南域結界☆ ジェルソミーナ -38ページ目

10 魔法のことば

「で、第二段階の魔法が」
 レシングは固く目を閉じて、危うげに両手で印を切る。
「これはどういう事なんだ、お前知ってるんだろ。おい、フランドル! フランドル!」
「第二段階の魔法が……」
 言いかけて、レシングは口を閉じた。学院長が全く、自分に意識を留めていないことに気付いたからである。
「先生……?」
「ああ、ごめんレシングちゃん、フランドル先生をね……」
 振り返った時には、あの気味の悪い壁は消えていた。代わりにあるのは、ごく標準的な透明な壁のみである。
 学院長は唖然と、その場に突っ立った。
「……やはり、全て幻覚なのかもしれない」
 レシングはわずかに首を傾げて、返事の代わりに、
「あのね、第二段階をね」
 おそらく、彼女はフランドルに随分と強く言われて来たのだろう。あのいつもの威圧的で命令調な指示に従って、少女はおずおずと印を切った。
 たちまちのうちに小さくとも新たな壁が……それも透明の壁が、彼らの前に浮かび上がった。
「……」
 壁は、目の前で分裂を果たした。
 学院長は自分の頬を、指で思いきりつねってみた。
 夢は、覚める気配がない。
「……で、これが私の学年でできる、魔法なんだけど……」
 少女は当惑したように、ぽつりと呟いた。
「試しにやってみたら……」
 分裂した二枚の透明の壁が、ゆっくりと右に動き始めた。
 学院長の顔からは、完全に血の気が失せていた。
「よしっ」
 慌ててポケットから手を出すと、学院長は床の上にあぐらをかき、何を思ったか両足の靴を放り出した。
「よし、レシングちゃん。じゃあ……じゃあ、次はこうだ。手をこう、こんな風に組んでごらん。そう。そう。そして、こんな具合に唱えるんだ」
 低い声で、彼はゆっくりと呪文を唱える。
「やってごらん」
 少女は神妙にうなずいた。そして、指を組んだ。
 二枚の壁は震えながら、新たな呪文を聞いている。
 後ろの透けて見える、青みがかった現実味のないガラスの壁は、それぞれ別々に、別々の速度で中央の部分を膨らまし始め、やがて、ゆっくりと完全な球体になっていった。
「そうだ! 偉いぞ!」
 学院長は両手を叩いた。
「じゃあ次は」
 少女は言われた通りに厚手の壁を作り、巨大な球体を作った。
「よし!」
 学院長はまた呪文を教えた。
「今度はちょっと難しいよ。無理はしなくてもいいからね」


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9 魔法のことば

 学院長はついに、最後の質問に取り掛かかった。
「この金魚鉢にほんのちょっと、お水を足してもらえないかな」
 少女はまた、胸の前で指を組み直す。
 しかしなぜか、学院長にはその姿が、憐れでならなかった。
 こんなにも、幼い子供なのに。彼は両目を、しばたたかせた。
「いいよ。ありがとう」
 まだ念じている彼女に声をかけた。目を向けた時、レシングの目が思いもかけず、大きく見開かれた。
 なぜこれだけで終わりにされるのかと、言いたげだった。
(いいんだよ。もう)
 少女は指を解かずに唱えた。
(残念だけれども)
 学院長は精一杯の笑みを、顔中に浮かべた。
(……あれは、間違いだったのかもしれない)
「学院長先生おっしゃってましたよねえ。魔法、使えるようになったって。それ信じて、こっちも忙しい間をぬって、いろいろテストしてみたんですがね」
 あの日の後、光を操る魔道師は回転椅子の上で、皮肉な笑いを浮かべて言ったものだ。
「よろしければもう一度、ご自身で、試験してみられたらいかがです。もちろんその時には、僕達も同席しますよ。……全くねえ、時間の無駄だったな。結果は、「相変わらず」。原因ですか? 考えられるとしたら、この子はよっぽど精霊に嫌われているんでしょう。精霊が、かすりさえもしない。だから発動しない」
 炎の力場でも、水の聖殿でも、風の溜り場でも同じ事を言われた、と学院長は答えた。
「間違いだったんじゃないんですか、先生がご覧になったという、あの例の一件。魔法が使えただなんて。こいつはねえ、正真正銘の出来損ないですよ。精霊が寄りつかないだなんて……。先生もいい加減、あきらめましょう。先生、お疲れなんですよ。幻覚を見るほどなんだし。こうなったらいい、っていう夢、ご覧になっただけですよ」
 学院長は精一杯の笑顔を、少女に見せた。
「レシングちゃん、もういいよ。おつかれさま。こっちへおいで、おやつにしよう。甘いのがいいかな、チェリーもあるよ、お砂糖のいっぱい付いたのにしようかな」
 こほんこほん、と乾いた、咳払いが部屋の外から聞こえた。
「先生、あのね」
 テーブルへ案内しようと、手を差し出した瞬間、レシングが急に顔を上げた。
「これがね、最初に習ったの。第一段階の魔法」
 何をするのか、と学院長は思った。
 つたない唇の動きに、目の前の空間が陽炎のように、一瞬歪んだ。
「フ、フランドルっ!」
 思わず彼は、部屋の外に向かって叫んでいた。
「でね、これがその応用なんだけど……」
 小窓ほどの、四角い空間が膨れ上がりだす。
 液体の滴り落ちそうな、赤紫の淀んだ色調。油膜の張った、粘り気のある表面。赤色の動脈。青色の静脈。流れる水泡。それらを浮き上がらせた、蠢く肌。
 膨れ上がるその「くびれ」は、人の首筋を連想させる。
 糸を引き、胎児のように浮かび上がってくる物は、一体何なのだろう。
 地獄の怨念を一杯に、孕(はら)んだような……。
 こんな壁は、見たことがない。
 自分が見ている物が現実なのか、それとも幻覚なのか、学院長一人ではもう判断できなくなってしまっていた。
「フランドル! どこへ行った、フランドル!」


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8 魔法のことば

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 その日の午後、学院長室に、防御魔法学の教授フランドルに付き添われて、灰色の制服の少女が現れた。
「レシングちゃんかい、どうしたい」
 椅子を反転させて、学院長は声を上げた。
 茶色い目が驚いて、少女は慌てて視線をそらす。
 頬が赤くなっている。
「学院長」
 見せてみなさい、とフランドルが肩を押した。
 レシングはよろけながら一歩前に出て、学院長を見上げ、そして立ちはだかる、背後の黒い影を返り見た。
「やってみせなさい」
 もう一度、強い口調でフランドルが言った。
 少女は両手を胸の前で組み、呪文を唱えるための態勢に入った。うつむいて、その表情は、誰にも見ることができない。
「フランドル君、ちょっとはずしていてくれないか」
 おもむろに学院長が言った。
「用が終わったら、すぐに呼ぼう」
 いつものようにのんびりとした調子だったが、厳しい口調でもあった。フランドルは問い返しもせずに、すぐさま部屋を退出した。
 学院長は花瓶の花に手を伸ばした。
「やってごらんなさい」
 蕾のままの花を取り上げて、学院長は独り言のように呟いた。
「うまくできたら紅茶を入れて、クッキーと、一緒におやつにしよう」
 今度は本当に、少女は呪文を唱え始めた。
「風を呼べるかい」
 しばらくためらった後、少女はこくん、とうなずいて、額の前でこぶしを組んだ。
「光を、この天井に集められるかい」
 女神の描かれた丸天井を、学院長は指差した。
「炎の小さな破片を、このロウソクに近付けるんだよ」
 一生懸命に呪文を唱えているのは、学院長にも痛いほど分かった。
 少女は真剣に魔法の呪文を唱えている。
 身じろぎ一つ、まばたき一つ、微動だにしない。呪文も、魔法に対する姿勢も、特段、問題はないように思われた。
(なのに……)
 なんの変化も起きていないのはどういう訳だろう。
 この前、彼に見せたあの現象は、幻だったのだろうか。あれは間違いなく、魔法ではなかったのか。
(いや、幻であるはずがない)


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