8 もつれる糸 | 南域結界☆ ジェルソミーナ

8 もつれる糸

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「誰も知らないことだ」
 女は眠りにつきながら、安楽椅子を揺らしていた。
「彼は、止まっている物が、また動き出すのを見るのが好きだった。壊れてしまった物が、嘘のように、動き出すのが不思議でならなかった」
 女はゆっくり椅子を揺らした。
 スカートの端が前後に揺れる。女は、動きに身を委ねている。

「誰も知らないことだ」
 薄く目を開ける。
 闇の中に遠く、吹雪にさらされた――険しい山が、浮かび上がってくる。
 誰かが……
 誰も知らない男が、無名の男が、一心不乱に小さな機械の部品をいじっている。
 中年の男。貧しい男。
 机の上に前かがみになって。春も。夏も。秋も。長い、冬も。
 同じ事を、繰り返している。
「誰も知らない。本人さえ忘れてしまっているだろう。けれど……」

 突然、彼女の椅子の傍に、幼い少女が駆け寄って来た。
「レイリちゃん!」
 腰の高さほどの背丈しかない。幼い頃のマチルダだ。目を真っ赤にして、泣きはらしている。
「どうしたの」
 椅子の動きを止めて、差し出された物を受け取った。
「リップルの首が取れちゃった」
 女は、小箱から針と糸を出し、二つの物体を縫い合わせ始めた。
「あれは憧れだった。大きくなったら自分もきっと、全ての物を直せるようになるのだと、そう信じて夢中になっていた」

 少女がつまさき立ちをして、レイリの手元を覗き込んでいる。
 白い糸が魔法のように、布地の奥へ、吸い込まれていく。
「あの憧れは間違いなく、今も体の中に眠っている。忘れてしまっているだろう。けれど、心のどこかで待っている。間違いない……」

 リップルの耳が、ぴくぴくと震えた。
「たとえ忘れてしまっていても、思い出せるはずだ。あの憧れは、彼だけの所有物ではない。彼だけの記憶ではない。……雪に埋もれたあの里で、多くの祖先が同じ事を夢見てきた。血が、覚えている。忘れようにも、忘れられるはずがない。彼の指先が、覚えている。人が忘れてしまっても、密かに覚えている。血縁者の歴史、血縁の記憶だ」
 女はリップルを少女に返した。マチルダの顔が輝く。首のつけ根をこわごわ、何度もいじっている。
 そんなマチルダの頭をなぜながら、女は静かに、あやすように囁いた。
「今は雪溶けを待ちなさい。長く苦しい冬の後には、必ず春が来る。じっと耐えなければいけない。じっと息を潜めて……雪溶けまで……」


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