9 魔法のことば | 南域結界☆ ジェルソミーナ

9 魔法のことば

 学院長はついに、最後の質問に取り掛かかった。
「この金魚鉢にほんのちょっと、お水を足してもらえないかな」
 少女はまた、胸の前で指を組み直す。
 しかしなぜか、学院長にはその姿が、憐れでならなかった。
 こんなにも、幼い子供なのに。彼は両目を、しばたたかせた。
「いいよ。ありがとう」
 まだ念じている彼女に声をかけた。目を向けた時、レシングの目が思いもかけず、大きく見開かれた。
 なぜこれだけで終わりにされるのかと、言いたげだった。
(いいんだよ。もう)
 少女は指を解かずに唱えた。
(残念だけれども)
 学院長は精一杯の笑みを、顔中に浮かべた。
(……あれは、間違いだったのかもしれない)
「学院長先生おっしゃってましたよねえ。魔法、使えるようになったって。それ信じて、こっちも忙しい間をぬって、いろいろテストしてみたんですがね」
 あの日の後、光を操る魔道師は回転椅子の上で、皮肉な笑いを浮かべて言ったものだ。
「よろしければもう一度、ご自身で、試験してみられたらいかがです。もちろんその時には、僕達も同席しますよ。……全くねえ、時間の無駄だったな。結果は、「相変わらず」。原因ですか? 考えられるとしたら、この子はよっぽど精霊に嫌われているんでしょう。精霊が、かすりさえもしない。だから発動しない」
 炎の力場でも、水の聖殿でも、風の溜り場でも同じ事を言われた、と学院長は答えた。
「間違いだったんじゃないんですか、先生がご覧になったという、あの例の一件。魔法が使えただなんて。こいつはねえ、正真正銘の出来損ないですよ。精霊が寄りつかないだなんて……。先生もいい加減、あきらめましょう。先生、お疲れなんですよ。幻覚を見るほどなんだし。こうなったらいい、っていう夢、ご覧になっただけですよ」
 学院長は精一杯の笑顔を、少女に見せた。
「レシングちゃん、もういいよ。おつかれさま。こっちへおいで、おやつにしよう。甘いのがいいかな、チェリーもあるよ、お砂糖のいっぱい付いたのにしようかな」
 こほんこほん、と乾いた、咳払いが部屋の外から聞こえた。
「先生、あのね」
 テーブルへ案内しようと、手を差し出した瞬間、レシングが急に顔を上げた。
「これがね、最初に習ったの。第一段階の魔法」
 何をするのか、と学院長は思った。
 つたない唇の動きに、目の前の空間が陽炎のように、一瞬歪んだ。
「フ、フランドルっ!」
 思わず彼は、部屋の外に向かって叫んでいた。
「でね、これがその応用なんだけど……」
 小窓ほどの、四角い空間が膨れ上がりだす。
 液体の滴り落ちそうな、赤紫の淀んだ色調。油膜の張った、粘り気のある表面。赤色の動脈。青色の静脈。流れる水泡。それらを浮き上がらせた、蠢く肌。
 膨れ上がるその「くびれ」は、人の首筋を連想させる。
 糸を引き、胎児のように浮かび上がってくる物は、一体何なのだろう。
 地獄の怨念を一杯に、孕(はら)んだような……。
 こんな壁は、見たことがない。
 自分が見ている物が現実なのか、それとも幻覚なのか、学院長一人ではもう判断できなくなってしまっていた。
「フランドル! どこへ行った、フランドル!」


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