多くの日本人が信じてきた。でも「失われた20年」、リーマン・ショック、欧州債務問題による度重なる経済危機を経験してきた人々は、これまでの「日本的組織モデル」についての常識が、実は幻想に過ぎなかったことに気づき始めている。


大企業という「大黒柱」の影で安穏としていた人々は、東日本大震災による東京電力の経営危機、エルピーダメモリの経営破綻などを経験し、実はその柱は意外と細く、簡単に倒れてしまうことに気づいてしまったのだ。そしてそれと同時に、雇用の安定を与えてくれていたものが、実は「日本的組織モデル」ではなかったことを理解し、企業が倒産してしまえば、企業という「大黒柱」は、リストラから労働者を守ってくれないことに気づいてしまった。


日本的雇用慣行は、常に「タテ」社会に有利に作用し、頂点に立つものに大きなメリットを与える。年功序列制は、言うなれば労働者から将来の給料と退職金を人質にとって働かせているようなもので、同じ会社に勤め続けることができれば、それなりに地位や給料が上がっていき、当然退職金も大きくなっていく。つまり企業に差し出している人質の価値が大きければ大きいほど、労働者は中途退職をためらうことになる。中途退職をすれば人質を取り戻せることができなってしまうからだ。


これまで年功序列制が維持できたのは、従業員から十分な人質を取り立てていたので、会社で得た教育システムや業務経験の成果によって他の労働市場で通用する技能を身につけたとしても、転職することで得られるメリットと人質の大きさを天秤にかけて、中途退職を思い止まった方が有利なことが多かったからだ。


終身雇用が確立している企業の社員は、会社への貢献に対する将来の「お返し」を期待している。だけど終身雇用が崩れてしまえば、会社に対する忠誠を示すことへの将来の「お返し」は期待できなくなってしまう。そうなれば人々は、会社に対する忠誠を示すよりも自分の市場価値を上げることによって、将来の利益を確保するようになるだろう。つまりグローバル化や市場の成熟によって競争が激化し、旧来の集団主義的文化は崩れ去ろうとしている。個々人の能力差を克明に判定することが求められ、伝統的な「働き者」とか「怠け者」といった個々人の努力差に注目したり、「誰でもやればできるんだ」という能力的平等観は影をひそめようとしている。



起立斉唱の問題は、こうした日本の現状をはっきりと映し出している。日本において、年功序列制は雇用体系においても、はたまた生活環境においても重要視されてきた。これは個人の能力差というものをミニマムに考えるわけで、過剰平等主義とも言うべきものだ。でもこれは、個々人に(能力のある者にも、ない者にも)自信を持たせ、常に年次、年齢、タイトルなどの固有の資格だけで序列をつけていたから、将来的に誰しもが獲得できたのだ。これも言うなれば将来年を取ることによって達成出来る「年齢」という人質を差し出させ、「序列」が上のものに対し、意見を言わせないような慣行を確立したのだ。


だからこそ、これまでの教育現場において、教師というものは「タテ」組織における頂点に君臨するわけだから、常に尊敬の対象であって、反抗することや意見することは社会悪だということになり、それは子供の目からも明らかだったわけである。


でも社会変化を敏感に掴んでいたり、親の意見に耳を傾けていて影響を受けている現代の子供達にとって、「不起立」する教師が、旧態依然とした日本組織で国家という大企業以上に太い「大樹の陰」に隠れながら、安定を満喫し、既得権を振りかざす、言わば「子供」に見えてしまうので、思ったほど支持を受けていない。これは十数年前に関東圏で、教師が先導する「卒業式ボイコット事件」が話題に上った頃と比較しても、驚くほどの違いだ。当時は新聞やメディアも教師サイドを支援しているかのような報道が多く見受けれた。


でも今回の大阪の問題について、教師サイドからすれば、子供達が政治や親に影響され、右傾化したと考えるのかもしれないが、そういう類の話ではなく、大きな社会変化の中で生きる現代の子供達が、単純に「違和感」を覚えたに過ぎない。個人的には「口元チェック」という措置は少々過激に映るわけだけど、橋下市長が大きな支持を集め誕生し、また「世界から取り残されている」、「グローバル化が足りない」と叫ばれる中、小さいかもしれないけれど、起立斉唱問題は、この国が着実に歩を進めているという証明をしているのかもしれない。


参考文献

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)

リトル・ピープルの時代

信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム







アメリカンドリームが幻となり、アメリカ人も金持ちが嫌いになった

世界中が混沌として、先行きは不透明で、人々の不安や怒りは今にも爆発しそうだ。多くの企業は生き残りに必死で、なりふりかまわずリストラ策を打ち出し、時代に取り残された企業は市場から次々とレッドカードを手渡され、退場を余儀なくされている。既得権を牛耳っているこの国の老人達は、年功序列・終身雇用という最高の波に乗りながら、人生のボードから決して落ちることなく、「退職金を払え」、「年金を払え」と大合唱している。


弱者保護の名の下に、手厚すぎるセーフティネットは財政を逼迫している。これまでも「自由主義は弱肉強食で弱者切捨てだ」という批判が常套句のように使われてきているけれど、日本のように生活保護の支給額が最低賃金より高いと、働かない方が得になるのだ。これを巧みに利用するズル賢い人は、大黒柱を削り取るシロアリのように国家のスネをかじりながら、「消費税増税断固反対」と叫んでいる。


人々は溜まりに溜まったストレスを解消する矛先を見つけるために奔走し、やっと見つけたグローバル資本主義や市場原理主義を非難して、迷走を続ける政治に不満や怒りをぶつけている。政治家は有権者の後ろにいるマスメディアの顔色を伺いながら発言し、政治という舞台から転げ落ちて「ただの人」になることを恐れている。こんな国では希望や光は永遠に失われたままで、海外に拠点を移す企業や個人も増えている。




オバマ大統領が誕生するまで、アメリカは共和党のブッシュ政権によって、イラクとアフガニスタンという2つの戦場に足を取られ、金融恐慌の震源地として世界から非難され、孤立していた。選挙中のオバマのスローガンは「チェンジ」で、「世界のどの国よりもフリーでリッチである」という自信を失った国民を奮い立たせるために、何度も「YES, WE CAN」と繰り返して過去に決別し、新しいアメリカを築いていく力を持っていることを世界に示していた。


あれから4年経った現在、果たしてアメリカは変われたのだろうか。11月の米大統領選に向けた与野党の動きを見て歩くと、国民一人ひとりがばらばらの方角を向き、国家としての求心力を失いつつある姿が浮かびあがる。オバマが掲げた「1つの米国」は遠のくばかりだ。あらゆる問題を「大きな政府」のせいにし、単純なメッセージでアメリカ政治に一大旋風を起こした草の根保守派連合ティーパーティは、09年2月にある経済評論家が上げた雄たけびがきっかけで起こった。


ティーパーティという言葉はアメリカにとってシンボル的なものだ。これはアメリカが植民地時代、イギリスが貸した茶への重税に抗議する人達が、ボストン湾に茶を投げ捨てて、「ティーパーティ」(茶会)と称した事件から生まれた。ティーパーティは、重税に反対して独立運動のきっかけとなった重大な事件で、今もアメリカ人の間では語り継がれているアメリカ建国の理念を示す重要な言葉なのだ。


オバマ政権成立後、オバマ政権に反対する保守派の人達が、「大きな政府」に反対する集会を開く際、集会を「ティーパーティ」と呼んだことがきっかけで、再び歴史が思い起こされ、多くのアメリカ人の心を掴んだのだ。彼らは自動車産業の救済や医療保険改革を進めたオバマ政権を「米国的ではない」と吐き捨て、抗議している。ただティーパーティの主張は「小さな政府、減税、歳出削減、そして規制緩和」とかなりはっきりしているので分かりやすい。



こうした中、経済格差の是正や雇用情勢の改善を求め昨年9月、若者世代を中心にニューヨークのウォール街で抗議デモが起こった。ウォール街が標的になったのは、米国が抱える病巣の中心だと人々が考えたからだ。大手金融機関は金融危機を招き、政府に救済された。それなのに住宅の不法差し押さえを続け、経営陣は高額の報酬を受け取る。「これって何かおかしいんじゃないの?」と大量消費社会を批判する非営利団体が発行するカナダのアドバスターズ誌の呼び掛けでデモは始まった。アラブの春に触発された編集者たちが、「強欲」な金融業界に対する大規模デモを提唱したのだ。


一連のデモ活動は、債務危機で揺れる欧州にも飛び火した。欧州中央銀行(ECB)前の広場にもユーロ通貨記号のモニュメントを取り囲むように、デモ参加者のテントが張られ、『YOU PLAY, WE PAY(お前らが勝手に始めたマネーゲームの代償をオレ達に負わせるな!)』など金融システムや銀行に対する強い不満を訴える横断幕やプラカードが至る所に点在し、人々の深い、突発的な怒りを象徴していた。


だけどこうしたデモ活動はどことなく緊張感がない。ウォール街占拠デモでは、ダンスに興じる若者、ピザの出前にかぶりついている人達、ピクニック気分の子連れ、公園でのフリーセックスなどが紙面を踊った。


では、この「占拠デモ運動」と「ティーパティ」は共通しているのだろうか。ウォール街占拠運動は「金融機関を処罰しろ」「金融機関の従業員や役員の給料を減らせ」「社会格差をなんとかしろ」「政治はカネに左右されるな」「資本主義が上手く機能していない」などメッセージの一貫性はなく、やはり歴然とした違いがある。そもそもティーパティの主体は自営業者と非組合員の白人労働者で、彼らの怒りには「自分たちが払っている税金が自分達のために使われていない」という一貫した不満が核として存在する。さらに支持者は弁当持参で集会にやってきて、夜になったら帰宅するような中年の白人中流層で、帰りのバスに乗るのを忘れて、公園で寝泊りするような占拠デモ参加者とはスタイルも大きく異なる。


そして「ウォール街占拠デモ」に参加している多くは納税をしていない若者だから、税への嫌悪もなければ、人種背景的にもダイバーシティ(多様性)を全面に打ち出し、リベラルカルチャーを色濃く反映したものであるから、白人中心の「ティーパーティ」とは全然違う。さらにティーパティの場合は、「格差是正のための税による所得移転には絶対反対」という立場で、当然「年収1億円以上に対する富裕層増税にも反対」という立場にいるわけで、占拠デモ参加者が掲げる「所得移転をどんどん進めて格差是正を」という主張とは政策的にも異なるのだ。




そんな中再選を目指すオバマは、「アメリカ経済は、日ごとに危機から回復しつつある」と聴衆に向けて語り、共和党の政策こそが今の経済危機を招いたと批判した。米労働省が発表した統計によれば、2月のアメリカの就業者数は前月比で22万7000人増加(失業率は1月と同じ8.3%)しているし、この半年間の雇用の状況は、2006年以来最も強い改善傾向にある。平均賃金も2月には0.1%上昇し、時給23.28ドルから23.31ドルに上がっている。


こうした状況を追い風にオバマは、1月の一般教書演説で提案したバフェット税成立に向けて走り出している。ロイターとイプソスが13日発表した世論調査によると、米国民の64%が、年収100万ドル以上の富裕層向け課税(通称バフェット税)を支持していることが分かった。ただ、課税を立法化するための法案は民主党が議会に提出しているものの、下院では増税に一貫して反対している共和党が多数を占めているため、年内は法案の棚上げ状態が続くと見るむきが多い。だけど、その共和党員の49%もこのバフェット税を支持しているのだ。



大きな収益を上げ、国家に税金という形で貢献する人に対し、「儲けているから」という短絡的な理由だけで、さらに税金を徴収するというのは本当に正しいのだろうか。出版社のアメリカン・エクスプレス・パブリッシングと市場調査会社ハリソングループが実施した最新の調査によると、上位1%の最富裕層のうち28%の人が失業の心配をしており、中でも企業幹部を務める人の21%は向こう1年間で仕事を失うのではないかと懸念していることが明らかとなった。自分の会社を所有しているオーナーでさえ不安に思っていて、企業オーナーの4分の1は今後1年間のうちに会社が倒産するのではないかと心配している。


実はアメリカでは、最富裕層の所得税率は低所得の国民と比べて非常に高い。年間所得が100万ドルを超える国民が納めている連邦所得税は平均29%強だし、所得が減るにしたがって税率は変化し、2万から3万ドルだと5.7%まで下がる。上位20%の高額納税者が、連邦税総額の実に70%近くを負担しているのだ。もちろん日本の場合は国税としての所得税の最高税額が40%、それに地方税である住民税を合わせると、最高55%になるから恐ろしいほどの額になっているわけだけど。


かつてアメリカ人は、生まれがどうであれ努力すれば成功できると信じていた。10年前の世論調査では、ざっと3人に2人が「知性とスキルがあれば成功できる」と答えていたようだし、調査が行なわれた27カ国の中で最高の割合であった。だけど、そんな見方すらも変わりつつある。好況期には目をつぶっていた事実に皆が気付き始めてしまったのだ。大半の先進国と比較してアメリカでは貧困家庭の出身者が成功できる確率は低いし、さらに低下しつつあるようだ。


所得水準が下位20%の家庭に生まれたアメリカ人が、上位10%にのし上れる確率は約5%しかない。一方、上位20%の家庭の出身者が上位10%に上がれる確率は40%以上だ。つまり親の収入によって、子供の将来の収入がある程度決まるということだ。もはやアメリカンドリームという言葉は、富裕層から税金をむしり取り、その資金を使って希望をかなえるような実にドリームのない言葉に変わりつつある。


アメリカは、オバマ大統領が「チェンジ」と叫び続けていた頃とは大きく変わり、常に左右に揺れ、「体を使って働かずに、金融なんていう幻想ビジネスで飯を食っている奴は悪者だ」という衆愚なルサンチマン(怨恨)が、あらゆる階層に蔓延り、国家愛だけは堅固として存在するので、日本のように起立斉唱だの何だのと、もめることはないけれど、随分と日本に似てきたといえる。自由の国アメリカは、人々の自由な意見に右往左往して、オバマが「チェンジ」を唱えるまでもなく、変わってしまった。そのチェンジした様相もオバマが思い描いていたものとは違うとは思うけれど。ジョブズの遺言である「クレイジーであれ、ハングリーであれ」というのは、当然、ジョブズの人生をかけた深い意味がこめられているわけだけど、それが占拠デモであったり、ハングリーに富裕層増税を唱えて物乞いをするカルチャーとは全く関係がなく、きっとジョブズも肩を落としていることだろう。なんてことはない、どこの国も不満や嫉妬がはびこり、成功者が嫌いなのだ。




参考文献

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

競争の作法 いかに働き、投資するか (ちくま新書)

市場の変相

そうだったのか! アメリカ (そうだったのか! シリーズ)
ウォール街占拠デモの愚かな実態 リベラル日誌

上位1%の最富裕層も失業が心配=米調査ーWSJ

社会構造が危機に瀕した中での権力闘争に目を向けると

東日本大震災からちょうど1年が経つ11日、様々な国と地域で追悼集会が営まれ、多くの人々が黙祷を捧げながら犠牲者の冥福を祈っている。こうした中、3月9日の東京株式市場では日経平均株価が一時、約7ヶ月ぶりに1万円を回復した。世界的な金融緩和や円高が一服したことを背景として、投資家が若干市場環境を好感したことが要因として考えられるけれど、欧州債務問題の行く末は未だに不透明で、今後の展開に予断を許さない状況だ。多くの企業は、大量のリストラ策を打ち出したり、一部の機能を海外に移転したりと、生き残りをかけて必死に戦っている。



連邦破産法11条の適用申請をして破綻してから3年半、かつての米投資銀行リーマン・ブラザーズは6日、破産法手続きから脱却したと発表した。米国の金融不安の只中で史上最大の破産を遂げて金融危機に火をつけて以来、リーマンは訴訟対応の弁護士や事業整理のコンサルタントに16億ドル近い費用をかけてきたと、CNNは報じている。


世界金融危機に端を発した大不況によって、世界的に社会システムの仕組みが大きく変わりつつある。ウォール街バッシングは未だにその熱を冷ますことなく、米政府は金融業界に大きなメスを入れようと改革に必死だ。今回の改革の中心的な狙いは、金融危機の再発を防ぐことだ。なぜなら金融危機の影響は、バブル崩壊や巨額の損失を引き起こす取引よりも甚大だからだ。バブル崩壊や投資の損は避けられないものだし、ある意味では望ましい。損失を被る事がなければ、投資家は無謀な取引に手を染めるようになる。だけど紐をきつく締めすぎて、自己資本比率などを強化すれば、融資が冷え込み、中長期的には雇用や消費に大きく影響することになるだろう。



今回の金融危機は、リスクの過小評価が最大の要因であって、金融業界内の過当競争が直接的な問題ではない。だからウォール街を批判して、格差是正を求めるような運動には、ほとほとあきれるばかりか、間違っている。政治と金融の間に巨額のマネーが蔓延っていたし、実際に政府が市場に介入し、リスク評価にゆがみを生じさせたのだ。これまでの競争を促す法案やシステムにも一定の評価は出来る。金融イノベーションが起きて、クレジットカード、金利スワップ、インデックスファンド、上場投資ファンド(ETF)などが次々と誕生し、世の中の経済システムを活性化させた。確かにクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)、債務担保証券(CDO)、その他のデリバティブ証券などの金融商品の一部は発明されるべきではなかったかもしれないけれど、どんなことでもそうであるように、イノベーションには良いものと悪いものがある。それを適切に取捨選択し、良いものを残していくことが必要だろう。世間の行き過ぎた規制論には嫌気がさすばかりか、経済そのものを収縮させ、製造業や他の業種にまで影響をきたし、人々を苦しめるはずだ。





どの社会においても、個人はある社会集団、社会層に属している。とりわけ日本においては、「タテ」の関係が重視されていて、それは企業という社会集団において、同程度の実力や能力を有していたとしても、年齢、入社年次、勤続期間の長短によって差が生じ、序列があることからも明らかだ。組織として年功序列制の長所は、いったん雇用関係が設定されれば、その後、何らの変更・是正の処置を取る必要がないというシステマティックな運営にある。もちろん、この方法を取る前提には、個人の能力差というものをミニマムに考えるわけで、それは、せいぜい学歴差といった大雑把な枠によるわけである。


かたや欧米で採用されているような能力主義の場合は、個々人の能力差を克明に判定する必要があり、それに対応するメカニズムが当然要求される。だから多くの欧米企業では360度評価を始めとする、上司が部下を評価するだけでなく、部下が上司を評価したり、さらには他部署で働く同僚の評価までしないとならないようなシステムが存在するのだ。


欧米の長期的な規制緩和の波は、金融をはじめ多くのビジネス分野においてイノベーションを起こした。高度化したテクノロジーは相互連関機能をさらに強化し、世界中で同じような流れを引き起こしたのだ。その為に、新たな商品やツールは次々と誕生し、社会構造を変化される形で、より一層個人の力を伸ばしてきた。つまり熟練労働者の経験値や能力を押し下げ、個々人の能力差を明確に浮き彫りにしてきたのだ。だからこそ、著名人は口を揃えて「能力のコモディティ化」を防ぐことが勝ち組になるための必須のアイテムであるかのようにうったえてきたのだ。


だけど金融危機を発端として、景気減速や規制強化が起こると、コモディティ化していない新しい商品、金融で考えるならば、不動産証券化ビジネスをはじめとした高リスクなデリバティブ事業から順に必要とされなくなったのだ。言うなれば誰でも判断可能で、経験値こそが理解を助けるような商品やツールが好まれるようになり、時代が戻りつつあるということだ。日本は「ヨコ」社会になりつつあったものが、また「タテ」社会に戻ろうとしているのだろう。労働組合は既得権を守るために奔走し、派遣切りに口を噤むばかりか、自らの賃上げを要求している。企業悪玉論は影をひそめ、学生の内定率の低さを取上げたニュースばかりが一人歩きしている。


このような環境においては、権力者や既得権者にとって、まぎれもなく有利な環境で、物事を決定しやすい。こうした中、ヒーローのごとく現れたのが橋下徹だ。この社会的変化の歪みの中で、公共セクターに対して民衆の権力やカネを牛耳る「既得権者」というレッテルをはり、官僚に対しては「エリートの独善」として反エリートを掲げながら、民衆をリードしていく論理的飛躍を行なっている。


世界的な緩和の流れの中で少しばかり味わった「ヨコ」社会という民衆の憧れと、過去の「タテ」社会へ回帰することへの不安や不満を巧みに利用して、橋本徹は改革に突き進んでいる。だけど、果たして米国が一定の過ちを認めた「ヨコ」社会的システムの中の短所を解決した上での改革を実行しているのだろうか。これには少々疑問を感じる。


少し前から橋下徹を中心に、所定の学力に到達しない生徒はたとえ小中学生でも留年や科目の再履修をさせるべきだという案が議論されている。大阪の学力水準の向上や競争力強化を目標に掲げた政策であろうけれども、留年が横行することになれば、それを支えるための受け皿となるシステムや組織を作らなければならず、社会的なコストが増加するばかりか、新卒一括採用を就職システムとして採用している日本においては、さらに社会的格差を助長することになりかねない。


また「ダメな高校は公立、私立とも撤退してもらう」として高校改革にも乗り出している。2009年度の府内の高校授業料は公立の年間14万4千円に対し、私立は同平均55万円だ。鳩山政権によって公立の授業料が無償化されてきたけれど、橋下前知事は、これに併せて、府内在住の私立高校生について、年収350万円未満の世帯を無償化できるように府独自に助成してきた。11年度には、府内の私立高校生の半分をカバーするとみられる年収680万円程度の世帯まで助成を広げる方針であった。確かに公立と私立の授業料の差が縮まれば、生徒や保護者の家庭の経済事情に関わらず、自由に学校を選べるようになるだろう。だけど、これは正しい競争と言えるのだろうか。当然私立校においては、授業料が高い分、インフラ設備も整えられ、教師に対し公立校よりも一定水準以上の給与を付与することができるために、優秀な人材を雇用できるだろう。しかしながら、公立校では授業料が安い分、同程度の私立校と同じだけの教育環境を整える事は難しい。まるで、金融危機が起きた政府が市場に介入し、淘汰競争や市場システムを捻じ曲げた苦い歴史をなぞっているように感じる。


競争と淘汰は必要不可欠で無理にさけるべきではない。資本主義システムの中では、そうした仕組みが経済を活性化させ成長促進のエネルギーになるからだ。しかしながら、「公平で開かれた市場環境」の存在が前提条件としてあり、歪んだ競争には規制をかけるべきであろう。


大阪市交通局は、民間バス会社より高額と指摘されている市営バス運転手の年収(平均739万円)について、来年度から4割程度削減する方針を固めた。これも大阪市の橋下徹市長の「民間並みに合わせる」との方針に基づいたもので、大手私鉄系バス会社の最低水準に引き下げるものだ。赤字会社が民間平均の給与をもらっていることについては、確かに「もらいすぎ」であり、ここにメスを入れたことについては一定の評価はできる。しかしながら、急激な改革により、そうした社会的組織を見越して入社した社員は、恐らく教育や住宅ローンでがんじがらめになるだろう。公共セクターを抵抗勢力とした戦い方は実に見事で、民衆を惹きつける鮮やかな戦略であり、評価を得やすい。


「タテ」社会の構造的欠陥をいち早く見抜き、そして「ヨコ」社会への魅力を民衆に説いている橋下徹自身が、「タテ」社会の構図にはまり、ピラミッドの頂点に立つべく、国政に乗り出そうと画策している様は少々痛々しい。金融危機を引き起こした元凶としてウォール街を叩く民衆心理を利用して、金融規制を敷く欧米諸国も、年功序列や終身雇用といった制度的な問題も背景としながら長らく「タテ」社会という構造を取ってきた日本の社会的変化に対する不満分子を徹底的に洗い出し、タテの頂点に位置するように見える公共セクターを抵抗勢力として戦う橋下徹も市場を無理に歪める危険性を孕んでいる。



人間という知恵、欲望など多面的な能力を持つ動物が生活する社会において、合理的で無駄のない社会を作り上げるのは、現実的に不可能だ。だけど市場の歪みを最小限に押さえ、政府やそれと類似するような権力を排除し、自然淘汰を促すような競争システムを作成することは必要不可欠であろう。誰しも人は不合理や不条理によって恩恵を受けている面はあるし、それがなくなることをひどく恐れている。だから改革を一側面で判断したり、評価するのではなく、多面的に考えなければいけない。それこそが、これからの社会で求められていることなのかもしれない。



参考文献

フォールト・ラインズ 「大断層」が金融危機を再び招く

セイヴィング キャピタリズム

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)

競争の作法 いかに働き、投資するか (ちくま新書)

競争と公平感―市場経済の本当のメリット

「上から目線」の時代

リベラル日誌 あなたも不合理な世界の恩恵を受けている1人かもしれない


スティーブ・ジョブズが僕らに残してくれたもの

2011年10月5日、ビジネス、IT業界をはじめ世界中に激震が走った。「アップル社前最高責任者(CEO)スティーブ・ジョブズ死去」というニュースと共に、著名人が一斉に哀悼の意を表明したのだ。アップル社CEOを9月に退任したジョブズは、社員たちに『I have always said if there ever came a day when I could no longer meet my duties and expectations as Apple's CEO, I would be the first to let you know. Unfortunately, that day has come.(常々、CEOとして職務と期待に応えられない日が来たら、私自身から皆さんに伝えると申してきました。残念ながらその日が来ました)』と記し、ティム・クックを後継者に任命した後、『I believe Apple's brightest and most innovative days are ahead of it. And I look forward to watching and contributing to its success in a new role(アップルの最も輝く、最も革新的な日々はこれからだと信じています。その成功を新しい役で見守り、また貢献したいと思っております。)』と続けた。


ジョブスは色々な意味でぶっ飛んでいて、運に恵まれた人生を過ごしてきた。ジョブズはスティーブ・ウォズニアックと共に、「AppleⅠ」を開発・販売し、アップル設立後には、パーソナルコンピュータ「AppleⅡ」を発表した。その後20代という驚異的な若さでフォーブスの長者番付に載り、一躍脚光を浴びたのだ。でもジョブズはこうした成功に満足することなく、エネルギッシュに活動していく。


僕はジョブズがこれほど多くの注目を浴びるようになったのは、富や商品開発といった世間的に「成功した」という理由も当然あると思うけど、それ以上に彼の類稀なる個性により、多くの人々の人生を時に浮揚させ、時に崩壊させたからではないかと思うのだ。ジョブズの成功と失敗の影には常に人間関係が存在している。彼にとって人に魅了されたり、嫌悪されたりすることは運命づけられていたのかもしれない。


ジョブズは誕生以前から養子に出されることが決められていた。実際、実の母と再会を果たすのは、彼が30歳を過ぎた頃である。この親に捨てられたという経験が、彼の人間に対する熱い感情と冷めた感情が入り混じった複雑な対応を生み出したのだろう。1981年、ジョブズはアップルのCEOとしてマーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに目をつけて、引き抜き工作を行なった。この時のスカリーに対する口説き文句は『Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world(このまま一生砂糖水を売り続けたいのかい?それとも世界を変えるチャンスに賭けてみるかい?』だった。この言葉がスカリーの心に響き、アップルCEOとして歩みだすのだ。でも僕だったら、わがままの代名詞のようなジョブズが実権を握るアップルが働きやすいとは到底思えないし、ある意味、砂糖が全世界に行き渡り、愛され続けているあたり「もう世界を変えているんじゃね?」とか思ったりしてしまうわけだけど。


結果論になってしまうけど、この決断は両者にとって破滅を招くことになるのだ。マッキントッシュの需要予測を大幅に誤り、アップルは、マッキントッシュの過剰在庫に悩まされた揚句、赤字を計上してしまう。アップルの経営を損益の面でも、環境の面でも悪化させているのはジョブズだと考えるようになったスカリーは、会長職以外の全てのジョブズの持つ権限を剥奪してしまい、事実上アップルから追放する。


ジョブズはその後NeXTに投資することになるわけだけど、ジョブズが強硬に主張したアイデアによってハードウェア部門では失敗し、キャノンに売却してソフトウェア会社に転じることになってしまう。その一方で、彼は映画会社であるピクサーCEOの座についた。ジョブズはピクサーに対してあまり口出ししなかったけれど、手っ取り早く利益があげられるコンテンツの作成をメンバーに提案した。そして全編コンピュータ・グラフィックスのアニメ映画『トイ・ストーリー』が、1995年11月22日に封切られた。公開までの4年間、ジョブズは5000万ドルという巨額な資金の投資をしている。だけど『トイ・ストーリー』公開直後、ピクサーは株式を上場し、またもやジョブズは多額の資金を手に入れることに成功する。結果としてジョブズがあまり口を出さなかったことが成功の要因だったのかもしれない。


ジョブズはこうした経験を活かして、さらに政治力を強化し、アップル経営の実権を奪取すべく、社内で隠密に行動を開始し、アメリオを追い出すための画策を講じる。「アメリオは未だにアップルの業績を向上させられない」として、すべての役員を味方につけて、彼をCEOから引きずり下ろすことに成功するのだ。


このように見ていくと、ビル・ゲイツのジョブズ評は、ある意味的を射ているかもしれない。「技術そのものはよくわからないのに、何がうまくいくのかについては驚くほど鼻が利きますね」と言ったことはまさにその通りだろう。


僕は企業内で成功する最大の要因はコミュニュケーション能力の高さだと思っている。当たり前だと思うかもしれないけれど、この能力を磨くのは非常に難しいし、実は誰もが持っているものではない。現在は誰が権力を握っていて、そして今後はどの人物が握ることになるのか、または人それぞれの個性を正確に見抜き、どういった言葉や態度を示すことがベストなのかということを的確に理解しないといけないからだ。


確かにジョブズは天才だと思う。だけどその理由は技術者としての能力でも、彼が常々目指してきた開発した商品の美しさではなくて、経営と政治力だ。ジョブズは会社から追放されても、どんな強敵から否定されても、めげたり、諦めたりすることはなかった。憎しみを仕事にぶつけ、常に自分の才能を信じ続けることによって、コンピュータというフィールドではなかったかもしれないけれど、iPhoneやiPodというヒット商品を世に送り出した。


彼が僕らに残してくれたことは、企業で生き残るためには、派閥を作り、自分の出世に邪魔になる上司の悪口を言い続け、そして力が弱ろうものならば、徹底的に叩きつぶし、組織から追放することの大切さ、そして自分の才能を信じ続け、いかに自分が有能なのかということを部下や世間に広めることの重要性だ。


やはりジョブズの才能は天性のもので、100年に1人というレベルの逸材なのかもしれない。きっとこれからも彼の伝説は語り続けられるだろうし、人々が忘れることはないだろう。僕はこれからもWindows、ソニーの音楽プレイヤー、そしてサムスンの携帯電話を愛用しながらジョブズのことをふと思い出すことがあるかもしれない。もちろんそれは類稀なる政治力と経営力に敬意を表して。



参考文献
スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

Here's Steve Jobs's resignation letter to Apple and you

スティーブ・ジョブズ Wikipedia