南域結界☆ ジェルソミーナ -46ページ目

4 すべてのはじまり

 返事するよりも早く、研究室を飛び出して行こうとする巨漢の裾をつかまえて、ベトルよりもほんの少し年上の、しかし極度にか細い教授は幾度となく咳をした。
「そ、そうですかい。先生がそうおっしゃるのなら……」
 明晰な頭脳と、温厚な人柄に惚れ込んで、彼を兄貴と慕って付いてきてくれているのは有り難いのだが、このベトルはなんにつけ、ちょっと一生懸命になりすぎる癖があるらしい。
 プリッターは咳をしながら、ストーブの前で毛布にもう一度くるまった。
「学院長が口うるさい古ダヌキに、吊るし上げられてるのも見ちゃいられねえが、あの、云とも寸とも言いやがらねえフランドルが、学院長の肩を持ったってのが一番、気味が悪いんでさ。俺ぁ思わず、すましてやがる奴の面ひっつかまえて、二三発殴ってやりたくなりましたがね」
「それはおよしなさい。ベトル君」
 鼻息荒く、今にも喰らいつきそうなベトルを教授は慌てて抑え込んだ。
「分かってやすよ、ですから止しやしたよ。こんなあっしにだって、自制心ぐらいは……っ」
「そうでしょうね、そうでしょうとも」
 そしてクルミのごみ箱に激しくむせんだ。
 窓から消えようとする光の残輪を受けて、壁に掛かったランタンに、小さな妖精が火を運んで来る。
 金色の帯が舞う。ホタルのような小さな存在が、金粉を後に引きながら、ランタンの周りを幾重にも飛び交う。
 ランタンの火は危う気に揺れて、咳きこむ彼の薄い目元に、弱々しい影をつくった。
「教授。教授ならきっと、なにかすごい案が思いつきませんかね。あっしにはどうも……あの子の授業に立ち会ってる訳じゃぁありやせんから、どうも……あの子を助ける、いい案が思いつかないんでさ。といって、あっしには奴らのように、あの子を退学にさせようなんて、気安く言える訳ぁ、ありやせんからねえ……」
 ベトルはついに、教授達を奴らと呼んだ。
「案、ですか」
 涙目を見開いて、光のランプを見上げる。ガラスの窓枠、笠の内側、真鍮の曲がった軸のつけ根から、くすくす笑いが漏れ出ている。
 小人達がいる。咳が出る度、彼らの声は一段と高くなる。
 ベトルはそれを、やおらにこぶしで追い払った。
「わたしなら……」
 小人が落とした花瓶を大切そうに拾い上げて、プリッターは毛布の端で、その欠けた口を丹念に拭った。
「やはり退学を勧めますかね」
「退学を」
「ええ」
 神妙に、だが即座にうなずいた。
「考えてもごらんなさい。あの子はね、この魔法学院に入門する前にも、鍵師の学校や剣術の道場で、落第印を押されて退学している」
「先生、なら、なおのこといっそう、あの子をここに置いといてあげた方がいいんじゃないっすか。あの子の気持ちを考えてあげたら……!」
「ベトル君」
 赤く熱したヤカンを素手でつかんでいる彼を見上げて、プリッターは悲しそうに目を細めた。
「考えてあげて下さい。考えなければなりません。できるだけあの子の立場に立って、あの子の視線にまで降りてあげて……。あの子は本当に頑張り屋さんだ、そう思いませんか。幾つも学校を変えて、幾つも幾つも進路を変えて……」
「先生、あっしには先生のおっしゃろうとしていることがよく分かりませんや」
 濡れたテーブルにヤカンを置いた瞬間、白い蒸気が噴き上がった。
「あの子はよく頑張った。五年も。ここで五年も……もう、これで充分だと思いませんか。ねえ、ベトル君、わたしはもう、あの子に無理を強いたくはないんですよ。なにより……」
 そう言ってプリッターは、ベトルの赤い両手を取った。どういう訳かその途端、ベトルの耳も真っ赤になった。
「五年も魔法が使えないままで、あの子は本当にここに残りたいと思っているのでしょうかね。本当に、それがあの子の意志なんでしょうか」
 穏やかに目を細めて、教授は弱々しく咳をした。


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3 すべてのはじまり

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 学生達の声が聞こえる。学舎から寄宿舎へと帰る、または山裾の自宅へと帰る賑やかな、楽し気な笑い声である。
 プリッター教授は夕方、同僚のベトルからその話を聞かされた。
「そうですか、そんなことが」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、風邪ぎみのプリッター教授は湯たんぽを抱えて、思いきり鼻をかんだ。
 プリッター教授の部屋は、南方語の専門書や世界各国の言語地図、哺乳類の頭蓋骨に書きかけの論文などで床の上まで雑然としていて、どれが論文でどれが紙クズなのか、足の踏み入れ場もないほど散らかっている。
 いつもなら本棚のすぐ近くに、壁紙にでもなりそうな巨大な「正しい古代語発声法」の掛け軸がかかっているのだが、今日はそれがない。あるのは隣の研究室から拝借して来た、薪をくべる大きなポンコツストーブひとつである。
「熱は下がりましたか。先生」
「え、ええ、まあどうにか。ちょっとぐらいは」
 心配そうに言ったベトルの前で、教授は毛布にくるまったまま、鼻をもう一度すすり上げた。
 プリッターよりも二倍ぐらいの体つきはある、風邪などひいたこともないようなベトル教員は、虎の刺青の入った立派な腕をあらわにして、冷たくなってきた窓へ丁重にカーテンをかけた。
「あのいけすかねえフランドルの野郎が、なんであんなことを言ったのか、俺にゃあ想像もつきやせんや。あいつなら真っ先に、あの小さな子を退学処分にしちまいそうな気がしますがね」
「ええと、レシング君、でしたっけ?」
 朦朧としている記憶を呼び覚まそうと、プリッター教授は痛むこめかみを押さえた。
「そうでさ。学院長ご自身が見つけてきた女の子ですよ。学院長の方はそれもあるんじゃないっすかねえ。退学だけはさせたくない、ってのは」
「はあ」
 教授はもう一度鼻をかんだ。
「大丈夫ですかい、教授。厨房で何かあったかい物でも、そうだ、熱燗でも作って来やしょうかっ」
「いや、いいっ、いいんだ。……お、お待ちなさい、ベトル君っ。わたしは大丈夫だから……っ」


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2 すべてのはじまり

「そうだな……」
 太い眉が眉間に寄った。
「この子が勉強熱心なのはよく分かっている。ひょっとするとこの子は、一人前になれるかもしれない。なのに、わたし達がここでこの子を退学にしてしまったら……この子の今までの努力は無駄になってしまう。この子は魔術師になれなくなってしまう」
「その逆もあるんですよ、学院長。その逆の方が、僕は可能性が高いと思うんですけどね」
「分かっている。これはわたしの、ただの我侭なのかもしれない。けれど……わたしはこの子を、今、退学処分にしてやりたくないんだ」
「学院長、そんな……」
「決まりですね」
 投げやりにフランドルが声を上げた。全員の視線が、部屋の一隅に集中した。
 フランドルは気だるそうに成績表をテーブルに投げ出し、教師達には目もくれずに、
「この生徒は残しましょう」
 低い声ではっきりと言った。
「フランドル!」
「学院長がそう言ってるんだ。学院長が残すといったから、残す。それだけだ」
「話になりませんな!」
 五番目の教師が真っ先に、立ちあがった。
「わたしも長い間この仕事を続けてきたが、こんな事は初めてだ」
 三番目の教師も、銀色の頭髪を掻きむしりそれに同調した。
「これではなんのための会議か分からん」
「我侭で全てが治まるなら、結構なことだが」
 全員が会議室を出て行く中で、第二の教師が動かない学院長に、きつい口調でこう言った。
「もしそれでも駄目だった場合、学院長! その時はわたし達の無駄になった時間、きっちり弁償していただきますよ!」


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