2 愛されるもの・愛される花
ニックとカヤ、そしてジュンクリフは、軍の食堂で、お余りの菓子パンをもらい、町へ繰り出そうと城壁を越える。
「お前、エナとつき合ってるって?」
パンをかじりかじり、唐突に、カヤが切り出した。
「ジュンクリフ、お前、見境ないんじゃないのかー」
あきれた奴だな、とニックも彼の背を叩く。
「いや、いい女だぞ」
「いい女なのは分かってるけどな、お前、中身を……」
ジュンクリフは飄々と歩く。
下士官や召使女たちのよく集まる、居酒屋街の辺りまで来ていて、互いの表情が読み取れるほどには明るい。
「おい、ちょっと来いよ」
心配のあまり、カヤは脇道の角にある、最近出来たばかりの喫茶堂へ、彼を引っ張って行った。
曲がりくねった石畳を、二頭立ての馬車が疾走していく。
月もない夜だが、道の片側の建物から、向かいの建物へ渡された鉄線に、下げられる限りのオイルランプが吊り下げられていて、夜空は思ったよりも明るい。
それに見とれて、ニックは危うく、馬車に引っ掛けられそうになった。
大丈夫か、とカヤが叫んでいる。
ニックが仲間達のもとに辿り着いた時には、彼らはどこからか手頃な木箱を見つけて来ていて、今まさに、それを積み上げようとしているところであった。
「よし、それじゃあ僕が登る。ニック、持っててくれよ」
上着を投げ渡して、カヤが真っ先に、木箱によじ登る。
少しぐらつく所は、向かいの壁に足の平を突き立てて、こなした。
「誰か来ないか、見ていて」
「分かってる」
目的の窓まで、もう少しだ。
「何をする気なの」
ニックが不安そうに、カヤと喫茶堂の窓を、見上げている。
「あれが壁登りの訓練に見えるかー? 決まってんじゃん」
「覗き……だよね? やっぱり……」
「いや、敵陣の偵察と呼べよ。お……」
カヤが手の平で合図を出した。静かに、という合図だ。
ニックが両手で口を塞ぐ。
「いた?」
「いた、いた」
>INDEX
「お前、エナとつき合ってるって?」
パンをかじりかじり、唐突に、カヤが切り出した。
「ジュンクリフ、お前、見境ないんじゃないのかー」
あきれた奴だな、とニックも彼の背を叩く。
「いや、いい女だぞ」
「いい女なのは分かってるけどな、お前、中身を……」
ジュンクリフは飄々と歩く。
下士官や召使女たちのよく集まる、居酒屋街の辺りまで来ていて、互いの表情が読み取れるほどには明るい。
「おい、ちょっと来いよ」
心配のあまり、カヤは脇道の角にある、最近出来たばかりの喫茶堂へ、彼を引っ張って行った。
曲がりくねった石畳を、二頭立ての馬車が疾走していく。
月もない夜だが、道の片側の建物から、向かいの建物へ渡された鉄線に、下げられる限りのオイルランプが吊り下げられていて、夜空は思ったよりも明るい。
それに見とれて、ニックは危うく、馬車に引っ掛けられそうになった。
大丈夫か、とカヤが叫んでいる。
ニックが仲間達のもとに辿り着いた時には、彼らはどこからか手頃な木箱を見つけて来ていて、今まさに、それを積み上げようとしているところであった。
「よし、それじゃあ僕が登る。ニック、持っててくれよ」
上着を投げ渡して、カヤが真っ先に、木箱によじ登る。
少しぐらつく所は、向かいの壁に足の平を突き立てて、こなした。
「誰か来ないか、見ていて」
「分かってる」
目的の窓まで、もう少しだ。
「何をする気なの」
ニックが不安そうに、カヤと喫茶堂の窓を、見上げている。
「あれが壁登りの訓練に見えるかー? 決まってんじゃん」
「覗き……だよね? やっぱり……」
「いや、敵陣の偵察と呼べよ。お……」
カヤが手の平で合図を出した。静かに、という合図だ。
ニックが両手で口を塞ぐ。
「いた?」
「いた、いた」
>INDEX
1 愛されるもの・愛される花
三章 愛されるもの・愛される花
講義終了の木槌を、議長が鳴らすか鳴らさないかのうちに、三人は表へ飛び出していた。
「やったあ、終わったあー!」
感動のあまりカヤ中尉が、不謹慎にも、こぶしを作って叫んでしまう。
「終わったなあ、カヤ!」
「おおっ!」
夜の、議場前の階段で、ジュンクリフ中尉とカヤが片手ずつ。そして両手を、互いに打ち合わせる。
「やだよこんなの。なんで僕まで、講義を受けなきゃ駄目なのさ。しかも六日間! 昼食後と夕食後に、毎日っ!」
「そう言うなよ」
うんざりした顔で、さっさと階段を降りようとするニック少尉の肩に、ジュンクリフが腕を回す。
「終わったんじゃないか。あとはパアッと、遊ぼうぜ」
「そうだよニック! これで僕らは自由の身だ。もう微積も併有法も、捨てちまえ! よしっ、酒だっ、マディの店に飲みに行こう!」
三人の乱痴気騒ぎは、当然、会議場の上司にも丸聞こえであった。
立ち上がりかけていた特殊部隊指揮官・ダマラ少将も、そのままの姿勢で動けなくなってしまっている。
「あー」
静まり返ってしまった出席者全員を、どうにかしようと、苦しまぎれに、上座横手の老人が咳払いをした。
「……声がちと、大きすぎますな」
ちなみにこの老人、オミト将軍と呼ばれる近衛連隊の司令官で……ジュンクリフの元上官である。
彼の悪戯の後始末役、とでも言おうか。顔はさすがに落ち着いたものだが、
(あの坊主、いくら言ったら分かるんじゃい)
机の下で一つ二つ、指を折り数え、ぐっと肝に溜め込み、我慢している。
だが、ニックやカヤの元上官だった、ドランコ将軍やエズビ将軍は、さすがにたまりかねた様子で、
「そういう問題ではないでしょう」
と冷たくあしらう。
「彼らの件は」
上座のガービン総司令が、一つ溜め息をつき、間に入ってきた。
「今はまだ、様子見ということでよろしいでしょう。彼らの会議と任務は、これで終わった訳ではない。我ら統帥部と将軍諸君は、今回、最終回の一回限りの参加だったがな……セブ主任」
「はい」
黒板の前で、白衣の主任が、姿勢を正した。
「講習、ご苦労だった。実に、ためになった」
補佐官ネーブルの欠伸を見ぬふりして、元帥は、上座の席を立った。
「では解散」
>INDEX
講義終了の木槌を、議長が鳴らすか鳴らさないかのうちに、三人は表へ飛び出していた。
「やったあ、終わったあー!」
感動のあまりカヤ中尉が、不謹慎にも、こぶしを作って叫んでしまう。
「終わったなあ、カヤ!」
「おおっ!」
夜の、議場前の階段で、ジュンクリフ中尉とカヤが片手ずつ。そして両手を、互いに打ち合わせる。
「やだよこんなの。なんで僕まで、講義を受けなきゃ駄目なのさ。しかも六日間! 昼食後と夕食後に、毎日っ!」
「そう言うなよ」
うんざりした顔で、さっさと階段を降りようとするニック少尉の肩に、ジュンクリフが腕を回す。
「終わったんじゃないか。あとはパアッと、遊ぼうぜ」
「そうだよニック! これで僕らは自由の身だ。もう微積も併有法も、捨てちまえ! よしっ、酒だっ、マディの店に飲みに行こう!」
三人の乱痴気騒ぎは、当然、会議場の上司にも丸聞こえであった。
立ち上がりかけていた特殊部隊指揮官・ダマラ少将も、そのままの姿勢で動けなくなってしまっている。
「あー」
静まり返ってしまった出席者全員を、どうにかしようと、苦しまぎれに、上座横手の老人が咳払いをした。
「……声がちと、大きすぎますな」
ちなみにこの老人、オミト将軍と呼ばれる近衛連隊の司令官で……ジュンクリフの元上官である。
彼の悪戯の後始末役、とでも言おうか。顔はさすがに落ち着いたものだが、
(あの坊主、いくら言ったら分かるんじゃい)
机の下で一つ二つ、指を折り数え、ぐっと肝に溜め込み、我慢している。
だが、ニックやカヤの元上官だった、ドランコ将軍やエズビ将軍は、さすがにたまりかねた様子で、
「そういう問題ではないでしょう」
と冷たくあしらう。
「彼らの件は」
上座のガービン総司令が、一つ溜め息をつき、間に入ってきた。
「今はまだ、様子見ということでよろしいでしょう。彼らの会議と任務は、これで終わった訳ではない。我ら統帥部と将軍諸君は、今回、最終回の一回限りの参加だったがな……セブ主任」
「はい」
黒板の前で、白衣の主任が、姿勢を正した。
「講習、ご苦労だった。実に、ためになった」
補佐官ネーブルの欠伸を見ぬふりして、元帥は、上座の席を立った。
「では解散」
>INDEX
8 もつれる糸
>
「誰も知らないことだ」
女は眠りにつきながら、安楽椅子を揺らしていた。
「彼は、止まっている物が、また動き出すのを見るのが好きだった。壊れてしまった物が、嘘のように、動き出すのが不思議でならなかった」
女はゆっくり椅子を揺らした。
スカートの端が前後に揺れる。女は、動きに身を委ねている。
「誰も知らないことだ」
薄く目を開ける。
闇の中に遠く、吹雪にさらされた――険しい山が、浮かび上がってくる。
誰かが……
誰も知らない男が、無名の男が、一心不乱に小さな機械の部品をいじっている。
中年の男。貧しい男。
机の上に前かがみになって。春も。夏も。秋も。長い、冬も。
同じ事を、繰り返している。
「誰も知らない。本人さえ忘れてしまっているだろう。けれど……」
突然、彼女の椅子の傍に、幼い少女が駆け寄って来た。
「レイリちゃん!」
腰の高さほどの背丈しかない。幼い頃のマチルダだ。目を真っ赤にして、泣きはらしている。
「どうしたの」
椅子の動きを止めて、差し出された物を受け取った。
「リップルの首が取れちゃった」
女は、小箱から針と糸を出し、二つの物体を縫い合わせ始めた。
「あれは憧れだった。大きくなったら自分もきっと、全ての物を直せるようになるのだと、そう信じて夢中になっていた」
少女がつまさき立ちをして、レイリの手元を覗き込んでいる。
白い糸が魔法のように、布地の奥へ、吸い込まれていく。
「あの憧れは間違いなく、今も体の中に眠っている。忘れてしまっているだろう。けれど、心のどこかで待っている。間違いない……」
リップルの耳が、ぴくぴくと震えた。
「たとえ忘れてしまっていても、思い出せるはずだ。あの憧れは、彼だけの所有物ではない。彼だけの記憶ではない。……雪に埋もれたあの里で、多くの祖先が同じ事を夢見てきた。血が、覚えている。忘れようにも、忘れられるはずがない。彼の指先が、覚えている。人が忘れてしまっても、密かに覚えている。血縁者の歴史、血縁の記憶だ」
女はリップルを少女に返した。マチルダの顔が輝く。首のつけ根をこわごわ、何度もいじっている。
そんなマチルダの頭をなぜながら、女は静かに、あやすように囁いた。
「今は雪溶けを待ちなさい。長く苦しい冬の後には、必ず春が来る。じっと耐えなければいけない。じっと息を潜めて……雪溶けまで……」
>INDEX
「誰も知らないことだ」
女は眠りにつきながら、安楽椅子を揺らしていた。
「彼は、止まっている物が、また動き出すのを見るのが好きだった。壊れてしまった物が、嘘のように、動き出すのが不思議でならなかった」
女はゆっくり椅子を揺らした。
スカートの端が前後に揺れる。女は、動きに身を委ねている。
「誰も知らないことだ」
薄く目を開ける。
闇の中に遠く、吹雪にさらされた――険しい山が、浮かび上がってくる。
誰かが……
誰も知らない男が、無名の男が、一心不乱に小さな機械の部品をいじっている。
中年の男。貧しい男。
机の上に前かがみになって。春も。夏も。秋も。長い、冬も。
同じ事を、繰り返している。
「誰も知らない。本人さえ忘れてしまっているだろう。けれど……」
突然、彼女の椅子の傍に、幼い少女が駆け寄って来た。
「レイリちゃん!」
腰の高さほどの背丈しかない。幼い頃のマチルダだ。目を真っ赤にして、泣きはらしている。
「どうしたの」
椅子の動きを止めて、差し出された物を受け取った。
「リップルの首が取れちゃった」
女は、小箱から針と糸を出し、二つの物体を縫い合わせ始めた。
「あれは憧れだった。大きくなったら自分もきっと、全ての物を直せるようになるのだと、そう信じて夢中になっていた」
少女がつまさき立ちをして、レイリの手元を覗き込んでいる。
白い糸が魔法のように、布地の奥へ、吸い込まれていく。
「あの憧れは間違いなく、今も体の中に眠っている。忘れてしまっているだろう。けれど、心のどこかで待っている。間違いない……」
リップルの耳が、ぴくぴくと震えた。
「たとえ忘れてしまっていても、思い出せるはずだ。あの憧れは、彼だけの所有物ではない。彼だけの記憶ではない。……雪に埋もれたあの里で、多くの祖先が同じ事を夢見てきた。血が、覚えている。忘れようにも、忘れられるはずがない。彼の指先が、覚えている。人が忘れてしまっても、密かに覚えている。血縁者の歴史、血縁の記憶だ」
女はリップルを少女に返した。マチルダの顔が輝く。首のつけ根をこわごわ、何度もいじっている。
そんなマチルダの頭をなぜながら、女は静かに、あやすように囁いた。
「今は雪溶けを待ちなさい。長く苦しい冬の後には、必ず春が来る。じっと耐えなければいけない。じっと息を潜めて……雪溶けまで……」
>INDEX