南域結界☆ ジェルソミーナ -26ページ目

7 もつれる糸

 こちらはすでに、現在研究進行中の、「粘着性膜」を呼び出す作業に夢中になってしまっている。
 宰相の言葉に反応するのに、しばらく時間がかかった。

「縦穴に来ていた女だ」
「マチルダですか」
 悲しいかな、ジェルソミーナは宰相相手に、『対魔獣マニュアル』を貫徹することができなかった。
「そうだ。あともう一人も、呼べと言え」
「もう一人?」
「言えば分かる。そして……「鏡の中の住人」を必ず連れて来い。必ずだ」
「鏡……? キーツ様、いったい何を?」
「……様?」

 不機嫌な波が、みるみる間に、表情に満ち溢れる。
 それを、
「あっ、違います! つい。みんながそう呼んでいるんで、つい、うつって、あのっ、申し訳ないです……閣下……」
「つべこべと!」
 様でも閣下でも、この際、一緒だろうと思うのだが、この人には『別』らしい。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
 第二撃目を、寸前で避けた。

 難しい人だ。
 しかも間の悪いことに、腰に下げた「羽虫の箱」へ、一匹の光虫が輪を描いて、飛び込んで来た。
 手で、虫の入った「穴」を塞ぐ暇もない。
 たちまちのうちに、単調で不愉快な警報音を、大音量で響かせる。
 慌てて箱を引き上げると、無数に開いた穴の一つが金色に輝いて、中で先程の光虫が羽根を開き、こちらを見上げている。
 「穴」には隣町、グールデン、とメモが書いてあって、羽虫の様子を見る限りでは、かなり焦っている。
 グールデン領主もかなり焦って、羽筒の栓を開いたのに相違あるまい。

 箱からすぐに手を離し、ジェルソミーナは、目の前の「お客様」に、営業用微笑を振りまいた。
「すぐにマチルダと『鏡の住人』を呼び寄せますので」
 案の定、ご機嫌は最悪だ。
 沈黙されるのが一番怖い。

 その時、救いの鐘が、山の大聖堂から聞こえてきた。
 晴れやかな国歌、賑やかな伴奏。
 新年の式典が、始まったのである。
 彼女の密かな願いが天に通じたのか、しばらく間を置いて、剣がゆっくりと、鞘の中に収まった。

 しかし、
「二度と、わたしの前に姿を現わすな」
 深く目を閉じて言い放った言葉には、あの戦いの最中と同じ、凍りつくような憎しみが込められていた。
「いいな。もし……わたしの前に、また現われるようなことがあったなら、シプリペディルム公国の命運も、その日までと思え。鏡の件を、伝え損ねた場合も同じだ」
 見開いた眼に、結界師は足がすくんだ。
「二度と、わたしの前に、この城に、姿を現わすな!」
 マントが宙で大きく波を打ち、宰相の後ろ姿が、廊下の向こうに消えて行った。

 ジェルソミーナは、廊下の端に、一人佇んでいた。
 壁に浮かんだ斑紋が、少しずつ、薄れていく。
(城に来るなということは)
 ジェルソミーナは言葉の意味を、反芻した。
(つまりは皇帝陛下の仕事も、引き受けられないってことじゃあ……)
 朗々とした国歌は、はや二番に、さしかかろうとしていた。


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6 もつれる糸

 そして、振り返る暇も与えずに、
「っ!」
 一撃目は、突然におとずれた。
 自動障壁は完璧に、彼女の体を守ってくれている。
「閣下っ!」
 眠気などふきとんだ。
 この宰相が、この城の居心地を悪くさせている。
 国がおかしくなってきているのも、全てこの宰相のせいだ。
 そして、この宰相とは、絶対に、反りが合わない。

(こんな奴が「神」なもんか!)
 宰相の剣が、防御膜にくい込んだ。
 剣の柄から溢れ出した光が、たちまちに、結界師の障壁を呑み込む。
「……どういうおつもりですか、いったい!」
「なぜ帰ってきた」

 全てを切り裂こうとする荒々しさとは裏腹に、消え入りそうな静けさで、尋ねる。
「帰ってくるなと伝えるよう、あの女に言っておいたはずだがな。聞かなかったのか」
「えっ。あ……はい、何も……」
 刃に、憎しみの重みが加わった。
 同時に、怒りだけしか感じられなかった瞳に、妖しい光が広がっていく。
(魔物……!)

「もう一度聞く」
 激しい風が、彼女を横殴りに、叩きつけた。
「なぜ、帰ってきた」
「それは……」
「なぜ帰ってきた、なんのために?」
(――わたしを苦しめるためか――?)

 これ以上、パストラルの仕事を引受けるのは難しいと、ジェルソミーナは覚悟した。
 ここまでだ。
「皇帝陛下から、お呼びがあったからです。大至急の」
「そんなことで!」
 障壁の上を、剣が滑った。
 いや、滑ったかのように見えて、なぜられた部分一面に、こまかな「ヒビ」が入った。
「だから帰ってきたというのか。そんな、くだらないことで!」

 危ないところだった。
 咄嗟に身をかわさなければ、防御膜は破れ、自動障壁もどうなっていたか分からない。致命的な最後の一撃は避けた。
 ジェルソミーナは新しく、正規の結界を張り直す。
 宰相の力は、以前、「悲しみの悪魔」の眠る縦穴で、一悶着おこした時よりも、遙かに強くなっている。
 この成長は並ではない。
 大体、あんな重そうなマントを着て、よくもこんなに動けるものだ。その時点で人間業ではない。

 ジェルソミーナはいつもの通りの、「生易しいこと」をやっていられなくなった。
 この人には「対お客様マニュアル」ではなくて、『対魔獣マニュアル』を適用した方がいいぐらいだ。
 最後の呪文を唱え終えた時、廊下の床・柱・壁・天井一面に、赤い斑紋が浮かび上がった。
 彼女の身の周りにもぼんやりと、水泡の浮かぶ、銀色の膜が現われている。

 宰相は、剣を振り下ろさずに、眉をひそめて、
「あの女を呼べ」
 とだけ言った。


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5 もつれる糸

 宰相の、後ろ姿が止まった。
 王女は上品に、笑い声を立てている。
「何でも知っておりますの、驚いたでしょ? 実は、お父様から聞きましたの」
 ジェルソミーナより二つばかり年上のはずだが、幾つになっても愛らしい姫は、とびっきりの茶目っ気ぶりを発揮した。

 しかしこちらの心臓は、とっくの昔に止まってしまっている。
 そんなジェルソミーナの気も知らないで、腕を引っ張り、王女は宰相に聞こえないように囁いた。
「『殺し文句』。ですわね、まさしく! 嫁ぎ先の決まっている身には、羨ましいですわ、結界師!」
「……姫様?」
「わたくしなど、嫁ぐ相手と口を利いたこともありませんのよ。そんな刺激的な恋、一度でもいいからしてみたかった……。ああ、けれど、物心つく頃には婚約者は決まっていたし、何よりお父様がお嘆きになりますものね……」
「姫様……っ」
「羨ましい。羨ましすぎです、結界師! わたくしと取り替えなさい!」
「ご冗談をっ」
 上目使いで睨んでみせる。
 その目つきは明らかに、この場の混乱を楽しんでいる。

 エオリオ王女は巧みに扇を操って、唇を押さえ、
「文字通り、『殺し文句』」
 色っぽく笑って見せた。
「フィーネ。姫様も新年の儀に、出席されるんじゃないの?」
「まだ時間はありますのよ、結界師さん」
 フィーネは残酷にも、ためらわず笑顔で答える。
「結界師ばかりずるいわ。刺激的なことばかり」
 扇の角で手の中を、ぱんぱんと叩く。

「わたくしも宰相に殺されてみたい」
「馬鹿なことをおっしゃらないで下さい。フィーネ、お姫様の衣装替えを。式典の準備!」
「結界師」
 振り切ろうとしたのに、またいつの間にか王女が袖をつかんでいる。
「結婚する時は、一緒に結婚しましょ」
「は?」
「わたくしだけがいつも特別。そんなの嫌だわ」
 そうこうしているうちに王女を捜していた女官達が現われ、たちまち王女を取り囲んだ。
「ねえ、今年は町の祭に行っても構わないでしょ。お父様もお許しを下さっているわ。本当よ。神官達の顔を見てもつまらない。ねえ……」
 何やら文句を言っていたが、王女は女官達に連れ去られていった。


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