【BLASTの教育論】では、どうすれば、この国の教育はさらに良くなるのかについて | 「BLAST塾長日誌」

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BLAST塾長が、日々、気づいたこと、やったこと、勉強に役立つノウハウなどを、さまざまに残していきます。

 

こんにちは、BLAST塾長、吉田憲司です。

 

ここ半年あまり、このブログでは、教育的な提言をいろいろと書き連ねてきました。

 

それらをまとめて、現時点で、BLAST塾長なら、どうするかということをまとめておこうかと感じました。

 

(と書き始めたのが、2022-03-23 14:09:02〜でしたので、アップがずいぶん遅くなってしまいました)

 

 

項目の後には、これまでのリンクをすべて上げておきますので、それとの比較もできるかと思います。

 

ここでは、すべて、次の項目を「全否定しているわけでは決してない」ということを、前もって述べておきたいと思います。

 

現在、公教育その他でおこなわれていることは、一定の意味があって成されている部分もあると信じるからです。

 

それをベースに、この国の教育をさらに良くするための提言としたいと思います。

 

では、どうぞよろしくお願い致します。

 

 

 

【内申点】

 

まずは、内申点からスタートします。塾長の考える内申点の問題点は、次の2点です。

 

①まず、入試に関わるにも関わらず、その点数が開示されていないところ

 

その元凶ともいえるが、

 

②本来、数値化できないことを〝数値化〟している故の客観性の担保

 

「数値化」することで正当性や客観性を担保しているつもりなのだろうが、所詮、人の行うことであり、そこには何らかの主観が存在する。

 

そのことがわかっているために、開示できないのではないかと推測する。

 

兵庫県の場合、入試における「当日の点数:内申点」の比率は、「1:1」であり、内申点が半分を占める。

 

にも関わらず、開示されていないため、受験生たちは、おおよその点数をイメージして、当日、何点取るべきかを考えるしかない。

 

まるで、〝当たるかどうか分からない宝くじに希望を託すような心境〟かもしれない。

 

また、一部では、不合格者を出さないために、校内で〝内申点を移動させる技〟も存在すると噂されている。

 

もう、こうなると、「受験の正統性の根幹にも関わる事態」でもある。

 

〝荒技〟を超えて、すでに犯罪であろう。

 

以前、書いたように、内申点も捉え方次第では、「数値化できない部分を教育できる面」もないわけではないが、ここは、バッサリと入試から外すべきかと考える。

 

特に、「5教科4倍、実技4科7.5倍」で換算するやり方は、5教科が、定期テストで毎回あるのに、実技4科が、期末テストでしかないというあたりからの〝配慮〟だと思うが、正直言って、実技4科が入試に関わってくる意味がわからない。

 

実技4科の教員に慮っての〝配慮〟であろう。

 

塾長の知る「アメリカの教育システム」では、体育や美術、音楽といった科目は、アカデミズムからは外されていたと記憶する。

 

体育や美術、音楽をどれほど頑張ったかは書面に記されることがあっても、それをテストの如く〝得点化〟してまで、入試に関わらせるということは、知る限りなかったはずだ。

 

まぁ、そもそも、日本のような入試制度というもの自体がないからかもしれないが…。

 

大学などでも、入ることは入れても、出ることが難しいというあたりで、担保されているようには思う。

 

日本も、こういった考え方で捉えるべきではないかと思う。

 

内申点においては、少なくとも入試前には開示すべきであるし、5教科と4教科を対等に扱うのではなく、受験校側で考慮すべきできる自由性がほしいと思う。(一般入試であっても)

 

たとえば、工業高校の場合なら、「技術・家庭」や「美術」などを「音楽」や「保健・体育」よりも重視するなどの、傾斜配分をしたり、普通科なら、実技4科は内申点審査から外すなどの工夫が求められるように思う。

 

 

 

 

 

 

【自主学習ノート】

 

口の悪い塾生がいて、いつもこう言っている。

 

「自学ノート・自主学習ノートなんて言ったって、あんなもん、全然〝自主的〟やないし…、強制や!」

 

若いのによくお分かりのこと、と感心する。

 

ただ、自主的に調べ上げて、綺麗にまとめ上げ、記載する中にも、デザイン性、色使い、レイアウトなど学ぶべきことは多いことは理解している。

 

調べてまとめることで、自ら知識を得て、その中から「生きる力」を見出(してくれれると)良い、という思いはあるだろう。

 

しかし、気になるのは、時折、「手段と目的が逆転」しているケースが多々あることだ。

 

〝先生に褒めてもらうために、綺麗に書く〟という思考になっている子どもたちは、多くはないだろうか。

 

小学校時代に、この〝思考ループ〟に陥った子どもが、中学校になって成績を上げるためのテスト調べにスムーズに移行できるケースは限られているように思う。

 

もちろん、文句言って、全然、提出もしない子どもに比べると、それは、何百倍もいいのは決まりに決まっている。

 

上の「内申点」とも関わってくるだけに、「自主学習ノート」の評価も、ほどほどに、というあたりが言いたいことであろうか。

 

 

 

 

【制服】

 

90年代の初頭ぐらいからだろうか、女子高生を中心にして、制服の乱れが起こり始めたのは。

 

もう30年近く経ってしまっているので、もう十分に、文化・カルチャーとして定着してしまってはいる。

 

もっとも、昭和時代の一部の不良制服を考えるなら、この歴史はさらに長くなるのではあるが…。

 

最近は、LGBTQに配慮して、セーラー服がなくなり、ブレザースタイルに移行しつつあるとも聞く。

 

同時に、詰襟の学生服もなくなる方向なのか…?

 

塾長の若き頃、創刊まもない雑誌「ポパイ」では、時折、文化評論としてかどうか、どの文脈は忘れたが、〝詰襟学生服もセーラー服も、もとは「軍服」なので、ボクたちは拒否しよう〟のような意見を読んだことがあった。

 

今回は、戦争を想起させるからではなく、性差という概念でということになるか。

 

嗚呼、時代は大きく変わったのだな…(遠い目)と思いつつ、ある一点に気がついた。

 

それは、この国の教育が突きつけられている本質的なことであろうと思う。

 

つまり、この「制服」にしても「内申点」にしても、次で述べる「部活」にしても、そうだが、これまでの〝伝統的(慣習的?)な教育手法〟と時代性の狭間で、価値観自体が揺れているように感じるのだ。

 

「制服」が輝いていた頃は、日本という国自体も輝いていたのだろう。

 

第二次世界大戦前を〝世界戦争への序章〟とする歴史観には、到底、賛成できないし、その中には、戦後消え去った尊い精神性も多くが生きていた。

 

敗戦後、戦後教育で〝国全体が左傾化〟したために、「本来の日本が持つ美徳の多く」が教育から省かれたように感じている。

 

おそらく、それらが、表立って文書化されることなく残ったものが、内申点であり、制服であり、校訓であるように思うのだ。

 

これ自体は、間違ってはいないとは思う。

 

ただ、表立って文書化されなかったために、「時代性」というスケールで測ったときには、〝古くさい仕組み〟としてしか認識されない状態が続いているようなのだ。

 

ここが、今回の1番の問題点でもあるように思う。

 

教育が果たすべき本来の道は、「真理の探究」以外のなにものではないと考える。

 

たとえば、現代の歴史教科書で描かれる日本の姿は、本当に正しいものであろうか。

 

その教科書で学んだ若者が、自分たちの国の持つ価値を、本当に正しく理解できるだろうか。

 

ある一定の価値観への誘導はないだろうか。

 

すみません、「制服」から大きく逸脱してしまったようです。

 

 

 

 

【部活動】

 

部活動の問題点について、考えてみたい。

 

まず、顧問の教師は、部活における指導力・技術において、何らの資格も有していないところにある。

 

にも関わらず、子どもたちを熱心に指導するものだから、子どもたちは、体の故障が絶えない。

 

このあたりは、多くの整形外科医もしてきするところではないだろうか。

 

〝素人の生兵法〟ほど、危険なことはない。

 

そのうえ、いったん部活動を始めると、3年間は続けるものという〝暗黙の了解〟が存在するため、常に、同じ運動・動きを続けねばならず、成長過程の肉体において、バランスを欠いた筋肉のつき方をしたりする。

 

たいていの子どもたちは、オリンピック強化選手でもなければ、プロアスリートを目指しているわけでもない。

 

しかし、上のような考えから、教えるものも教わるものも、オカシナ〝プロ志向〟となるため、諸問題が生じているように感じる。

 

アメリカの中学高校での部活動は、運動部であっても、学期(ターム)ごとに変わる必要があったように思う。

 

バレーボールをやっていても、次のタームには、水泳をやったり、フィールドホッケーをやったり、バスケットボールをやったりするのだ。

 

年が一巡し、同じ季節に同じスポーツをすることもあるが、必ずしもそうするわけでもない。

 

その結果、バランスよく筋肉が成長する利点もあるように思える。

 

よく、海外のプロアスリートで、自分の専門以外でも活躍する選手がいることもあるが、その理由は、こういうところにあるように思う。

 

これなどは、日本の教育界でも、今後、十分に研究・考察する内容ではないかと思う。

 

 

 

 

 

【教育におけるICT】

 

いつ頃からだろうか、ネコも杓子も「教育ICT」である。

 

教材の展示会に行っても、やはり、そういったブースが存在し、〝映像授業〟だの〝オンライン教育〟だのという表現で、自動化の波が押し寄せている。

 

BLASTも、株式会社ブラストメディアの私塾部門であるので、そういった新しいシステムに興味がないわけではない。

 

実際、20年ほど前には、教科書準拠したプリントの打ち出しクラスというものも持ち、塾生と自作したコンピュータにソフトを落とし込んで、やっていたこともないわけではない。

 

しかし、こういった産業の興隆は、ひいては、私塾の存立基盤を危うくするものと、当初から関わらないようにしてきた。

 

〝BLAST塾長は、こういったことにも詳しく、お好きなのではないですか?〟というお誘いもなかったわけではないが、悉くお断りしてきたように思う。

 

考えてみれば、わかる。

 

〝ネットの電脳世界のどこかで誰かが行った授業〟を、自塾の塾生が見るのだ。

 

これが何を意味するかというと、〝ネットの電脳世界のどこかで誰かが行った授業〟は塾でなくても見れる可能性が出てくることを意味する。

 

つまり、それは、〝その塾である必要はない、その塾でなくてもいい〟という結論に落ち着くことになる。

 

講師不足から、〝ネットの電脳世界のどこかで誰かが行った授業〟を切り売りして見せることで、ビジネスモデルの一端を形成したい向きもあるのは理解できる。

 

子どもたちの成果を管理して、分かりにくかったところを分かるようにするためには、そういったツールや工夫が必要なこともあるだろう。

 

しかし、BLAST塾長としては、どうしてもなじめない。

 

GAFAを代表とする「ビッグブラザー」たちの「AI資本主義」の一端を担ぐなんてことは、到底できないのだ。

 

教育というのは、「真理の探究」であるべきだし、そこには、人を介在するべきであるとも考える所以だ。

 

もちろん、そういったICTに熱心な塾があることは否定しないし、それに馴染む人たちもいることだろう。

 

選択肢は多い方が良いとも言えるが、上の理由で、願い下げというのが正直なところだ。

 

そもそも、あのタブレットの〝小さなモニターの中で何かを完結させよう〟という根性が気に入らないというわけだ。

 

BLAST塾長としては、もっと、ホットでヒップな方向で、教育を捉えていきたいと考えている。

 

たとえ、それが、〝ガラパゴス化〟と言われたとしても…

 

日本の教育の立て直しの勝機は、こちらにあると考えているのだ。

 

 

 

【「校訓」の設定】

 

どこの学校にも、「校訓」が設定されている。

 

目に見えぬ価値ではあるが、それを掲げて、潜在意識に落とし込むという意味では、校訓は重要だ。

 

しかし、気になるのが、数年経てば、教職異動を繰り返す先生方の一体何パーセントが、現在お勤めの「学校の教訓」を意識しておられるかという点だ。

 

私塾を30年以上続けてきて感じることは、こういったコアバリューというかモットーというのは、非常に重要なのだ。

 

教育は、決して、〝点数を取るためのスキル〟だけでは存在し得ない。

 

思春期など、成長期にある若者にとっては、たとえ、目には見えない価値であったとしても、そこにこそ、重要性を置くという精神性を養う必要があると感じる次第だ。

 

自校の校訓を、〝絵に描いた餅〟として終わらせないためにも、実体あるものとして、考察を深める機会を持った方が良いようにも思う。

 

私学で言うなら「建学者の精神」というようなことにも相当するかと思う。

 

「スピリットウィーク」などを設けて、1年の一定の期間は、自校のモットーを、しっかりと確認し、思いを馳せる機会を作るべきかと思うが、どうだろうか。

 

教育には、教えるためのスキルが必要なのは言うまでもないが、教育はスキルではないのだ。

 

子どもたちの成長の基にあるもの、そのスタート地点において必要なものは「思い」しかないと思う。

 

その「思い」は、金メッキではなく、本物でなければならない。

 

そのためにも、(本当に重要視するのであるなら)「校訓」自体、そして、その取り組みへの見直しも含める必要があるように思う。

 

 

たとえば、BLASTには、「BLASTのルール」と呼ぶ「四つのルール」がある。

 

その四つとは、「愛・知・反省・発展」の組み合わせを指す。

 

非常に、簡素化された四つの言葉の組み合わせではあるが、ある意味、ここに全てが含まれていると言ってもいい。

 

BLASTでは、小学生にもわかるように、このそれぞれを次のように定義づけている。

 

------------------------

人にやさしくできる自分となる。          Love 愛

 親切にしてもらうとうれしいはず。まわりの人に親切にしよう。

 《人への優しい気持ちを♡マークで表しました》

 

将来にむけて知識を蓄える。           Wisdom 知

 知恵こそ21世紀の武器。立派になれば、多くの人を幸せにできます。

 《知識と知恵の大切さを3冊の本で表しています》

 

自分の思いと行いをふりかえる。       Self-Reflection 反省

 正しく考え、正しく行動できているか、時々考えてみよう。

 《自分を心静かにふり返る人の姿で表しています》

 

自分のまわりに幸せを広げる。          Progress 発展

 せっかく生まれて来ているのだから、明るく、積極的に生きてみよう。

 《勝利のファンファーレを鳴らすラッパに例えてみました》

------------------------

 

さらに深めて(高めて)説明を試みるなら、いくらでも深める(高める)ことができるのだが、あえて、このような表現としている。

 

すべての塾生には、この4つの観点から、時折、自らを振り返ってほしいと塾長としては願っている。

 

また、自らも、振り返るようにしてはいる。

 

そういう意味では、この「BLASTのルール」は、決して〝絵に描いた餅〟ではないし、そうであってはいけないと自戒もしている。

 

 

振り返って考えるなら、全国の各学校にある「校訓」はどうだろうか。

 

スクールモットーとして、どこかの時点で設定されたとは思うのだが、その最初の思いは、代々に引き継がれているだろうか。

 

〝絵に描いた餅〟の如く、単なるお飾りに堕したりはしていないだろうか。

 

これを機に、考えてくださってもいいのではないかと思う。

 

 

ここまで、つらつらと述べてきたが、現時点では、こういったことを想っているという次第です。

 

長文、お読みくださって、本当にありがとうございました!

 

 

蛇足の余談となりますが、これ以外の項目も下に貼り付けておきますので、ご参考となれば幸いです。

 

 

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2022-03-23 14:09:02〜