勝負にばかりこだわる人生は虚しいと思います。 | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

最近、夏と呼んでよいような季節が異様に長くなっているように思います。

まだ5月というのに、日中は初夏のような暑さで、長袖を着ていると日焼け防止にはなるものの、とくに自転車等に乗っていると、かなり体温が高くなってしまいます。

昔は衣替えといえば6月1日と相場が決まっていたのに。

陽射しが強いとアスファルトの上はどんどん気温が上昇し、対して日影部分は涼しくて、ブロンプトンでも陽の当たらない場所を選んで走るようにしています。

私は大通りを避けて路地裏を走ることに徹しているので、まだ日影はあるのですが、もっと夏に近づくと、日中の太陽はもっと高い位置に来てしまうので、路地でも日影が少なくなることを知っています。

でも、これって日の当たらない人生、つまり裏街道まっしぐらみたいで嫌だなぁと思いつつ、人生は陽の当たる当たらないではない、要するに、陰に居ても人間を超えた力の臨在と介助を感じているかいないかだとも思うのです。

私の嫌いなフレーズに、「勝ち組、負け組」というのがあるのですが、何に対して勝ったのか、負けたのかも含めて、こういうことで人生を分けて考える人の思考の人はナンセンスだと思います。

世間を観察していればわかるように、勝ち組だと思っていたら明日負け組に転落するとか、自分で自分を勝ち組と思っていたら、周囲の人はそれを勝利だなどとは微塵も思っていなかったとか、最後は勝ったのか負けたのかも認識できなくなり、ただ生きる屍の如く過ごすとか、何だか勘違い人生の典型のように思えてくるのです。

いくら健康で財産に恵まれ、名誉もある人生だったとしても、最後の数年、数カ月でも、病気になり、誰からも相手にされず、ただ感情のままに生きるだけの人生を最後に死んでゆくとしたら、たとえそれまでが日の当たらなかった人生でも、最後の日まで自分を失わず、身体も動き、孤独死を迎えることになったとしても、せめて人間を超えた存在に対する謝意と希望の言葉を残して死の床に就きたい、そんな風に思うのです。

そういえば、トルストイの著作に『光あるうちに光の中を歩め』という作品がありました。

黒澤明監督の映画『生きる』のモチーフにもなった小説で、高校生の頃に読みましたが、たしか「回心」がテーマだったと思います。

わたしはこの頃、中年期をすぎてもなお「勝ち負け」にこだわったままのひとには、はやくに「生き死に」の問題であることに気付いたらいいのにと感じます。

ある戦争映画で、停戦交渉に臨んだ仲介役の医師が、勝ちに奢って「こちらは勝利に向って邁進している最中で、停戦などもってのほかだ」と突っぱねる敵将に向ってこんな言葉をかける場面がありました。

”Win or lose is not our concern, live or dead is.”

(勝ち負けの問題ではありません。生きるか死ぬかの問題なのです)

なんだか現在も喫緊の課題としてこんな議論をしているところが世界にはありそうですが、これって平時においても大切な言葉だと私は思います。

病者に対して「あなたがたは人生の敗残者なのだから、二度と日の当たる場所に出てきてはならない」などと平然と言い放つ教育者や政治家に対して、”Win or lose is not our concern, live or dead is.”といい返したくなったことがあります。

相手は明らかに、自分が人生の勝利者だと思い込み、その立場にたっていました。

しかしながら、何をもって彼らは敗者よばわりするのでしょうか。

その人たちは、管理者として君臨する学校において、「地域社会に有為な人材を輩出しています」と誇らしげに明記しておりましたが、では無為な人材に対してはどういう考えでいるのでしょうか。

そもそも、何を以て有為、無為を分けるのでしょうか。

或いはその政治家は、全く関係のない人たちを攻撃するために、病者との関係を持ち出して批判を繰り返していました。

一方では当時外国に派遣される自衛隊隊員たちを、敬意をもって基地の門前に見送りながら。

経済的に役に立てば有為、国を守るための力を持っている限り意味があるなどと考えたら、自分が年老いてその価値が無くなったら、無為の人に堕ちるということなのでしょうか。

生まれつきに障害をもって、人並みの力が発揮できない人は、生まれてきてはならなかった命だとでもいう気なのでしょうか。

それではナチスばりの優生思想となんら変わるところがないし、障碍者には生きる権利が無いといって事件を起こした人を云々いう資格もありません。

そんなことを平然と発言したり文字に書いたり、議会で答弁する人間は、たとえ学問的な業績を残した教育者であろうと人望の厚い政治家であろうと、本人は弱者を守っていると思い込んでいて、その実、彼の言う「負け組」の人権を蹂躙しているとは露ほどにも気がついていないわけで、職業が何々家である前に、人としてどうなのかと思ってしまいます。

いわゆる、負け組には何を言っても構わないといういじめの論理です。

でも、それは自分を神の位置に置く傲慢な考えにほかなりません。

おそらく、そういう人たちは人生の最後が近づいてもなお「勝ち負け」にこだわり続けたまま、たとえ正気のうちには転落を免れたとしても、年をとって衰え、徐々に失われてゆく自己の健康や財力、能力に向き合うことに耐えられず、少しずつ自分を失うことによってのみ人生を幕引きをはかろうとするのではないでしょうか。

それはまさしく、「勝敗」の問題ではなく、「生き死に」の問題です。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」という聖書の言葉は、まさにこういう傾向にある人間に対する警句だと感じます。

トルストイの小説の表題は、イエスの去り際に残した次の言葉からの引用です。

『イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさない。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光あるうちに、光を信じなさい。」』(ヨハネによる福音書12章35-36節)

私には、この聖句は『青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変らないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻ってこないうちに。』(コレヘトの言葉12章1-2節)と対になっているように思います。

若くて柔軟性のあるうちに、たとえ信じられなかったのしても、創造主に心を留めることがあって、そして人生の夕暮れを意識したときに、自分が闇の中にいると感じたらそこから出ようとするのか、それともそこにどっぷりと浸かったまま、周囲に毒を吐き続けながら自分を失ってゆく人生を選ぶのか。

私はこの年齢になってつくづく、若い時分に熱心に聖書をはじめとする本を読んでいて良かったと感じています。

そして、ある作家から願われた「よい一生を生きてください」ということばとともに与えられた聖句の意味を一生の宿題として与えられた人生で良かったと思っています。

もしも私に挫折という経験がなく、それをきっかけにして病者に対して連帯感を持ち、思いを馳せることのない人生であったら、とんでもなく勘違いして、「よい一生とは何か」という宿題をすっかり忘れ、光が失われてからひとり後悔して孤独の中に過ごす老後が待っていたと思うので。

なお、孤独というのは独りでいるときよりも、大勢でいる時の方に感じるものです。

独りでいる人でも、何者かとつながっていると確信している人、創造主は決してお前を独りにはしておかないとリアルに実感している人間は、「さびしい」ということばの意味が、大勢で居ることが、集団の中にいることが賑やかで孤独ではないことの証明であると勘違いしている人とは全く違います。

だから、さびしいさびしいと嘆く人たち、或いは集団に属していることで孤独ではないと思いこもうとしている人たちをみると、あのようにはなりたくないと思うのです。

複数人で乗ることを前提とするマイカーをやめて、自転車にスイッチして、その自転車に乗って様々な場所へ行き、色々な人と触れ合い、色々なことを考える、自分には集団で行動するよりも、その方があっていると感じます。