社会構造が危機に瀕した中での権力闘争に目を向けると
東日本大震災からちょうど1年が経つ11日、様々な国と地域で追悼集会が営まれ、多くの人々が黙祷を捧げながら犠牲者の冥福を祈っている。こうした中、3月9日の東京株式市場では日経平均株価が一時、約7ヶ月ぶりに1万円を回復した。世界的な金融緩和や円高が一服したことを背景として、投資家が若干市場環境を好感したことが要因として考えられるけれど、欧州債務問題の行く末は未だに不透明で、今後の展開に予断を許さない状況だ。多くの企業は、大量のリストラ策を打ち出したり、一部の機能を海外に移転したりと、生き残りをかけて必死に戦っている。
連邦破産法11条の適用申請をして破綻してから3年半、かつての米投資銀行リーマン・ブラザーズは6日、破産法手続きから脱却したと発表した。米国の金融不安の只中で史上最大の破産を遂げて金融危機に火をつけて以来、リーマンは訴訟対応の弁護士や事業整理のコンサルタントに16億ドル近い費用をかけてきたと、CNNは報じている。
世界金融危機に端を発した大不況によって、世界的に社会システムの仕組みが大きく変わりつつある。ウォール街バッシングは未だにその熱を冷ますことなく、米政府は金融業界に大きなメスを入れようと改革に必死だ。今回の改革の中心的な狙いは、金融危機の再発を防ぐことだ。なぜなら金融危機の影響は、バブル崩壊や巨額の損失を引き起こす取引よりも甚大だからだ。バブル崩壊や投資の損は避けられないものだし、ある意味では望ましい。損失を被る事がなければ、投資家は無謀な取引に手を染めるようになる。だけど紐をきつく締めすぎて、自己資本比率などを強化すれば、融資が冷え込み、中長期的には雇用や消費に大きく影響することになるだろう。
今回の金融危機は、リスクの過小評価が最大の要因であって、金融業界内の過当競争が直接的な問題ではない。だからウォール街を批判して、格差是正を求めるような運動には、ほとほとあきれるばかりか、間違っている。政治と金融の間に巨額のマネーが蔓延っていたし、実際に政府が市場に介入し、リスク評価にゆがみを生じさせたのだ。これまでの競争を促す法案やシステムにも一定の評価は出来る。金融イノベーションが起きて、クレジットカード、金利スワップ、インデックスファンド、上場投資ファンド(ETF)などが次々と誕生し、世の中の経済システムを活性化させた。確かにクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)、債務担保証券(CDO)、その他のデリバティブ証券などの金融商品の一部は発明されるべきではなかったかもしれないけれど、どんなことでもそうであるように、イノベーションには良いものと悪いものがある。それを適切に取捨選択し、良いものを残していくことが必要だろう。世間の行き過ぎた規制論には嫌気がさすばかりか、経済そのものを収縮させ、製造業や他の業種にまで影響をきたし、人々を苦しめるはずだ。
どの社会においても、個人はある社会集団、社会層に属している。とりわけ日本においては、「タテ」の関係が重視されていて、それは企業という社会集団において、同程度の実力や能力を有していたとしても、年齢、入社年次、勤続期間の長短によって差が生じ、序列があることからも明らかだ。組織として年功序列制の長所は、いったん雇用関係が設定されれば、その後、何らの変更・是正の処置を取る必要がないというシステマティックな運営にある。もちろん、この方法を取る前提には、個人の能力差というものをミニマムに考えるわけで、それは、せいぜい学歴差といった大雑把な枠によるわけである。
かたや欧米で採用されているような能力主義の場合は、個々人の能力差を克明に判定する必要があり、それに対応するメカニズムが当然要求される。だから多くの欧米企業では360度評価を始めとする、上司が部下を評価するだけでなく、部下が上司を評価したり、さらには他部署で働く同僚の評価までしないとならないようなシステムが存在するのだ。
欧米の長期的な規制緩和の波は、金融をはじめ多くのビジネス分野においてイノベーションを起こした。高度化したテクノロジーは相互連関機能をさらに強化し、世界中で同じような流れを引き起こしたのだ。その為に、新たな商品やツールは次々と誕生し、社会構造を変化される形で、より一層個人の力を伸ばしてきた。つまり熟練労働者の経験値や能力を押し下げ、個々人の能力差を明確に浮き彫りにしてきたのだ。だからこそ、著名人は口を揃えて「能力のコモディティ化」を防ぐことが勝ち組になるための必須のアイテムであるかのようにうったえてきたのだ。
だけど金融危機を発端として、景気減速や規制強化が起こると、コモディティ化していない新しい商品、金融で考えるならば、不動産証券化ビジネスをはじめとした高リスクなデリバティブ事業から順に必要とされなくなったのだ。言うなれば誰でも判断可能で、経験値こそが理解を助けるような商品やツールが好まれるようになり、時代が戻りつつあるということだ。日本は「ヨコ」社会になりつつあったものが、また「タテ」社会に戻ろうとしているのだろう。労働組合は既得権を守るために奔走し、派遣切りに口を噤むばかりか、自らの賃上げを要求している。企業悪玉論は影をひそめ、学生の内定率の低さを取上げたニュースばかりが一人歩きしている。
このような環境においては、権力者や既得権者にとって、まぎれもなく有利な環境で、物事を決定しやすい。こうした中、ヒーローのごとく現れたのが橋下徹だ。この社会的変化の歪みの中で、公共セクターに対して民衆の権力やカネを牛耳る「既得権者」というレッテルをはり、官僚に対しては「エリートの独善」として反エリートを掲げながら、民衆をリードしていく論理的飛躍を行なっている。
世界的な緩和の流れの中で少しばかり味わった「ヨコ」社会という民衆の憧れと、過去の「タテ」社会へ回帰することへの不安や不満を巧みに利用して、橋本徹は改革に突き進んでいる。だけど、果たして米国が一定の過ちを認めた「ヨコ」社会的システムの中の短所を解決した上での改革を実行しているのだろうか。これには少々疑問を感じる。
少し前から橋下徹を中心に、所定の学力に到達しない生徒はたとえ小中学生でも留年や科目の再履修をさせるべきだという案が議論されている。大阪の学力水準の向上や競争力強化を目標に掲げた政策であろうけれども、留年が横行することになれば、それを支えるための受け皿となるシステムや組織を作らなければならず、社会的なコストが増加するばかりか、新卒一括採用を就職システムとして採用している日本においては、さらに社会的格差を助長することになりかねない。
また「ダメな高校は公立、私立とも撤退してもらう」として高校改革にも乗り出している。2009年度の府内の高校授業料は公立の年間14万4千円に対し、私立は同平均55万円だ。鳩山政権によって公立の授業料が無償化されてきたけれど、橋下前知事は、これに併せて、府内在住の私立高校生について、年収350万円未満の世帯を無償化できるように府独自に助成してきた。11年度には、府内の私立高校生の半分をカバーするとみられる年収680万円程度の世帯まで助成を広げる方針であった。確かに公立と私立の授業料の差が縮まれば、生徒や保護者の家庭の経済事情に関わらず、自由に学校を選べるようになるだろう。だけど、これは正しい競争と言えるのだろうか。当然私立校においては、授業料が高い分、インフラ設備も整えられ、教師に対し公立校よりも一定水準以上の給与を付与することができるために、優秀な人材を雇用できるだろう。しかしながら、公立校では授業料が安い分、同程度の私立校と同じだけの教育環境を整える事は難しい。まるで、金融危機が起きた政府が市場に介入し、淘汰競争や市場システムを捻じ曲げた苦い歴史をなぞっているように感じる。
競争と淘汰は必要不可欠で無理にさけるべきではない。資本主義システムの中では、そうした仕組みが経済を活性化させ成長促進のエネルギーになるからだ。しかしながら、「公平で開かれた市場環境」の存在が前提条件としてあり、歪んだ競争には規制をかけるべきであろう。
大阪市交通局は、民間バス会社より高額と指摘されている市営バス運転手の年収(平均739万円)について、来年度から4割程度削減する方針を固めた。これも大阪市の橋下徹市長の「民間並みに合わせる」との方針に基づいたもので、大手私鉄系バス会社の最低水準に引き下げるものだ。赤字会社が民間平均の給与をもらっていることについては、確かに「もらいすぎ」であり、ここにメスを入れたことについては一定の評価はできる。しかしながら、急激な改革により、そうした社会的組織を見越して入社した社員は、恐らく教育や住宅ローンでがんじがらめになるだろう。公共セクターを抵抗勢力とした戦い方は実に見事で、民衆を惹きつける鮮やかな戦略であり、評価を得やすい。
「タテ」社会の構造的欠陥をいち早く見抜き、そして「ヨコ」社会への魅力を民衆に説いている橋下徹自身が、「タテ」社会の構図にはまり、ピラミッドの頂点に立つべく、国政に乗り出そうと画策している様は少々痛々しい。金融危機を引き起こした元凶としてウォール街を叩く民衆心理を利用して、金融規制を敷く欧米諸国も、年功序列や終身雇用といった制度的な問題も背景としながら長らく「タテ」社会という構造を取ってきた日本の社会的変化に対する不満分子を徹底的に洗い出し、タテの頂点に位置するように見える公共セクターを抵抗勢力として戦う橋下徹も市場を無理に歪める危険性を孕んでいる。
人間という知恵、欲望など多面的な能力を持つ動物が生活する社会において、合理的で無駄のない社会を作り上げるのは、現実的に不可能だ。だけど市場の歪みを最小限に押さえ、政府やそれと類似するような権力を排除し、自然淘汰を促すような競争システムを作成することは必要不可欠であろう。誰しも人は不合理や不条理によって恩恵を受けている面はあるし、それがなくなることをひどく恐れている。だから改革を一側面で判断したり、評価するのではなく、多面的に考えなければいけない。それこそが、これからの社会で求められていることなのかもしれない。
参考文献
リベラル日誌 あなたも不合理な世界の恩恵を受けている1人かもしれない