南域結界☆ ジェルソミーナ -41ページ目

2 魔法のことば

「レシングに、ですか?」
ミルクを注ぎ足す手が、途中で止まった。
「レシングに」
「そうっすよお。あー、思い出しただけでも、じんじんしてくらあ……うー、あっしらの頃は間違っても、あんな事はなかったっすけどねえ。やっぱりあっしらの教育が間違ってたんでしょうかねー」
「はあ」
「うー」
「それで……レシングは、どうしました」
「じっと見てやしたね」
「じっと……リュイを?」
「そう。じっ、と」
 そう言ってベトルは、プリッターをじっと見つめた。
「……それで?」
「あとは一気に泣きまくってやしたよ。レシングの奴。リュイの方は、為す術もなく、ってとこでしたね。レシングに声、かけてたみたいっすけど。でも……あんまりレシングが泣くもんだから、あっしの方が……ああ、なんだか居たたまれなくなっちまって、結局、逃げて来ちまいましたよ」
「ベトル君らしくもない」
「せんせぇ、あっしゃあこう見えても、ああいうのは不得手なんですぜー」
 血走った目を見開いて、冗談だったのか本気なのか、彼は憮然としてそう答えた。
「なんだっ!」
 ベトルは危うく、プリッターと紅茶セットを受け止めた。
 何かが叩き付けられたような大きな音は、一階の鉄扉が跳ね開かれた音に違いない。
「何でしょう」
 ガウンを手にしたプリッターが、続きを言おうとする直前に、何者かが靴音をたてて、すぐ表の階段を駆け上がってきた。
「なんだ。寝られんじゃないか」
 ぼやく、隣室のしわがれ声が聞こえた。
「一体何事でしょう。こんな夜更けに」
「いやに急いでいるな」
「夜は修行と研究の邪魔になるんですから、あれほど走ってはいけませんと、よく念を押していますのにね」
「うん。どこに向かってるんだ」
「何か、悪い事が起こったのでなければいいのですが」
 誰かの足音は、途中何度もつまずきながら、数段階段をとばして駆け上がっていく。
「誰? 誰か分かりましたか?」
「今の、レシングじゃなかったか?」


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1 魔法のことば

   第三章



 入れたての、紅茶の芳しい香りが辺りに広がる。
 珍しく、今日は朝から気分が良かった。
 プリッター教授はカーテンの隙間から夜空を見上げて、無性に窓を開け放ちたい衝動を、ぎりぎりのところで留めておいた。
 夜になると、もう彼の私室に遊びに来る客もいない。
 窓の閂をしっかりと掛けて、ストーブの上から、暖めておいたスリッパとマフィンのお皿を取り上げた。
「先生っ」
 小さな声だが誰とはっきり分かる、いつもの声が表から聞こえた。
「どうぞ」
 スリッパを絨毯の上に置いて、彼はストーブにもう一皿、マフィンの皿を乗せておいた。
「どうしました。そんなにも慌てて」
 彼はわずかに微笑む。
「聞いちまったんですよぉ、教授っ!」
 真っ黒い岩石のような顔が、ぐしゃりと歪む。情けない声を上げるベトルの顔が、なんだか今夜は余計に子供っぽく見えた。
「聞いてしまったって、何を」
「聞いちまったんですよぉ。もう、もう……いやあ、まったくねえ」
 プリッターは袖を巻き上げて、ティーポットからお茶を注いだ。
「どうかしたんですか」
 見上げると、いつの間にかベトルの顔が真っ赤になっている。教授は黙って、紅茶を差し出した。
「俺にゃあ、駄目だ。ああいう根性はないな。いやあ……最近のガキは、えらくませているんだなあ」
「一体、何があったんですか」
「リュイが言っちまったんっすよ」
「はい?」
「レシングちゃんが好きだ、って」


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9 すべてのはじまり

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「……というふうに、不毛な練習を続けておりましたな」
 二人の様子を盗み見していた老教員が、翌朝、朝礼を終えた同僚にすり寄って、話して聞かせた。
「ほお。どうにか口だけは利けるようになりましたか」
 出勤札を裏返して、嘲るように、男は金縁眼鏡の下側から、せむし男を返り見た。
「口も利けないようじゃあ、魔法なんて到底無理だ……ってどなたか、おっしゃっていましたが……ありゃあ、どなたの御説でしたっけねえ、せんせ? 賭けは相変わらず……レシングにはお賭けにはならないんで」
「ふっ。馬鹿馬鹿しい。誰が。だったら、君が賭けたまえよ」
 名簿で相手の額を叩いて、教授は先へ歩き出した。
「そうだ。君が賭けてくれたら奴さん、きっと泣いて喜ぶだろ。なんてったって一応君も、担当教員の一人なんだから。僕と違って、顔馴染みだ」
「そんな、ガキに感謝されたってねえ。嬉しくともなんとも」
「そりゃそうだ」
 皮肉たっぷりに笑って、彼らは通りすがりの女性職員に挨拶をした。
「リュイがレシングの相手になっているようですよ」
 職員が、すれ違いざま囁いた。
「そりゃあ、ご苦労なこった」
「学院長も学院長だが、生徒もあきらめが悪い」
「伝統じゃないですか」
「学院長さえしっかりしていれば、こんな事にはならなかった」
「あの人は学院の経営を、ちっとも分かっていない」
「そうそう、それですよ」
 職員は声を、いっそう落とした。
「次の、学院長の話が出ていること、ご存知ですか」
「ほお」
 金縁の眼鏡が輝いた。
「まだ正式な話にはなっていませんがね。我々、同志の間だけで……」
「なら、今夜話を聞かせて下さい。我々、教授会も集まりましょう。声掛けは僕がやっておきます。いつもの飲み屋で……話したいことは皆さん、山ほどあるでしょうから……」
 そして彼らは、夜の集会の予定を立て始めた。


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