5 魔法のことば
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神官はうたた寝をしていた。
学術の神を祭る礼拝室に、小さな寝息が聞こえる。
小部屋はいつでも暖炉に薪がくべられ、祭壇上には銀の器が並び、机と椅子は顔が映るほどに徹底して磨かれて、ほこり一つなく居心地がいい。
どこかで梟が鳴いている。
時間は真夜中の、午前一時をまわっていた。
神官は長椅子の上で寝返りをうって、気だるそうにクッションの中で目を開けた。
辞書を手にした、総髪の学問神がこちらを見下ろしている。
長机の上に、赤い表紙の教本が置いてあった。
夕方の授業で、誰か生徒が忘れていったのだろう。あの席には膨れっ面の、ブラウニーが座っていたはずだ。
(また一時間後に目を開けて、書庫から本を下ろさなくちゃいけない。明日は早朝から、学院長が来るそうだから……)
神官はまた、まぶたを閉じた。
赤い炎がちらちらと、彼のまぶたを染めている。
(そうだ、朝食をとったら仔馬に鞍を付けよう。赤いやつ。縞のよりも、赤いのがいい。淡い皮紐の……。その後、ブラウニーに本を届けて……)
眠り込んでいく寸前に、どこかで泣き叫ぶような声が聞こえた。
神官は気付いて、はっと目を覚ました。
「僕が死んでしまったら、いったい誰が、あの人を守るんですか!」
物騒な声を聞いて、神官は慌てて、長椅子から身を起こした。少年の声だ。ソプラノの声。まだ若い。
燭台につまずきながら裸足のままで、部屋の物陰へと近付いていっても誰もいない。
隣の部屋からの声だ。
(いったい、何事だ)
泣き叫ぶ、少年の声は続く。
「あなたもご覧になったでしょう。あの人はとてもか弱くて、泣き虫で、とてもとても小さくて、誰かが傍にいて守っていてやらなきゃ、あの人はきっと負けてしまう。……あなただって……ご覧になっていたんでしょう。あの人がどれだけ他人にも、いや自分自身にだって我慢強かったか。でもね、そんなのもう限界だ。あの人には誰かが必要で、いつも傍にいて、あの人を守っていてあげなきゃ!」
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神官はうたた寝をしていた。
学術の神を祭る礼拝室に、小さな寝息が聞こえる。
小部屋はいつでも暖炉に薪がくべられ、祭壇上には銀の器が並び、机と椅子は顔が映るほどに徹底して磨かれて、ほこり一つなく居心地がいい。
どこかで梟が鳴いている。
時間は真夜中の、午前一時をまわっていた。
神官は長椅子の上で寝返りをうって、気だるそうにクッションの中で目を開けた。
辞書を手にした、総髪の学問神がこちらを見下ろしている。
長机の上に、赤い表紙の教本が置いてあった。
夕方の授業で、誰か生徒が忘れていったのだろう。あの席には膨れっ面の、ブラウニーが座っていたはずだ。
(また一時間後に目を開けて、書庫から本を下ろさなくちゃいけない。明日は早朝から、学院長が来るそうだから……)
神官はまた、まぶたを閉じた。
赤い炎がちらちらと、彼のまぶたを染めている。
(そうだ、朝食をとったら仔馬に鞍を付けよう。赤いやつ。縞のよりも、赤いのがいい。淡い皮紐の……。その後、ブラウニーに本を届けて……)
眠り込んでいく寸前に、どこかで泣き叫ぶような声が聞こえた。
神官は気付いて、はっと目を覚ました。
「僕が死んでしまったら、いったい誰が、あの人を守るんですか!」
物騒な声を聞いて、神官は慌てて、長椅子から身を起こした。少年の声だ。ソプラノの声。まだ若い。
燭台につまずきながら裸足のままで、部屋の物陰へと近付いていっても誰もいない。
隣の部屋からの声だ。
(いったい、何事だ)
泣き叫ぶ、少年の声は続く。
「あなたもご覧になったでしょう。あの人はとてもか弱くて、泣き虫で、とてもとても小さくて、誰かが傍にいて守っていてやらなきゃ、あの人はきっと負けてしまう。……あなただって……ご覧になっていたんでしょう。あの人がどれだけ他人にも、いや自分自身にだって我慢強かったか。でもね、そんなのもう限界だ。あの人には誰かが必要で、いつも傍にいて、あの人を守っていてあげなきゃ!」
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4 魔法のことば
口には出さないが、扉に視線を送る。
ベトルが扉に手をかけると、扉はわずかに奥へと開いた。
「学院長先生!」
レシングの声だ。
もちろん、学院長もベトル達も、少女のこんな力強い声を聞いたことがない。
少女はいてもたってもいられないように、絨毯の中で両足を開いて、
「見て!」
すっと息を吸い、手を組み、目を閉じる。
と、平穏そのものだった机の上で、一枚のメモ用紙が風に煽られ、震えて、やがて、机の上から静かに滑り落ちた。
プリッターとベトルは顔を見合わせた。
学院長もしばらく口も利けずに、一枚の、床に落ちたメモ用紙を見つめている。
「レシング……」
少女は何かを待つように、じっと学院長を見上げている。
「君は……」
学院長は、少女の肩に手をかけようとした。
「……魔法だ!」
我慢しきれなくなって、ベトルが叫んだ。
「魔法だったんだ、あれは! リュイの告白。あれが魔法だ! 魔法が、魔法の言葉で解き放たれたんだ!」
「そうですね、きっとそうです! あれが魔法だったんですよ!」
「そうだろ?」
「そうですとも!」
学院長は薄く開いた扉を開ききり、廊下を覗き、
「魔法なのは分かっとる! それよりここで何をしとるんだ!」
精一杯、怖い顔で睨みつけた。
「魔法だ、魔法だ!」
教授と教員ははしゃぎ続けている。下階から騒動を聞きつけて、教職員たちが集まってきていた。
「レシング!」
学院長は両手を広げ、一人佇む少女を抱き上げた。
「ほんっとうに君は、いい子だよ!」
小さな学生は恥ずかしそうに、学院長を見上げた。
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ベトルが扉に手をかけると、扉はわずかに奥へと開いた。
「学院長先生!」
レシングの声だ。
もちろん、学院長もベトル達も、少女のこんな力強い声を聞いたことがない。
少女はいてもたってもいられないように、絨毯の中で両足を開いて、
「見て!」
すっと息を吸い、手を組み、目を閉じる。
と、平穏そのものだった机の上で、一枚のメモ用紙が風に煽られ、震えて、やがて、机の上から静かに滑り落ちた。
プリッターとベトルは顔を見合わせた。
学院長もしばらく口も利けずに、一枚の、床に落ちたメモ用紙を見つめている。
「レシング……」
少女は何かを待つように、じっと学院長を見上げている。
「君は……」
学院長は、少女の肩に手をかけようとした。
「……魔法だ!」
我慢しきれなくなって、ベトルが叫んだ。
「魔法だったんだ、あれは! リュイの告白。あれが魔法だ! 魔法が、魔法の言葉で解き放たれたんだ!」
「そうですね、きっとそうです! あれが魔法だったんですよ!」
「そうだろ?」
「そうですとも!」
学院長は薄く開いた扉を開ききり、廊下を覗き、
「魔法なのは分かっとる! それよりここで何をしとるんだ!」
精一杯、怖い顔で睨みつけた。
「魔法だ、魔法だ!」
教授と教員ははしゃぎ続けている。下階から騒動を聞きつけて、教職員たちが集まってきていた。
「レシング!」
学院長は両手を広げ、一人佇む少女を抱き上げた。
「ほんっとうに君は、いい子だよ!」
小さな学生は恥ずかしそうに、学院長を見上げた。
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3 魔法のことば
ドアの外を覗いた彼は、断定に近い口調でそう叫んだ。
「そうでしたか?」
「今、目の前走って行ったぜ」
プリッターが外を覗いた時には、すでに少女の姿は見えなくなっていた。
「先生はここに残っていてください」
見上げるプリッターにそう言った。
「あっしが様子を見てきやしょう。先生はゆっくり、休んでてくだせえ」
「いえ。ベトル君は明日も早いのでしょう。あなたが行かなくても、私が」
「そんな水くさい」
プリッターはひょいと抱え上げられて、奥のソファ―に寝かされた。
「兄貴はご病気なんですから。あっしに任せておいてください」
「いや……しかし……」
居残る彼の気も知らずに、ベトルは大きく胸を張った。
「大丈夫ですよ。あっしにどーんと、任しておいて」
レシングが階段を昇りきったのは、それから間もなくのことである。
青銅の重い扉を開けて、少女は学院長に目を向けた。
学院長は書類を繰る手を止めて、オイルランプの光の奥から小さな学生を見上げた。
少女は絨毯の中に、歩を進める。
透明の羽根をもつ光虫が、触覚を反らして、ランプの傘から飛び立った。
一方、少女の後をつけてきて、ベトルはどうも落ちつきがなかった。
口笛が密かに、漏れ出ている。
今まで数えるほどしか用事のなかったこの最上階だが、たった一階違っただけで、どうしてこんなにも息がつまるような嫌な気分にさせられるのだろう。
彼は扉の前で息をひそめた。中から声が聞こえてくる。
「おや、レシング、こんな時間にどうしたんだい」
学院長の声だ。
「ベトル君」
やはり心配で我慢しきれなかったのか、体に毛布を巻きつけて、プリッターが背後から肩を叩いた。
「先生」
プリッターは、すまなさそうに目を細めて、彼の横に身をかがめた。
(どうなりました)
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「そうでしたか?」
「今、目の前走って行ったぜ」
プリッターが外を覗いた時には、すでに少女の姿は見えなくなっていた。
「先生はここに残っていてください」
見上げるプリッターにそう言った。
「あっしが様子を見てきやしょう。先生はゆっくり、休んでてくだせえ」
「いえ。ベトル君は明日も早いのでしょう。あなたが行かなくても、私が」
「そんな水くさい」
プリッターはひょいと抱え上げられて、奥のソファ―に寝かされた。
「兄貴はご病気なんですから。あっしに任せておいてください」
「いや……しかし……」
居残る彼の気も知らずに、ベトルは大きく胸を張った。
「大丈夫ですよ。あっしにどーんと、任しておいて」
レシングが階段を昇りきったのは、それから間もなくのことである。
青銅の重い扉を開けて、少女は学院長に目を向けた。
学院長は書類を繰る手を止めて、オイルランプの光の奥から小さな学生を見上げた。
少女は絨毯の中に、歩を進める。
透明の羽根をもつ光虫が、触覚を反らして、ランプの傘から飛び立った。
一方、少女の後をつけてきて、ベトルはどうも落ちつきがなかった。
口笛が密かに、漏れ出ている。
今まで数えるほどしか用事のなかったこの最上階だが、たった一階違っただけで、どうしてこんなにも息がつまるような嫌な気分にさせられるのだろう。
彼は扉の前で息をひそめた。中から声が聞こえてくる。
「おや、レシング、こんな時間にどうしたんだい」
学院長の声だ。
「ベトル君」
やはり心配で我慢しきれなかったのか、体に毛布を巻きつけて、プリッターが背後から肩を叩いた。
「先生」
プリッターは、すまなさそうに目を細めて、彼の横に身をかがめた。
(どうなりました)
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