映画『ローマの休日』の解釈をめぐる懐の深さ
【『プラダを着た悪魔』に見られる男女の目線】 というブログを掲載した所、意外なほど反響があった。じゃあ他にネタはないかと探していたら、極東ブログさんの【「ローマの休日」でアン王女のベッドシーンが想定されている箇所について 】という興味深い記事を発見した。これほどの名画にストーリーのあらすじをつける必要性はないとは思うけれど、一応簡単に紹介してから、ブログ記事を含めた意見というか、感想を書いていこうと思う。
ある国の王室がローマに訪問する所から物語は始まる。王室のアン王女をオードリー・ヘプバーンが純然たる演技を披露し、世の人たちを魅了したことは、既に広く知られている。年齢の影響もあるのかも分からないけれど、お転婆で快活としたアン王女は、公職に嫌気がさして、夜中にちょっとしたヒステリーを起こして、家政婦連中を困らせていた。そこで、彼らは常駐している担当医を呼んで、鎮静剤だか、睡眠剤だかを王女に投与させる。ここで少しやり取りを見ていくことにしよう。
夫人「My dear, you're ill! I'll send for Dr.Bonnachoven.(まあご病気ですね。お医者様を呼ぶわ)」
アン「I don't want Dr.Bonnachoven.Please let me die in peace!(要らない。安らかに死なせて)」
夫人「You're not dying!(死にませんわ)」
アン「Leave me! Leave me!(もうわたくしのことはほっておいて!)」
夫人「It's nerves! Control yourself,Ann!(お気を静めて)」
アン「I don't want to!(イヤよ!)」
夫人「Your Highness! I'll get Dr.Connachoven.(王女様、医者を呼びますわ)」
アン「It's no use I'll be dead before he gets here.(そんなのムダよ。来る頃には死んでるから)」
この程度の振る舞いに対する対応とししては、ちょっと行き過ぎじゃないかと思うわけだけれど、「ローマの休日」というそもそもの物語が始まるきっかけとなるシーンとなるので、スルーせざるをえない。
さて、いたずら娘が処置を受けて、「はい、おやすみなさい」となるわけがない。なんとかかんとかお屋敷を抜け出して市街にぶらりと遊びにでかける。「いけないこと」をしているのを十分に認識しながら、未知の世界に足を踏み入れた感動を、的確な表情で演技している様は、映画を見ている全ての者に興奮を与え、引き込んでいく。
でも王女の旅路はそんなにうまくはいかない。薬が効いてきて、あまりの睡魔に耐え切れなくなって、うつろになりながら、ついには道端で眠りこけそうになっていたまさにその時、グレゴリー・ペック演じるアメリカ人記者ジョー・ブラッドレーが現れる。聞屋が好まれないのはどこの世界も一緒のようで、酒、タバコ、賭け事に興じるスクープ好きの兄ちゃんといった描き方をしている。さてさて、そんなジョーではあったが、深夜にも関わらず、酒に酔って足どりのおぼつかない少女(まさか睡眠剤を導入され意識が朦朧としているとは認識していない)を介抱しようと声をかける。日本で生活していると、少々困っていると思われる女性に声をかける行為は、それほどおかしなことではないのかもしれないが、海外では少々危険な人物として見られる行動だ。この場面があるのは、一重にアン王女が、いかに上流階級で生活している人が身につける服装をしているのかということを想起させ、さらに言葉の言い回しに知性があるのかを鑑賞者に植え付けるねらいがある。
もはや薬で朦朧としている王女に思考するだけの余裕はなく、ジョー宅についていき、そこで一晩過ごすことになる。翌朝になって、アンの素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをものにしようと、職業を偽り、友人カメラマンであるアーヴィングの助けも借りて、王女とローマ観光することに成功する。
ここから先のストーリーが、まさに有名なシーンとなっているわけだけど、一応続けていきますか。王女は美容院を訪れて髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べる。ローマを訪れた人は知っていると思うけれど、所狭しとアン王女を模倣した観光客が、ジェラートをほおばっている様はなかなか奇妙な光景である。そして、真実の口に手を入れて、ジョーが驚かす場面は、もはや新婚旅行の定番行事となっているので、いまさら説明するまでもないだろう。
そんな永遠の都ローマで自由と芸術を堪能した魔法が解ける時間になって、ジョーはスクープのことも忘れ、純粋でいて、いたずら心あふれる王女に、アン王女は見知らぬ自分に親切に、そして魅惑的な世界を与えてくれたジョーに惹かれていく。二人は帰りがけに大雨に出会い、キスをし、貴重な時間をジョー宅で過ごし、公職のためにお屋敷に帰っていく…。
少し長くなってしまったけれど、全体的なストーリーとしてはこんなとこだろう。
あえて問題提起を思い起こさせるために、あらすじに二回ジョー宅で過ごした時間を意図的に示したわけだけど、今回問題となっているのは、当然二回目で、ジョーと王女との間に関係が生じえたのか否かということだ。まあここまで書いてきて、こんなことを分析することに意味はあるのかという心情になってきたけれど、続けていきますか。
さて極東ブログ氏がマーク・ピーターセンの考察を紹介している形で説明していることを、少しここで整理しておこう。まず一度目のジョー宅で過ごした時間、つまりは出会った日の夜に該当するわけだけど、ここで関係をもったとは当然いえない。だけど、言葉の言い回しが伏線をはっているのではないかというわけだ。
出会った夜の翌朝、王女が寝ているベッドの異変に気づき、着衣を身につけているか否か確認するシーンで、ジョーが「Did you lose something?」と尋ねる場面がある。このセリフは実に奇妙で、巧妙な伏線があると、確かに認識できる。見知らぬ少女が道端を徘徊している所を介抱した形とはいえ、育ちのよさ、裕福な家庭環境を認識しているジョーにとって、このセリフを選択する必要性はなかったように思う。これほど直接的でなくても「What are you doing?(何をしているんだい?)」でも「What are you looking for?(何かお探しものかい?)」でも、はたまた全ての流れを無視した形、「What happened?(どうした?)」でもよかったわけだけど、あえてloseという単語を使用したところに面白さがある。つまり、何か貴重品を喪失する、もっと直接的に言えば、「処女を喪失する」ということにつながるわけだ。
そして問題の2度目の時間、つまりは最後の別れの前の時間になるわけだから、互いの感情は共通のものとなっていたから、現代の作品であれば、ベッドシーンやヌードシーンを挿入する形で描写しても全く違和感はなかったわけだけど、時代背景もあってそうしなかったというわけだ。
「Everything ruined?」
ジョーが王女に投げかけたセリフが実に様々に捉えることが可能となっている。言葉そのままに、「すべて台無しになってしまったかい?」と解釈することも可能であると同時に、この方向での解釈を加えていくと、「今まで築き上げてきたすべてのもの(王室での文化、教育、慣習、名誉など)が台無しになってしまったかい?」となるかもしれない。こうして考えていくと、次のアン王女のセリフも実に興味深い。
「No..they'll be dry in a minute.」
これをシンプルに捉えるならば、「(雨でぬれた服が)すぐに乾くわ」となり、とくに会話上重要なセンテンスとはなりえない。しかしこのセリフをこれまでの伏線を考慮にいれたうえでのものだとすると、かなりニュアンスが異なってくる。「(私とあなたの関係)はすぐに乾いていくものだわ。(気にしないで)」となって、情緒的で赴き深い。
「Suit you. You should always wear my clothes.」
これまでの状況を汲み取って解釈するならば、「よく似合っているよ。ぼくの服をいつも着ていたら。」となって、アン王女のセリフを意識した、乾いたら服を脱ぐ、つまりは関係がすぐに終わるという不安というか、感情に対して、ずっと着ていたらいい、つまり二人の関係はいつまでも終わらない、本気だという二人の実に美しい思考を読み取ることができる。そして最後の名場面、アン王女が、「No milk and crackers(ミルクとクラッカーはいりません)」と就寝前に必ず召し上がっていた食事を断るセリフ、そして式典での振舞いを通して、「女になった」という変化を感じずにはいられない。
そうなんだよね。恐らくこうした捉え方が正しいし、こう読み取るべきなんだと思う。だけど、ぼくが中学生くらいのときに初めて鑑賞した印象が少しばかりくずれてしまう。だからあえて製作者の意図を無視した解釈も十分に可能なんじゃないかという強引なストーリー解釈をしていこうではありませんか。
ではまず一度目のジョー宅における会話「Did you lose something?」については、全ての流れを変形して捉えることにはなるわけだけど、裕福な家庭の娘として育ったことを既に認識しているジョーが「(アンが身につけているであろう貴重品)をなくしてしまったのかい?」と聞いたと考えてみよう。
アン「So,I've spent the night here...with you(えーとあなたと一夜を共にしたのね?)」
ジョー「Oh,well,now,I don't know if I'd use those words exactly,but from a certatin angle-yes.(
その表現はあまり正確とはいえないけれど、まあでも見方によってはそうだね)」
アン王女がストレートに質問したことに対し、ジョーは妙にもってまわった回答をしている。ここはシンプルに「No」と答えるのが一般的であろう。しかしジャーナリストという職業柄、ジョーが言葉を選ぶ傾向にあることをうかがい知ることができる。
ジョー「Everything ruined?」
アン 「No...they'll be dry in a minute」
ジョー「Suits you. You should always wear my clothes」
さて問題の2度目のジョー宅での二人の会話であるが、これをシンプルに捉えると、ジョーが「服は全部ダメになってしまった?」と聞いたのに対し、アンが「いいえ、すぐに乾くわ」と答えているのは、単純に「服が乾くまでの時間があるから、それまで少しお話しましょう」という暗示を意味し、実に高貴なやり取りになる。
そして最後のジョーのセリフ「よく似合うよ。ぼくの服をずっときるといい」は、「ぼくたちはこれからどうするのがいいのかな?」となって、関係した男女の会話というよりも、これから関係をもてるような、そんな間柄になれるのかということを意味しているとも捉えることができるかもしれない。
「No milk and crackers(ミルクとクラッカーはいりません」のシーンについても、子供っぽかった少女が、ここでは黒い服を身にまとい、いかにも大人になった状態を描き出しているのは事実だ。さらに側仕えに毅然とした態度で臨むのもまたシリアスな雰囲気を丁寧に描写している。ただ、これも叶わぬ恋をふりきった少女のいたいけな姿だとも捉えることができる。
このように考えていくと、かなり苦しいけれど、後者のように解釈することは可能だ。この映画の素晴らしいことは、時代背景が影響していることは間違いないけれど、ストレートな表現がどこにもされていないことだ。つまりあらゆる年代でも楽しめる(小中学生は後者的な捉えかた、大人は前者的なとらえかた)ものになっている。これが名作の名作たるゆえんなのかもしれないと胸を熱くするばかりだ。
参考文献
名作映画を英語で読む ローマの休日 字幕対訳付 (宝島SUGOI文庫 D ふ 2-1)『プラダを着た悪魔』に見られる男女の目線
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【書評】夜のピクニック 恩田陸
誰にも思い出の曲の1つや2つはあるだろう。先日CDを整理していたら、色々と懐かしい曲がでてきた。別に思い出の曲というわけではないのだけれど、何となく懐かしくなって手に取ってしまったのが、SIAM SHADEの『1/3の純情な感情』-壊れるほど愛しても1/3も伝わらない。純情な感情は空回り、I love youさえ言えないでいる、マイハート-なんだか歌詞を見ているだけで失笑してしまう。これが年というものなのか。当時は、曲を聞きながら言葉が腹に落ちるというか、付き合っていた女だか、惚れていた女だかの顔がすっと頭に出てきたものだった。
年を取るということは、「感じなくなる」ということなんではないかと思った。誰でも若い時というのは、どんな物事にも敏感で、他者との距離を気にする。駅のホームで必死に鏡を見ながら、ジャニーズ風の髪型というか、前髪をしきりにいじくっている高校生を見ると、「若いなぁ~」と思うと同時に、そんなにいじくってたら、手垢がついて汚いんじゃないかと余計な心配をするほどには年を取った。
そうそう、話は夜のピクニックである。著者である恩田陸は、基本的に青春ストーリーよりは、サスペンスが多い印象だったんだけれど、本屋大賞を受賞しただけあって引き込まれた。つい映画も見たくなって、DVDをレンタルしてしまったほどだ。以下ネタバレになるので、鑑賞しようと考えている方は読まないほうがいい。
年に一回催される恒例の伝統行事「歩行祭」。これは全校生徒が24時間かけて80kmをただ歩くというものだ。だけど歩くといってもそこには多くのドラマがある。教室という空間で勉学に励み、部活で汗を流す仲であっても、夜という時は、人の感情を変化させる。3年生になった甲田貴子は、親友にも話していない、ある秘密を抱えていた。それは同学年の西脇融と異母兄弟ということだ。貴子は融に興味を抱いていたけれど、融の父親を奪った自分の母親に対するどこか後ろめたい気持ちと、自分とどことなく似ている融にとまどい、ずっと話しかけられずにいた。貴子は最後の歩行祭、1年に1度の特別なこの日に自分の中で賭けをしていた。それは勇気を持って融に話しかけることだ。そうすれば、もやもやした感情に終止符を打てるのではないかと感じていた。だけど、それは思春期というちょっと特別な空間。そんな簡単にはいかない。互いを意識したような、どことなく避けているような二人の距離間を勘違いしたお互いの友人が、しきりに二人をくっつけようと画策する。
ぼくはこの話を読んでいいなと思った。二人の複雑な感情が織り成す人間関係が、実にこの世代の独特な「思い」を鮮明に映し出していたからだ。融の友人の戸田忍は、甲田貴子のことが気になっているにも関わらず、そんな感情をおくびにも出さずに二人をくっつけようとしたり、高校のアイドル的存在である内堀亮子と関係があったことを誰にも話していなかった。
また貴子の親友である榊杏奈と後藤梨香は、貴子の母親から、貴子が外出している間に、貴子と融が異母兄弟であることを知らされていた。「あなたたちには知っておいてほしいの。あの子のことをこれからもよろしくね。」と、こういう少女の母親らしい人間の大きさを感じさせながら、二人の子供達に対して、真摯に対応していた。彼女たちは、自分たちにとっての、この「大きな刺激物」を二人だけで消化して、貴子本人にアクションを取らないだけの聡明さもあって、雰囲気あるストーリー展開にさせている。
正直なことを言えば、この主人公たちやストーリーに関しては、ありきたりで平凡なものだ。本屋大賞まで受賞するに至ったのは、やはり脇役たちの「配慮」や「成熟さ」につきるだろう。
こんなことを言うと語弊があるかも分からないが、大人になると、色々な物事がどうでもよくなる。もう少し丁寧な言い方をすれば、自分とそれに関わる空間以外の事象については、「感じなくなる」。恐らく、ぼくが高校生の頃に著書を読んでいたら、「異母兄弟である」という、ある種のアクシデントは、わりと大きなもので、心に刺激を与えたのかもしれない。だけど、時の変遷によって、そんなアクシデントは自分という「個人」に対して何のインパクトも与えないことを知ってしまった。だから、親友が近しい人と異母兄弟であろうが、仮に惚れた女性と親友が異母兄弟であろうと、「あーそう」という程度に過ぎない。
このことはもちろん、個人差があると思うが、「感じる」という感覚が低減していくのは、人間に一貫したものではなかろうか。だからこそ、「感じる」という感覚を忘れないように、音楽や芸術があるのであろうと思う。そして何より、「感じる」ことに対する抵抗は、成功者ほど大きなものであろうと思う。それはきっと「感じる」ことによって、大きな財産を築いてきたことを認知しているのだろうし、それを返還していこうという「思い」が大きいからに違いない。
他者に対する距離感を縮めたり、「感じる」という思考は、一見すると不必要に見える。なぜなら、生きるにあたり必要不可欠なモノであれば、進化の歴史から考えても、年とともに低減することにはならないはずだからだ。だけど、そこからの付属物というか、それにまつわる何かによって、道が変化するのは紛れもない事実だ。
個人的なことを言えば、他者に対する感覚や共有というものについては、人よりも大きいほうであると思っているが、自分のことに対しては、なかなか「感じる」ことができなくなってきていると最近切に思う。
ここまで思考したところで、SIAM SHADEの『1/3の純情な感情』を聞いてみた。歌詞を追うと、なんとなくグッときた感覚を覚えた。よしよし、なんだ?『壊れるほど愛しても1/3も伝わらない。』おーそうか、じゃあ諦めた方がいいんじゃね?……感じるということは結構難しい。
不安的な世界経済がぼくらから奪ったもの
相変わらずの暑い日差しの中で、お盆休みを満喫しているサラリーマンを白い目で見ながら出勤していた。ロンドンオリンピックの閉会式がロンドン東部の五輪スタジアムで行なわれ、17日間にわたる熱い戦いが閉幕し、何となく夏の終わりを感じていたのだけれど、甲子園では汗と泥にまみれる高校生がいることを思い出し、力を入れなおした。
個人の気持ちとは裏腹に、世界経済は危機にさらされ、各国首脳は、世界経済を持続的な成長軌道にのせる明確なプランを打ち出せずにいる。米国では、もはや先送りにできない「財政の崖」が控えている。ブッシュ減税の停止や大規模な増税により、正確な数字を予想するのは不可能ではあるけれど、GDP成長率を押し下げるのは紛れもない事実である。すでに昨年8月には、債務上限を巡り、政局がまるで我が国を思わせるような混乱状態となり、S&Pが米国の長期信用格付けをダブルAプラスに引き下げている。今後、同様のことが起こることは十分に予測できるため、予断を許さない状況である。
我が国は、東日本大震災から、今ようやく本格的に回復しようとしている。しかしながら、ユーロ圏の景気悪化の再熱、米国や中国経済の景気減速、電力問題など、大きなネガティブ材料が足かせとなり、人々に暗いかげを落としている。これまで新興国経済成長に大きく寄与してきた中国ではあるが、CPIの伸び率が予想以上のペースで急速に下落していることから、中国政府の一段の景気刺激策が期待されるが、実際のところ、どれほど落ち込んだレベルで中国経済が着地するかはわからない。
消費税増税法案を巡る政局の混乱により、国債の10年金利は0.8%水準まで上昇した。これを見て、ちまたの経済学者は声をそろえたようにデフォルト不安をしきりにネットや雑誌などでアップしていたと思うけれど、こうした政治の不透明性が金利上昇のトリガーとはなっても、絶対的な金利上昇要因とはならないのは、多くの市場関係者が持っている経験則であろう。
しかしながら、中長期的な側面で考えれば、消費税増税が実際に執行されなければ、市場は間違いなく反応するはずだ。実際、先週消費税増税法案の成立に関する小沢氏の愚かな動きを始めとした、法案成立に関する懸念は、JGB30年~40年セクターで如実にあらわれていた。30年スワップスプレッドも割安な水準となり、ある意味では緊張感を持った反応と言えるかもしれない。
さらに日本経済成長を不安視するかのように企業の生産能力が目に見えて低下している。経済産業省が発表した6月の生産能力指数は、5ヶ月連続で低下し、2010年5月の106.4以来、2年1ヶ月ぶりの低水準となっている。こうした背景には、企業規模での大規模の海外移転が影響しているのは間違いない。生産能力は昨年末まで拡大を続けてきたけれど、国内での生産規模の縮小に加えて、円高による生産拠点の海外移転なども重なって、今年に入って大きく低下しており、今後も低下傾向が続く可能性が高いと見られている。
このように世界経済は大きなリスクにさらされ、とりわけ反応が早い金融機関では大規模な人員削減が実施されている。さらに今後のグローバル経済成長についても、人々が大きな不安を抱えていることは消費性向にあらわれてる。60歳以上の消費性向は依然として高い水準を維持しているものの、すでに30-34歳の消費性向は落ち込んでおり、さらにその下の世代となると目を覆うばかりだ。
若者の消費は我慢の日々が続き、冠婚葬祭の資金すら出し渋り、「貯金した方がお得」というスタンスの人までいるようだ。さらに先日たまたまテレビを見ていて驚いたのが、何かにチャレンジし、それに成功した場合は100万円の賞金が得られるという番組があり、20代前半の若者が挑戦していた。司会者は挑戦者に対し「なぜこの番組に参加したのですか?」と聞き、挑戦者は「賞金を獲得するために参加しました」と答えた。ぼくはこれを当然のようにうなずきながら見ていたのだけれど、次の瞬間、予期してなかった回答に眩暈がしてしまい消してしまった。
司会者が「賞金は何に使いますか?車か何かですかね。」と聞くと、若者は「いえもちろん全額貯金します。」と答えたのだ。
消費は一般的にラチェット効果が働くといわれている。ラチェット効果とは、消費支出は、現在の経済力よりも過去の経済力に左右されやすいという仮説だ。現在の若者は過去にリッチな生活を送ったことがないので、そうした過去の経験に引きずられて無駄な消費や努力をしないというライフスタイルが確立されてしまっているのだ。
こうしたグローバル規模での長期的な経済不安や社会不安は、目の前の人々の自由を奪っているばかりか、将来の若者の欲や希望、そして経済成長の原動力ともなる消費を失わせている。余裕のなくなった消費は人間を小さくするのは間違いない。さらに近年増加傾向にある年の差婚や年の差カップルも、こうしたことが背景にあるのかもしれない。明けない夜はないとはいうものの、現代の若者に朝が訪れるのが遅すぎて、鏡を見たら白髭の老人になっていたのでは竜宮城の経験がない分、あまりに不幸というものだ。
参考文献
【書評】モリのアサガオ 郷田マモラ
双葉社
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