7 すべてのはじまり
シチューの海の中で、ベトルに向かって手を差し出した。
「今、この樫の木の根元で、小さくなっていた子がいましたよね。あれが……」
「あれがレシングかい。あれがデキの悪い……いやいや、調子の悪い……ってゆうのか、いや、ぱっとしない……」
「なかなか魔法の力を発揮できない女の子です。魔力は、普通程度にはあるそうなのに、なかなか、それを表現できない子ですよ」
「あいつ……同じ歳の奴らとうまくいってねえのか?」
いつになく、神妙な顔でベトルが呟いた。
「ただの喧嘩、とかじゃねえぜ。今のは」
少女が膝を抱えていた地面の上にも、すでに液体の染みが広がっている。
ベトルは汚れた腕で、重たい目を何度もこすった。
「あっしにゃあ、ちょっと見、人間だとは思えなかったが。数年前、あいつを見かけた時には、もう少し……」
「ええ……残念ながら、あの子はいつもそうですね。わたしが知る限り、あの子はいつも一人。教室でも遊戯場でも。ああやっていつも、いじめられている」
「先生、ご存知だったんっすか」
プリッターはその手を取り、自らもシチューまみれの腕で、ベトルを汚物の海から立ち上がらせた。
「あっしの……あっしの経験じゃあ……」
ベトルは汚物の海に漂う、プリッターの長いコートの裾を持ち上げた。
「あんな調子じゃ出したくったって、魔力なんて外に出せやせんぜ。あいつは……あいつは完全に、のされちまってる。外からつぶされちまって、人間じゃなくなっちまってる。身動きが取れねえ。……ああ、なんて言ったらいいんだ……出せる物も出せねえ、っていうか、言いたい事も言えねえ、っていうか、胸の中がもやもやして、重たくって、痛くなって、それで……」
「心が凍りついてしまった、とでも言うのでしょうか……」
「プリッター教授、無理ですぜ」
「無理です」
プリッターは細い目で、醜悪な罪の現場であったホワイトソースの沼を見やった。
「あれでは魔力など、とてもとても、外には出せない」
友人に怯え、教師に怯え、人々に怯え、固く心を閉ざしてしまっている。
心を閉ざすあまり、自分の感情さえ、表に出せない。
そんな状態で、実力が出せるはずがない。
「あの子には、荷が重い」
プリッターは冷たい風に、ぶ厚いコートをかき合わせた。
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「今、この樫の木の根元で、小さくなっていた子がいましたよね。あれが……」
「あれがレシングかい。あれがデキの悪い……いやいや、調子の悪い……ってゆうのか、いや、ぱっとしない……」
「なかなか魔法の力を発揮できない女の子です。魔力は、普通程度にはあるそうなのに、なかなか、それを表現できない子ですよ」
「あいつ……同じ歳の奴らとうまくいってねえのか?」
いつになく、神妙な顔でベトルが呟いた。
「ただの喧嘩、とかじゃねえぜ。今のは」
少女が膝を抱えていた地面の上にも、すでに液体の染みが広がっている。
ベトルは汚れた腕で、重たい目を何度もこすった。
「あっしにゃあ、ちょっと見、人間だとは思えなかったが。数年前、あいつを見かけた時には、もう少し……」
「ええ……残念ながら、あの子はいつもそうですね。わたしが知る限り、あの子はいつも一人。教室でも遊戯場でも。ああやっていつも、いじめられている」
「先生、ご存知だったんっすか」
プリッターはその手を取り、自らもシチューまみれの腕で、ベトルを汚物の海から立ち上がらせた。
「あっしの……あっしの経験じゃあ……」
ベトルは汚物の海に漂う、プリッターの長いコートの裾を持ち上げた。
「あんな調子じゃ出したくったって、魔力なんて外に出せやせんぜ。あいつは……あいつは完全に、のされちまってる。外からつぶされちまって、人間じゃなくなっちまってる。身動きが取れねえ。……ああ、なんて言ったらいいんだ……出せる物も出せねえ、っていうか、言いたい事も言えねえ、っていうか、胸の中がもやもやして、重たくって、痛くなって、それで……」
「心が凍りついてしまった、とでも言うのでしょうか……」
「プリッター教授、無理ですぜ」
「無理です」
プリッターは細い目で、醜悪な罪の現場であったホワイトソースの沼を見やった。
「あれでは魔力など、とてもとても、外には出せない」
友人に怯え、教師に怯え、人々に怯え、固く心を閉ざしてしまっている。
心を閉ざすあまり、自分の感情さえ、表に出せない。
そんな状態で、実力が出せるはずがない。
「あの子には、荷が重い」
プリッターは冷たい風に、ぶ厚いコートをかき合わせた。
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6 すべてのはじまり
ベトルはバケツ群へと突進した。
突進して、その後どうこうしようという意志はない。ただ目の前の、得体の知れない集団を消し去りたい、その本能だけだ。
バケツは弧を描きながら宙を舞い、リレー式にどこからともなく、白い粘着質の液体を運び込んでくる。先頭バケツが液体をぶちまけると、その次、その次とバケツが現れ、そのリレーには限度がない。
ぶちまけられる液体は、幹を伝い、枝に絡み付いては滴り落ちた。こぼれでる液体は、糸をひき、固形物と共に影の上を、生き物のように這い落ちてゆく。
激臭が、吐き気をもよおす。
プリッター教授がいたなら、それは腐った残飯ホワイトシチューの臭いで、バケツは遠隔操作によるものだから、操作人はまた別の場所にいるはずと教えてくれたのだろうが、
「とぅおりゃあ!」
空中のバケツを両脇に捕まえて、力いっぱい地面に叩き付けた。バケツはへしゃげた音をたてて、白いクリームソースのしぶきを跳ね上げた。
ベトルはなおも、その横腹を殴りつづける。
「馬鹿やろおっ!」
バケツは木の根元の、小さな影にも攻撃の手を休めてはいない。が、一方では、自分たちを邪魔するこの男も「攻撃対象」と見なしたらしい。
あざけるように回転し、最後尾二つが、ベトルの頭に中身をぶちまけた。
「ぬおおおおおおっ!」
突き上げる拳が、どす黒いバケツの脇腹を捕らえる。
めくら滅法にふるい続けるベトルの、鉄拳がバケツを叩き割った。
砕けたバケツはなおも舞い上がり、どうにかベトルの動きを封じようと腕に喰らいつく。
「うおおおおおおおおおおーっ!」
雄叫びで、バケツの動きが止まった。ベトルは迷わず近くのバケツを取り押さえ、他の集団を殴り飛ばし続けた。
もちろん、木の根元で怯える、小さな影など、とっくの昔から念頭にない。
シチューでかすむ目と、激臭に逆らいながら、力のまま撃って撃って叩き落すのみだ。
「ベトル君」
渾身の蹴りをバケツに繰り出した時、聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
「ベトル君。およしなさい」
柔らかな指が、彼の腕を絡めとった。途端、彼の体中に、痺れにも似た甘い衝撃が流れ込んだ。
その時にどんな技がなされたのかは分からないが、ベトルはへなへなとその場に座り込んでしまった。
「プリッター兄貴ぃ」
「大丈夫ですか、ベトル君」
幼子のような、情けない声を上げた彼に、プリッター教授は心配気な表情を見せた。
バケツはもう、ぴくりとも動かない。
「あなたのおかげで、あの子は助かりましたよ。彼女、もうあっという間に……走って行ってしまいましたが。あなたはまるで鬼神のようでしたね」
「なに? なにが助かった?」
「今のが、あのレシングですよ」
プリッターは口元を押さえ、おもわず咳をした。
「かわいそうに。手ひどくやられたものだ」
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突進して、その後どうこうしようという意志はない。ただ目の前の、得体の知れない集団を消し去りたい、その本能だけだ。
バケツは弧を描きながら宙を舞い、リレー式にどこからともなく、白い粘着質の液体を運び込んでくる。先頭バケツが液体をぶちまけると、その次、その次とバケツが現れ、そのリレーには限度がない。
ぶちまけられる液体は、幹を伝い、枝に絡み付いては滴り落ちた。こぼれでる液体は、糸をひき、固形物と共に影の上を、生き物のように這い落ちてゆく。
激臭が、吐き気をもよおす。
プリッター教授がいたなら、それは腐った残飯ホワイトシチューの臭いで、バケツは遠隔操作によるものだから、操作人はまた別の場所にいるはずと教えてくれたのだろうが、
「とぅおりゃあ!」
空中のバケツを両脇に捕まえて、力いっぱい地面に叩き付けた。バケツはへしゃげた音をたてて、白いクリームソースのしぶきを跳ね上げた。
ベトルはなおも、その横腹を殴りつづける。
「馬鹿やろおっ!」
バケツは木の根元の、小さな影にも攻撃の手を休めてはいない。が、一方では、自分たちを邪魔するこの男も「攻撃対象」と見なしたらしい。
あざけるように回転し、最後尾二つが、ベトルの頭に中身をぶちまけた。
「ぬおおおおおおっ!」
突き上げる拳が、どす黒いバケツの脇腹を捕らえる。
めくら滅法にふるい続けるベトルの、鉄拳がバケツを叩き割った。
砕けたバケツはなおも舞い上がり、どうにかベトルの動きを封じようと腕に喰らいつく。
「うおおおおおおおおおおーっ!」
雄叫びで、バケツの動きが止まった。ベトルは迷わず近くのバケツを取り押さえ、他の集団を殴り飛ばし続けた。
もちろん、木の根元で怯える、小さな影など、とっくの昔から念頭にない。
シチューでかすむ目と、激臭に逆らいながら、力のまま撃って撃って叩き落すのみだ。
「ベトル君」
渾身の蹴りをバケツに繰り出した時、聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
「ベトル君。およしなさい」
柔らかな指が、彼の腕を絡めとった。途端、彼の体中に、痺れにも似た甘い衝撃が流れ込んだ。
その時にどんな技がなされたのかは分からないが、ベトルはへなへなとその場に座り込んでしまった。
「プリッター兄貴ぃ」
「大丈夫ですか、ベトル君」
幼子のような、情けない声を上げた彼に、プリッター教授は心配気な表情を見せた。
バケツはもう、ぴくりとも動かない。
「あなたのおかげで、あの子は助かりましたよ。彼女、もうあっという間に……走って行ってしまいましたが。あなたはまるで鬼神のようでしたね」
「なに? なにが助かった?」
「今のが、あのレシングですよ」
プリッターは口元を押さえ、おもわず咳をした。
「かわいそうに。手ひどくやられたものだ」
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5 すべてのはじまり
>
山をすべり落ちる、四月の風がまだ冷たい。
ベトルは校舎を飛び出して、山岳の大気を胸いっぱいに吸い込むと、夕陽に向かって柔軟体操を始めた。
「さよなら、せんせー」
元気な挨拶たちが、放課後の校庭を駆け抜けていく。
「あいよっ、さいならー」
牛のような唸り声をあげて、彼は思いきり背筋を伸ばした。
「せんせ、さようなら」
皮のずた袋を背にかついで、年長の学生が頭をさげていく。
「あいよお、さいならあーっ」
ベトルは腰を大きくひねった。
夕刻の体操は彼の日課だ。
研究生や補習中の学生を除いては、みんなこの時刻に帰宅していく。
「いっちにっ、さんっしっ……っ!」
屈伸運動を始めると、彼の見事な両肩が、骨でも折れていそうにごきりごきりと鳴った。
「にぃにっ、さんっしっ!」
黒光りする両肩から、汗が噴き出る。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ!」
地面に向かって両拳を繰り出すと、みるみるうちに地面に汗の跡形ができた。
雄虎でも殴り殺す、強拳だ。
筋肉が盛り上がり、肉体がいつもの二倍ちかく巨大に見える。
固く結い上げた、後頭部のまげの上に、一匹のアブが止まった。
どこから迷い出たのだろう、にじみ出る汗に惹かれてか、しばらく躊躇した後、アブはそのまげの上に落ち着き先を決めた。
「むう……」
ベトルは体操をやめた。
聞きなれた学生の声が通りすぎて行き、生徒たちも、校庭で遊んでいる者ぐらいとなった。
ベトルはわずかに、まげを見上げる。
「ちょっと待ってよ、ねー」
どこかで笑い声が聞こえる。ボールを蹴とばす音が聞こえる。
「ねーねー、昨日の見たー?」
「昼休みにねー。でも、ちょっと、だったよねー」
平和な刻だ。
虫ケラのわずかな気配を意識して、彼は欠伸さえもためらった。
「春はまだまだ先ですよ」
プリッター教授は言っていた。「山を降りる、四月五月の嵐を経なければ」
「きゃははははははっははははははっ」
それはけたたましい笑い声だった。
振り返った時、その宴はすでに絶頂をむかえている。
「なにしてやがる、おめえら!」
樫の木の枝と枝の間を、自由自在に飛び交う二、三十のバケツの列。あふれ出す白い液体。
ベトルは目を見張った。
異様な光景だ。
魔法学院に勤務して長い、彼でさえもこんな光景は見たことがない。
バケツは途切れることなく列を作り、代わるがわる、樫の木の根元、うずくまる小さな影に、白い内容物を浴びせかける。
樫の木に群れる、カラスのような塊。無機質なバケツである分、この統率は気味が悪い。
「こっらあーっ!」
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山をすべり落ちる、四月の風がまだ冷たい。
ベトルは校舎を飛び出して、山岳の大気を胸いっぱいに吸い込むと、夕陽に向かって柔軟体操を始めた。
「さよなら、せんせー」
元気な挨拶たちが、放課後の校庭を駆け抜けていく。
「あいよっ、さいならー」
牛のような唸り声をあげて、彼は思いきり背筋を伸ばした。
「せんせ、さようなら」
皮のずた袋を背にかついで、年長の学生が頭をさげていく。
「あいよお、さいならあーっ」
ベトルは腰を大きくひねった。
夕刻の体操は彼の日課だ。
研究生や補習中の学生を除いては、みんなこの時刻に帰宅していく。
「いっちにっ、さんっしっ……っ!」
屈伸運動を始めると、彼の見事な両肩が、骨でも折れていそうにごきりごきりと鳴った。
「にぃにっ、さんっしっ!」
黒光りする両肩から、汗が噴き出る。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ!」
地面に向かって両拳を繰り出すと、みるみるうちに地面に汗の跡形ができた。
雄虎でも殴り殺す、強拳だ。
筋肉が盛り上がり、肉体がいつもの二倍ちかく巨大に見える。
固く結い上げた、後頭部のまげの上に、一匹のアブが止まった。
どこから迷い出たのだろう、にじみ出る汗に惹かれてか、しばらく躊躇した後、アブはそのまげの上に落ち着き先を決めた。
「むう……」
ベトルは体操をやめた。
聞きなれた学生の声が通りすぎて行き、生徒たちも、校庭で遊んでいる者ぐらいとなった。
ベトルはわずかに、まげを見上げる。
「ちょっと待ってよ、ねー」
どこかで笑い声が聞こえる。ボールを蹴とばす音が聞こえる。
「ねーねー、昨日の見たー?」
「昼休みにねー。でも、ちょっと、だったよねー」
平和な刻だ。
虫ケラのわずかな気配を意識して、彼は欠伸さえもためらった。
「春はまだまだ先ですよ」
プリッター教授は言っていた。「山を降りる、四月五月の嵐を経なければ」
「きゃははははははっははははははっ」
それはけたたましい笑い声だった。
振り返った時、その宴はすでに絶頂をむかえている。
「なにしてやがる、おめえら!」
樫の木の枝と枝の間を、自由自在に飛び交う二、三十のバケツの列。あふれ出す白い液体。
ベトルは目を見張った。
異様な光景だ。
魔法学院に勤務して長い、彼でさえもこんな光景は見たことがない。
バケツは途切れることなく列を作り、代わるがわる、樫の木の根元、うずくまる小さな影に、白い内容物を浴びせかける。
樫の木に群れる、カラスのような塊。無機質なバケツである分、この統率は気味が悪い。
「こっらあーっ!」
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