58歳、暮らしの日記。出来事、健康、レシピ、アイデア、そして家族の記録など、ひたすら書き残す雑記帳的ワンウェイブログです。
治療から5年半、経過観察もゆるりと。2024年最初の夫の経過観察日で病院へ。Igm値が1552、その他、気になる項目の動きも無く、穏やかに新しい年が始まった。担当医からも「不思議ですね。下がりましたね。安定している様なので、次の検査は少し空けましょうか」と。しかし夫は、お構いなしに翌月のスケジュールを告げるので「せっかくおっしゃってくださるのだから、間をおけば?」と、キツめに当たってしまった。夫の不安もわかる。次の悪化の始まりが、いつ訪れるのか判らないのが怖い。がん宣告はそれほど人の心に傷を負わせる。だから、間を置くことの方がずっと怖い。それでも、不必要な検査、診察は医療関係者の負担につながるし、保険にも負担をかける。「それより、内臓がノーマークなので、健康診断で超音波検査を追加するなど、違う部分もきちんと診てもらった方が良いですよ」と、アドバイスをもらった。がんを宣告されると、その事ばかりに気を取られ、他の病気を見過ごしてかねない「あるある」案件。でも、他を検査して、更なる病気が見つかりそうで怖い年頃。世の高齢者が、なんであんなに長生きできるのか、不思議でならない今日この頃。
菜園もうっすらと雪化粧。初雪でした。今日は寒いと思ったら、思わぬところで雪。暖冬だと思っていたのに雪が降るとは。菜園にも雪がうっすら。初雪菜園のほうれん草にも。庭のスノードロップにも。そして、トイレで育てている水栽培のヒアシンンスは白、ちょこんと顔がのぞいている。
オーディブル、お試し中。オーディブルの1ヶ月無料体験を始めた。理由は、本が読みたいのに時間がない事や、夜、ベッドで読むと寝落ちしてしまい、結局、たいして読めずに終わっている事が多くなって来たため。&朗読を聴くのが好きだから。早速、料理をしながらオーディブる。コレはいい。タイトルを探ると、へえ。高橋一世さんや、風間杜夫さんなど、有名な俳優が朗読しているものもあるのね。今回選んだタイトルは「バカの壁」。ベストセラーになった頃から、随分経つけれど、今読んでも新鮮だろうか。優しい声、無駄のないフラットな朗読で、作業をしながら、内容がスイスイ入る。特に、ひたすら何かを包丁で刻むような、もしくは、チクチクと縫い物など単調な手作業の、ながら聞きに向いている。気持ちよく、有効かつ心地よい時間が流れる。しかし、間もなくしてこの幸せな時間が途切れた。ウォーキングから娘が帰って来て、やれ、暑い、暑い、とかやれ、喉が渇いた、とかあんな事があった、とか。冷蔵庫がバタン、とか。人がひとり現れただけで、これほど、物音が多いとは!こちらのお伺いも立てずに、いきなり入ってきて勝手に会話を始めると、音楽と違って朗読は、まったく聴こえず、内容が頭に入って来ず。快適なオーディブル生活にも弱点が。誰もいなくなって、静かなひとり時間が増えたら、きっと良い。家族が減って寂しいなどと嘆くこと勿れ。新しいことがゆっくり出来ると、素敵な人生のお供になる気がする。とりあえず、始めたオーディブル。しばらく、続けてみる。お気に入りのグラススピーカーで聴いている。
今年は少し遅れて1月4日に初詣。毎年、夜中の年越しに出掛けていた初詣。今年、なぜかその気力が湧かずに家にこもった大晦日。親戚付き合いが苦手な自分には、コロナ明けの新年会が重荷で、それがやっと終わった4日、初詣に出かける気持ちになって、ゆるゆると出かけて行った。ごく近所にあるこの神社は、とても小さなものだけれど、江戸時代からあると云う。素朴なのにすっきりとした空気が漂うお気に入りの神社で、今年は出かけるのが遅くなり申し訳なく思う。長い階段を登って境内に辿り着くと、どこからともなく大きな風が吹き、鬱蒼とした木々がざわっと揺れてその隙間から明るい空が見えた。とてもドラマチック。夜訪れる時には無い景色に見とれつつ、見えない力に招かれて、癒されている気分になった。今年は、年始から辛い出来事が続いた。能登の地震、羽田空港の衝突事故。心の痛み、動揺がずっと続いている。自分の事では無いからと、簡単に手放せる事では無い。自分が、自分たちが幸せになるための祈りを失った新年。何も言葉が浮かばないまま、鎮魂と救済と、平穏な時間への想いで胸いっぱいに。自分の心が定まらずここに来たから、もう今年はこれで精一杯。ごめんね、駒さん。
元旦は北陸で地震、翌日は羽田空港で事故が発生。犠牲者が出るなど、心が痛む新年の始まりでした。コロナ明けぶりに親戚がやって来ると言うので、重い気分で迎えた正月。誰も来ない、家族だけで過ごした静かな正月はあまりに素敵だった。ゆっくり起きて、自分の好きなおせちや、正月料理は、好きな時間に好きなだけ食べて過ごし、ゴロゴロとしたり、ゆるゆる散歩をしたり。あれを経験してしまうと、コレに戻るのが辛い。それでも年末はデパートへ行き、あれこれ材料を買い込んだ。それが、結構な値段で出費が痛い。自分たちが食べたいものを見つけても我慢。まずは、皆に振る舞うための食材が優先か。大晦日は、恒例のおせち作り。義父がテレビの懐メロを見て、私は演歌を聴きながら出汁を取る。煮物を作り、義母は黒豆を炊く。娘はいつも、野菜やこんにゃくの飾り切りをやってくれていたけれど、結婚してイギリスに渡れば、これで最後か。三世代で立つ台所、おせち作りも思い出に。元旦はとりあえずゆっくり目に過ごし、翌日二日に新年会。テーブルは家中の椅子を並べてもゲストでいっぱい。義母と私は終日座れず、立ちっぱなしでお給仕。ゲストが笑顔で帰って行くと、まあ、これはこれで良かったかなと思うけれど、いよいよ義母も高齢で台所仕事も辛そう。私も年々、大行事は疲れてしまい、娘も遠方に嫁に行ってしまったとなれば、正月に戻って来るのも難しかろう...。娘無しでは、義弟家族と義父母のためだけに、いつまで、この顔合わせ会の賄いを続けるべきか考えてしまう。あと何年やればいい?娘の結婚を機に、年賀状の「卒業」の如く、長男家での正月の顔合わせの卒業宣言しようかな。来年以降は、私などより若い次男や三男の家でやってもらうのはどうだろう。そして私と夫は、正月は娘を訪ねてイギリスへ。ここから逃げてしまうと言う手もあるか。そんな事を考えつつ、それでも、笑顔で終わって何よりと安堵。これは、しあわせな事なのだと言い聞かせる。残ったおせちをつまみながら、ぬる燗でお疲れ様会。自分のための取っておきの酒器は、羽田空港から飛び立って、福井、山代、能登を旅した時に買った九谷焼。これは偶然。でも、込み上げる思い。一日も早く、安心して暮らせる日に戻れますように。今はただ、そう祈るばかり。
年末ギリギリ、家族で大掃除をしました。猫は居場所が無くなり、戸惑っているようです。28日、無事仕事納め。29日、娘は外出、夫と私は菜園仕事納め。そして30日、全員揃ったところで、駆け込みの大掃除をして、花や正月飾りを飾った。今年は大きな変化の年で、娘の結婚式が終わった秋から疲れが出て、クリスマスも正月も最小限、そんな気持ちでいたけれど、掃除をして、それなりに過ごすと気持ちが整う感じがちゃんとした。掃除をしながら一年を振り返る。一月 昨年秋に父が亡くなり、喪に服した新年。思い返すと、「あの静かな元旦、三が日は最高だった」と、同居の義母がつぶやく。父亡き後の母の行き先が決まる。認知症の症状が現れて、ひとり暮らしは困難と医師に告げられ、兄、同居に向けてリフォーム開始。二月 娘の結婚宣言。イギリス生活時代からお付き合いが続いたボーイフレンドと、コロナを越えて婚約へ。日本で暮らす予定が、仕事の都合でイギリスで暮らす事になり、私にとっては思わぬ人生の番狂せ、老後計画総崩れ?で精神的に動揺の2月。三月 娘の渡英手続きとイギリスでの結婚式に向けて、準備に進退を繰り返す。母、兄の家に引っ越す四月 ちょっと休憩の四月。娘の結婚式で忙しくなる秋を前に、自分メンテナンスをやっておく。年一の健康診断等は冬なので、春は歯科、眼科でチェックとケアに集中。五月介護離職し、父が亡くなり心が空っぽ。娘も結婚して遠くへ行く。そんな事を考えていると、突如、ムラムラと仕事欲が沸く。でも、もう激務は勘弁。年齢的にも再就職は難しい。自由でゆったり過ごす時間もあり、適度に休暇も許されて、社会ともしっかり関わっていけるような、パート仕事を探し始める。人生計画では、娘の結婚式が終わってから、2024年にゆっくり仕事先を探すつもりが、なぜか思い立ってこの時期に。頭じゃなく、体が動き出す感覚が止まらない。でも、それが動き出すタイミングで、縁が呼んでいる時なのだと思う。六月 小学校放課後活動の支援員として、新しい生活が始まった。 最後の仕事は自分の為ではなく、誰かのために。父の介護を通じて思い続けた願いが叶った。若く、現役で働く世代や、その子供たちが安心して過ごせる時間、その一助になれたら。とてもやり甲斐を感じる。 七月 オンラインで打ち合わせを続けた、娘の結婚式のプランニングがほぼ整う。航空券の手配、宿泊先なども具体的に。費用も見え始めると、円安の煽りに泣く。すべてが、倍の値段という感覚。今後、娘を訪ねていくためにも、やっぱり働かないと!健康と経済は、老いの肝か。八月夫の血液がんの経過観察、再び悪化傾向の疑いに焦り。 支援員のお仕事、初の夏休みを経験。終日、子供たちと過ごす夏。エネルギーに圧倒されつつも充実感。たくさんの勇気を子供たちがくれている。子供たちの笑顔が消えない世界を作り続けなきゃ。それは大人の責任だとしみじみ。九月娘が結婚式に向けてひと足先に渡英。夫の体調も無事安定し安堵。2週間遅れで私たちもイギリスへ。今回は打ち合わせと両家顔合わせのため。なのに、先方家族がまさかのコロナ罹患で大波乱。それでも、無事に下見や打ち合わせが進み帰国。十月 結婚式のために再渡英。様々なトラブル発生も乗り越えて、心から満足のいく結婚式に。一生の思い出。十一月 娘がイギリス永住権取得に向けて、結婚式後に帰国。戸籍や姓の変更、銀行解約手続きなどを済ませ、ビザがおりるまで再び一緒の生活に。結婚したはずの娘が、毎日ここにいる。これは、結構重荷でめんどくさい。十二月 一年の疲れが出て家が荒れる。仕事は頑張りどきで、手は抜けない。娘はまだまだビザ待ちで、家の整理がはかどらず。それで、家は掃除が行き届かず、クリスマス準備もいつもの様にはできず、あっという間に大晦日が目の前に。それでも、いいか。離職や介護、父が亡くなった波乱の3年の大殺界。思えばブイブイだった殺界前までの自分。その後は、常に逆風で心が折れそうな日々。睡眠削って、運動不足で尿管結石になり、血尿出しても働いて、父や義父の診察付き添いではラップトップ携帯で仕事をしながら順番待ち。時間がかかるとイライラが止まらなかった。それでも、それが当たり前だと自己満足に浸っていた旧型人間ののち、ぜんぶ失って、父に向き合った日々。様々な事を乗り越えた3年の経験は、傷つく事が多かったけれど貴重だった。そして、今年。「種子」の一年は、盛りだくさん。新しいことが始まり、あれよあれよと動いた一年。昨年との風景の違いは劇的。ほろ苦さと、笑顔。ちょっと疲れて、でもどうにか楽しく過ごせた。これはこれで、やり切った。父がくれたご褒美だったかのよう。今年はとてもカラフルだったよ。父にそう伝えたい。義父の部屋に避難中。
日本の冬空の青は、本当に美しいなあ、と思います。今年最後の夫の経過観察日。いつものように朝一番で病院を訪れ、血液検査と尿検査を済ませて、結果が出るまでは、二人で散歩をした。年末の病院は、思いのほか静かで、結果も早く出た。Igm値は1757mgで、先月より若干下がっている。下がっていると言っても、治っているわけでも、治っていくわけでもないので、悪化の兆候ではないという認識で。娘の結婚式が無事終わり、夫も無事渡英し出席できた。もう、ただそれだけで今年は、はなまるだと思う。医師が、「一年、無事に終えて良かったですね」と、声をかけてくださった。本当に、その一言に尽きる。病院を出て目に飛び込んだのは、美しい空の青。上空高く藍に近い濃い青が、地上に近づくにつれ淡く、柔らかな色に滲んでいく。夫のがん宣告、治療、空を見上げては何度も涙を堪えて病院を出た日々。空を見上げるたびに飛び込んで来た様々な青。今日の空は、心が空っぽになるくらい透みきった冬の青。桜の蕾も春待ち。
今年のクリスマスプレゼントは何でしょうか。🎁🎁🎁滑り込みセーフで仕上げたクリスマスツリーのスカートに、クリスマスプレゼントが二つ。大人になるとサンタクロースが来るわけでもなく、お互いにリクエストしあって準備するプレゼント。今年はとても実用的に家電の箱がドン、ドン。ひとつは、娘から私へ。バルミューダのランタン。読書の時間が取れず、就寝前に読みたいけれど、電気をつけていると隣のベッドで寝ている夫が眩しそうで熟睡できないとクレームが。人の眠りを妨げず、自身も安らげて、夜中に目が覚めてトイレに行く時もお供になるランタンをリクエスト。もうひとつは、私と夫から娘へ。オムロンのカラダスキャン。正式な名称は、体重体組成計と言うらしい。長年、家族3人で体重体組成計をシェアして来たが、いよいよ娘が結婚し、体重体組成計も独立する事に。精密機器はやはり日本製で。私たちはタニタを使っているけれど、オムロンの体温計を使っている娘は、体重体組成計もオムロンにする事で、毎日の体データをひとつのアプリ上で記録できるから便利という理由でオムロンを希望。夫はあれこれ悩み過ぎて、欲しいものがクリスマスに間に合わず。クリスマスプレゼントと言えば、イギリス生活時代に聞いた牧師のメッセージを思い出す。それは、クリスマスを間近に控えた日曜の礼拝にて。「クリスマスプレゼントと言えば、戦後、私が子育てをした時代では、子どもが欲しがるものが年々大きくて派手な物になり、一体クリスマスとは何のためのものだったかと危惧しましたが、最近ではリクエストされるものが年々小さな物になり、値段だけは遥かに高価で驚くばかり。ゲーム機やら、モバイルフォンやら、小さなガジェットやら、なんとも悩ましいものです。これも、時代の変化と言うことですが、ツリーの下に置かれる物が大変味気なくなりました。時の流れに抗うことは難しいものですが、クリスマスの意味や贈り物の意味を、一年に一度のこの時期に、改めて思い出すのも良いことでしょう」そう、笑いを取りながら話していた。寒い季節に人や家族の温かさを知る素敵な季節。娘からの手渡しのクリスマスプレゼントは、これが最後になるかもしれないので、感謝と共に大切にしたいと思う。楽しかった29年間に心からありがとう。
今年は娘の結婚式という、大きなライフイベントがあったせいか、12月にはエネルギー切れで、クリスマス気分に到達できないままの前夜です。娘に「珍しいね」と、心配されるほど、12月になってもクリスマスケーキ(英国風フルーツケーキ)を仕込まず、ミンスパイも焼かず、部屋の掃除も手につかず。ようやく飾ったクリスマスツリー。気まぐれで作ったリースやスワッグで部屋を飾れど、これっぽっちもクリスマス気分になれない12月は初めてのこと。なのに、突如思い立って、クリスマスツリーの下を包む、スカートを作ることに。母が兄の家に住むことになった時に押し付けられた大量の布地。本当に思いつきで、適当に作る。あれこれ考えず、ググらず、本も探さず、過去の記憶を寄せ集めて、失敗前提、自分で考えながら作る。半径50cmの円を32等分した型を作って、家にある布地をひたすら切る。切った布地を並べて色味を考える。そして、ミシンでひたすら縫って繋いで円にして、中心に穴を開けたり、脇となる繋ぎ目をカットして巻きスカート状に開いたり、アイロン当てたり。なんとか、ツリーのスカートになりそうだという確信が持てたら、裏布、キルト芯を重ねてしつけをかける。そして、3枚一緒にミシンをかけ、バイヤステープで仕上げて出来上がり。スカートの脇になる部分にベルベットのリボンをつけて結んで止めるマント風。ツリーに出来立てのスカートをはかせると、すぐに猫がやって来て占領。キルトはフカっとして柔らかく、猫好みみたい。🎄ケーキもパイもマルドワインもロースト料理もないクリスマス。ツリーのスカートだけが謎の手作り。今年は、もうこれでいい。でも、我が家ではクリスマスは1月6日まで。ゆるっと遅れ気味のクリスマスを、正月と一緒に楽しむ事にしようと思う。あれ、ツリーの下にプレゼントが?
菜園に、白い香り水仙が咲き始めました。夫と二人で菜園にいるのは珍しい事。夫は、手が汚れるのも嫌がっていたし、しゃがむことも嫌がっていたから、土仕事なんてものは、絶対にやらないと思っていた。それが、義父の老いが顕著になって、あれほど好きだった家庭菜園をやらなくなり、ついに、菜園の大部分が空き地となり一年。嫁の私には簡単に譲れなかったのか、空き地に何かを植えたいと言っても無視されて、「辞めたわけじゃない」と、言いつつづけた日々が突如終わった。「もう、オレは畑はやらないよ。好きなように使っていいよ」と、引退宣言。それは、寂しいというか、あっけなく。やっていいと言われると、妙な罪悪感を感じたり。冬。ガーデニング愛好家には、意外と忙しい季節。来年の計画を練るとともに、仕込みが大事な時。急に言われても、漠然とアイデアも無く、家の仕事は忙しく、本気で菜園まで手が回らない。そんな事をストレスに思っていると、珍しく夫が菜園に付き合ってくれた。玉ねぎ好きの夫のために蒔いたタネが育ち、夫に植え付けを手伝ってもらったのが先月で、その様子を見に来るのが楽しみになったよう。「玉ちゃん、生きてるかな」と、時々一緒にやってくれるようになり、今日の義父の引退宣言を受けて、前向きに家庭菜園を考えてくれるようになった。理想は、この菜園を、イギリスの家庭菜園のような、見ても食べても楽しいキッチンガーデンに育てる事。それでも私の中の気持ちは晴れ晴れとはせず。老いと死の影を、自分のものとして感じることから離れられない、今日この頃。だからこそ、この一年、一日を大事にするしか無いのに、父の看取り後、死に方ばかりを考える。娘の結婚で、一瞬死を忘れて華やかなイベント企画に浮かれることができたけれど、終わるとまた死ぬことばかりを考える。逃れられない。そして、心が空虚になる。そんな中、衝動的にバラの苗を買った。30代から40代の頃、ずいぶんバラを育てた。転勤になれば人に譲り、新しい土地でまた育てて。イギリス生活でも、バラを熱心に育てていた。二世帯同居になって、庭があってもそこにバラは植えられなかった。義父母に遠慮があった。条件が良いとは言えない半日陰のエントランスと、ほぼ日陰で西日しか差さない脇通路が私のスペース。そこにいくつかバラを植えたけれど、すでにずいぶんと時が経った。なんだろうか、この気持ちは。大袈裟に思うけれど、自分だって、いつどうなるかわからない。今の80代高齢者は100まで生きれるつもりでも、なんだか、私世代はそんな長生きでは無いように思えてならない。超高齢の彼らを看取ったあと、私たちに残された時間は?もしかして、無いんじゃないの?そんな思いに取り憑かれているから、「私たちが死んだら、好きなようにしていいよ」なんて言わずに、今、好きなように、好きな事をやらせてよ。と、黒い本音が沸いてくる。抑えていた思いが吹き出た。それが、バラだったのかも。私には。自宅の東のスペースに、ブールドネージュと、マダムピエールオジェ。菜園には日当たりが良い壁面がある。今はただ、雑然と雑草がからまり、夏は義母がゴーヤを這わせていた。そこに、コンスタンス・スプライを。菜園まわりは、年々工業化や、物流の倉庫化が進み、辺りの風景はすっかりと変わってしまった。ハンサムだった枝垂れ桜の大木も切り倒され、美しかった椿の林も姿を消した。砂利とアスファルト。鉄板の無機質な塀で遮られた景色。その隙間となった私たちの菜園も、安く買い上げようと不動産屋からのオファーが絶えない。正直、いつまでやれるのか。それでも、私はバラを植える気でいる。最後のつもりで。多分、夫はそんな思いに寄り添ってくれているのだと思う。
毎年、少しずつ増えるオーナメント。今年は小鳥をもらいました。そして、我が家の猫は無事でした。娘の結婚騒動で忙しく過ごした一年。今年は頑張らない、と言うか疲れて“がんばれない”クリスマス。毎年、なんとなく増えていたクリスマスツリーのオーナメントも、今年は新しいものは何も無い。そんな気分の朝、イギリスから小包が。娘の夫になったGからだった。中を開けると、可愛い小鳥が3羽。新しいクリスマスツリーのオーナメントだった。涙。私のツリーは、鳥自慢。木には、やっぱり鳥だから。今年、新しい小鳥が増えた喜び。疲れた心に栄養剤が来た感じ。これで無事お祝いムードに、ふわん。🐈そして、家猫の尻尾のシコリの検査結果が出て、悪性腫瘍ではなく、良性の嚢胞だったと.....。涙。安堵の涙をダクダク流して、11歳のやんちゃ猫を、無駄にぎゅうぎゅう抱きしめて。ひと通り興奮が過ぎ去ると、ガックリと疲れが出た一日。天使はいた。
12月は、こんな気候だったかしら、と首を傾げる生活も定番に。晩秋の風景がまだ続く公園を、母と久しぶりに歩きました。娘の結婚ゴタゴタで、すっかり会えずにいた母と久しぶりに再会。私が母を連れ出して出かけるのは重要で、母と同居を始めた兄夫婦が自由になれる時間。やっと、その時間が取れるようになった。私は母に会える、兄夫婦はゆっくりできる、ウィンウィンの時間。結婚式を終えても、英国に住むビザ取得を待つため、日本で待機中の娘と、夫も伴いみんなでドライブ。昼食を食べ、亡き父と過ごした思い出の公園を散歩した。美しく紅葉した木々に、クリスマスが近いなんて気持ちが遠くなる。ここはまだまだ秋。ゆっくりと散歩をして、ティールームで紅茶を飲んで過ごしたけれど、母はこの一年で、さらに老いたと感じた。昨年の今頃は、父の葬式を済ませて遺品の整理、各種手続きに忙しく、その中で認知機能の衰えが顕著に現れて病院で診察を受けるなど、実家の様子は混乱が続いた。兄夫婦は母との同居を決断して、家のリフォームに乗り出した頃だったと思う。そんな中、様子見に会いに行くと、ああだこうだ文句を言いながらも語気にハリがあり、食事をすれば、美味しいだの、おしゃれなお店で食べるのが嬉しいだの、様々な感情が表に現れて、出かけるのが楽しかった。でも、たった一年で随分変わった。もう、そう言った表情が無い。心も動かない。一緒に食事をしても、食べたいものも無く、美味しいわけでも、楽しいわけでも無さそうだった。散歩をしても然り。すべてが作業でしか無いような風情。ただ生きているだけと言うか、死んでいないだけのような母になっていた。唯一喜んでいたのは、娘の結婚式の写真を見ていた時と、公園で食べ物を探す水鳥を見た時ぐらいか。アルツハイマー型認知症で89歳まで生きた父を看取り、残りの人生を生きる86歳の母。老いに個人差はあれど、人にはちゃんと、ある程度の限界が来る事をあらためて実感する。表情を失うまでに長く生きれたことに感謝。親の老いに向き合うのは大事だ。人が老いる事を深く学ぶし、体験できる。二人の遺伝子を継ぐ私も、もし大きな病気や事故に遭わず、運良く長く生きれた場合、いつかは無になって行くのだろう。その前に、理想とする、ある程度自分らしく生きれそうな「活動期」と言うものの残り時間を考えるようになった。私が私らしく過ごせる年齢のピークは、75歳ぐらいまでと考えてみた。料理する事を愉しみ、食べる事を喜べる毎日。欲しいものがあり、着たい服があり、きれいな部屋に住む意欲がある自分。旅をし、長時間のフライトに耐え、一人でも海外旅行や、娘に会いに行く行動力。庭作りやメンテナンス、読書を楽しむのもそう。そこまで、そんな風に生きれるなんて思えば贅沢だし、一方で、その年齢まで、すでに20年も無い事にも気がついた。だから、すごく考えた。この20年をどう生きようか。自分が無になって行く最後の活動期は、もう始まっているのだから。日々、そう言い聞かせて過ごしている。
昨年植えたみかんの木に、実がなりました。2年目の苗木を買って植えて、成長を見守る。そして晩秋、みかんが生った。なんと言う事は無い、ささやかな喜び。菜園に温州みかんを植えたのは、皮が薄くて、ホイホイ手軽に食べられるから。私には正解だった。家の庭には柚子の木があるが、あまりにたくさん実がなると食べきれない。ご近所に配ると、タダでもらって欲しいのに、逆にお礼をもらってしまい、そのやり取りが面倒で配るのはやめてしまった。結局、ジャムを作ったり、お風呂に入れたり、最後は料理しきれず、途方に暮れるか、頑張りすぎて疲れ切る。近所づきあいも、保存食作りも、特別マメでは無い私のような怠け者には、なったそばからホイホイ食べられる温州みかんが最適。自分で育てたみかんは、アマチュアならではの糖度低め。それが、さっぱりとしていて自然で美味しい。自己満足感高めでも、やっぱり嬉しい収穫の時間。来年が楽しみ。
今年は行事が多くて疲れてしまい、無理かと思ったクリスマスツリーの飾り付け。娘に手伝ってもらいつつ、無事飾りおえました。無事、クリスマスツリーを飾ったけれど、心を重くするものがふたつ。猫と義父猫は、しっぽにシコリを見つけた。触っても痛がる様子が無く、いつも通りに元気。義母は、「大した事ないんじゃない?」と言うけれど、大した事ないに越した事は無いからこそ、朝一番で動物病院へ行った。猫にシコリは、犬に比べて珍しい。つまり、ガン率が高いらしい。先生、いきなり、そういう話でしたか?なんだろう、この気持ち。夫のがん宣告もしんどかったけれど、11歳の愛猫の事も、とても辛い。まだ、結果を聞いたわけでもないのに。なんというか、いつまでたっても無邪気なもの、無垢なもの。それゆえに、無条件の悲しさが押し寄せる。先代猫が23歳で死んだ時、この世が終わるくらいの気持ちで泣いて、ペットロスが何年も続いて辛かった。だから、この猫を家に迎えた時は、もう二度とあのように取り乱さないよう、少し冷静な気持ちで迎えようと思ったけれど、収まらない。先代猫の死、父の死を経験し、死に少しは慣れたと信じていた。のにね。義父は日に日に衰えて、今日は朝からトンチンカンな行動と発言。そんな、意思がうまく通じない義父の突然の変化に、驚きと不安を禁じ得ないのに、猫よ、あなたまで。あなたは、人間齢ではまだ60なのだよ。まだまだ、いけるでしょ。もっと一緒に年を重ねようよ。そう言って、頭を撫でることしかできない。娘の結婚式が終わると、幸せな時間の扉が閉まり、再び老いと死に囲まれる。天使が開けてくれてくれた、幸せな時間は短かった。これが現実。そして私も同じ。いつ何を言われてもおかしくない、夫が病と向き合う様になってから、その思いは、黒い陰の様に心の半分を占める様になった。老いと死からは逃げられない現実。楽しい時間にありがとうと頭を下げて、老いと病に囲まれても、前を向く。限りある時間を、悲しみすぎたり、不安に取り憑かれたまま流れ失うのは、あまりにも勿体ないから。共に過ごす時間は、今まさに続いており、今日という日は何も変わらない。猫はイタズラで可愛いままの一日。そんな時間に感謝。未来を想像し過ぎるのは、人間の悪いクセ。だから、そんな想像力にフタを閉める努力も、時には必要か。今を大事にせずに、後悔のない未来は無い。辛い日は、長い目で見ず、短い時間軸で生きる方が楽。猫はとりあえず、細胞採取をして結果を待つ。良性である事を願いつつ、この命を預かった以上、悪い結果もいつか受け入れなければならない日が来ると、自分に確認するように言い聞かせた。
電子の時代に紙のアルバムは無駄かしら。娘の結婚を機に、家族の思い出も整理整頓。アルバム作りは、思いのほか時間がかかって苦戦中です。私が過ごして来た時代は、白黒写真の幼少期、カラーの少女期を経て、フィルムが全盛だった時代が長く続き、結婚、出産、そして娘が小学校に上がった頃に、ようやくデジタル時代へ。家族の歴史の前半は大きなアルバムと古いネガが本棚を占め、やがて写真は“画像データ”と呼ばれるようになり、CD-ROMで保存、SDカードやUSBでさらに小さくなって、今はクラウド管理に。家族の思い出の残し方が大きく変化した。この、それぞれの保管場所に収められた思い出はキリがない。アルバムの存在感はスペースが邪魔だが、画像データは、メディアが小さく便利になるほどに枚数が膨大。同じ様な連写画像や動画なんかも残っていて目眩がする。それでも、積み重ねてきた時間、思い出は捨てられないし、放置していれば「振り返る」シロモノにすらなれずにクラウドで置き去りに。整理整頓するなら今しかないと決心。最初は画像データで整理してアルバム化し、クラウドでみんなで共有する予定だった。どこに住む事になっても、自由にアクセス可能で便利だと思った。でもこのクラウド、毎月お金払って契約しているストレージ。私が死んだらどうなるの?無料でシェアするストレージも、管理者が死んだらどうなるの?私、そういうのマメに出来そうにない。そして、結局放置して、失ってしまう気がする。自分が老後思い出を振り返る時、養護施設で見るなら小さなアルバムがやっぱり良いかな。PCやiPadで電源入れて、クラウドにアクセスして、スクロールして見るより、何か落ち着く手の感触。やはり、アナログな手に取るアルバムにも、捨てられない存在感があると思った。デジタルデータを整理し、それはそれで保存。一方で、厳選したお気に入りの写真だけを集めた、ダイジェストの様な小さめのアルバムを作ることにした。思い出のダウンサイズ。それをやっていたら、結婚前の娘が「イイなー」と言い出した。気まぐれに、パラっと手に取って眺められる思い出は、不思議とクラウドよりアルバムが良いらしい。アルバムへのアクセスは、手を伸ばせば直ぐだからか。それで、娘用と自分用に作っていたら時間がかかってしまった。この自分用と娘用、作ってみると残したい思い出が微妙に違う。自分で残したい思い出と、娘に覚えていて欲しい思い出は違うのだと気がついた。アルバムには、厳選した分、文字にならないメッセージが刻まれる。こうして、ゆっくり進めながらやっと娘が13歳まで終わった。古くて大きなアルバムから写真を剥がして、スキャナーでデジタルデータに。ネガも専用の読み取り機でデータ化完了。写真を厳選し、軽くて小さめのアルバムに貼って、あとは全て処分した。そして先週、やっとCD-ROM時代に突入。これも要らぬ写真を整理し、クラウドと大容量USB、それぞれに保存。これでようやく、古いアルバムやネガ、CD-ROMは無くなり、収納スペースはすっきりとした。残り、あと15年分。いよいよ、クラウド管理時代に突入した写真を整理する。クラウド内にある写真を整理し、厳選した写真を紙に焼いてアルバムに貼る。ここからは、作業効率がアップすることを望むばかり。この棚、一ブロック分に収める予定です。このくらいなら、思い出の居場所も許されます。
イギリス人と結婚した娘。結婚式を終えて一時帰国し、日本の役場で書類を提出。私たちの戸籍から抜け、本日苗字が変わりました。結婚式後、彼との結婚証明書をもらい、渡英ためのビザ申請の条件が揃ったところで帰国。日本での戸籍や住民票の変更、銀行解約や自動車免許の変更などの手続き、引っ越し準備と忙しい日々が続く。しかし、直ぐにでもビザ申請に着手する予定だったが、区の職員の話に食い違いがあって、書類が一部足りずに再度イギリスに問い合わせなど、なかなか前に進まない日が続いた。そのイライラを越えて、ようやく昨日、最後の書類がイギリスから届き、本日区役所に提出。私たちの戸籍から抜け、それと共に娘の苗字が変わった。あれ?これは、地味に淋しい。苗字については一転ニ転した。最初は、これまでの姓を名乗る気持ちでいた。(夫婦別姓)しかし結婚式が近くなる頃、二人で同じ姓を名乗りたい気持ちに変化し、双方の苗字を合わせた苗字にすると決めた。(例で言うと、ハミルトンスズキの様な。国際結婚では多い形だという)しかし、結婚式終了後、シンプルに相手の姓を名乗ることを決めたらしい。理由は、後者の二つの姓を合わせたパターンは、二人の名前の場合、自分たちで読んでも違和感がある苗字になったと言うか、馴染みにくく、覚えてもらいづらいものだと察したから。そして、これは私の推測だけれど、ひとりっ子で育った娘の中で、少なからず私たちへの申し訳なさがあっての気遣いだったのではと思う。どうにか、この姓を残さねばと言う重荷を背負っての事だったろうと。しかし、ギルドホールでの書類上の結婚式が済んだのち、結婚後の姓についてたまたま話をした時、「私たちは、(日本姓を残す事を)気にしていない」と告げておいた。「もし、子供を持つことになった時、その子供が負担にならない名前であった方が気が楽じゃない?」とも。なので、気にせずにと。そして、結婚式が終わる頃には、娘は彼の苗字に変わることを決めたと言う。今後、あれこれ考えて、不都合を感じるたびに後悔したり、再度姓の変更の手続きを取ることになるより、今、潔く変わる方がスッキリして良い。覚悟も決まる。自然にそう思えたのなら、それが良い。お幸せに。結婚宣言から始まり、準備や、式当日。その後も、除籍や転居諸々。こんな風に、地味に何度も傷つくのが、娘の結婚なのだなぁと、しみじみ。傷つく?なんと言うか、楽しい日々を過ごしてきた分、淋しさはひとしお。でも、それで良かったとも思う。よそよそしく、娘を彼の苗字で呼んでみた。今日からあなたは我が家のゲスト。大事にもてなさなくちゃいけません。あなたもわきまえていただきたいものです。今は毎日素食。すっかり日常に戻りました。菜園活動で収穫が続くイチジクをスライスし、チーズトーストに。ハチミツを薄く塗っていただきました。出費が嵩んだ娘の結婚式、回収モードで、日々地味に生きています。
娘が腹部の激痛で倒れ、救急搬送され入院し、原因は子宮内膜症の一種、チョコレート嚢胞と診断されてから3年。直ぐに治療を開始し、薬が効いて、今は確認できないほど嚢胞が小さくなったそうです。先日、娘は結婚式を挙げ、イギリスに住む事になった。今は、その結婚証明を持って帰国し、イギリス人の配偶者としてのビザを申請。正式に取得するまで日本に待機中。日本にいる間は、きちんと医師のもとに通い、経過観察と処方される薬での治療を続ける。結婚式を終え、しみじみ感慨深く振り返る。夫のGとは、シックスフォーム(イギリスの高校の様なもの)で出会って、かれこれ11年のお付き合いという事になる。物理を専攻するGは、日本の研究所への短期留学などを選択し、娘もイギリスへ訪ねて行くなど、超遠距離恋愛を乗り越えての結婚だが、子宮内膜症も超えなければならなかった大きな課題だったと思う。救急搬送され、ひどい子宮内膜症、チョコレート嚢胞により、子供を持つ事は難しい可能性があると伝えられた。婚約中のGに、それを伝えるかどうかで苦しみ、それでもそれを伝えて、これが原因で別れることになっても、GやGの家族を責めないと決めた。先方も相当考えてしまった様だったが、その現実を受け入れた上で結婚に至った。様々な悪夢の日々から3年。今日はその診察日。服用していたディナゲスト(薬)の効果か、嚢胞はかなり小さくなって来ていたが、それでも結果を案じながら、娘の帰宅をじっと待つ。明るい表情で娘が戻って来た。今日は、入院直後の画像との比較もして、現状と今後について話しをしたと言う。救急搬送時、3cmほどだった嚢胞は、服用し生理を止めていたディナゲストが効いたのか、3mm弱×1mm程度残るほどに小さくなっていた。目視で確認できないほど小さくなったので、今後子供を望むことになっても、これが直接的原因になるほどでは無いとのこと。渡英後はディナゲストの服用を止めれば生理が始まるが、必ずしも子宮内膜症に再びなると言うわけではないから、これまで通りの健康的な生活を続けて欲しいと言う事だった。実際のところ、不妊の原因は子宮内膜症もありうるが、男性側に理由があったり、様々な要因があり、子宮内膜症だけを責める必要はない。それでも、気にならないと言ったら嘘になる。コロナで会うことすらままならない3年間を治療に集中できたのは不幸中の幸い。チョコレート嚢胞は、40代での発癌率も高まるので、改善されたと言うだけで大きな安堵だった。薬だけでなく、生活習慣を見直したのも大きな成果かも。・バランスの良い食事(きちんと3食)・脂質、糖質摂取を管理・湯船でしっかり体を温め代謝を上げる・自宅や休憩時間で短いヨガをこまめに (Youtubeの20分程度のものをちょこちょこ毎日)・ウォーキング・ダンスレッスン・ガセリ菌の含まれたヨーグルトを毎日食べるなど。食生活とエクササイズ。お手頃値段のご褒美スイーツは、体をダメにしたから、絶対に手を出さない。すると、仕事のストレスで、すっかり運動不足&太めになっていた体が10kg痩せてほどよく、健康的に。体の疲れも軽くなって、ストレスにも強くなった。生理が重い、生理痛が辛い、そんな場合は、漏れない生理用品で補うのでは無く、すぐにでも婦人科へ。原因を考えた方がいい。生理が多くて辛いのは体質では無く、病気のサインと考える方が、ずっと前向きだと思う。私は、娘が生理痛を訴え、経血量が多くなって来ている事を聞きながら、「若いからかしら」「一度、婦人科に行くと良いわね」と、ぼんやりとしたアドバイスしかできなかった事を後悔している。治療が早ければ、未来の選択肢は広がる。この大切な事を軽く考えて、適切なアドバイスができなかった後悔は大きい。それでも、諦めずに自分を変えることができたら、大きな学びも。これからも、子供を持つか否かを目指すのでは無く、自分の体を大事にして、日々を前向きに過ごすための健康的な暮らしを続けて欲しい。手に入れたものは、この時間。唯一無二だと思いたい。
娘の結婚式が終わり、ホッとしつつも経過観察は続きます。朝一番で夫の経過観察に付き添い病院へ。娘の結婚式が無事終わり、こんな言い方が正しいのかどうか。でも、もうここからは、やっとゆっくり、病気になれる。そんな気分だった。今日は雨、患者も少ない。血液採取と尿の採取が終わって、結果が出るまではコーヒー。外は冷たい雨が降って、どこもかしこも、人が少なくて静か。結果はIgm値が1818、高めでも、安定した横ばい。その他の数値は良好で、何も変わらず。何も変わらず。それが、こんなに嬉しい。帰り際に夫が呟いた。「あれはなんだったんだろう」あれとは、このがんの発症。5年前、アジア圏での海外勤務の激務。過度なストレスは神経を麻痺させ、忙しい自分が「忙しい自分」だと気づかないほどに達して24h7daays、仕事モードから戻れなくなっていた時に、静かに発症。自覚症状が0のまま、がん宣告、そして急変し治療開始に。でも、あれからの5年は静かだった。だから、一体あれはなんだったのか、と。ただひとつ、実感しているのは、あれの正体。ストレス。せっかくの人生、もっと楽に生きなきゃ。楽しく、楽に。頑張るのは、好きなもののために。60歳にもう直ぐ届く私たちは、そう決めた。
非日常が長く続いて、やっと一息つく頃、柿が実りました。夢の時間が終わって日常へ。庭の古い柿の木が色付いて、食べごろに。ひとふさ取って味見。今年も甘い。朝ごはんに登場。やっと目が覚めて、安堵。
結婚式が終わり、帰国です。お世話になった部屋をきれいに掃除をして、元通りの姿になったところで出発です。夜、パーティが終わってアパートメントに戻ると、部屋は朝のまま。ヘアメイクやカメラマン、花嫁や夫が最後にバタバタと出て行った様子が想像できるかのように部屋は荒れて、用意していた飲み物や食べ物もキッチンに並んだまま。宴のあとの残骸が散らかっていた。娘は部屋に立ち寄り、ドレスを着替えて置いて行き、代わりに夫のレンタルスーツを持って彼の元へと戻って行った。スーツは後日、返却してくれるという。そうして夫と二人きりなっても、部屋の掃除と荷物のパッキングに忙しく、寂しさを感じる暇は無かった。少し眠って朝が来た。ひたすら重い荷物を持って駅へ。しばらくバースの街ともお別れかも、そう思うと妙に悲しい。娘は、結婚の証明を持って一時時帰国し正式なビザを取得後は、ロンドン郊外の街に住む予定。Gの職場に近いところであり、娘も今の仕事を続けるには、ロンドンに近い方がやはり便利だからだ。でも、これが最後のバース旅ではないと言い聞かせて歩く。バースアビー大聖堂の、翼があるのにハシゴを手足でよじ登る天使たちに、ちゃんとまたここに来ると祈ったから大丈夫。この天使たちは、旅人をまたこの地に帰すと言われているのだから。このカントリーサイドの風景が広がる車窓も好き。この向こうにはコッツウォルズの村々が待っている。ロンドンから、グレートウェスタン鉄道に揺られて通ったバース、寮生活を始めた娘との最初の別れの日も、娘に会いに行く日、迎えに行く日、友人に会うために乗った日もあった。洪水で遅れたり、乗っていて立ち往生に巻き込まれたり。数々の思い出が詰まった鉄道だった。イギリスに来るたびに、当たり前のように乗っていたのも、そうではなくなる日が来る。その変わり目は悲しい。娘はもう、Gと一緒にいれば幸せ、そんな表情が見れたから諦められた。でも、諦められないグレートウェスタン鉄道。また乗りたい。今度はゆっくり、乗りに来るから待っていて。