4 すべてのはじまり
返事するよりも早く、研究室を飛び出して行こうとする巨漢の裾をつかまえて、ベトルよりもほんの少し年上の、しかし極度にか細い教授は幾度となく咳をした。
「そ、そうですかい。先生がそうおっしゃるのなら……」
明晰な頭脳と、温厚な人柄に惚れ込んで、彼を兄貴と慕って付いてきてくれているのは有り難いのだが、このベトルはなんにつけ、ちょっと一生懸命になりすぎる癖があるらしい。
プリッターは咳をしながら、ストーブの前で毛布にもう一度くるまった。
「学院長が口うるさい古ダヌキに、吊るし上げられてるのも見ちゃいられねえが、あの、云とも寸とも言いやがらねえフランドルが、学院長の肩を持ったってのが一番、気味が悪いんでさ。俺ぁ思わず、すましてやがる奴の面ひっつかまえて、二三発殴ってやりたくなりましたがね」
「それはおよしなさい。ベトル君」
鼻息荒く、今にも喰らいつきそうなベトルを教授は慌てて抑え込んだ。
「分かってやすよ、ですから止しやしたよ。こんなあっしにだって、自制心ぐらいは……っ」
「そうでしょうね、そうでしょうとも」
そしてクルミのごみ箱に激しくむせんだ。
窓から消えようとする光の残輪を受けて、壁に掛かったランタンに、小さな妖精が火を運んで来る。
金色の帯が舞う。ホタルのような小さな存在が、金粉を後に引きながら、ランタンの周りを幾重にも飛び交う。
ランタンの火は危う気に揺れて、咳きこむ彼の薄い目元に、弱々しい影をつくった。
「教授。教授ならきっと、なにかすごい案が思いつきませんかね。あっしにはどうも……あの子の授業に立ち会ってる訳じゃぁありやせんから、どうも……あの子を助ける、いい案が思いつかないんでさ。といって、あっしには奴らのように、あの子を退学にさせようなんて、気安く言える訳ぁ、ありやせんからねえ……」
ベトルはついに、教授達を奴らと呼んだ。
「案、ですか」
涙目を見開いて、光のランプを見上げる。ガラスの窓枠、笠の内側、真鍮の曲がった軸のつけ根から、くすくす笑いが漏れ出ている。
小人達がいる。咳が出る度、彼らの声は一段と高くなる。
ベトルはそれを、やおらにこぶしで追い払った。
「わたしなら……」
小人が落とした花瓶を大切そうに拾い上げて、プリッターは毛布の端で、その欠けた口を丹念に拭った。
「やはり退学を勧めますかね」
「退学を」
「ええ」
神妙に、だが即座にうなずいた。
「考えてもごらんなさい。あの子はね、この魔法学院に入門する前にも、鍵師の学校や剣術の道場で、落第印を押されて退学している」
「先生、なら、なおのこといっそう、あの子をここに置いといてあげた方がいいんじゃないっすか。あの子の気持ちを考えてあげたら……!」
「ベトル君」
赤く熱したヤカンを素手でつかんでいる彼を見上げて、プリッターは悲しそうに目を細めた。
「考えてあげて下さい。考えなければなりません。できるだけあの子の立場に立って、あの子の視線にまで降りてあげて……。あの子は本当に頑張り屋さんだ、そう思いませんか。幾つも学校を変えて、幾つも幾つも進路を変えて……」
「先生、あっしには先生のおっしゃろうとしていることがよく分かりませんや」
濡れたテーブルにヤカンを置いた瞬間、白い蒸気が噴き上がった。
「あの子はよく頑張った。五年も。ここで五年も……もう、これで充分だと思いませんか。ねえ、ベトル君、わたしはもう、あの子に無理を強いたくはないんですよ。なにより……」
そう言ってプリッターは、ベトルの赤い両手を取った。どういう訳かその途端、ベトルの耳も真っ赤になった。
「五年も魔法が使えないままで、あの子は本当にここに残りたいと思っているのでしょうかね。本当に、それがあの子の意志なんでしょうか」
穏やかに目を細めて、教授は弱々しく咳をした。
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「そ、そうですかい。先生がそうおっしゃるのなら……」
明晰な頭脳と、温厚な人柄に惚れ込んで、彼を兄貴と慕って付いてきてくれているのは有り難いのだが、このベトルはなんにつけ、ちょっと一生懸命になりすぎる癖があるらしい。
プリッターは咳をしながら、ストーブの前で毛布にもう一度くるまった。
「学院長が口うるさい古ダヌキに、吊るし上げられてるのも見ちゃいられねえが、あの、云とも寸とも言いやがらねえフランドルが、学院長の肩を持ったってのが一番、気味が悪いんでさ。俺ぁ思わず、すましてやがる奴の面ひっつかまえて、二三発殴ってやりたくなりましたがね」
「それはおよしなさい。ベトル君」
鼻息荒く、今にも喰らいつきそうなベトルを教授は慌てて抑え込んだ。
「分かってやすよ、ですから止しやしたよ。こんなあっしにだって、自制心ぐらいは……っ」
「そうでしょうね、そうでしょうとも」
そしてクルミのごみ箱に激しくむせんだ。
窓から消えようとする光の残輪を受けて、壁に掛かったランタンに、小さな妖精が火を運んで来る。
金色の帯が舞う。ホタルのような小さな存在が、金粉を後に引きながら、ランタンの周りを幾重にも飛び交う。
ランタンの火は危う気に揺れて、咳きこむ彼の薄い目元に、弱々しい影をつくった。
「教授。教授ならきっと、なにかすごい案が思いつきませんかね。あっしにはどうも……あの子の授業に立ち会ってる訳じゃぁありやせんから、どうも……あの子を助ける、いい案が思いつかないんでさ。といって、あっしには奴らのように、あの子を退学にさせようなんて、気安く言える訳ぁ、ありやせんからねえ……」
ベトルはついに、教授達を奴らと呼んだ。
「案、ですか」
涙目を見開いて、光のランプを見上げる。ガラスの窓枠、笠の内側、真鍮の曲がった軸のつけ根から、くすくす笑いが漏れ出ている。
小人達がいる。咳が出る度、彼らの声は一段と高くなる。
ベトルはそれを、やおらにこぶしで追い払った。
「わたしなら……」
小人が落とした花瓶を大切そうに拾い上げて、プリッターは毛布の端で、その欠けた口を丹念に拭った。
「やはり退学を勧めますかね」
「退学を」
「ええ」
神妙に、だが即座にうなずいた。
「考えてもごらんなさい。あの子はね、この魔法学院に入門する前にも、鍵師の学校や剣術の道場で、落第印を押されて退学している」
「先生、なら、なおのこといっそう、あの子をここに置いといてあげた方がいいんじゃないっすか。あの子の気持ちを考えてあげたら……!」
「ベトル君」
赤く熱したヤカンを素手でつかんでいる彼を見上げて、プリッターは悲しそうに目を細めた。
「考えてあげて下さい。考えなければなりません。できるだけあの子の立場に立って、あの子の視線にまで降りてあげて……。あの子は本当に頑張り屋さんだ、そう思いませんか。幾つも学校を変えて、幾つも幾つも進路を変えて……」
「先生、あっしには先生のおっしゃろうとしていることがよく分かりませんや」
濡れたテーブルにヤカンを置いた瞬間、白い蒸気が噴き上がった。
「あの子はよく頑張った。五年も。ここで五年も……もう、これで充分だと思いませんか。ねえ、ベトル君、わたしはもう、あの子に無理を強いたくはないんですよ。なにより……」
そう言ってプリッターは、ベトルの赤い両手を取った。どういう訳かその途端、ベトルの耳も真っ赤になった。
「五年も魔法が使えないままで、あの子は本当にここに残りたいと思っているのでしょうかね。本当に、それがあの子の意志なんでしょうか」
穏やかに目を細めて、教授は弱々しく咳をした。
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