皆さん、今までの政治・社会ネタをしっかり読んで頂いてますか?
読んでいただいてる方はありがとうございます。
飛ばさず読んで頂いている方は、この質問にお答え頂く事できますよね?
もうコラムの中で何回か書いてますから(二ヤリ)
「『経済』という言葉は何という言葉の略でしょう?」
ちょっとイヤミでキツイ言い方をさせてもらうと、「経済を回すのは大事」とか「資本主義は大事」
だとか自信満々で言ってる人や、組織の中で経理担当してる人の中に、まさか上の答えを
知らない人はいないと思います(笑)
答えは「経世済民」
カネを回して、世の中の全ての人を救うという意味。
これ、中間テストの範囲内だぞー。みんなメモしろよー(笑)
そんな流れで今夜の講義。
オレは何度も資本主義批判をしてきたが、記事書いてもたぶんまともに読んでいない人も
いると思う。
いつもは読んでいるけど、カタい内容だからスルーしたり、オレが感情的な極論書いてるから
スルーしたりね。
ま、たまには真剣に「資本主義の弊害」を書いてみて、1人でも多くの経済至上主義者に
それを伝えたいと思う。
おススメの参考文献をいくつか紹介しながら。
まず最初。コレは是非読んで欲しい。
- 脱資本主義宣言: グローバル経済が蝕む暮らし/鶴見 済
- ¥1,260
- Amazon.co.jp
「豊かな国の浪費が、貧しき国を苦しめる! 経済至上主義、過剰消費、(中略)貧困、環境破壊
――ぼくらは経済の奴隷じゃない! 今この世界の‘本当の問題’が見えてくる、21世紀必読の書!」 (オビより引用)
この本は一読の価値アリ。
ムズカしい専門用語ばかり羅列し、聞いたり読んだりする人間の脳を誤魔化す資本主義崇拝書
や、メリットばかりとりあげて悪い部分を言わない経済専門家とかの解説よりも、はるかに
わかりやすく、また、ふだん報道やドキュメンタリーで紹介されない隠された現実も見えてくる。
カネが回ることに対して、それが起こす悲劇と暗い将来。
書の初めにいきなり心を突く事が書いてある。
以下引用
――
「経済のためだから、理想論ではなく現実問題として仕方がない」。こんな言葉の前に我々は
どれだけ多くのことを諦め、思考を停止させられてきたことだろうか」
著者の鶴見氏はこう嘆きオレも共感した。
その流れがそのまま現在まで来た事により、戦後外国からずっと「エコノミックアニマル」と
呼ばれてもたいして怒らず、その渾名を返上しようともせず開き直り、その結果として我々の
代表は大事故のことを顧みず「経済のため」に外国で自信満々の笑顔で原発を売りあるいて
いる(苦笑)
いいや、政治とか予算の回し方とか税金の使い方とかはオレもそんな詳しくないし、
詳しかったとしても、ソレ書いたら小銭稼ぎの経済評論家のブログみたくなるからやめる。
文献になぞって、身近なことから紹介してゆこう。
文献読むと改めて気付くんだけど、日本はモノがあふれているってよく言うでしょ?
「あふれている」っていうと普通に豊かなイメージだけど、これ正確に言うと
「あふれさせている」んだよ。
たとえば「ユニ○ロ」でも「なんとかフォーエバー」?とかでもいい。
よくある人気量販衣料店とか。
ひとつの駅前に一店とか、ひとつの区・市に一店とかならわかる。必要性はあるだろう。
だけど、アレってひとつの駅で東口と西口とかで2軒必要だろうか。
また、店内に入ると、おびただしい在庫が棚につまれているが、果たして本当にあれだけの
量が必要だろうか。
例えば、大型のA衣料店が、あと一カ月で完全閉店とする。
それにより、閉店一か月前から、その店用の生産や仕入れを完全にストップしたとする。
在庫だけで残りの営業やった場合、人気商品は残り期間でなくなるかもしれないが
店の棚および、倉庫にある在庫が全部はけるとは思わない。
絶対にかなりの数が余るのだ。
要するにムダが多い。
仮に閉店後、その在庫を他店に回したとしても、その店がまた閉店となる場合、もとから
扱っていた衣類と合わせ、回ってきた衣類も絶対全部はけないだろう。
結局、いつかは「ムダ」になるのだ。
では、何故、衣類店に限らず大型チェーンや量販店は開いてるスペースさえあればところ
構わず開店し、店内にもおびただしい商品を並べるのか。
開店に関しては、単純に儲けと企業の力アピールである。
必要以上のフリース……いや、衣料の陳列や在庫も、簡単に言えば客に対して規模と
品ぞろえのアピールにすぎない。
要するに、
「在庫含めて、これくらいあればちょうどいいし切らすこともないだろう」
という需要にあわせた経営方針ではなくて、
「とりあえず作れるだけたくさん作れ! そして売れ!」
というスタイルなのだ。
「モノを売る商売で商品をたくさん作ってなにがわるい」とお考えの人もいるだろう。
ところがこの姿勢は環境にも、外交にも優しくなく、最後には大きなツケがまわってくるのだ。
今、日本では年間に117万トンの服が買われ、同時に106万トンの服が捨てられている。
1人あたりの換算で言えば、9キロ買って8キロ捨てている。
やぶけたり、生地がペラペラになって捨てる服はしょうがない。
でも、多くが新しい服を買ったり、似合わなくなったからという理由だと思う。
この結果だけでも、日本がまだまだ贅沢な国だと感じる。
だが、それだけではない。
ここでも、自分の稼いだ金で好きなペースで服を買って何が悪いという人もいるだろう。
だが、皆さんは日本の「服の自給率」を御存じだろうか?
たった4%だそうだ。
生地も服もほとんどが外国に依存である。
じゃあ、その我々が着ている服、服は日本で作られているとしても生地。それを作っている
外国の話。
我々の服の元となる綿花を栽培している国は、けっこう貧しく環境問題も厳しい国が多い。
そして、綿花栽培には、大量の水が必要らしい。
もちろん日本だけではないが、服を大量消費、過剰販売している国に輸出するにあたり
かなりの水が消費され、生地の原産国のアラル湖の水はほとんどなくなり、日本の資本主義は
その枯渇に一役買っているのだ。
現地の人たちは自分達が着るわけでもない服のために低賃金で労働し、自分たちの環境を
破壊せざるおえなくなっている。
だったら、現地の人は日本からの依頼を断ればいいだろうという声もあるだろう。
でも、そこにはやはり「先進国→貧しい国」への圧が存在するのだ。
ありあまるカネにものを言わせ、資源はあるが立場の弱い国に対して最初のうちは
互いが上手くいくように生産や栽培させるものの、儲けてきたらオタクの環境のことなんか
しらん。カネは払っているんだからどんどん作れである。
いやなら断ってもいいけど、そのかわり、もうオマエんとこには依頼しないという圧力だ。
貧しい国からしたらせっかくの依頼を簡単に断れない。だから栽培を続ける。
そして湖は枯れ、森や林も枯れてゆく。
結果、ひとつの国の生産地が消えれば、それは日本の政府にとっても企業にとっても
大打撃となるのは誰でもわかるだろう。
代わりの生産地を見つけたとしても、やはり結果として以前よりコストが掛かる場所になる
ことは避けられない。
知人から聞いたが、コーヒー農園にして同じような例があるようだ。
某ファーストフードが一時期コーヒー無料とかキャンペーンをやっていた。
日本のサラリーマンには嬉しいことだ。
だが、あれも実は外国のコーヒー農家、もっとつめて言えば人手不足でそこで働く子供
とかを奴隷的に働かせていることなっているという事実もある。
無料や100円で日本の忙しいビジネスマンがホッと一息とかいう宣言が流れたりしているが
外国のコーヒー農家の子供は、コーヒーが安くなったところで全く一息出来ない。
これを聞いても、まだひとつの狭いエリア内に同じ大型店舗が数店も必要だと思われるだろうか。
100mおきに同じコンビニやファーストフード店が必要だと思われるだろうか。
著者は綿花栽培のウズベキスタンを崩壊させたのは日本のエゴ的な資本主義だと語る。
いや、別に他国の人や環境に対する思いやりとかの問題でないにしても、儲け目当てで
度を越した生産や栽培を依頼すると、その国は崩壊し、結果、日本としても大事な原産国を
破滅させることになるのだ。
人にも適材適所があるように、商品にも適切な在庫数や販売数があるとオレは思う。
今、各店舗に山のように積まれている衣類や食品は全て有効に誰かの手に渡るのだろうか。
何かとよく「リサイクル」だとかいう企業もいる。
でも、リサイクルというのは、たしかに再利用はしているが、それ以上に費用がデメリットになる
んだよ。
大量に作って強引に売り込んでる企業が、リサイクルとかホザくのは、矛盾もいいとこである。
リサイクルなんてしないでいいんだよ。
そのぶん、無駄な生産をとめればいいだけだ。
そうすれば、無駄な原材料や商品も減り、なおかつリサイクルしないで済むから費用もかからない
でも、そこが「資本主義崇拝者」や「経済至上主義者」にはわからないのだ。悲しいけど。
オレも別に外国の環境とか状況をそこまで考えるタイプでないけど、それでも日本の
ちゃんと安定した「資本主義」を見据えるなら、「儲け主義」や「経済至上主義」「過剰競争」は
良い結果を導かない。
日本人は、儲け方やビジネスに関しては敏感だが、外国に比べてモラル的なモノに鈍感だ。
ちょっとだけ論点がずれるが、鶴見氏の本によると、かつてナイキのアジア工場で
従業員の扱いが問題になったらしい。その時に世界中で「反ナイキ運動」が広がったが
日本では全く話題にならず、エアマックスブームに沸いていたという……情けない。
まあ、社会と商品の問題は別で、いいモノは買うという考えはあると思うが、こん時はそういう
思想でなく、単純に外国での労働問題を気にしていなかっただけだろうな。
ナイキジャパンからすれば、日本人がカネ儲けと流行にしか興味なくて、さぞ万々歳だったろう。
「資本主義はどこまで暴走するのか」という本もなかなか面白い。
森永卓郎が自分の考えを持っているというところがよく出ている。
- 資本主義はどこまで暴走するのか/森永 卓郎
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今の日本が資本主義にうつつを抜かすようになってしまったというのは
団塊世代の責任だと。
ゲバ棒もって戦ってたのをチャラにして、みんなアタマ丸めて企業戦士に寝返ってしまったと。
たしかに団塊世代の責任も大きいが、我々の世代にも責任がある。
まさに、このコラムで一番最初に書いた
「しょうがない」という精神だ。
ごたごた言うのだったら、1円でも稼ぐ動きしたほうが利口という発想。
「利口」と「天才」は似ているようで違う。
「小利口」という言葉があるように「利口」というのは大人のフリして革新をだらける
ずるくてナマケモノのことである。
今の30代や40代もすっかり、これになってしまった。
森永氏は、正常な心を持った若者にとっては「蟹工船」という古典くらいしか‘戦う本’がないと
嘆く。これは納得。
哲学者の中島義道氏は著書の中で、「若い人はもっと文句を言うべきだ」と言っていたが
オレもそう思う。
ひとりひとりの意識が集まれば、一気に世の中を変えることはムリでも、風穴くらいは
開けることが出来る、この間違った資本主義を一度ぶっこわし、ちゃんとしたモノを作るキッカケ
くらいは出来るかもしれない。
でも、それを放棄している若者や同年代も多いのは寂しいことだ。
おとなしくカネを稼ぐのが大人で、文句いうのは子供だと、自分に言い聞かせているのだろう。
こんな時代だからあえて言いたい。
電卓叩く指を動かすヒマがあるなら、口を動かせ! と。
ついでにこの本の中で紹介されてたアテネの人の言葉
「日本人は死ぬほど働いてて、所得がおれたちの倍くらいあるかもしれないけれど、
ちっとも羨ましいとは思わない」
これ、森永氏が言われた言葉らしい。
コレ聞いた日本人は悔しくないのだろうか?
あ、その悔しさをビジネスにぶつけるのか(笑)
いろいろ書いたが、こういう意見をいうのは貧困層ばかりだとか財団ばかりだとか
思われそうだが、経営者としてのそれなりの立場を経由して資本主義批判する人も中には
いる。
- だれかを犠牲にする経済は、もういらない/ウェッジ
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この本には、今の過剰に生産したり、さばこうとする資本主義に対してオレが言いたい
ことの総括が書いてある。
経済とはもともと、アメリカでも「社会をよくすることが目的」であり、「儲け」はその手段だった。
だけど、途中で目的と手段の取り違えが起きた。そして日本もそれをマネしてしまった。
これは「社会をよくすること」がどっかへ行ってしまい、「儲け」のための「儲け」になってしまった
ということではないだろうか。
警察のスピード違反ネズミ捕りと同じで、安全のための取締ではなく、取締のための取締のような。
うーん、日本人は「ヒトとの共存」ではなくて「カネとの共存」を選んでしまったような気がするなあ。
最後に一言。
姜 尚中センセイの言葉。
「国益」とは国の経済繁栄ではない。
国民全員の健康と幸せである。