1938年~1973年

KTC-32

 

京都機械(株)/一重丸京の35周年を記念して1975年に社史が編纂されているのを見つけました。(全390ページ)

これまでKTCの社史『KTC50年のあゆみ』等で一部しか分かっていなかった京都機械の全てが書かれています。

その内容を箇条書きでなるべく簡潔にまとめます。

さらに、工具関係ページの一部を抜粋して巻末に掲載します。

京都機械は、繊維染機の生産を本業とし、さらに遠心分離機と整備工具の3部門で運営されていましたが、当ブログでは整備工具だけを取り上げます。

なお、この社史35年間の最後期になる1970年12月に整備工具の生産から撤退しています。

したがい、まさしく一重丸京の最初から最後までがこの社史に書かれていることになります。

 

本書は、大阪大学の図書館に所蔵されていて、公立図書館ネットワークを通じて借りることが出来ます。(私は自宅でじっくりと読み込みました)

書籍名や会社名で検索してもインターネットでは一切ヒットしませんので、これまでその存在に気が付きませんでした。

ちなみに、地元の京都府立図書館にも所蔵されておらず、大阪大学の図書館だけが保有しているようです。(大阪府立図書館ではなく無く、大阪大学ですので、お間違えなく)

 

※年号は全て西暦で表示します。

(個人的に昭和表示に馴染みが無く、例えば終戦は1945年であり、昭和で考えたことが無いため)

※ハンドツール関連部分は青文字にしてあります。

※【補足】は、社史以外からの情報や私のコメントの追記。

 

第1章:創業前史(~1938年8月)

・染物機械メーカーの『和歌山鉄工(株)』は世界恐慌による国内不況のため、同社の京都工場を中口好一氏(京都機械2代目社長)に譲り、同氏が『合資会社・京都染物機械製作所』を1932年8月に設立。

*工場…京都市中京区西新堂松原上ル(松原工場/150坪)

・1937年の支那事変による混乱からプラント機械代金が回収不能となる資金問題等が京都染機に発生。

・京都染機の販売も行っていた(株)長瀬商店の長瀬徳太郎氏(京都機械初代社長)に援助を依頼し、新会社として京都機械(株)を1938年8月に設立。

・染料商であった長瀬商店(後に長瀬産業)は、京都西陣への染料供給で商売を始め、染料のみならずカラーフィルムなども取り扱っていて、戦前に早くもコダックの代理店となり、後に東洋現像所となる極東フィルム研究所も設立している。

 

【補足】『和歌山鉄工50年の歩み』が国会図書館に館内閲覧限定で所蔵されていますが、残念ながら京都機械とのことは載っておらず、京都工場の存在にも触れられていません。

また、京都染機については国会図書館にも資料はありませんでした。

 

第2章:創業期(1938~1941年)

・1938年8月2日、京都機械(株)設立

*社長…長瀬徳太郎 【補足】長瀬商店の社長を兼務

*工場…京都市(南区)吉祥院船戸町50(1938年12月開設/840坪)

・創業時には既に戦時体制下となっていて、工場北棟は松原工場からの染物機械生産機を移設させ、南棟は軍需用に。

・支那事変が中国全土に拡大し、他の会社と同じく軍需生産に力を入れることに。

・軍需生産の初期受注…軍需ブローカーの下請けとして野戦使用のふいご用の手回し小型送風機等 ⇒ 成果なく赤字の累積

・軍需ブローカー依存から脱却するため直接軍からの受注を目指し、大阪海軍監督官事務所に懇請。 ⇒ 海軍工廠からの受注につながる

・まず、呉海軍工廠からの飛行機用エンジンや航空機発動機械関係の部品を製造。 ⇒ 経営を維持するほどの売上げにはならず

・爆弾の起爆装置製造を受注し、工場を新設 ⇒ 売上げ金額には恵まれず

 

☆整備要具

*横須賀の海軍航空技術廠(空技廠)より、航空機エンジンと機体の整備用分解組立用工具の専門メーカーとしての養成を受ける。

【補足】空技廠は、当時の日本で最先端の技術者集団。

*その結果として、航空機エンジン部品と同じくニッケルクローム含有の特殊鋼を使用した整備用のスパナやモンキーレンチ、ドライバーを受注。

*この整備工具が主要生産品目となり、戦時中には3,000名を越える従業員を持ち、生産能力の大部分を投入することになる。

*陸軍も同様の整備工具を必要としていたが、京都機械は担当せず。

 

・1941年に染物機械の生産が禁止となり、本格的な軍需工場に転換。

・人員…1939年:50名 ⇒ 1941年開戦時:100名

・株主配当…創業当時は無配だったが、1941年4月期に6%、10月期に7%を配当。

・増資…1941年10月に設立時の資本金30万から4回の増資を経て1944年2月時には資本金500万円に。

 

☆土地と工場の拡充(本社工場周辺)

*1939年…200坪購入、450坪借地 ⇒ 倉庫、検査場、車庫を建設

*1939年9月…本社工場の西大路東側に890坪購入 ⇒ 講堂等

*1941年11月…上記土地の南に610坪購入、550坪借地 ⇒ 爆弾起爆装置工場

*1940~41年…本社工場南側に707坪借地 ⇒ 寄宿舎

*1942年4月…2,500坪を借地 ⇒ 鍛造、鍍金工場

*同10月…(本工場南側)1,250坪借地 ⇒ 青年学校

*同年同月…西大路通東側13,000坪借地 ⇒ 営業所と工場(現在のイオン洛南店)

*1944年…天神川西側に2,100坪借地 ⇒ 厚生施設(炊事場、浴場等)

↑1944年12月時点の本社工場(京都南区吉祥院)

・土地と工場の拡充(本社工場以外)

*花園工場(木工場)/1,205坪、桂川第1工場/3,630坪、同第2工場/8,000坪、七条第1、同第2工場

 

【補足-1】現在の京都機械本社工場跡地(イオン洛南店)

何故かGoogle Mapにはイオン敷地の対面に今でも『京都機械 京都事務所』の名称が残っています。(実際にはマンションが建っていますが)

工具撤退後の1995年にイオン(旧ジャスコ)に貸与し、京都機械は同じ京都の福知山市に移転していますが、その時に事務所を残していて、そのなごりだと思います。

↑1975年頃の本社入口(恐らく1944年12月の本社と同じ位置)

 

【補足-2】一重丸京ロゴ

一重丸京ロゴの使用開始時期に触れられていませんが、恐らくゼロ戦工具からと推測しています。(確認出来る最初の一重丸京使用はゼロ戦工具)

ただし、染物機械以外の軍需事業に一重丸京を使ったとすれば、ゼロ戦以前の小型送風機や爆弾起動装置から使われている可能性もあります。

 

【補足-3】商標登録

一重丸京は、京都機械の工具用ロゴですが、染物機械用に別のロゴが使われていました。(二重丸に”K”)

この染物機械用ロゴがいつから使われているのかは情報がありません。

さらに、両ロゴ共に商標登録が見つけられず、個人名で登録しているか、または商標として登録していなかったかのいずれかになります。

(少なくとも1代目社長、2代目社長の個人名での登録はありません)

↑↓企業名鑑/1960年の繊維工業会社一覧と作業工具会社一覧より

 

第3章:戦時期(1941~1945年)

・1941年12月8日、太平洋戦争開戦。

・染物機械工場の機械はほとんどスクラップ化され、工業生産は軍需用に切り替え。

・戦前からの海軍工廠関係の航空機整備用工具の生産が軌道に乗り、また爆弾起爆装置や発動機部品、引込脚弾力検出装置等も製造。

・1943年1月…海軍指定工場

・1944年…軍需会社法に基づき、会社は1月に軍需省管轄となり、4月には第2次軍需会社の指定を受ける。

・同年…防諜上の理由により軍命令で『神武吉祥院工場』に改称。

・1945年…京都会という名称で組織されていた協力工場150余(京都、滋賀、大阪、和歌山等)の大多数が次々と被爆し、生産能力は急激に低下。

・1945年8月15日…終戦

・終戦時(8月15日時点)の従業員数…2,333名

※上表には軍への招集者591名を含む。(3,124名-591名=2,333名)

 

【補足-1】エンジン整備用工具

『京都機械35年のあゆみ』に海軍向け整備用工具として『光 1,2 3型エンジン』と『神風2型エンジン』の整備工具セット(用具箱)の写真が掲載されており、京都機械が生産を担当していたことが分かります。

(海軍初期のエンジン向けの工具も作っていたらしいとこれまで噂でのみ聞いていましたが、この社史で写真まで確認することが出来て、感激しています)

また、既に当ブログで取り上げている通り、『天風』と『』、『』エンジンの整備工具セットも京都機械が生産していました。(『天風』ブログで全工具を詳細に解説しています)

上表より神風、天風、光エンジンは、京都機械が創業する1938年よりも前に海軍に正式採用されているのが分かります。

つまり、3種エンジンについては、エンジンの正式採用後に途中から京都機械の整備工具が生産されたことになります。

京都機械の整備工具がいつから生産開始されたかについて社史では言及がありませんが、ゼロ戦の正式採用である1940年7月に間に合うように空技廠の指導を受けながら準備を進め、正式採用の頃には整備工具の生産が開始されていたのだろうと推測しています。

↓榮エンジン/ゼロ戦整備用のスパナ(榮二○型・外3番工具)

先の3種エンジンについてはゼロ戦の整備工具生産と同時またはそれ以降の生産になるのだと思います。

唯一現物が確認できている天風/赤トンボの整備工具に『製造 8年』(昭和8年/1933年)と刻印されていたことから、当ブログで『京都染機が1933年から一重丸京工具を生産』としてきました。

しかしながら、今回『京都機械35年のあゆみ』を読み、整備工具の生産は1940年またはその前後からと考えるのが妥当だろうと考えるに至りました。

したがい、先の『京都染機が1933年に生産』は誤りであり、訂正します。

赤トンボ整備工具の刻印『製造 8年』は、"8"の前にスペースがあることから、本来は"18"と刻印されていたものの、"1"の刻印が薄くて消えたのだろうと考えています。

なお、取材した赤トンボの整備工具は、赤トンボの練習地であった霞ヶ浦海軍基地周辺の農家に緊急着陸時の対応用に配られたものであることから、昭和18年/1943年の京都機械生産であっても、終戦の1年か2年前に農家に配られたものと考えれば、時代と整合します。

 

 1)光 1,2,3型/内部要具と外部要具 (『京都機械35年のあゆみ』より)

 

・光エンジンの外部要具と内部要具(外部要具のケース側面に『光』と表示)

 

 2)神風2型/内部要具 (同)

・同じく側面に『神風』と表示。

 

 3)天風10型/外部要具 (予科練平和記念館/茨城・霞ヶ浦の所蔵品)

・海軍向け整備要具で、日本で工具単品まで現物が確認できる唯一のものだと理解しています。("天"は天風の略)

・米国スミソニアン博物館にはゼロ戦の工具込み要具ケースが保管されているとのこと。

・神風を除く4機種に同じデザインの銘板がリベット止めされています。

(神風は写真に銘板が写っていませんが、たぶん同じ銘板でしょう)

・"エンジン名" "外部/内部" 要具、京機第xx號、昭和xx年xx製造と表示。

・『京機』は京都機械の略でしょうから、京都機械製であることの証です。

・エンジンを正面から見たイラストは7気筒(7x2=14気筒⇒榮エンジン)。

・全ての機種に同じ7気筒イラストの銘板が使われ続けていることからも、最初の生産は榮エンジン/ゼロ戦だったのだろうと推察できます。

・なお、写真の銘板は9気筒の天風用で、前述した『昭和 8年』の現物で、"8"の前がスペースのように見えています。

 

 4)榮20型/内部要具と外部要具 (榮撥動機二○型取扱説明書より)

↑内部要具…いわゆるスペシャルツールで、オーバーホール用

↓外部要具…一般整備用(ピストンを抜くぐらいまで可能)

 

 5)譽型/外部要具 (譽撥動機取扱説明書より)

 

 6)護型/外部要具 (譽撥動機取扱説明書より)

譽エンジンの工具一覧表には護エンジンとの工具共用有無が記入されていて、譽工具の73%が護にも使用可能となっています。

護エンジンは200基しか生産されませんでしたので、正式に専用整備要具が設定されたのか、また専用の取扱説明書を造ったのかは分かりませんが、榮や譽と多くの工具が共用出来ることから、京都機械/一重丸京の要具が使用されたのは確かだと思います。

 

↓京都機械工場内での陳列/納品式?(『京都機械35年のあゆみ』より)

・右側の2列は、榮エンジン/ゼロ戦用の工具箱で、第四面が見えているのだと思います。

・その左隣の2列は、外部要具のようですが、どの機種かは分からず、前述の6機種とはまた別のようです。

・一番左の1列も、別機種のなのかと思います。

 

【補足-2】機体用整備用工具(『京都機械35年のあゆみ』より)

 九九艦爆用の機体整備要具  

・要具箱は木製で、京都機械の花園工場(京都市右京区花園八ツ口町)として1,205坪の土地を購入し、専用の木工場にて生産されていたとのこと。

・建屋用の木材を、宇治田原等の山林を購入して自家栽培により確保していたとのことで、要具箱の木材も自達なのかもしれません。

 

【補足-3】不明点

[1] 前述の通り3種エンジン用の整備工具は、京都機械が途中から生産を始めています。

つまり、京都機械参入以前に既に専用の整備工具があったことになります。

以下3点の可能性が考えられます。

①空技廠の指導を受けてニッケルクローム含有の特殊鋼を使うなどして高精度の工具を作った会社が他に存在

②1940年以前の海軍向け工具は一般市場に出回っているのと同じレベルであることから、空技廠が京都機械を技術養成

③軍艦の製造を行っていた海軍工廠が、直接工具も生産

1940年以前の海軍向け工具の情報を知りたいところです。

ちなみに、『関西スピンドル製作所も空技廠の技術養成を受けていたが、京都機械が同社を引き離した』と社史に書かれていて、養成時に競合していた会社の具体的な社名が何故出てくるのかちょっと気になっています。

☆2022年6月24日追記

1936年発刊の『光発動機取扱説明書』を見つけました。

京都機械製では無い別の会社の工具が使われていることが実際の工具写真と共に確認できました。

しかしながら、誰が造った工具なのか(①~③のどれなのか)は相変わらず不明です。

↓1936年の『光發動機』整備要具

[2] 陸軍向けの整備工具については、これまで情報が皆無です。

たとえば、隼(榮の陸軍向けハ35型エンジン)は5千機以上が生産されていますが、整備工具はどのようなものだったのでしょうか?

ハ35型は基本的には海軍の榮と同じエンジンですので、京都機械製の工具が使用できたと考えますが、陸軍には納めていないことが社史に書かれています。

陸軍向けにはどのような工具をどの会社が作っていたのでしょうか?

 

第4章:転換期(1945~1951年)

・京都は空襲の戦火を免れたため、京都機械の工場はそのまま存続。

・終戦と同時に一端全員を解雇したうえで、962名を再雇用。

・染物機械の生産再開を軸とした経営案を作成するが、当面の経営安定化のために1部と2部に分けて事業を推進することに。

 

☆1946年12月の部門と売り上げ33

・『染色機械』が売り上げトップ

・『工具』もトップと僅差の売り上げで大きく貢献

【補足】社史では言及されていませんが、トヨタのトラック生産に復活に伴う1946年からの車載工具納入が大きく貢献しているはずです。⇒ 詳細は、こちら

・『整備工場』事業…舞鶴に山積みされていた戦時中のトラック、乗用車等を再整備し、またボディーを架装して販売。(新車製造に制限が掛かっていたため、一時的に大きな売り上げとなった)

・戦後初の比叡産ケーブルの車体は、この整備工場部門の仕事。

・『家庭用品』事業…斧や鍋、釜の類い。

・『部品』事業…戦注の発動機部品製作を活かした自動車部品。

・整備工具事業と自動車部品は戦後の過渡期を経て振るわなくなり、これを主体としていた第2部は廃止へ。

 

☆一般工具市場への本格参入

①日本自動車部品(旧・日本自動車配給株式会社…戦前にトヨタや日産等の共同出資により設立された自動車配給会社)から寄せられた自動車整備工具の市場ニーズ情報

②戦前から培った高度の工具生産ノウハウ

③終戦時に特殊鋼のNi-Cr-V鋼やクロモリ鋼が大量に残されていた(京都機械の資産)

上記3点より新たに自動車市販工具市場へ参入。

社史のオリジナル解説 ⇒『最初1年余は商品価値も充分では無かったが、次第に改良を加えて本格的となり、一般の工具メーカーとは別の新需要を拡大した』

【補足】戦時モデルの鍛造型を利用し、"K.K.K."と刻印を変更して市場に参入したと推測。(K.K.K.…Kyoto Kikai Kabushikigaisha)⇒ 詳細は、こちら

・終戦直後からのインフレ進行等により経済が悪化し、1949年に工場閉鎖、人員削減などの合理化案を作成し、組合に提示。

・1950年末には終戦後に再雇用した962名の従業員は297名まで減少。

 

【補足-1】工具部門からの人員離脱

・1950年までの合理化に端を発して、工具部門の主要メンバーであった3名(斉藤喜一氏、山崎宋次郎氏、宇城正行氏)が1950年に京都機械を退職し、同年に京都機械工具(株)/KTCを設立。

・京都機械/工具部門の安定した収益の柱であったトヨタ向け車載スパナ事業が、KTC設立とほぼ同時に京都機械からKTCへ移行。

・京都機械工具の主要メンバーだった3名とトヨタの間で出来上がっていた信頼関係、ならび京都機械の値段交渉失敗の2点がOEM生産元がKTCへ移行した理由と推測しています。

・工具部門からの人員離脱やトヨタへの車載スパナ供給終了については当然ながら京都機械の社史には登場しません。

 

【補足-2】

・戦時中1943年の京都機械職制表…KTC創設メンバー3名のひとり、斉藤喜一氏の名前が登場しています。

 

第5章:安定期(1951~1965年)

・1954年10月…スパナ/B4630のJIS認証を取得

・1960年9月…メガネ、ソケットレンチでJIS認証取得

☆航空機整備工具

・1950年8月創設の警察予備隊へは全て米軍供与品により、市場は開かれず。

・1954年7月防衛庁発足 ⇒ 空幕関係で最初の一般工具入札に参加し、その大半を落札。

↑カタログには掲載されていないスパナ形状であり、航空自衛隊向け専用モデル?

(ウイング付き桜マークの刻印があり、航空自衛隊への納入品と分かります)

・1954年~1956年…航空自衛隊の調達実施本部との契約で作業工具を主体としてスタートし、相当の受注を確保し、売上高も30%程度増加。

・その後、1959年まで受注が不安定に推移したこともあり、航空機企業の下請けの形で防衛庁に納入する形式に変わっていった。(1958年以降:川崎航空、神戸製作所、1959年:新明和工業等)

・1959年…戦前から海軍向け納入の経験があり、航空機関係の特殊工具に関して唯一の専門メーカーであったことから、T33練習機、F86ジェット戦闘機の国産化計画に伴い特殊工具を本格的に受注し、業績も次第に上昇。

・以降、複数機体の整備機器を受注。

*1961年…石川島工業、F104ジェット戦闘機の国産化J79エンジン用

*1962年…新三菱工業、F104機体整備支援機材

*1963年…新三菱工業、S62対戦ヘリコプター用

*1964年…石川島重工、HSS-2対潜ヘリ、KV-107大型ヘリのT58エンジン用

*1964年頃…富士重工業、T1練習機用

*1964年頃…川崎航空機/岐阜製作所、ベルヘリコプター用

 

☆自動車市販工具

・自動車市販工具の売り上げは順調に伸び、1962年-63年には倍増。

・1964年に売り上げ減を招き、収益率が漸減の傾向を示し、その将来について考慮を要すべき事態となった。

・ただし、売上高は、1960年頃の4千万円/半期から1億8千万円/半期に上り、他部門と共に相当の活況を呈した。

【補足】工具単体での収益率の変化が説明されていないため、どういう状況なのか分からず、『将来について考慮すべき事態』の詳細が不明です。(売れてるけど、儲からない理由?)

 

☆品質管理要求

・F86、T33までは防衛庁からの難しい要求事項は無く、JIS表示許可工場であれば差し支えなかった。

・1963年、F104/J79等の整備機材の頃より米軍仕様MIL-Q-5923Cの適用が求められるようになり、TQC総合品質管理(作業手順の標準化)が必要になってきた。

 

【補足】JIS工具 

・航空自衛隊向けのスパナを4本(京都機械2種、昭和スパナと松戸工具1種ずつ)を保有していますが、3社共にJIS認証メーカーながら全てJIS無しです。⇒ 4本の詳細は、こちら

・他に航空自衛隊向けの情報(写真等)がネットにもありませんので、航空自衛隊向けのJIS付きスパナ等がどのモデルだったのかは不明です。

 

第6章:激動期(1965~1973年)

・1968年11月…中口好一副社長が社長に(長瀬社長は会長に)

・1972年6月…長瀬彰造副社長が社長に(中口社長は相談役に)

・1972年12月…長瀬徳太郎会長、逝去

 

☆自動車市販工具

・京都機械の自動車市販工具は、自動車整備工場を対象として、自動車部品商社を通じて販売されてきた。

・1965年前後から需要の頭打ち、競争の激化によって受注減を招き、在庫品の抑制に腐心することが多くなった。

・1966年に工具にとって初めての輸出契約として米国向け6本組みラチェットスパナ2,600セットを受注。

・この頃に米国防省の膨大な引合いが作業工具に寄せられたが、京都機械が対応出来る価格ではなかった。

・しかし、この引き合いが過剰生産設備に苦しんでいた他メーカーを潤し、業界の輸出比率を50%にまで高めることとなった。

・一方で、合理化が進むにつれて、京都機械の競争力は低下していった。

・1967年秋から1968年秋にかけて用品部品業界の不況倒産が発生する環境の中で、売上高は最盛期に較べて3割減に。

・輸出の引合いが急増し、その成約に努力したが、西ドイツと韓国向けの輸出に止まったものの、1969年12月にキューバ向け輸出4,500万円を成約した。

・1970年2月に鍛造と鍍金の工場を閉鎖し、外注に切り替えたが、売れ行き不振はますます増加し、採算性を悪化させた。

・同年7月に社内生産中止の方針を発表し、12月に最終生産となった。

・同年同月、JIS認証を返上。

・1971年に主体を日新自動車(株)へ移し、一重丸京ブランドは存続することに。

【補足】日新自動車が新たに一重丸京ハンドツールを生産した形跡は無く、生産済み商品の在庫販売に止まったと推測。

したがい、1970年12月に一重丸京ブランドは実質的に消滅したと理解しています。

 

☆自動車市販工具の外注

・創業1938年~1955年頃…携帯容量口スパナを中心に長瀬産業/摂南工場、宏和鍛造(鍛造)、中央金属(金属ケース、ホルダー)に協力依頼。

・1953年、54年頃から…プライヤー、モンキーレンチは北陽産業、ドライバーは日本捻廻に協力依頼。

・1960年以降…スパナ生産を松坂鉄工所に協力依頼。【補足】協力範囲は不明

・さらにハリマ工具(鍛造)、福田プレス(金属ケース、ホルダー)等10社の協力を得て工具の生産拡大を図った。

【補足】表現が曖昧なので、残念ながら何をどのくらい外注したのか良く分かりません。

個人的には『スパナ生産を松坂鉄工所に協力依頼』に注目しています。

 

☆航空機整備機材

・F104の基地展開が終了し、1965年~67年には調達量は半減し、操業の維持に不振したが、民需開拓や機構合理化等の努力により1967年後半から採算性が確保できるようになった。

・新鋭機が次々と登場するにしたがって、その整備機材で京都機械が担当する分野が次第に拡大されていった。

 

☆部門別売上高推移(1957年~1973年/半期毎)

 

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☆~1938年/創業まで

 

☆1938年~1941年/創業

 

☆1941年~1945年/戦時期

 

☆1951年~1965年の整備機器部門

☆1965年~1973年の整備機器部門(1970年工具撤退)

 

☆年表(1938年~1973年)

 

この回、終わり