携帯電話のサービス用にパソコンを何百台も設置するだけのお客様はオペレーションも無く、毎日パソコンの動作確認をするだけだったので非常に簡単でしたが、簡単だけに毎月の運用報告会も最初は色々な事が起きましたが、一旦安定すると何も起きなくなってしまいました。携帯電話会社も事業規模がどんどん拡大するにつれて担当者も何度か変わるので、お付き合いも非常に少なくなりました。

そうした時に発生したのが数百台あるパソコンの一台の電源部の故障でした。単なる故障であればよかったのですが、燃えて煙が出てデータセンターの高感度煙検知器が作動したので大騒ぎになりました。深夜に警報がでたのでパーティション越しに他社のコンピュータのオペレータがフロアのパソコンを点検して煙の出ているパソコンのスイッチを切って漸く煙が出なくなったというものでした。
データセンターには色々な検知器が設置されていて、元々データセンターが水冷式の大型コンピュータを設置することで設計されたこともあり、漏水検知までありました。通常は空調機まわりしか設備工事はしないのですが、私の勤務していた会社のデータセンターには部屋全体に検知器がありました。それに高感度の煙感知器がありますという説明をデータセンター見学があるたびに見学者に床下に設置してある機器を見せてしていました。一体どんな時に作動するのか分かりませんでしたが「この大きな室内で煙草を吸うと検知します」と言って見学者を感心させるのが私の役目でもありました。
私がこのデータセンターの営業を担当してから5年以上も経過して起きた事件でしたが、それまでは一回も高感度煙検知器は作動しなかったので実のところ本当に動くのかどうかと疑念を持っていました。しかし実際に事件が起きてみると、煙は検知したのでちゃんと動くのだというのを改めて知らされた時でした。
私は朝一番でデータセンターのオペレータから知らせを受けたので直ぐに携帯電話会社の担当者には連絡を取り、直ぐに現状確認と機器の交換をして作業は終わりましたが、その後始末に手間取りました。
当時はパソコンを遠隔監視する仕組みも世の中には普及していなかったのが原因でしたが、機器が燃えたという事については謝罪が必要というので、携帯電話会社の常務が来社することになりました。
私の勤務している会社の役員との面談日時とか、相手の役員も社用車で来るというので場末の分かりにくい場所の地図も送付してビルの駐車場の手配とか色々とやることがあって疲れました。相手の携帯電話会社は「火事を起こして申し訳ありません」という態度なので平身低頭なのは良いのですが、こういう儀式のような謝罪訪問にはうんざりしました。
形ばかりを重視するので、一応お互いにサラリーマンとして仕事をしましたという事でしたが、そういう事を喜ぶ私の勤務していた会社の役員は満足したのかも知れませんが、実際には何も収穫の無い仕事をしたように思いました。謝罪文一通で済んだ話を大げさにしすぎたと感じ、日本の仕事の非効率さ地でいったときだなとも思いました。

この携帯電話会社も、後に頭の悪そうな顔をした事業部長がにやにやして私を担当から外した後に新しい営業担当者に変えました。暫くした後この営業担当者は契約金額が安いと事業部内で言われて、前任の私に何の相談もせず上司からの指示と言うので客先に値上げを申し出たら、さっさとデータセンターを退去したのでした。私は客先の状況を知っていて、世の中にどんどんと費用の安いデータセンターが出てきているので、こういう費用にシビアなお客様はじっと触らないでいるのが良いと判断していました。
多分頭の悪そうな顔をした事業部長は、営業担当者に前任の私には相談なんてしなくてもいいから行ってこいと言われたのだろうとは容易に推測がつきました。
かように私の勤務していた会社の力量と私の力量とがかけ離れていたのが不幸であったと思ったときでもありました。
携帯電話のサービス用にパソコンを何百台も設置する工事の時に消防署に喧嘩を売りにいったことがありました。
携帯電話会社からはサービスが個人情報に基づくものであり、隣のコンピュータを設置している会社とはパーティションで区切ってほしいというものでした。できれば完全に独立した部屋にしたいということでしたが、床下は床下空調の空気が循環しているので無理としても、床上げしたフロアから天井までは完全に壁で区切ってほしいという要望がだされました。
事業部の設備担当に技術者に相談しても難しいといような返事をぶつぶつと言われるだけで、こういう肝心の時には何の役もたたないのでした。営業マンが顧客のために何とかしようとして困っているのに難しい相談なので何もしないで放置していたのでした。何事につけても困ったら自分で解決しない限りは会社の中では誰も助けないというのが私の勤務していた会社の中に脈々と流れる伝統でした。それはサラリーマンとして危ない橋は渡りたくないという自己都合の論理がまかり通っていて、私は何時も憤慨していましたが案外日本の会社では普通なのかもしれません。

このデータセンターは大きなフロアを切り売りしていて、1フロアには何社かが契約面積に応じた広さの中にコンピュータを設置していて、隣接する会社の間にはパーティションは設けない方式でした。中には直線ではなく凸凹した形状のフロアにコンピュータを設置していた会社もありました。そういう状態の場所でしたが、携帯電話会社からはパーティションを設置したいという要望が出たのでした。
しかし消防法上はフロア全体が一室扱いなので、パーティションで2室に区切ることができないというのが理由でした。最初は「消防署はパーティションどころか簡単に移動できる簡易間仕切りでないと許可しませんと言っています」と連絡がきたのはデータセンターの設備管理者からでした。事業部にいる技術担当は最初から逃げていたので直接私に連絡が来たのでした。
私は消防署に乗り込んで談判しようと担当消防署と担当者の名前を聞いて消防署に乗り込みました。相手は杓子定規に「難しいです」と言ったので「それじゃあ聞きますが、万が一データセンターが消防法にのっとった設備を作ったとして、火災が発生したら、消防署は損害を賠償してくれるのですか」と怒って反論したので相手も漸く私の立場が分かったらしく「一室になるようにするには「床上げしたフロアから天井までの壁では困りますが、上の部分を開けてもらえればいいのではないでしょうか」と後日連絡があったのでした。
こうなると事業部の技術者が急に割り込んできて「対応策が見つかりました」と事業部内で報告する始末、自分は何もしないで人の手柄を横取りしようとするモラルの低い人間だと思いました。
この一件はパーテョションの上部を開けるというので、携帯電話会社からも渋々了解を得て解決をしたのでした。
この騒動では消防署も役に立たない仕事ばかりしているという、日本伝統の他の役所と何の変りも無いというのを強く印象付けられたのでした。
私がデータセンターの営業を担当した頃は携帯電話というのは高級品で価格も高いので普及が進んでいませんでした。それよりも手軽なポケットベルというサービスが最盛期で腰につけたベルがピーピーと鳴らしているのが最先端でしたが、このサービスも数年で携帯電話にとって代わられてしまいました。
私は入居契約をしていた携帯電話会社の営業を担当しながら、新規開拓で飲料会社のコンピュータを私の勤務していた会社のデータセンターに移転させた後に、営業部に人のいいグループリーダーが着任しました。当然ながら社内の中の異動なので余剰要員だとは思いましたが、真面目な人なので私と同類と思われて仲良く過ごすことが出来ましたが非常に短期間でした。この人は営業部長に昇格しましたが、事業部長が変わり者の事業部長に変わると随分と遠くの支社に転勤させられ、この変わり者の事業部長が頭のわるそうな顔をした営業部長を古くからの知り合いというので連れてきたのでした。

立腹するようなことも少なかった短い期間に、人のよいグループリーダーから「新規に携帯電話事業をする会社からデータセンターを探しているという情報あります」という話を聞かされて、私がその会社を訪問することになりました。今では有名な大きな携帯電話会社に成長していましたが、当時は未だ通信会社の子会社という立場だったのでデータセンターも親会社の購買部門が代行して行っていました。その通信会社は場所も風情ある半蔵門の近くでビルの入り口にある桜が印象に残っています。
この時の競争相手はリクルートコスモスという今では無くなった会社でした。条件がパソコンを数百台設置するだけなので、運用をするというなどのサービスは不要でコンピュータの知識も無い不動産会社と私の勤務していた会社の最終2社が残ったのでした。通常はコンピュータを扱っているので、少しはコンピュータをかじったことがある営業との競争になるのですが、この時ばかりはガチンコ価格勝負だと直ぐに理解ができました。
完全に価格競争のみで対向せざるを得ない状況を考えて一計を案じました。私の勤務する会社のデータセンターは通常の不動産賃貸とは違いコンピュータの置き場という特徴を出すために部屋を貸す不動産賃貸に近い契約でも敷金は不要と言うのが売りでした。これを逆手に取って、敷金を貰って賃料を安く提示してもよいかという稟議を社内で上げて変わり者の事業部長の承認を得ました。当時はデータセンターは入居者が少ないので、どんな手でも構わないというような事情もありました。会社として敷金は単なる預り金なのでもらって雀の涙もいかない程の利子があるくらいの何のメリットも無いものでした。
通信会社の購買部門を訪問した時に、私が応接室で待っていると廊下から「これで決まってしまうね」というような声が聞こえて、私の勤務していた会社のデータセンター採用が有利な状況にあるのを漏れ聞いてしまったのでした。

その後、データセンターは私の勤務している会社に決めてもらい、親会社の取締役に採用御礼の挨拶に私の勤務していた会社の事業部長・営業部長・グループリーダーを同行して訪問しました。この時に面会した取締役はその後とんとん拍子に出世して、10年も後に携帯電話会社の社長になったのを新聞で見て懐かしく思えたものでした。又、同時にできたばかりの携帯電話会社の役員から私の勤務していた会社の知り合いという役員に「あんたの会社のデータセンターに入居したいという稟議書が回ってきた」という連絡があったとも聞きました。縁はどこでどうつながっているか分からないものだとも思いました。
この会社のあるサービスのためにデータセンターに数百台のパソコンが設置されました。データセンターでは無人で24時間稼働させているので故障が分からなという理由で、縦型にぎっしり並んだパソコンを設置してあるフロアの隣の別会社のコンピュータオペレータに、この会社の設置したパソコンの電源ランプを毎朝点検させるというサービスを受注したので、フロアを安値で受注してもトータルでは十分に儲かる仕組みが出来たのでした。しかし、私の勤務していた会社の事業部の融通の利かない設備担当の技術者は安値受注だと私を非難していました。
この会社は価格査定が非常に厳しくて、私が担当していたデータセンターに入居していた携帯電話会社の設備課長に「今度新しく某社が内定しました」という話をすると「あの会社の購買折衝は大変やろね」と関西弁でまくしたてられました。実際のところ、工事の見積書には事細かに明細提示を求められて世間の最低価格にそろえるようにとの要請があり、社内で何時も使っていた工事会社との折衝にも苦労したことは鮮明に覚えております。
広告会社とのお付き合いは、データセンターを利用してもらい、オフィスが古い本社から新築のビルに移転するまでは色々な問題はありましたが何とかうまくできました。
データセンターに移転するきっかけを作ってくれた情報システム部長はオフィス移転後に上司の取締役が交代すると新任の室長になり閑職に異動しました。情報システム室長は人柄の良い人で、この広告会社の創立記念としてバカラの花瓶を取引先には本人が自ら配って歩いていました。勿論、私の勤務していた場末にあるビルにも持参してもらい非常に恐縮した記憶があります。
新任の情報システム室長は新任専務の子飼いではないかと憶測しましたが、挨拶に行って色々な話をするとクラシック音楽が趣味だというので私と馬があい、時々はそういう趣味の話に花を咲かせました。当時レーザーディスクで数十万円するトスカニーニの全集が出たのを即買いしましたと言うので驚き、給料も私の勤務している会社とは格段に違うなと思わされた時もありました。私からは自分で書いたつまらない小説を贈呈するのがせいぜいでした。この人のメールは通常の書面と同じで、拝啓敬具、前略草々というような形式だったので私も真似をするようになりました、そういう意味では勉強をさせて頂いたよき師でもありました。

そういう良好な関係を妬む人が私の勤務する会社には多々いました。特に役員と部長連中が事あるたびに「たまたま注文をもらっただけだろう」と言って私の業績を評価しようというどころか誹謗中傷するようなレベルの低さでした。こういう会社幹部の根性というのは会社の風土とでもいうべきものであって、今でも脈々と引き継がれていて、表向きに建前ばかりえらく立派ことを言う人に限って業績は他人任せ、自分は保身ばかりに走る幹部の集合だと思います。そういう幹部の意向をうけて自然と事業部内にもサラリーマン根性で風になびく人が大半でした。
この広告会社とは契約した条件が悪いと言い出したのは、私と仲が悪かったデータセンターの設備担当の技術者でした。データセンターの損益が悪いので、この客先にだけ値上げをしてもらえという事でした。この男はそういう風に社内で自分をアッピールして評価をしてもらいたかっただけのことだとは直ぐに分かりましたが、営業部長からも指示をされる始末でした。

そもそもデータセンターの損益が悪いのは事業部の運営に問題があるのは棚に上げて、既に契約条件を決めて入居している他人のせいにするという、一般常識では考えられない発想が出たのでした。
同時に、そういう難しいお願い事ならば、役員とかが客先に出向いて検討願いにあがるとかするのが常識だと思いましたが、そういう常識も無いので私が矢面に立たされたのでした。
この契約金額値上げは2回にわたり行われて、一度は賃貸する面積を少し減らして対応し、もう1回は少し金額を増額してもらいましたが、当然ながらものすごい反発を買って険悪な関係になってしまいました。客先との関係が険悪になろうがそんなことは知ったことではないというのが社内ではまかり通るので、この時ばかりは事業部の連中の程度の低さに驚き、あきれるばかりでした。
こういう事があったので、頭の悪そうな顔をした事業部長が私の担当している客先を全部外した後、後任の営業マンが広告会社のデータセンター更改の提案をするときには当然ながら落選となり、どういう訳かこの営業マンがノイローゼになり休職するということになりました。
こういう状況を横目に見ていると、頭の悪そうな顔をした事業部長が連れてきた2代目の営業部長は只黙って見ているばかりで何も出来ないので、自然死みたいに客先を失ったという風に見えました。
広告会社の情報システム室の人たちは付き合い始めてみると私とは馬が合うような雰囲気でした。情報システム室にはマネジャーが何人かがいましたが、直ぐにそういう人たちとも話が出来たのは単に経験とか知識というようなものだけはなく、部外者ながら自分たちの仲間として認められたのかも知れません。お付き合いを始めると年賀状が来るようになったのでこれも驚きでした。ごくまれに個人宅にお客様から葉書に余りがあったようなので年賀状をもらったといような事はありましたが、まじめに個人宛に毎年年賀状をもらうと戸惑うような気がしました。
私の営業マンとしての価値判断は、お客様の役にたつということが最重要だと考えて行動していましたので、私の勤務していた会社の他の従業員とは明らかに行動の仕方が違って退職するまで社内では変わり者扱いだったと思います。

データセンターに入居後、広告会社には小規模な開発案件が多数あるのでプログラマを派遣してくれませんかという依頼がありました。こちらは競争ではなく既に既存のベンダーが入り込んでいましたが、もう1社追加して競わせようということだったかもしれません。
頭の悪そうな営業部長が事業部長に昇進する前から子飼いで連れてきた男が派遣先のマネジャーとして担当することになりました。総勢10人位のプログラマを外注会社から集めました。この時は引っ越し前だったので、古いビルの薄暗い一角に机を並べてプログラムを作成していました。最初は広告会社の情報システム室からあれこれと気を使ってプログラム開発案件をだしてくれたのですが、1年もするとだんだんと案件が少なくなりました。
広告会社の情報システム室のマネジャーにそういう事情を説明すると「担当者から案件を貰わないといけないですね」と言われたのでした。現地に常駐していた私の勤務していた会社のマネジャーはシステムエンジニア上がりで技術的には普通だったかも知れませんが、対人関係がうまくできないというのが判明して仕事が担当者からもらえないというような事になっていったのでした。私は外から見ていて歯がゆい思いをするばかりでした。最後には当時の事業部長から「これ以上継続しても採算が合わないので辞めにしたらどうか」といわれたのですが、その根拠となる資料は派遣されていた現地マネジャーが作成したもので早くこんな仕事から下りたというような内容でした。当然の流れとしてこのプロジェクトは解散となり、広告会社との付き合いが疎遠にもなるのは当然の成り行きでした。私一人で独り相撲をしていても限度はあるのだと思い知らされた時でもありました。

この広告会社は私には色々な付き合いを求めてきて、冠婚葬祭時には必ずお呼びがかかりました。データセンター検討メンバーだった50歳代の男の親戚が無くなったので通夜に呼ばれたのですが、すごく遠い場所でしたが暗い夜道をバスで行きました。その時に同乗したのが、前に説明した広告会社の情報システム室にプログラマを常駐させている競争相手の会社のマネジャーだったので少しばかり気まずい雰囲気になりました。通夜に行っても私の勤務していた会社からは私一人しか出席していないので寂しいというより何だか場違いな場所にいるような気になりました。お清めに一杯飲んでから帰って下さいと言われても酒も飲めないので早々に暗い夜道を一人で足早に帰りました。
又、広告会社の12月の仕事納めの時には度々ご馳走になりました。仕事納めの日は民間会社ならばどこも同じになるので、当然ながら私の勤務している会社の仕事納めの日と重なりました。午後には職場で酒を飲んで終わるのはどこでも同じだと思いますが、私は広告会社から呼ばれると行かない訳にはいかないと思い、自分の会社の納会よりもこの広告会社の納会に何時もでることを優先していました。私自身は酒を飲まないので形ばかりのビール片手に情報システム室員と雑談をするのも楽しかったのですが、出てくる食事やおつまみのグレードが自分の会社のものとは格段に上等なものだったので美味しく食べました。こういう時には、この会社と出会えてよかったと思うと同時に、自分の勤務する会社の中で一人自分だけが違う事をしているんだなと思うと寂しい気にもなったものでした。
広告会社の引っ越しではパソコン販売の他にもう一つの開発案件を受注しました。
この案件はデータセンター選定の検討メンバーであった50歳代の男からの依頼だったので驚きました。引っ越しするに際しては役割を決めて各々がベンダーと調整しながら話を進め引っ越しの準備をしたのですが、この室長に次ぐ地位の50歳代の男は自分の担当である会議室予約システムの検討をすっかり忘れていたようでした。会議室予約であればサーバー1台導入してパッケージソフトを見繕って導入すれば済むと思いましたが、この男は忘れていたとうことを情報システム室内では言い出さないような雰囲気らしく、ハードウエアの購入は無しで会議室予約システムの導入をなんとかできないかという質問がきました。そうするとホスト計算機を使うしかなく検討をしました。同時に、長い付き合いのある外資系コンピュータ会社には自分の恥となるような話なので持ち掛けられないという事情もあって、私の勤務していた会社に相談があったのだと感じていました。

この時に出てきた事業部内のシステムエンジニアは、頭の悪そうか顔をした事業部長が代筆代者として異動させた子飼いの40歳位の部下でした。年に四半期の事業部業績説明資料の作成時以外は暇なのでそういう事になったのだろと思いました。それでも、この男は少しはホスト計算機の知識があったので、広告会社の情報システム室の50歳代の男と打ち合わせを始めることが出来て仕様を固めました。同時に会議室予約システムは引っ越しの前にはできていないといけないので特急で制作する必要がありました。
プログラムを作るにも私の勤務していた会社の事業部では能力無く人もいないので、外注会社から緊急でプログラマを2人集めて制作しました。費用は何の考慮も無く足し算して1千万くらいだったので広告会社の50歳代の男も驚いていましたが背に腹は代えられないというので、この時は私の勤務していた会社の見積書を値引きもせずに受け取ってくれました。そのくらいに事態はひっ迫していたという事情がそうさせたのだと思います。

会議室予約システムはぎりぎり引っ越しの時期より少し遅れて開発が完了して何とか目的を達成することができました。システムは当然ながらホスト計算機の画面で行うので見栄えはよくはありませんでしたが、機能は一応満足しているというものでした。このシステムは5・6年ほどは使用されたと思いますが、その後の消息は分かりませんでした。と言うのも、私の勤務していた会社の事業部は派遣システムエンジニアのアウトソーシング提案に失敗したり、この会社の契約に難癖をつけてごたごたし始めたのが理由でした。もう客先とはどんどんと縁遠くなって行ったということでした。
それに加えて、客先の専務が交代したのにつれて、情報システム室長が交代したことも理由のひとつでした。50歳代の男は情報システム室長の完全なる子分役に見えたので、上司が閑職に異動させられると必然的に室内での地位も失ったように思えたのでした。悪い事は重なるもので、自分の親分である室長が異動してから暫くすると病気になって半年ほども会社を休んだことも、ますます室内での影が薄くなった要因だと感じました。サラリーマンの人生訓というものをこの時の広告会社の人事異動で再認識をすることになったのを思い出しますが、自分はことごとくそういう勉強を習得しなかったというのも重ねて思い出すことがあります。
約1000台ものパソコンのセットアップは、まずはデスクトップのパソコンの金属製の筐体やノートパソコンにメモリ増設とハードディスクを増設したり、CD-ROMドライブを装着したりしなくてはなりませんでした。
事業部からはパソコンに詳しい年配のシステムエンジニアをマネジャーにして新人を何人か連れて朝から晩まで組み立ててから、指定されたCDからシステムをインストールするというのを毎日行い、2週間ほどでセットアップが終わりました。何せ、日本でも初上陸というノートパソコンはセットアップして引っ越し先のビルの各人の机に置いて使用を始めてから、ハードディスクの故障が発見されて何百台というノートパソコンのハードディスクの交換をするという事件もありました。
セットアップしたパソコンは引っ越し先のビルの指定された場所に設置しましたが、ビルは新築で引っ越し前に行ったので割合に楽に行えました。それよりも、そういう作業に駆り出された同じ事業部のシステムエンジニアがぶつぶつと不満を言いながら作業をしている姿をみている方がよほど腹だしかったという覚えがあります。
これほどの大量のパソコン販売は私が勤務していた会社でも最初で最後でした、その位に大量のパソコンを設置し終わると一仕事終えたという充実した気分になりました。それに、パソコンを設置した時にビルの上から下まであちこちに行ったので、この広告会社の部署の場所も覚えてしまいました。ついでに言うと、件のノートパソコンのハードディスクを交換するときには既に引っ越しした後で故障が発見されたので、必然的に使用中のものを交換しなくてはなりませんでした。

各人の机を順番に回って交換をしたのですが、ある時は当人が不在でパソコンが書類の一番下に隠れていたのを探し出して交換をしました。その時に書類を垣間見るとメモ書きが見えて何ともずさんな計算であるのがわかり、こういう営業なら自分の営業よりも随分と楽だという風に思ったこともありました。又、ある時は当人の机の周りを探しても見当たらず、何度も本当にこの机かと確認してから、仕方ないのでそっと机の引き出しを開けるとその中にしまい込んでありました。引き出しから取り出してハードディスクを交換しましたが、当人はパソコンを使っていないのが明白になったこともありました。この人はデザイナーだったので多分こういう事務で使うようなパソコンなんか使えるかとばかりに机にしまい込んでいたのだろうと思いました。
新しいビルに引っ越したばかりでしたが、すでに結構なほこりがパソコンに掛かっていて自分自身のシャツやズボンが汚れてしまったのが何とも情けないと事だと思いました。
パソコンは設置が終わってからも続々と故障するので、その対応にしばらくは手間がかかったことも忘れられない仕事ですが、この時にはそういう仕事は常駐している外注のシステムエンジニアから連絡があるのですが、そのエンジニアはデータセンターの引っ越しの際に磁気テープを以前のデータセンターに必死で取りに行った人だったので、事務的と言うよりも、同じ仲間として作業をしているという気分でした。その当時は友好的な関係で仕事が進められたので、大量のパソコンを発注してくれた30歳代の女性はその後も少ない数量のパソコンを私に注文をしてくれても、はいはいと気持ちよく請けることが出来ました。

又、食い物の話は忘れないと言いますが、このビルに広告会社の社員が引っ越ししてから立派な社員食堂で昼飯をご馳走になりました。その時に、情報システム室の私の勤務している会社とは違うベンダーのデータセンターを推薦した50歳代の男が「随分と見栄えはいいけど、ちょっと味が薄いよね・・・」という風に相対して座っている男と会話をしているのを何故か覚えています。私には社員食堂なんてものではなくて普通のレストランに見えたので、会社によってこんなにも格差があるのかとひしひしとわびしさを感じさせられていた時でした。営業という仕事柄沢山の会社の社員食堂で昼飯を食べていますが、この会社の食堂が一番ランクが高かったと思いました。
広告会社のコンピュータの移転が終わってから1年程の後に、今度はオフィスの移転が計画されました。狭くて仕事もしにくい環境だったのでオフィスの移転は時間の問題だったかも知れません。古いオフィスだっただけに逆に狭い会議室や打ち合わせ室でも情報システム室員とは顔を合わせる距離が短いので親密に話ができるような気がして、営業マンとしての私には悪い環境とは思えませんでした。水道の配管も古くて水がそのまま飲めないので当時としては珍しい、一斗樽位のガラス瓶に入った水が給水装置が廊下に置いてあるのが印象に残っています。
これだけ大所帯の引っ越しとなれば色々な取引先が絡んで検討も長引いたと思われますが、情報システム部も引っ越しに伴い色々な仕事が出てきてベンダーを決めて行きましたが、未だ新参者の私はオフィス移転の情報を入手するタイミングが非常に遅かったのは自然の成り行きだったと思います。それでも2件の受注をすることが出来ました。それは相手も私の勤務していた会社の事がよく分かっていないという事もあったというのもあったのではないかと思いました。

注文がもらえるようなものが無いかと思っていたら、ある会議の席上でパソコンを新規に導入するという話を聞いて担当者にお願いに行きました。担当者は真面目な薄化粧の30代の女性でした。取引上色々なベンダーからパソコンを購入しなくてはいけないという予定を聞きました、そこで私は他社が扱いにくい新しい米国のパソコンベンダーを扱わせてほしいとお願いしました。その理由は、既存の取引ベンダーのものは私のような新参者が入る余地がないと思ったからでした。そこにもハードルがあって、新しい米国ベンダーを扱うのが当然ながら私の勤務していた会社だけでなく何社もあるので女性の担当者は困っているようでした。私は狭いごみごみした情報システム室の中央あたりに座っていた女性の席まで何度となく足を運んで、席の横に座ってどうでもいいような資料を見せてはお願いをしたのでした。相手もそういう熱意を買ってくれたのか、ある訪問した時「それでは独断ですが、あなたの会社に任せます」と言われた時は非常に嬉しく思ったと同時に、少し身が引ける思いでした。それはサラリーマンという仕事だけの話で済めばよいのですが、この女性が結婚願望があるというのを感じていたからでした。そんなに美人でもなく普通の容姿で真面目な性格の人でしたが、話をしていると目と目があって明日にでもデートに誘ってほしいというような雰囲気があったのも事実でした。この女性は私がそういう気が無いと知ったからかどうかわかりませんが、1年程後に突然結婚しましたという報告を聞かされてほっとして、目に見えない圧力から解放されたような気になったのでした。

この時にノートパソコンとデスクトップパソコンを合計で1000台位の注文を貰いました。同時にセットアップから設置までの作業も全て行うという条件でしたので、ここで事件が起きたのでした。
これほどの量を一度に保管する場所とセットアップする場所が必要と言うので、当時の営業部長に相談すると、たまたま都内の某所にオフィスを借りていて1フロアまるまる空いているという情報を教えてくれました。営業部長が役に立つものだと思ったのはこの時くらいでした。
自分の勤務しているビルとは地下鉄でも1時間位はかかるような場所なので保管が心配でした。だだっ広い部屋に山積にした箱が紛失しないかと心配していましたが、案の定2台ほど紛失してしまいました。お堅い同じ会社の人間しか出這入りできないというフロアだったので、誰かがこんなに沢山あれば1台や2台無くなっても分からないだろうと思ったのかも知れませんが、すべて引っ越し先と紐づけされているパソコンなので1台でもなくなれば足りなくなるのでした。
私の勤務していた会社は、建前は一見非常に厳しいのですが、その実目に見えないところで利権とかがはびこっているような気がしていました。役員にしても実績の無い口先ばかりの連中が並んでいるなと思っていたのですが、そういう会社の雰囲気が山積みのパソコンの中からそっと持ち出すという社員を輩出する背景になっていたのではないかと思いました。
広告会社のコンピュータが私の勤務していた会社のデータセンターに移転した後に、折角のご縁なのでということで機器の販売をすることが出来ました。しかし、会社の技術者は口先だけだったので私が機器を販売した後に、ソフトウエアをインストールしようとしても出来ませんでした。担当者は2年目の新人でしたが、新人が出来ないのであれは上司が立ち会って行うべきものだろうと思ったのですが、そういう指導はされていないようでした。担当者をサーバーの置いてあるデータセンターに派遣すれば終わると思っていたようで、そのくらいに程度の低い会社であるというのを身をもって知らされたのでした。
中々セットアップができないので、広告会社の情報システム室の注文をだした30代の男は専属の外注SEをデータセンターに派遣してセットアップをさせました。作業は何にもなかったように直ぐにセットアップは終わり、私は酷く気分が悪くなりました。情報システム室の30代の真面目な男性社員は「まあまあ」というような口ぶりで非難はしませんでしたが、私はひたすら謝罪をしたというようなことがありました。サーバーも珍しい時代の話とはいえ、その対応の悪さは多分今も同じだろうと感じております。

コンピュータ移転が終わって1年もすると、今度は派遣SEの業務をアウトソーシングするという話が持ち上がりました。再び提案してほしいというのですが、何せ当時でも破格の安い派遣費用でベテランのシステムエンジニアを外注していたのに、更に費用を抑制したいというのが趣旨のようなので、私は最初から無理筋だなと思いました。それでも何とか考えようというので社内で検討に入りました。
その時に出てきたのが、頭の悪そうな顔をした事業部長が子分として連れてきた、人の良い私よりは少し若し男でした。この男の価値は、事業部長が殆ど文章や資料を作る能力が無いので、その手足としての動くことでした。「言わばワープロ代行のような仕事」だと私は職場でも茶化して言っていました。確かに文字をたらたら枚数多く事実を整理して書くことができるのですが、それ以上のものは無いのでお客様に対して説得力のある資料などは作成は困難でした。
その男に提案書の作成をさせるというのを、何もできない事業部長が決めたので仕方なく従わざるを得ませんでしたが、そうなると難しい条件の案件だけに余計に無理だろうというのは予想がつきました。かなり難度の高い提案書なので、もう一人移動してきた偏屈な年配の技術者を加えて3人で資料をまとめようとしましたが、提案書を書く本人が本筋を理解しないまま勝手に書いて、それをさっさと事業部長に説明するので頓珍漢なものが出来あがるのは自然の成り行きでした。私が書いていれば、ああもするこうもすると考えたのですが、全く違うものが出来て何とも歯がゆい思いをしたのでした。嵐になった休日も出勤して飯も食うのもそこそこに、広告会社が求めるものとは違う内容の提案書を作成したのでした。そういう天気の悪い事ばかりが記憶に残るほどに提案書の中身は薄いものだとも思えました。
提案書の説明日朝に、この提案書を書いた男は徹夜して仕上げました。この男はやたら徹夜が好きで何かあるたびに徹夜するので、エレベータで会った時の挨拶が「おや今日も徹夜ですか」と尋ねると「へへへ・・」と笑うのが常でした。
提案書の説明会は古いビルの中の狭い会議室で、情報システム室員が半分ほどが出席したので驚きました。コンピュータの移転ではちゃんと予定通り計画して実行し、情報システム室の要求通りにすべて満足させる仕事をしたので提案は期待されていたのではないかと思いましたが、提案が全く期待外れだったので直ぐに落選が決まりました。

この広告会社のコンピュータ移転提案は最初は誰にも手を出さないで仕事が出来たのですが、一旦会社の中で認知されてしまうと、仕事の分からない輩が色々な指示をだすので、段々と客先と険悪になり客先は離れていくということが起きるのでした。
サラリーマンとして自分保身にしか考えられない集団が、自分とは利害関係の無い会社に対してサービスを提供しよう等というのが元々無理な注文だというのを肌で知る契機となった事案でした。そういう体質は延々と続いているようにも思えました。
5月の連休にコンピュータを移転しましたが、色々な事件が発生しました。コンピュータは遠い場所にある場所から解体して都内のデータセンターに運搬しましたが、組み立ててからシステムを上げようとするとディスクの一部のデータが壊れており動作が出来ないことが分かりました。そこで急遽、広告会社の情報システム室専属の外注システムエンジニアが、コンピュータの設置してあった遠いデータセンターまでバックアップの磁気テープを取りに行ったのでした。場所は埼玉の山奥なので電車を乗り継ぎ、最後はタクシーで元のデータセンターまで駆けつけたということでした。多分ゆうに半日はかかってしまうくらいの時間はかかったと思います。そんな事もあり、システムの立ち上げは予定よりも一日遅らせてセットアップすることにして、コンピュータを移転したデータセンターで待機していた人たちは解散して、翌日再び集合という事になりました。

この磁気テープを取りに行った人は後々もお付き合いが続きましたが、数年後には癌にかかって亡くなってしまいました。未だ30歳代のベテランで外注SEの中心的な人でしたので、広告会社の情報システム室としても惜しい人を亡くしたということになりました。
話はそれますが、広告会社の情報システム室の方々とお付き合いを初めて漸く内情が分かってくると、社員は素人ばかりで女性が割合的にも多い職場でした。仕事は専属の外注会社のシステムエンジニアが社員に成り代わって仕事をするスタイルでした。ある意味で広告会社の仕事のスタイルを踏襲しているとも思えました。何かと社員の手足として外注会社のシステムエンジニアが活躍している会社だというのが分かりました。
しかも外注会社の派遣費用が格安なので驚きました。とても私の勤務していた会社では対応ができるものではありませんでした。それでも技術的にも私の勤務していた会社の技術者よりも技術的に上でしたし、何よりも積極的に仕事に取り組んでいる姿勢に感銘を受けたほどでした。
そういう外注会社の仕事熱心なシステムエンジニアが以前コンピュータを設置していたデータセンターから磁気テープを私の勤務していた会社のデータセンターに運んだので、翌日にはほぼ一日かけてシステムを立ち上げることができてほっと一息つきました。

システムの稼働確認も終わっていよいよデータセンターから帰宅しようというので、広告会社の情報システム室の30歳代の真面目な男と一緒にデータセンターの玄関から外に出たところで、その男が滑って転んでしまいました。結構派手に転んだので心配になったのですが、当日はそのまま自宅に帰りました。
連休も明けて、広告会社のコンピュータが私の勤務していた会社のデータセンターで稼働を始めました。データセンターで出力される帳票類も問題なく毎日広告会社の情報システム室に届けられて順調に運用が開始されました。
ところが、その30歳代の男が出社していないというので理由を尋ねると、骨折して治療のために休暇ですという説明を聞かされて私は驚きました。その男の自宅住所と電話番号を聞いてお見舞いのために自宅を訪問しました。その男は自宅訪問をすることの拒否をすることはなかったので私は仕事として平日の昼間に、京王線の府中まで行って見舞い品のお菓子を手土産にして、その男の家を訪問しました。
その男は足に包帯を巻いていましたが、駅から自宅までを案内してくれましたので、ものすごい重症というわけではないというのが分かりほっとしました。そうなると、普段の無駄話に花が咲いて1時間ほどその男の家でお茶を飲んで過ごしました。
その男の家には小学生の子供が習字で書いたという半紙が壁に掛かっていて、その立派な筆遣いに驚きました。この男は大学卒業後2年ほど米国の大学で勉強したと聞いていましたので、そういう偏差値の高い人の子供はやはり優秀に育つのかなと思わされた記憶が鮮明に残っています。
こういう経緯もあったので、私が会社で手が空いて暇な時にこの男に電話で「お邪魔します」と言うと特別な会議が無いかぎり「はいはい」と二つ返事で答えてくれて、この広告会社の食堂でお茶やジュースをご馳走になりながら、お互いの趣味の話とか時勢について数時間も話し込んでしまうような仲になったのでした。