南域結界☆ ジェルソミーナ -44ページ目

3 二つの秘神

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 その咳は、木造宿舎の下階にまで聞こえていたらしい。
 見舞いの品を手にしてドアを開けた訪問者は、ストーブに囲まれながら厚手毛布にくるまっている、男に向かって臆面もなくこう言った。
「ミノムシみたいですね、プリッター先生」
 プリッターは涙目を上げて、かわいい愛弟子の姿を探そうとしたが、直後、激しく咳き込んで、
「はは……ミノムシになるのも疲れましたよ、テトラ君」
 クッションの山に顔を埋めた。
「あの虎男は?」
 勧められる前に十五歳の美少年は、戸棚の上に腰をかけて、
「師匠がこんな時に居ないなんて、薄情な奴だな」
「薬を……取りに行ってくれているんですよ」
 その声はほとんど、咳に消えた。
「何か……おもしろい話はないですか」
 血の気の失せた、細い両目を彼に向けて、プリッターは喉の奥から息をした。
 ホワイトシチューの海に浸った時に、どうも風邪をこじらせたらしい。
「そうだなあ」
 プリッターは咳をする。
 最近は、咳をする度、胸が痛い。
 お向かいの先生にもらった薬も、もうあまり効かなくなってしまった。
 テトラはいつものように、はきはきと、
「大したことないな。つまんない事ばっかりだよ。毎日毎日、試験ばっかりで、宿題は多いし。今日も古典の教本を一巻読んで……そう、それから、代数の宿題が出てるんだっけ。文法もやんなきゃ駄目だしさ、面倒くさいんだ」
 プリッターは毛布の中で、小さく一つうなずいた。
「そうそう先生、そういえばさ。コーザ導師のところのリュイって、知ってる?」
「さあ。誰だろう、それは」
「知らないでしょ。俺だって、知らないもんなあ」
 テトラは鼻で笑って、歌うように口の中でぶつぶつ言った。
「ぜんぜん目立たない奴だよ。俺だって、世話してるクリケットチームの一員でなけりゃ、絶対、見過ごしてるさ。球を打つ技術もまあ標準程度だし、見た目も頭も、特に良くも悪くもない、って感じだしな。先生だって、絶対、最後まで印象に残らないよ。本当に、良くも悪くも特徴のない、目立たない奴だからなあ」
 そこまで言った時、視線の先で、ガラスの水さしがふわりと浮いた。
 テトラは冷ややかな目をその一点に集中させると、鍵盤をはじくような指使いで、歌いながら、戸棚の上から水さしを操り、咳き込んでいる教授の腕にそれを落とした。
「でね、先生、それがさ。前に話してたじゃないか。変に気にしてたろ。あの初等科の出来の悪い奴(の)。レシングっていったかな。初等科のフラミング先生たちの足を、引っ張ってる奴だよ」
 座ったまま足元の扉に手を伸ばして、中からクッキーの缶を取り出した。缶には鍵がかかっていたが、テトラが手を触れただけで簡単に開いた。
「リュイの奴、あのレシングと、最近仲がいいみたいなんだ」


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2 二つの秘神

 窓の中で、少年は小さく呟いた。
 ロウソクの明かりが風もなしに揺れた。
 少年は、フードを目深にかぶり直す。赤い唇が、歯をたてて固く結ばれた。
 部屋の中は陰気で、湿気に満ちている。
 時々、ぽたんぽたん、と水音がするのは、昨夜の大雨が天井裏にまで染み込んでしまっているからに違いない。
「最近のある研究では――」
 子供たちのけたたましい笑い声が聞こえる。何かを打ち据える鈍い音。
 大人たちは誰も気付かないのか。
 ロウソクだけが、風もなしに揺れつづける。
「この世には二つの神しかいないことが、分かっている」
 木靴の足音が、また丸天井に響き始めた。
「一つは魂を作る神と、一つは闇を作る神」
 笑い声に罵り声。
 ホウキを持った子供たちの、激しい声だけしか聞こえない。
 天井から柱を伝って、雨粒が彫像の眉間の上に垂れ落ちる。
 木靴の音が響く。
 けれど彫像は無言のままだ。闇の底。今までずっと、そうであったように。微動だにしない。
 静かに。ひっそりと。無言のまま。
 少年は闇の中から、さきほどまで自分が居た、光溢れる、窓を見返した。
 そこには確かに、自分が開いた窓があった。
「僕には時間がない」
 この闇の中だけは無限のようだ。
「有りもしない神に祈りを捧げられるほど、僕は盲目的な信仰をもってやいやしないし」
 少年はわずかにうつむいた。
「残された時間もわずかでしかない」
 すぐ近くの階段を、人が上がってくる物音がした。
 少年はとっさにローブの裾を持ち上げると、神官が部屋へやって来る前に、また闇の底へ消えていった。


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1 二つの秘神

   第二章



 ――神に、祈ったところでなんにもならない。
「それは、間違ったことだと思いませんか」
 暗闇の中を、ロウソクの小さな明かりだけが移動していく。
「苦しみのあまり、神にすがったところでどうにもならない」
 木靴の音が、固いタイルの上を進んでいく。
「それは、はやまった考えではありませんか」
 変声期をむかえていない、ソプラノの少年の声が丸天井に響く。
「あなたは何に助けを求め、どんな時、何のために、誰のために、その名を呼びますか」
 少年は閂(かんぬき)に手をかけ、彼の二倍ほどの高さもある鉄の窓を押し開いた。
 そこからは魔法学院の中庭が一望でき、今まさに、眼下で六、七名の少年少女たちが、取り囲んだ一人の少女を、ホウキの柄で小突きまわしている真っ最中だった。
「神に祈ったところで、なんにもならない」
 ホウキに打たれて倒れ伏した少女の下腹部を、一人の少年が足で蹴り上げた。
「それは……」
 少女の腕は、何かをつかもうとするように空を掻き、腹部に与えられたもう一撃で、また地面へと落とされた。
「それは、祈る神を間違えているからだ」


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