2 血縁の記憶
様子のおかしいジェルソミーナに、『長年の親友』が、心配げに声をかけた。
「熱でもある?」
「う、ううん。大丈夫。いや……ちょっとね。なんだか変なことが……あれ? 何言ってるんだろ、私、変ね」
少女レイリは、眼鏡を、指先でずり上げた。
氷の雫の中で、大人のレイリは口を閉ざし、微笑んでいるだけだ。
(そうよね。何もおかしな事はないよね、これが本来、普通なのよね)
「本当に大丈夫?」
疑わしげに、ジェルソミーナの顔をのぞきこむ。
「っ……大丈夫っ。大丈夫だからっ!」
両手で頬を、挟み打ちにされそうになって、慌てて逃げる。
こういう仕草はやっぱり、妹のマチルダと同じだ。
「そっ、そうだ。キーツ様に会いに行ってくれたんでしょ? わざわざありがとう……」
深々と頭を下げる。
「なんの話」
「えっ、ほらっ。キーツ様がね、マチルダとレイリと、鏡の中の人と、三人一緒にお城へ来てくれ、って。私、レイリにもお願いしたと思うんだけど……」
「ああ、あれ」
「そうそう。あれ」
「行ってない」
「えっ?」
レイリは眼鏡の奥から、当然でしょ、と言わんばかりに見上げている。
(うそ……)
「どうして! どうして、キーツ様のお願いを……私、ちゃんと伝えたはずなのに、なぜ……!」
「それで私達が行かなかったからって……シプリペディルム公国を滅ぼしたかい? 脅し文句通りに?」
ジェルソミーナは言葉を失った。
凄みの利いた声だった。
キーツは確かに言っていた。
ジェルソミーナがキーツの前に現われた場合と、マチルダ達をキーツの前に呼べなかった場合、このどちらの場合でも、即日、ジェルソミーナ達の故国である小国、シプリペディルム公国を滅ぼすと。
だが、ジェルソミーナはその事を、誰にも話してはいない。
「あれから随分と日にちが経つのに、地方の軍勢も帝都の軍も動かないでしょうが。一方で公国公主と息子は、今夜は接待のお茶会。明日は町をあげての魚釣り。昨日はイリニアの音楽祭に招待されている。この状況をどう判断する。つまりキーツ様は、最初から公国なんか滅ぼす気はなかったってこと」
(でも……)
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「熱でもある?」
「う、ううん。大丈夫。いや……ちょっとね。なんだか変なことが……あれ? 何言ってるんだろ、私、変ね」
少女レイリは、眼鏡を、指先でずり上げた。
氷の雫の中で、大人のレイリは口を閉ざし、微笑んでいるだけだ。
(そうよね。何もおかしな事はないよね、これが本来、普通なのよね)
「本当に大丈夫?」
疑わしげに、ジェルソミーナの顔をのぞきこむ。
「っ……大丈夫っ。大丈夫だからっ!」
両手で頬を、挟み打ちにされそうになって、慌てて逃げる。
こういう仕草はやっぱり、妹のマチルダと同じだ。
「そっ、そうだ。キーツ様に会いに行ってくれたんでしょ? わざわざありがとう……」
深々と頭を下げる。
「なんの話」
「えっ、ほらっ。キーツ様がね、マチルダとレイリと、鏡の中の人と、三人一緒にお城へ来てくれ、って。私、レイリにもお願いしたと思うんだけど……」
「ああ、あれ」
「そうそう。あれ」
「行ってない」
「えっ?」
レイリは眼鏡の奥から、当然でしょ、と言わんばかりに見上げている。
(うそ……)
「どうして! どうして、キーツ様のお願いを……私、ちゃんと伝えたはずなのに、なぜ……!」
「それで私達が行かなかったからって……シプリペディルム公国を滅ぼしたかい? 脅し文句通りに?」
ジェルソミーナは言葉を失った。
凄みの利いた声だった。
キーツは確かに言っていた。
ジェルソミーナがキーツの前に現われた場合と、マチルダ達をキーツの前に呼べなかった場合、このどちらの場合でも、即日、ジェルソミーナ達の故国である小国、シプリペディルム公国を滅ぼすと。
だが、ジェルソミーナはその事を、誰にも話してはいない。
「あれから随分と日にちが経つのに、地方の軍勢も帝都の軍も動かないでしょうが。一方で公国公主と息子は、今夜は接待のお茶会。明日は町をあげての魚釣り。昨日はイリニアの音楽祭に招待されている。この状況をどう判断する。つまりキーツ様は、最初から公国なんか滅ぼす気はなかったってこと」
(でも……)
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1 血縁の記憶
四章 血縁の記憶
「レイリ……」
おかしなことがあるものだ。
しかし、こんな雪の中、それも町から遠く離れた、人気のない雑木林の中では、こんなことも起こり得るのかもしれない。
「ジェルソミーナ」
雪は、膝下まで積もり、深く、木々の枝を、街道へ垂れさせている。
ジェルソミーナは、オーバーに耳当てを付けた、正面の少女を見つめた。
おかしなことがあるものだ。
初めて会う人のはずなのに、ジェルソミーナは、その少女の名前を知っている。
その上、この少女が、『マチルダの実姉』であることも、なぜか知っている。
……実姉?
マチルダは一人娘ではなかったか?
(そうだ、間違いない。一人っ子のはずだ)
だから両親が、マチルダを、寄宿舎に入れるのを、あれほどしぶったのだ。
――でも、姉もいた。
(え?)
姉がいるのに、一人っ子ということがあるのか。
マチルダは間違いなく一人っ子だ。
でも……姉がいた記憶も、ある。
ジェルソミーナはレイリを前にして、訳が分からなくなっていた。
雪の中に立っている、緑の目の、彼女。
マチルダの『実姉』レイリは、ぶ厚い眼鏡の奥から、そんなジェルソミーナを楽しそうに見つめている。
優しい目だ。
あどけない目だ。
知性が溢れて、深みのある……吸い込まれそうな、緑の瞳。
……姉は、やはりいたのに違いない。一人っ子だと思っていたのは、きっと、何かの勘違いだ。
「ジェルソミーナ、仕事には行かないの?」
(あら?)
レイリはこんな、声だったろうか。
マチルダとそれほど身長も変わらない、あどけない少女の口から聞こえてくるのは、低いトーンの冷静な声。
大人の声だ。
枝から垂れ落ちかけの、幾本もの氷の雫に、長いドレスを着た貴婦人の姿が、ごく小さく映っている。
他の氷滴にはジェルソミーナの姿。
しかし……少女レイリの姿は、どこにも映っていない。
(おかしい)
初めて見る不思議な光景なのに、それが不思議だとは思わない。
(いつものことじゃないの。鏡や、なにかの像を映す物には、大人の姿しか映らないのよ)
(なぜ、それを……、私が知っているの?)
振り返ると、少女と雫の婦人が、静かな目で彼女を見つめている。
ジェルソミーナのとまどいに、思慮深く答えるかのように。
何かに姿を映している時のレイリは、特別、思慮深くなるのだろう。
いや、今までもずっと、思慮深かったではないか、学院生のあの頃も、卒業式のあの頃も、確か、確か……。
「ジェルソ、どうしたの」
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「レイリ……」
おかしなことがあるものだ。
しかし、こんな雪の中、それも町から遠く離れた、人気のない雑木林の中では、こんなことも起こり得るのかもしれない。
「ジェルソミーナ」
雪は、膝下まで積もり、深く、木々の枝を、街道へ垂れさせている。
ジェルソミーナは、オーバーに耳当てを付けた、正面の少女を見つめた。
おかしなことがあるものだ。
初めて会う人のはずなのに、ジェルソミーナは、その少女の名前を知っている。
その上、この少女が、『マチルダの実姉』であることも、なぜか知っている。
……実姉?
マチルダは一人娘ではなかったか?
(そうだ、間違いない。一人っ子のはずだ)
だから両親が、マチルダを、寄宿舎に入れるのを、あれほどしぶったのだ。
――でも、姉もいた。
(え?)
姉がいるのに、一人っ子ということがあるのか。
マチルダは間違いなく一人っ子だ。
でも……姉がいた記憶も、ある。
ジェルソミーナはレイリを前にして、訳が分からなくなっていた。
雪の中に立っている、緑の目の、彼女。
マチルダの『実姉』レイリは、ぶ厚い眼鏡の奥から、そんなジェルソミーナを楽しそうに見つめている。
優しい目だ。
あどけない目だ。
知性が溢れて、深みのある……吸い込まれそうな、緑の瞳。
……姉は、やはりいたのに違いない。一人っ子だと思っていたのは、きっと、何かの勘違いだ。
「ジェルソミーナ、仕事には行かないの?」
(あら?)
レイリはこんな、声だったろうか。
マチルダとそれほど身長も変わらない、あどけない少女の口から聞こえてくるのは、低いトーンの冷静な声。
大人の声だ。
枝から垂れ落ちかけの、幾本もの氷の雫に、長いドレスを着た貴婦人の姿が、ごく小さく映っている。
他の氷滴にはジェルソミーナの姿。
しかし……少女レイリの姿は、どこにも映っていない。
(おかしい)
初めて見る不思議な光景なのに、それが不思議だとは思わない。
(いつものことじゃないの。鏡や、なにかの像を映す物には、大人の姿しか映らないのよ)
(なぜ、それを……、私が知っているの?)
振り返ると、少女と雫の婦人が、静かな目で彼女を見つめている。
ジェルソミーナのとまどいに、思慮深く答えるかのように。
何かに姿を映している時のレイリは、特別、思慮深くなるのだろう。
いや、今までもずっと、思慮深かったではないか、学院生のあの頃も、卒業式のあの頃も、確か、確か……。
「ジェルソ、どうしたの」
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12 愛されるもの・愛される花
振ったり光に透かしたり、ジュンクリフは、魔法の小道具で遊んでいる。
しかし、戦場では使えそうだ、とやがて納得がいったらしい。
ちょうどいい皮袋を探してきて、
「なあ、女って何をもらったら嬉しいもんなの」
手荒に机の引出しへしまうと、再び、重い事典を取り上げた。
ジェルソミーナは、彼を見返した。
「なに?」
「だから。くれてやるなら何がいいか、って。……あ。くそっ、つづり間違えたじゃん」
茶色い前髪をかき上げて、一心不乱に、ペンを走らせている。
「……人によると思うけど……」
「デンドロビュームって、いい花だよな」
「そうね。私は好きだけど」
「そっか」
後は何も言わずに、論文集のページを繰っている。
ロウソクの芯が、縮れたかすれ声を立てている。
「いるね、さては。また新たに、心に決めた人が」
ソファに腰掛けたまま、彼の背を見据えて、笑った。
「ふふん。どうかな」
手を止めずに、どうとも取れる返事を、彼は返した。
ジェルソミーナも、迷わずに聞く。
「つきあってるの?」
「いんや。まだ」
そう答えてペンを止め、何やら天井を見上げていたが、また手を動かし始めた。
「早く、休みなさいよ」
ジェルソミーナは席を立ち、窓を半分開いた。
彼女の体が膜に包まれ、たちまちに姿が薄れていく。
「お前もな、仕事ほどほどにしとけよ。年なんだから。……ああ、それと」
姿は見えなくとも、窓際に彼女が残っているのは分かっている。
ジュンクリフは、立て続けに大きな欠伸をして、目をこすりこすり、
「これ、ありがとな」
机の引出しを指差して言った。
風が部屋を吹き抜け、窓はきしみながらゆっくりと、元の通り閉じられた。
いつの間にか雪が、ちらつき始めていた。
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しかし、戦場では使えそうだ、とやがて納得がいったらしい。
ちょうどいい皮袋を探してきて、
「なあ、女って何をもらったら嬉しいもんなの」
手荒に机の引出しへしまうと、再び、重い事典を取り上げた。
ジェルソミーナは、彼を見返した。
「なに?」
「だから。くれてやるなら何がいいか、って。……あ。くそっ、つづり間違えたじゃん」
茶色い前髪をかき上げて、一心不乱に、ペンを走らせている。
「……人によると思うけど……」
「デンドロビュームって、いい花だよな」
「そうね。私は好きだけど」
「そっか」
後は何も言わずに、論文集のページを繰っている。
ロウソクの芯が、縮れたかすれ声を立てている。
「いるね、さては。また新たに、心に決めた人が」
ソファに腰掛けたまま、彼の背を見据えて、笑った。
「ふふん。どうかな」
手を止めずに、どうとも取れる返事を、彼は返した。
ジェルソミーナも、迷わずに聞く。
「つきあってるの?」
「いんや。まだ」
そう答えてペンを止め、何やら天井を見上げていたが、また手を動かし始めた。
「早く、休みなさいよ」
ジェルソミーナは席を立ち、窓を半分開いた。
彼女の体が膜に包まれ、たちまちに姿が薄れていく。
「お前もな、仕事ほどほどにしとけよ。年なんだから。……ああ、それと」
姿は見えなくとも、窓際に彼女が残っているのは分かっている。
ジュンクリフは、立て続けに大きな欠伸をして、目をこすりこすり、
「これ、ありがとな」
机の引出しを指差して言った。
風が部屋を吹き抜け、窓はきしみながらゆっくりと、元の通り閉じられた。
いつの間にか雪が、ちらつき始めていた。
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