リベラル日誌 -2ページ目

舞子Haaan! を見ていた

 年始から市場が荒れており、原油価格の大幅な下落、中国経済の減速が浮き彫りになり、英国がEUに残留するかどうかという議論まで起きている始末だ。中国の政策当局は、必死に株価や人民元下落を抑制する策を取っているけれど、うまく機能としているとはいえないし、米国の景気浮揚も今一つで、日本の株価も不安定な動きを続けている。

 こうしたことも大きな問題なわけだけど、それよりも個人的に問題なのは、外が寒すぎるということだ。あまりの寒さに出不精のぼくは、映画を借りてきて、明日も仕事だというのに、こんなブログを書いている。

 さて今日は、「舞子Haaaaan!」を鑑賞したので、その感想でも書いていくことにする。その前に例のごとくあらすじを書いていくから、これから見ようとしている人は、ここで読むのをやめたほうがいい。


 東京の食品会社に勤めるサラリーマンの鬼塚公彦は、熱狂的な舞妓ファンで、舞妓さんのHPも作成しているほどだ。公彦がなぜここまで舞子に魅せられたかと言えば、高校生の修学旅行で京都に訪れた際、迷子になった公彦を助けた舞子があまりに美しく、憧れを頂いたのが始まりである。この頃からお茶屋遊びを夢見てきた公彦であるが、ついに京都支社への転勤話があり、ついにお茶屋の体験ができることに。 公彦は、京都の女性だと思っていた恋人の富士子が、実は三重県出身だということを知り、一波乱ありながら、別れを告げて京都へ赴くことになる。

 しかし夢見ていたお茶屋遊びは、「一見さんお断り」という慣習があり、その敷居を跨げない。ひょんなところから自分の勤める会社の社長がお茶屋に馴染みの客であることを知り、直談判するが、仕事で結果を残してからではないと駄目だと拒否される。

 そこから公彦の異常なほどの努力が始まり、なんとか結果を残し、店に入ることができるのだ。しかし舞い上がったのも束の間、内藤というプロ野球選手が、お金にモノをいわせて豪遊しているのを見て、ライバル心が沸いてくる。そんなとき富士子は、「舞妓になって見返してやる!」とこっそり京都で舞妓修行を始める…。
 公彦は、駒子という舞子に一目ぼれして、「旦那」という舞子や芸子の面倒をみる役回りを担いたいと思いはじめ、さらには、内藤に打ち勝つべく、サラリーマンからプロ野球選手になるため、社長の力も使って、新しいプロ野球球団をつくり、見事にプロ野球選手になってしまう。ついに内藤とのライバル対決が実現するかと思ったのもつかの間、内藤は映画俳優デビューを実現する。もはやお茶屋遊び、旦那という目標から、内藤に「負けた」と言わせることへと目標がシフトしていく。

 その後、見事公彦は映画デビューを果たすものの、今度は内藤は格闘技にその主戦場を移し、公彦もそれを追いかけるようにプロレス界に向かう。ようやく追いついたかに思えたが、今度はラーメンの経営者に内藤がなっており、コロコロとその戦場が変わり、最後は、内藤とともに市長選挙に出馬することに。ようやく同じ場所で戦えることになったが、無残にも公彦は落選してしまう。
 その後駒子と内藤が実は親子だということを知り、驚愕するが、京都の踊りの会に駒子が出席するとき、「おれも着物を買うから、おまえも着物をプレゼントしろ、それで駒子がおれの着物か、おまえの着物どちらを選ぶかで勝負しよう」と内藤に話を持ちかける。j念願の内藤との一騎打ちの最後の勝負となり、その会に二人で訪れる。そのときに駒子が身に着けていたものが、内藤のものだったことからがっくりと肩を落とした公彦であったが、自分のプレゼントした着物を着ていたのは、なんと別れた富士子だった。


 この作品は純粋に面白かった。これは何がすごいと言えば、あらゆる舞台で二人が成功してしまうという、努力さえすれば、夢が叶うという非常にポジティブな面があるからだろう。そもそも普通であれば、会社で成功できずに京都支社でお茶屋もいけずに終わりそうなところを、プロ野球選手になり、役者になり、プロレス界で活躍し、市長選への出馬まで実現させてしまう。パロディー風に描いてはいるが、気持ちのいいほどさわやかに成功していくのが見ていて晴れやだ。

 そして何より美しいのは、富士子が公彦の馬鹿で真っ直ぐなところをよく理解しているということだ。無我夢中で走っている公彦は気づかなかったが、別れてみて、時間を置いてから、富士子の良さを理解しはじめる。男にはよくありがちだが、近くにいた女性の良さがわからずに遠い誰かを追いかけることがあるかもしれない。そしてそばにいなくなったときにはじめて、その良さがわかりはじめる。しかしそれを知ったときは、もう手遅れになっている。現実ではそうだが、このお話しでは、おそらくその後もよりを戻す可能性が高い。

 公彦と富士子が京都を舞台にして、心身ともに成長していくさまに温かい気持ちになった。とこうやって振り返ってみたが、明日は必至に今の仕事をこなしていかねばならないし、どうやら雪も降るらしい。公彦の才能が羨ましいよ、やれやれ。





五郎丸のポーズを見て考えてみた

 昔むかし、あるところに翁と媼がおり、翁は山へ柴刈りに、媼は川へ洗濯へ向かう。媼が洗濯していると、川上から大きな桃が流れてきた。媼はその桃を持ち帰り、食べようと割ったところ、桃の中から男の子が飛び出してきた。子供がいなかった二人は大変喜んで、この子に「桃太郎」と名付け、大事に育てた。

 大きく成長した桃太郎は、村の人たちを困らせていた鬼退治のために鬼ヶ島に向かった。媼がこしらえたきび団子を腰にぶらさげて颯爽と歩いていると、道中で犬、猿、雉に出くわし、きび団子を欲しがるのだ。桃太郎は、鬼退治に一緒に行くことを条件に、きび団子を分け与え、仲間を増やしていく。

 鬼ヶ島で酒盛りをしている鬼たちを見るや、桃太郎一向は、奇襲をかけて鬼たちを殲滅する。こうして桃太郎と三匹の家来たちは大勝利を収めた。鬼が悪行を続けて稼いだ宝を持ち帰って翁と媼を驚かせるのだ。


 2015年9月19日、ラグビー日本代表が南アフリカに劇的な勝利を収めて、日本中を感動させたのは記憶に新しい。とりわけ話題になったのは、五郎丸選手の「五郎丸ボーズ」と呼ばれるプレースキックを蹴る際の独特なポーズだろう。これは毎回キックを蹴る前に行われ、「ルーティンワーク」となっている。

 スポーツ競技で「ルーティンワーク」を行うのは、それほど珍しいものではなくて、メジャーリーグのイチロー選手も、打席に入る前に必ず決まったストレッチをこなし、打席に入ってからは、右手で持ったバットを肩口付近まで上げて、ピッチャーとの呼吸を合わせる。「ルーティンワーク」を取り入れる理由は数多く考えられるが、身体や精神の状態を出来るだけ同水準に保つためだろう。

 しかし「ルーティンワーク」はスポーツの世界に留まらず、一般の仕事の場面でも見られる。これが取り入れられるのは、仕事上、決まった作業を日々重ねる必要があることも考えられるが、人間は繰り返し同一の作業をこなすことにより、ミスを軽減できるからだ。これは時代の進歩に関係なく、ある一定程度存在するのは、翁と媼が柴刈りと洗濯を日々こなしていることからも明らかだろう。


 ただ近年企業では、この「ルーティンワーク」に着目して、コスト削減を目指している。例えば、外資系企業では、この「ルーティンワーク」をわざわざ賃金が高い日本人に実行させるのではなく、インドや香港といった費用対効果が高い地域に移転を試みている。こうすることで、仮に日本人が10%、移転先が15%の割合でミスをおかしたとしても、その費用の割合で収益性が高いと企業が考えるのであれば、それは価値がある行為といえる。

 日本企業でも、テクノロジーを駆使して、初期投資を行うことで、人を介在させることなく、「ルーティンワーク」を処理しようとしている。こうした企業行動が加速すれば、間違いなく生産性は上昇することになる。しかし、そういった形の生産性向上のために、これから先は、それほど労働水準や所得は伸びることはなくなるだろう。こうした時代環境化で必要となるものは、移転先の人間の監視、または自動化されてしまった仕事の不具合をいち早くキャッチできうるだけの高水準のスキルと経験である。


 鬼ヶ島で鬼を退治して家に戻った桃太郎も、その後特段することがなく、翁と柴刈りに向かうかもしれないが、鬼退治のことが広く知れ渡り、多くの若者が入村してくることで、伐採器具や流通経路が開拓され、桃太郎家族は失業に追い込まれるかもしれない。しかし桃太郎には、特別な経験があって、「鬼退治列伝」などの書物を都に持ち込み、道場を開いて活躍できるかもしれないし、持ち帰った宝を投資運用しながら生きることも可能かもしれない。もしくは、力の強い鬼たちを家来にして、警備会社を創設し、一定金額の資金を徴収することもできる。それほどまでに桃太郎と三匹の家来が起こした行動は価値あるもので、誰もができえたことではないのだ。

 この厳しい環境で生き残るには、既存のフレームワークの中で、リスクを取って新規な何かを生み出すか、人よりも早くルーティンワークを見つけ出して、コストダウンする方法を見つけ、自分自身で管理監督できる方法を見出す必要があるのかもしれない。










「僕はビートルズ」を読んだ

本屋をウロウロしていたら、「僕はビートルズ」というコミックを見つけたので、手に取ってみた。昔からビートルズは好きだったし、「Yesterday」は、今でもよく聞く。内容は、よくあるタイムスリップものだった。少しあらすじを書いておくと、ビートルズのコピーバンド「ファブフォー」は、日本のビートルズバンドの聖地である六本木リボルバーと専属契約を結び、順風満帆であったが、メンバーの中心人物の一人であるレイが脱退を告げる。レイを交えた4人のラストステージの終了後、マコトは六本木の駅のホームでレイを引き留めようとするが、考えを変えないレイに激昂したマコトは、電車が入りつつあるホームでレイを突き飛ばした。腕を掴んだことで、レイ、ショウ、マコトは三人とも落ちていく。反対側にいたコンタは、唖然としながら立ち尽くしていた。


眼を覚ました時、ショウとマコトは、1961年へとタイムスリップしていた。この時代はまだビートルズがレコードデビューする前の高度成長期の日本であった。レイとコンタは不在であったが、ビートルズの曲を先んじて発表すれば、彼らが「本物」のビートルズになれると考えて、ショウを説得し、この時代の音楽の世界へと足を踏み入れる。


1961年は、何もかもが今の時代と異なり、クラブもなければ、ポップな洋楽なんてものは、存在していない。流通制度も不完全で、若者たちは、「新しい何か」に飢えていた。ぼくはここまで読んで、ふと「ゴッドファーザーⅡ」のマイケルの苦悩の一言を思い出してしまった。「父さんの時とは、時代が違う」


良くも悪くも、この時代は指標が分かりやすかった。ゴッドファーザーで考えれば、地域を支配している一人の悪玉を倒せば、自分がその場所にいける。そして流通、情報制度が発達していないため、一定の期間アービトラージを取れて、既得権益を享受できるのだ。これはまさに投資銀行の世界でもそうだが、スワップ、住宅ローンの仕組債など、次々と新しい商品を打ちだし、規制するルールが追いつかず、その一定の期間で莫大な利益をあげることができた。これもシンプルなルールの歪を利用した収益獲得方法と言えるだろう。


話を戻すと、ある日コンタ、レイと再会を果たした二人は、洋楽に親しんでいない日本人にも、英語の曲でありながら、新しい曲、スタイルで、次々と「ファブフォー」の魅力を浸透させていく。ついには、イギリスのラジオ番組でもヒットチャートに入るなど、日本から世界へと「当時」では考えられない方向からスターへの階段を駆け上がっていく。


ヒットとは裏腹に、メンバーはビートルズの活躍を壊してしまったことに苦悩する。しかし、「ぼくらが、ビートルズを演奏すれば、彼らはきっと現代では発表されない新曲を出すはず。ぼくらはそれを聞きたいんだ」と思いを一つにして、レコードを続けていく。


結局、ビートルズは、苦心の末、ファブフォーに負けない新曲を世にだして、ファブフォーは突然解散する。そして4人はそれぞれの道に進み、「その時代」で年を重ねて物語は終わる。


個人的には、最後が物足りなかった。ビートルズの完成曲を過去の時代に持っていってデビューするという大それたことをするのであれば、そのままビートルズと競うほどの自身の新曲をだすことまでしてほしかったからだ。


この世に打ち出されたあらゆるヒット商品は、すべからく、創出者の想像を絶するほどの苦労がつまったものだ。時代は、日々変化し、厳しくなっている。ネット技術の進歩によって、世界中のありとあらゆるモノにアクセスでき、情報が瞬間的に陳腐化していく中で、ルールは塗り替えられていく。その中で、ぼくらは、思考をフル回転して創造していかねばならない。それはどんな小さな作業であろうともである。


収益を得られる「一定期間」が恐ろしいほどに短くなっている現代で、ぼくらは過去のモノに時にすがり、参考にしながら、その瞬間のルールに立ち向かっていかねばならない。そんなことを思いながら、本を閉じた。そういえば、成人式か、新成人は、また無常に暴れるのかなぁ。やれやれ。



参考文献

僕はビートルズ Wiki























『千と千尋の神隠し』は何を伝えたかったのか

米国大統領選挙が終わり、アメリカ国民はオバマともう一度夢を追いかけることに決めた。オバマは1936年のフランクリン・ルーズベルト大統領以来、最も高い失業率の下で再選された。この歴史的な勝利の裏には、格差是正を求める左派の台頭があり、競争に疲れた世界各国の大きなうねりが体現される形となった。


『千と千尋の神隠し』は、いき過ぎた高度資本主意義を批判した映画として読み解くことができる。ぼくはこの映画をはじめて鑑賞したときに、宮崎駿は資本主義の世界に対してよほど嫌悪感が強いのだろうなと思ったことを確かに覚えている。たとえば、子供たちへの深い愛情にあふれた両親を描いていた、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』とは一線を画し、目には光がなく、欲望の赴くままに、千尋が制止するのも聞かず、「現金もあるし、クレジットカードだってあるのだから…」と言い、陳列されている食べ物に勝手に手をつけ、無自覚な豚に変身してしまう。


「カオナシ」は、まさに宮崎駿が資本主義世界を最大限に描き出したキャラクターだ。カオナシは食べ物を与えてくれた者に対し、砂金(ゴールド)を渡すことによってお礼をする。だけどこうした一見秩序あるように見える状態は長くは続かない。しばらくすると、カオナシ自身がコントロールを失い、無秩序に、そして無制限に食べ散らかして、湯屋という組織を混乱させるのだ。いつまでたっても満腹になることはなく、最後は大量の排泄物を垂れ流すことで冷静さを取り戻す。


この異世界はファンタジーではなかったのだ。湯屋「油屋」の経営者である湯婆婆が、資本家として労働者を搾取するような組織は、まさにカール・マルクスが著書『資本論』で警告した世界観だ。マルクス経済学においては、資本家は資本の人格化という以上の意味を持たない。生産手段と労働力を結合させることによって自己増殖する価値としての資本を形成し、資本家は両要素を結合し、剰余価値を搾取しようと意思する人格である。マルクス主義においては、「資本家=ブルジョワジー」として扱われ、とりわけこの時代では資本家は確固たる個人として明瞭に認識され、階級としての存在も認識されやすかった。だからこそ湯婆婆は、確かな個人としてその肩書きではなく、「湯婆婆」として労働者に深く認識されていたのであろうし、雇用者の「名前」という個人人格を奪い、雇用者をひとつの「労働者」として支配していたのだ。


「カオナシ」が放出した砂金に群がる多くの悲しき労働者たち、そして無尽蔵にあふれだした砂金は、いつしか価値を失い、ゴミくずとなって塵と消える。資本主義世界で増殖したマネーはまさに幻想で、労働価値を失わせているものだと伝えたかったのだろう。その証拠に千尋は、「カオナシ」が報酬として渡そうとするあらゆる財について興味を示さず、一貫して目に見える「何か」を追い続けていた。


宮崎駿は間違いなく、ファンタジーという夢のある世界を描くつもりなどなかったのだ。そこにはあくまでも資本主義世界に対する大いなる問いかけがあるだけだ。



宮崎のこうした世界観が正しいとは決して思わないけれど、現実世界でも千尋のエネルギーは増殖している。ドッド・フランク法、バーゼルⅢといった金融規制は、しきりに報酬を与えようとする「カオナシ」に対する千尋の「いらない」という言葉なのだろうし、オバマ大統領の再選は、千尋が豚になった親を正しく選択した(そこには両親は存在しないと告げた)時の湯屋の労働者の歓喜に現れている。


物語はここでハッピーエンドを向かえ、千尋親子は異世界から現実世界へと戻るわけだけど、資本家としての権威を失い、財の指標を失った湯屋は、果たして組織として機能しているのだろうか。ひょっとしたらハクが湯婆婆に代わり、新たな資本家となっているのかもしれないし、「アラブの春」と呼ばれた民主化運動の跡地のように、民衆の動乱が起きているかもしれない。はたまた交換財を失った労働者は生きる術を失い、途方にくれているかもしれない。


現実世界に戻った千尋は成長し、湯屋以上に複雑化した世界に同じような矛盾を覚え、その純粋なまなこで世を見つめ、戦いを挑むのだろうか。そして「カオナシ」が労働者の飽くなき欲望に必死に応えようとした姿は本当に「悪」だったのだろうか。この大いなる問いかけにぼくはまだ答えを見出せずにいる。



参考文献

資本論 第1巻 Ⅰ (日経BPクラシックス)

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

セイヴィング キャピタリズム


















あなたはそれでも王を目指すのか―個人と組織の間

スペインには「A rey muerto, rey puesto(王が死んで、代わりの王がきた)」ということわざがある。これは誰かから重宝されていたり、どれだけ偉大な人だと言われていたりしても、死んで代わりがいないということはあまりない――つまりどんな物事でも、価値が絶対的なものはないし、代わりはいつでも存在するという意味だ。


サンフランシスコ・ジャイアンツ、読売巨人軍と、日米ともに「ジャイアンツ」が長いペナントレースを制し、新たな歴史の1ページにその名を刻んだ。プロ野球選手にとって、チームを優勝に導く原動力になることは、選手生命をつなぎ止める最大の方法であるに違いない。スポーツ界は新陳代謝が激しく、人材の流動性は、一般企業と比較にならない。


読売巨人、ヤンキースで輝かしい成績を残した松井秀喜はチームを解雇され、イチローはヤンキースに電撃移籍を果たし、金本知憲が現役を引退した。この世界はシンプルにできていて、とても残酷だ。多くのファンは、選手のひとつひとつのプレーに魅了され、数字を追いかけている。マスメディアは選手がひとたび打てなくなったり、勝ち星をあげられなくなったりすると、とたんに興味の対象から除外し、記事に掲載しないばかりか、インタビューすらしなくなる。


欧州統計局は、EU27カ国の失業者数が8月には4万9000人増加して、合計2546万6000人に達したと発表した。失業率はEU27カ国で10.5%、ユーロ圏で11.4%とそれぞれ過去最高に達している。とりわけ経済危機が深刻なギリシャでは、24.4%、スペインでは25.2%と、数字上では約4人に1人が失業している。さらに若年層(25歳以下)の失業率は、それぞれ55.4%、52.9%で、雇用市場の構造的問題が浮き彫りとなっているのが現状だ。さらにユーロ圏では労働力余剰が拡大しているにも関わらず、賃金コスト上昇圧力は弱まっていない。こうしたことから金融危機や欧州債務危機により、若年層や低スキル労働者が最も大きな打撃をうけていることを伺い知ることができる。


だけど、経済危機が深刻な地域をはじめ、各国は抜本的な構造改革を実行する余裕がないのが現状であり、「財政引き締め策の罠」にはまるリスクが高まってきている。欧州自動車工業会(ACEA)が16日に発表した9月の新車販売台数は113万台と、前年同月の127万台から11%減少、12ヶ月連続の前年割れで、2010年10月以来の大幅減となり、需要減少が深刻な問題となっている。こうした需要減少により、あらゆる業種で欧州市場向けの雇用削減圧力は高まり、雇用市場を逼迫している。


世界的な低成長のうねりは、当然日本にも押し寄せていて、日銀が発表した10月のさくらレポートによると、東北を除く8地域の景気判断が下方修正された。さらにトヨタ自動車は、2012年の世界生産台数が従来計画の1000万台を下回る見通しを発表し、製造業における人材雇用の面でも警戒感が強まってきている。


こうした市場情勢をみて、一部の人は、しきりに「価値ある個人」になる必要性を説いている。ジョック・ヤングは著書「後期近代の眩暈」において、先進諸国における大きな社会変化と構造的問題を鋭い視点で描きだした。いまや「アンダークラス(下層)」に属する人々とそうではない人々の境界は曖昧になっていて、包摂と排除、吸収と排斥の両方が同時に起きているという。彼はこれを「過剰包摂型社会」と呼び警鐘を鳴らしたのだ。ぼくらの世界は、性別、年齢、人種といったあらゆるひとびとに開かれているように見えるけれど、実はそこで利益を享受できるのは、ごく限られた層に属する人だけであり、国民の半数以上が属する中産階級でさえも不安にさいなまれている。アンダークラスのイメージが、個人の失敗とコミュニティ破綻の物語を象徴するものであるとすると、「セレブリティ(特権階級)」のイメージは、夢の実現や個人の成功、理想的なコミュニティ、美しいライフスタイルの物語を伝達している。こうした二項対立構造が境界をぼやかし、社会の不平等や格差を覆い隠しているのだという。ここには圧倒的な財と地位が、セレブリティに集中するということが自然なことであるかのような錯覚を引き起こしていて、実に眩暈がするような社会を作り出しているのだそうだ。だからこそ、人は個人主義にひた走るインセンティブを得て、成功しても、失敗しても、それは自己実現における報酬であり、罰則であるという理解が社会に浸透する。



これは確かに金融危機前の社会ではそうであったに違いない。だからこそオマハの賢人バフェットは、年収100万ドル以上の富裕層に対する課税をうったえたのであろうし、人々は、「Too big Too fail(大きすぎてつぶせない)」と揶揄されたウォール街の巨大銀行を必要に非難し、ボルカー・ルールをはじめとした金融機関に対する規制強化を支持しているのだろう。


しかしながら、社会はまさにヤングが描いた時代からさらに大きな変化が起きており、ほんの一部の限られた個人が特権を得られるチャンスもなくなってしまったのだ。こんなときに「個人になること」はリスクを必要以上に抱えることになりえるし、時代錯誤と言わざるをえない。これからはまさに組織の時代であり、組織で生き残る術を開拓していかねばならないのだ。もちろん多くの企業組織でリストラが加速している現状を見れば分かるように、単純に組織に属することが、この問題の正しい解でないことは疑いようのない事実だ。だからこそ、組織の中で強い個人になることを目指し、顧客やチームとのリレーションを密にすることが求められるだろう。


そう、まさにぼくたちは時代の過渡期に生きているのだ。まだ個人の時代であると考え「価値ある個人」を目指すのもいいだろう。ただ悲しいかな、この規制や規則でがんじがらめになり、世界的に低成長が長期化する世の中は、個人でのりきれるほど単純にはできていない。だっていついかなるときも王の代わりはいるのだから。


参考文献

後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ

リキッド・モダニティ―液状化する社会

ジブリ映画から見えてくる若者の世界観 リベラル日誌