5 血縁の記憶
> -***-
『 我が国(イリニア帝国)に対する、昨今の、パストラル帝国の態度は、紳士的なものとは言い難い。
◆真っ先に思い出されるのは、先年の、原因不明の災厄により滅亡した、『マルエ公国(パ帝国との国境に在った)』の領土・後処理問題についてである。◆マルエ公国と我が国とは、古くから親交が深く、イリニア舞台音楽界に影響を与え続けたマルエ出身の偉大な指揮者(故バストレーイユ氏)が「イリニアはマルエの乳母、マルエの揺りかご」と語ったように、または民族学者ジェジェ・ユリ博士(現イ大学名誉教授)が、「マルエ王朝には一部、イリニア帝の血が流れている」と、近年の研究で発見していたように、またはイリニアで消費される茶葉の十分の一が、マルエ公国からの輸入品であるように、文化・歴史・交易といった三面だけを見ても、この南東の小国は、我が国にとって親しみ深く、縁の多い友好国であった。
◆それゆえに、パ帝国の「マルエ公国占領」は、イリニア全土を揺るがす、大事件となった。
◆この思い上がりもはなはだしい、近隣諸国を無視した行為に対して、イリニア政府は、パ政府に再三回答を求めているが、いまだ望む回答は得られていない。◆このマルエの惨劇を、「実はパ軍部が仕組んだものではないか」と疑う声さえ、中央の有識者の間から上がっている。
◆「かつてはお互いの国益のために、努力を惜しまないことを誓いあった仲であった」。イリニア枢密院のチェチェケ外務首位はこう語る。「レッド・キルト同盟が、長い戦争の歴史に終止符を打ったのである。その時からイ・パ二つの帝国は、兄弟国として新しい関係を築き始めたはずだった。そしてこの二つの兄弟国は、ほんの数年前まで、歴史上稀に見るほど、実に仲が良かったのである」。
◆一方で、イ軍事評論家ランテ氏は手厳しい。◆「最初からうまくいくはずなどなかった。かたや名門本流の長男、かたや生まれも素性もはっきりしない、成り上がりの義理の弟。表面上うまくいっているように見えていても、この義兄弟がこじれもせずにやっていけるはずがない。(イ政府は)義弟を甘く見すぎた。いつか(パ帝国に)裏切られることは分かりきっていたことだ」。
◆確かに特に近年、義理の弟(パ帝国)の行動には、不審な点が多すぎる。◆イリニア新帝へ敬意を表明しないパ帝国中央庁。帝都を訪問することもなくなったパ中央政府高官。あまつさえ今度は帝国機甲師団などという無粋な物をも、パ帝国は作り始めている。◆いったいこの「義弟」は何を考え、何を始めようと企てているのか。◆「これが平和を求める者の考えとは信じ難い。近隣諸国、中でも我が国に対する牽制・敵意の表明と判断するのが自然であろう」(ランテ氏)。
◆来月、イリニア政府は新帝の命を受け、平和特使をパ帝国に向けて派遣する。まだ帝位について年の浅いイリニア帝王の、初の平和特使ということになる。◆「出来の悪い弟は兄が導くもの」ということわざではないが、有識者の一部はこの特使団に期待を寄せている。気の遠くなるほどの時間をかけて、ついに結んだ前回の平和条約の例があるからである。
◆しかしイ政府は真に、パ帝国の内情を理解しているのか。腰の引けたような対応を見ていると、疑念が残る。「事を急いではならない」のは確かだが、友好的な態度を取れない義弟に対して、そこまで下手に出る必要があるのか。
◆今回の特使団は、パ政府の真意を探る、重要な任務も帯びている。一刻も早く真意を聞き出し、世界諸国の疑念と不安を晴らしてほしい。 』
( イリニア帝都 配布版 「砂漠の崖新聞」 )
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『 我が国(イリニア帝国)に対する、昨今の、パストラル帝国の態度は、紳士的なものとは言い難い。
◆真っ先に思い出されるのは、先年の、原因不明の災厄により滅亡した、『マルエ公国(パ帝国との国境に在った)』の領土・後処理問題についてである。◆マルエ公国と我が国とは、古くから親交が深く、イリニア舞台音楽界に影響を与え続けたマルエ出身の偉大な指揮者(故バストレーイユ氏)が「イリニアはマルエの乳母、マルエの揺りかご」と語ったように、または民族学者ジェジェ・ユリ博士(現イ大学名誉教授)が、「マルエ王朝には一部、イリニア帝の血が流れている」と、近年の研究で発見していたように、またはイリニアで消費される茶葉の十分の一が、マルエ公国からの輸入品であるように、文化・歴史・交易といった三面だけを見ても、この南東の小国は、我が国にとって親しみ深く、縁の多い友好国であった。
◆それゆえに、パ帝国の「マルエ公国占領」は、イリニア全土を揺るがす、大事件となった。
◆この思い上がりもはなはだしい、近隣諸国を無視した行為に対して、イリニア政府は、パ政府に再三回答を求めているが、いまだ望む回答は得られていない。◆このマルエの惨劇を、「実はパ軍部が仕組んだものではないか」と疑う声さえ、中央の有識者の間から上がっている。
◆「かつてはお互いの国益のために、努力を惜しまないことを誓いあった仲であった」。イリニア枢密院のチェチェケ外務首位はこう語る。「レッド・キルト同盟が、長い戦争の歴史に終止符を打ったのである。その時からイ・パ二つの帝国は、兄弟国として新しい関係を築き始めたはずだった。そしてこの二つの兄弟国は、ほんの数年前まで、歴史上稀に見るほど、実に仲が良かったのである」。
◆一方で、イ軍事評論家ランテ氏は手厳しい。◆「最初からうまくいくはずなどなかった。かたや名門本流の長男、かたや生まれも素性もはっきりしない、成り上がりの義理の弟。表面上うまくいっているように見えていても、この義兄弟がこじれもせずにやっていけるはずがない。(イ政府は)義弟を甘く見すぎた。いつか(パ帝国に)裏切られることは分かりきっていたことだ」。
◆確かに特に近年、義理の弟(パ帝国)の行動には、不審な点が多すぎる。◆イリニア新帝へ敬意を表明しないパ帝国中央庁。帝都を訪問することもなくなったパ中央政府高官。あまつさえ今度は帝国機甲師団などという無粋な物をも、パ帝国は作り始めている。◆いったいこの「義弟」は何を考え、何を始めようと企てているのか。◆「これが平和を求める者の考えとは信じ難い。近隣諸国、中でも我が国に対する牽制・敵意の表明と判断するのが自然であろう」(ランテ氏)。
◆来月、イリニア政府は新帝の命を受け、平和特使をパ帝国に向けて派遣する。まだ帝位について年の浅いイリニア帝王の、初の平和特使ということになる。◆「出来の悪い弟は兄が導くもの」ということわざではないが、有識者の一部はこの特使団に期待を寄せている。気の遠くなるほどの時間をかけて、ついに結んだ前回の平和条約の例があるからである。
◆しかしイ政府は真に、パ帝国の内情を理解しているのか。腰の引けたような対応を見ていると、疑念が残る。「事を急いではならない」のは確かだが、友好的な態度を取れない義弟に対して、そこまで下手に出る必要があるのか。
◆今回の特使団は、パ政府の真意を探る、重要な任務も帯びている。一刻も早く真意を聞き出し、世界諸国の疑念と不安を晴らしてほしい。 』
( イリニア帝都 配布版 「砂漠の崖新聞」 )
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4 血縁の記憶
「逃げ道……それは、結界師の、守りの固さだった。キーツの力をもってしても、切り崩せない、魔法の壁。ジェルソミーナ、あなたは、自分の力を低く評価しているようだけど、私はそうは思わないよ……キーツ様が見つけたのは、自分の剣が決して通らない、しかもどんな無茶をしても、決して壊れない存在だった。殺そうと努力をしている間は、何もかもを忘れられる。結界師を憎んでいる間は、不安な気持ちを忘れることができる。しかも相手は、決して死なない……最近のキーツ様は、どこか、安心してあなたを切り付けている感じがする。ひたすら、不安から目を逸らすようにね。そうすることでほんの少し、心が楽になるんだろう」
意味分かる? と、全く理解できなかったらしい、ジェルソミーナに尋ねた。
「つまりどういう……」
「ようするに」
ちょっとレイリは、じれったそうだ。
「キーツ様はこれからも、何かとあなたに当たるだろうけど、あなたが深く考える必要はない、という事よ。結界師はただ、自分の「守り」の力を落とさないように気をつければいいだけ」
「ふうん……。まあ、レイリちゃんがそう言うなら……」
「ジェルソミーナっ」
腕に抱きかかえられたまま、レイリは、ほっぺたを膨らませた。
「本当に意味、分かってる? 私が言ったこと、きちんと伝わった?」
「う、うん、大丈夫よ。……たぶん……」
「たぶんっ?」
金色の髪が、逆立った。
レイリは、おそらく、気付いていたはずだ。
柔らかな雪の、どこまでも降り積もる、雑木林の。
ずっと、向こう。
山を越え、川を越え、森を抜けた先にある、小さな国境沿いの村で、ある悲惨な災害が、起こっている事を。
気付いていた証拠に、先程から氷滴の中で、あの貴婦人が、陰鬱そうにどこかを見ていた。
だが見ているだけで、何も語りはしない。
無防備だった村に、突如。巨大な力が、押し寄せたのだ。
村人には逃げる機会も与えられなかった。
村は丁度、昼食の時間で、学校からお昼ご飯を食べに、子供達が、家へ帰宅するところだった。
山で轟音が鳴り響き、田畑の人々は手を止めた。
誰もが、雷の先触れではないかと、思った。
しかし、それは雷などではなかった。
人々は、山が中央から割れ、崩れ落ちるのを目にした。噴き上がる黒い煙、赤く染まった空、飛び散る無数の岩石。
「逃げろ!」
たちまちに山を呑み込んだ巨大な渦に、誰かが叫んだ。
しかし、間に合わない。
渦はいっそう混濁を増し、すでに見える限りの空を、渦の体内に呑み込んでいた。
村は瞬時に光を失った。
渦に呑み込まれていたのである。
あとは、暗闇の中だけの出来事であった。
人々が切り刻まれ、押し潰され、溶かされる、阿鼻叫喚の叫びが、大地にこだました。
それでも氷の中で、婦人は何も言わなかった。
緑色の目を、どこか一点に据えたまま、身動きひとつ、しなかった。
雪の上で、少女レイリと、ジェルソミーナが言い合っている。
今の彼女達に、この遠くの村の事件は関わりがない。
村から闇が去った時、その山間の小さな村は、まるで山津波に襲われた後のように、何もかも、粉々に砕け散ってしまっていた。
それが、『悲しみの悪魔』の再来であると、誰が知ることができたであろうか。
――雪が枝から、どさりと、落ちた。
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意味分かる? と、全く理解できなかったらしい、ジェルソミーナに尋ねた。
「つまりどういう……」
「ようするに」
ちょっとレイリは、じれったそうだ。
「キーツ様はこれからも、何かとあなたに当たるだろうけど、あなたが深く考える必要はない、という事よ。結界師はただ、自分の「守り」の力を落とさないように気をつければいいだけ」
「ふうん……。まあ、レイリちゃんがそう言うなら……」
「ジェルソミーナっ」
腕に抱きかかえられたまま、レイリは、ほっぺたを膨らませた。
「本当に意味、分かってる? 私が言ったこと、きちんと伝わった?」
「う、うん、大丈夫よ。……たぶん……」
「たぶんっ?」
金色の髪が、逆立った。
レイリは、おそらく、気付いていたはずだ。
柔らかな雪の、どこまでも降り積もる、雑木林の。
ずっと、向こう。
山を越え、川を越え、森を抜けた先にある、小さな国境沿いの村で、ある悲惨な災害が、起こっている事を。
気付いていた証拠に、先程から氷滴の中で、あの貴婦人が、陰鬱そうにどこかを見ていた。
だが見ているだけで、何も語りはしない。
無防備だった村に、突如。巨大な力が、押し寄せたのだ。
村人には逃げる機会も与えられなかった。
村は丁度、昼食の時間で、学校からお昼ご飯を食べに、子供達が、家へ帰宅するところだった。
山で轟音が鳴り響き、田畑の人々は手を止めた。
誰もが、雷の先触れではないかと、思った。
しかし、それは雷などではなかった。
人々は、山が中央から割れ、崩れ落ちるのを目にした。噴き上がる黒い煙、赤く染まった空、飛び散る無数の岩石。
「逃げろ!」
たちまちに山を呑み込んだ巨大な渦に、誰かが叫んだ。
しかし、間に合わない。
渦はいっそう混濁を増し、すでに見える限りの空を、渦の体内に呑み込んでいた。
村は瞬時に光を失った。
渦に呑み込まれていたのである。
あとは、暗闇の中だけの出来事であった。
人々が切り刻まれ、押し潰され、溶かされる、阿鼻叫喚の叫びが、大地にこだました。
それでも氷の中で、婦人は何も言わなかった。
緑色の目を、どこか一点に据えたまま、身動きひとつ、しなかった。
雪の上で、少女レイリと、ジェルソミーナが言い合っている。
今の彼女達に、この遠くの村の事件は関わりがない。
村から闇が去った時、その山間の小さな村は、まるで山津波に襲われた後のように、何もかも、粉々に砕け散ってしまっていた。
それが、『悲しみの悪魔』の再来であると、誰が知ることができたであろうか。
――雪が枝から、どさりと、落ちた。
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3 血縁の記憶
でも、宰相は言ったのだ。
彼女に、二度と城へ戻るな、と言って。
あれは本気だった。
剣を振りかざし、憎しみのこもった目で、言ったのだ。
「いいかげん目を覚ましなさい。最近のあなたは、どうも変よ。いいかげん宰相の我侭に、振り回されるのはよしなさい!」
ずっと身長の低いレイリに言われるのも、不思議な感じだが、見上げる彼女の言葉には、年齢や体格を越えた重い力があった。
「しっかりしなさい、ジェルソミーナ。思い出して。あなたの仕事は、宰相のご機嫌とりなんかではないはず。あなたの仕事は、扉の整備、扉の守護。そしてあなたの主人は誰? 契約を結んだ者、皇帝でしょう? 皇帝があなたの力を求めている以上、あなたは契約に従い、職務を遂行しなきゃならないわ。宰相の顔色をうかがい、仕事を引き受けないようなら、あなたは結界師の仕事自体を辞めなさい。あなたの基本姿勢自体に、問題があるわ」
「レイリちゃん……!」
ジェルソミーナは夢中で、少女を、雪の中から抱き上げた。
「ごめんね……」
口をついて出た言葉が、それだった。
「そうだよね、おかしいよね……。なんで、皇帝陛下の仕事まで……変だな……」
「ジェルソミーナ」
細い眉が中央に寄り、みけんにしわができた。
「もう一つ言うわ。宰相に、あなたは殺せない」
断言して言った。
その目は真剣だ。
「殺したいと願っている。でも願っているだけでは、人は殺せない。人を殺すには、勇気が必要だ。だが肝心の勇気が、彼にはない。彼はいつも、今自分の立っている場所から、一歩前へ進みたいと願っている。でも願うだけで進めないのは、自分の中に弱さを飼っているからなんだ。彼の弱さとは、過去への執着、未来から迫り来る「変化」への恐れだ。彼には、ジェルソミーナは殺せない。彼はあなたを殺すことで始まる、『未来の変化』に怯えているんだ。そして未知なる、あなた自身に。……殺せるぐらいなら、とっくの昔に自殺できている。でも彼には、自分を殺す勇気さえない」
「……自殺するって、どういうこと」
「ものの例えだ。そう、ものの例えで――例えば彼が、この世界を滅ぼした後、自分も世界の後を追って、自殺しようと計画をたてている……と『仮定』する」
緑の目に、力が増した。
「……もし、その計画が世界滅亡まで成功しても……計画の「詰め」を、彼は実行できないだろう。彼は死なない。彼の最大の欠点は、自分の「生」に、あまりに執着しすぎるということだ。どんなに人間の住めない世界になっても、彼は生きようと必死にあがくだろう。死にたいと願っていても、思い悩むだけで、決して前へは進めないのが、あの、キーツ宰相の姿だ」
「レイリちゃん……キーツ様、死ぬ気なの……? ――いやっ、でもほら! キーツ様、私を殺そうとするのは本気だったわ。きっとキーツ様なら私を殺せる。私を殺して、何が変わるのかは分からないけど、きっとキーツ様なら、前には進めるはずよ」
レイリは、憐れみにも似た目で、彼女を見つめていたが、「何も気付いてなかったのね」と溜め息をして、
「彼は、少し変わってきた」
白い息が、いっそう白くなった。
「殺したいと願っていることには変わりはない。けれど心のどこかで……自分に結界師が殺せるだろうかと疑っている。結界師を殺すことで自分の中の何かが変わる、その予感も彼には恐怖だったからだ。けれど……彼は、ひとつの『逃げ道』を発見した」
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彼女に、二度と城へ戻るな、と言って。
あれは本気だった。
剣を振りかざし、憎しみのこもった目で、言ったのだ。
「いいかげん目を覚ましなさい。最近のあなたは、どうも変よ。いいかげん宰相の我侭に、振り回されるのはよしなさい!」
ずっと身長の低いレイリに言われるのも、不思議な感じだが、見上げる彼女の言葉には、年齢や体格を越えた重い力があった。
「しっかりしなさい、ジェルソミーナ。思い出して。あなたの仕事は、宰相のご機嫌とりなんかではないはず。あなたの仕事は、扉の整備、扉の守護。そしてあなたの主人は誰? 契約を結んだ者、皇帝でしょう? 皇帝があなたの力を求めている以上、あなたは契約に従い、職務を遂行しなきゃならないわ。宰相の顔色をうかがい、仕事を引き受けないようなら、あなたは結界師の仕事自体を辞めなさい。あなたの基本姿勢自体に、問題があるわ」
「レイリちゃん……!」
ジェルソミーナは夢中で、少女を、雪の中から抱き上げた。
「ごめんね……」
口をついて出た言葉が、それだった。
「そうだよね、おかしいよね……。なんで、皇帝陛下の仕事まで……変だな……」
「ジェルソミーナ」
細い眉が中央に寄り、みけんにしわができた。
「もう一つ言うわ。宰相に、あなたは殺せない」
断言して言った。
その目は真剣だ。
「殺したいと願っている。でも願っているだけでは、人は殺せない。人を殺すには、勇気が必要だ。だが肝心の勇気が、彼にはない。彼はいつも、今自分の立っている場所から、一歩前へ進みたいと願っている。でも願うだけで進めないのは、自分の中に弱さを飼っているからなんだ。彼の弱さとは、過去への執着、未来から迫り来る「変化」への恐れだ。彼には、ジェルソミーナは殺せない。彼はあなたを殺すことで始まる、『未来の変化』に怯えているんだ。そして未知なる、あなた自身に。……殺せるぐらいなら、とっくの昔に自殺できている。でも彼には、自分を殺す勇気さえない」
「……自殺するって、どういうこと」
「ものの例えだ。そう、ものの例えで――例えば彼が、この世界を滅ぼした後、自分も世界の後を追って、自殺しようと計画をたてている……と『仮定』する」
緑の目に、力が増した。
「……もし、その計画が世界滅亡まで成功しても……計画の「詰め」を、彼は実行できないだろう。彼は死なない。彼の最大の欠点は、自分の「生」に、あまりに執着しすぎるということだ。どんなに人間の住めない世界になっても、彼は生きようと必死にあがくだろう。死にたいと願っていても、思い悩むだけで、決して前へは進めないのが、あの、キーツ宰相の姿だ」
「レイリちゃん……キーツ様、死ぬ気なの……? ――いやっ、でもほら! キーツ様、私を殺そうとするのは本気だったわ。きっとキーツ様なら私を殺せる。私を殺して、何が変わるのかは分からないけど、きっとキーツ様なら、前には進めるはずよ」
レイリは、憐れみにも似た目で、彼女を見つめていたが、「何も気付いてなかったのね」と溜め息をして、
「彼は、少し変わってきた」
白い息が、いっそう白くなった。
「殺したいと願っていることには変わりはない。けれど心のどこかで……自分に結界師が殺せるだろうかと疑っている。結界師を殺すことで自分の中の何かが変わる、その予感も彼には恐怖だったからだ。けれど……彼は、ひとつの『逃げ道』を発見した」
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