広告会社のデータセンターが私の勤務していた会社に決まった後、幹部の挨拶に行かなければいけないというので、この時に初めて社長と営業部長を連れて広告会社の情報システム室長と常務に面会したのでした。
案内されたのは歴史のある本館の玄関横の薄暗い昭和初期とも思えるような部屋の応接室でした。カーテンから机までが現代から一昔どころか二昔でもどうかなと思えるような雰囲気のある室内でした。私の勤務していた会社の社長はそういう重厚な室内を見て「何とも言えないね」と自分が場違いな場所にきているのを分かったようでした。挨拶なんかは別に決まりきったものだっただろうと思います。広告会社の恰幅の良い室長や常務に対して、私の勤務していた会社の社長や部長は格が違うという風に思えて仕方ありませんでした。それは本人の性格もあるかと思いますが、社内で厳しい仕事に耐えて社長に就任したというような風貌ではなく、単に役回りで社長業や部長職をやっていますというようなものだったのではないかと思えたのでした。

挨拶とか契約の打ち合わせが始まると、コンピュータの移転作業のプロジェクトが始まり、社内の融通の利かない名ばかりの技術者が出てきて移転の会議が始まりました。
移転プロジェクトの会議が始まる前、勉強にために大型コンピュータを移転するプロジェクトの資料はありませんかという質問を30代の真面目な情報システム室員からもらいました。当然ながら社内にはそんなものは無く、考えた挙句に初めてコンピュータを移転した時にプロジェクトを仕切ったコンピュータメーカーの資料があることに思いついて、入手した資料からベンダー名をすべて消した資料を作成して提出しました。この資料がどういう事で本家本元のコンピュータメーカーに伝わったのかは不明でしたが、書式を見て直ぐに自社の物だというのは分かったのだと思います。別項の食品製造会社でも紹介しましたが、その食品製造会社の新システムのお披露目パーティの席でばったりとそのコンピュータベンダーの営業部長と出会い、咄嗟に「あんたが私どもの資料を広告会社に出したんですよね」と言われて驚いたのでした。業界はつくづく狭いというのを感じた時でした。

移転プロジェクトメンバーは、広告会社情報システム室はデータセンターの検討メンバー3名に2名程の室員が加わり、私の勤務していた会社の移転担当の技術者に加えて、コンピュータベンダーのシステムエンジニアも加わりました。
会議は古びた狭い情報システム室の横の小さな会議室ではできないので、別棟の会議室で行いました。歴史ある古い本館に継ぎ足して奥に奥にと長屋が出来ているように思えて面白く思えました。その会議室でも一世代前のビルのような古びたもので、この広告会社の歴史を感じると同時に、勤務している人たちは肩身の狭い思いをしているのではないかと思えたのでした。
情報システム室は狭い室内だけに、情報システム室員を訪問すると直接机の横に座って会話せざるを得ないような状況だったのが情報システム室員と仲良くなれた原因ではないかと思えたのでした。現在では出入り業者が室内に入ることさえ情報漏洩の観点から許されないだろうと思いますが、当時はそういう事に対しても鷹揚な良い時代だったと思います。
3社の比較するうちに、データセンターの費用や機能にサービスの比較が徹底的にされてもうこれ以上答えが出ないというところまでくると、大手SI会社の1社が落ちて私の勤務していた会社と長い付き合いのあるコンピュータメーカーの2社が残りました。
2社を比較すると費用もサービスもほぼ互角だという状況になったと思います。私の勤務していた会社が大きく買いかぶりされたのですが、それは一目見て人品を問われるような部長とか役員を一度も連れて行かなかったことが効を奏したのだろうというのは間違いないと確信はしていました。

検討メンバーも2社択一という事態になって、決定するにあたりどういう理屈をつけようかと悩んでいたようでした。そして最後には50歳位の年配の男が多分勝てるだろうと踏んだのか「投票で決めよう」と言いだして、情報システム室の横にある本当に小さな会議室で投票の会議をしたそうです。
投票は挙手で行われ、その時に私の勤務する会社には30歳代の男と20歳代の若い男の2票が入り、相手の会社には50歳代の男一人だけとなり、2対1で私の勤務する会社に決まったのでした。
データセンターを決定する手順は後ほど聞いた話でしたが、そういう理屈が部内でも承認されたのは、私が最初に室長に色々な情報を提供していて、室長は私が役に立ちそうな男だと内々思っていたので、室長もそういう判断に了解をしたものだろうというのは肌で感じていました。

私がこの会社に入れ込んだのは別の理由がありました。私が転職する前の会社ではコンピュータが売れないので苦労していましたが、この広告会社とはある規模の取引額があったことをネタにして私と仲が悪かった課長が情報機器を押し売りしていたという事実があったからでした。
多数の取引会社からそういう販売圧力があるというのは、お付き合いが始まってからよく耳にしましたので、情報システム室長の苦労の種は尽きないなと思い知らされたのでした。
転職する前の会社でそういう押し売り営業をしていたのを目にしていて、件の課長が自慢していたのですが、私は正々堂々と営業活動をして受注をしたということで、転職前の会社の課長に勝って見返すことが出来たという個人的な満足感がありました。
広告代理店の情報システム部とは初対面の人たちばかりでした、それで最初はどうしても双方に壁があるように思われるのでしたが、何回も話をするうちにお互いの気心が知れてきて仲良くなれるような気がしました。
特に理系出身の30歳代の男はなんでも正確に理解しようとするので変に修飾したりべんちゃらを言う必要もなく淡々と事実を説明すれば分かってもらえるように思いました。若い20代の男は元々営業マン志望というのでコンピュータには詳しいとは思えず、質問も事務的な内容に終始したので対応は簡単でした。この男はどちらかと言えば30歳代の真面目な男のアシスタントのようにも見えて、自身での判断は出来ないように思えました。
一番の難関は当時室長に次ぐと見られていた50歳代の男で、この会社に入社して以来情報システム一筋というような経歴だったので、質問も素人同然の私の勤務していた会社の技術者ではとても回答が出来ないような厳しい内容のものがありました。当然ながらそういう質問は既存の外資系コンピュータベンダーからもたらされるものであるとは薄々感じていました。
私の勤務していた会社は元々コンピュータユーザーであった経験を生かして社外販売を始めたものですが、元々全部コンピュータメーカーに丸ごと面倒を見てもらっていたという風土なので社内には名前は技術者と言えども名ばかりの人たちの集団でした。そういう人たちが難しい質問をもってきても答えられるはずもありませんでした。私は長年のコンピュータ営業の経験から、そういう劣悪な社内環境を理解した上で対応を考えていかざるを得ないのでした。若い社員はこういう程度の低い技術者に色々と質問したり資料を作成をしてもらったりするので、自然と客筋はベンチャー企業とか情報関連の技術者のいない会社がユーザーとなっていくのでした。

データセンター移転がいよいよ具体化して、検討メンバーの3名があちらこちらのデータセンターを見学に行ったようでした。勿論、私の勤務していた会社のデータセンターの見学もしてもらったのですが、情報システムにそこそこ詳しいメンバーには、多分どこの会社のデータセンターを見ても同じにしか見えなかったように思えました。それが分かったのは、彼らの反応が良かったのは、データセンターの機能には全く無関係な眺めの良いデータセンターの屋上で景色を説明していた時だったからでした。事実、このデータセンターを契約した後に、屋上から花火が見えますというデータセンター見学の際に説明したのをちゃんと覚えていて、花火大会の見学案内をしたところ「是非に伺います」という二つ返事で夕方にデータセンターに来てもらいました。

データセンターの検討は費用とか機能とか色々な要素を比較検討しなければならないので最終結論が出るまでには半年以上もかかりました。すべての質問に対する回答書は全て自分で作成したのですが、相手を納得させるだけの材料を提供するのには相当に苦労しました。何せ社内の名ばかり技術者に質問したところで何の役にも立たないので四苦八苦したという事です。こういう事実を知らない尊大な態度の部長とか役員は凡人の極みかと思うばかりでした。
又、当時はインターネットの普及前夜で情報の収集にも苦労をしました。そういう意味では情報を少々ねつ造しても検証が出来ないので、情報に手を加えて演出することもありました。そういう事実の積み重ねが段々と評価されていったのは、検討の最終段階になって最後の3社に残ることができたからでした。しかし、営業とは最後に注文を貰わなければなんに意味も無いというのは十分に分かっていたので、3社に残った以降は夕方に検討メンバーを訪問し昼間の競争相手の動きを聞くという事が多くなりました。その動きに対して素早く資料を作成しては反論するというようなことが続いたのでした。
広告代理店の情報システム部は古びた本館の裏手にあり、木造では無いと思いましたが非常に狭い部屋に押し込められていたように思います。各人の机も書類が積みあがっており、足の踏み場もないという一歩手前くらいの状態でした。
データセンター検討メンバーの3人のうち一番年配の男は私より1・2年若い室長に次ぐ管理職でした。なんでも若い嫁さんを貰ったのが自慢で「こういうのは犯罪です」と良く聞かされました。と言いながら、子供は既に二十歳くらいで当時では珍しいパティシエを目指しているという家庭内事情も聞かされていました。年配で既存の外資系メーカーさんとは随分と長い付き合いだと聞くと、この人は私の味方にはならないと思いましたが、結果もそうでした。外見もこの人は暴れん坊のような印象を与える人でした。
二人目は当時で30歳代の男で、私が何か資料を提出したり情報を提供するたびに「有難うございます」と丁重にお礼を言うのが常になっている人でした。この会社に就職する前には米国留学の経験もあるという、外目には真面目な学者の風貌でした。私はこの人には大変お世話になり、色々な案件をもらうだけでなく個人的にも親しみを感じていたので、時々は遊びに行ってこの会社の食堂で雑談をしていましたが、相手も拒否することはなかったので相性がよかったということだと思います。
三人目は入社して3年目というぴちぴちの若者でした。この会社と取引のある会社の息子で、人気のあるこの会社には入社が難しいと分かっていたので情報システム部採用で入社したという男でした。2・3年してからどうしても営業に異動したという希望を人事に出したそうです。しかし、元々情報システム部採用なので異動は難しいと断られると会社を退職したと後ほど聞かされました。

話をしているうちに、コンピュータを近い場所に立地を変えたいと薄々考えていたのではないかと思えたのは、安全なはずの山奥のデータセンターが落雷により停電してコンピュータが停止したという苦い経験を持っていたという事でした。この話は契約が終わってから酒席で聞いた話なので、後で考えると、そんな状況のところに私が経営不安情報を持参したので、情報システム室長としては渡りに船というような事だったかもしれないと思いました。そういう意味では絶妙のタイミングであったともいえるのかと思いました。何事も前向きに事が進むときは、知らない事も順風になって背中を押してくれているということがありますが、このケースもそういう事例かと思いました。
それに加えて一番のメリットは、データセンター運営会社の経営状況が悪くて不安からの脱却というよりも、データセンターの場所が山奥にあったので東京都内に移転するだけで回線費用が毎月何百万円も下がり費用の節約ができるということでした。こういう大義名分があれば社内でも正々堂々と検討ができるということになったのだと思います。
そうなると、データセンターの場所が近いのでコンピュータにトラブルがあればすぐに駆けつけられるとか、プリンタでの出力帳票もデータセンターから情報システム部への運搬時間が格段に早くなるとか、コンピュータの設置場所が近くなるメリットがどんどんと出来てきました。
そういうデータセンターの仕込みを3人と打ち合わせているうちに段々と私と3人の距離は近くになりましたが、一見さんの営業マンとしてしか見られていないと感じていました。長いこと付き合いのある外資系コンピュータメーカーの営業マンが何時もポルシェで来ますという話を聞くに及んでは、月とすっぽんほどの差があるのだということかと思いました。
ベンダーとして特長とかを説明する前に、データセンター移転に関する色々な知恵だしをして、無料のコンサルタントをしているようなことが2・3か月も続いた後に、漸くデータセンター見学になったのでした。
冷凍食品会社とか食品製造会社とのコンピュータのデータセンター移転が終わるころ、気になっていたお客様を再訪したことがありました。神田にあった広告代理店は一度情報システム室長に面談して、すでに「大型のホストコンピュータは某データセンターに移転済です」という話を聞いていましたので、一旦は見込み客から外していました。しかし当時はバブルの終末期で色々な経済事件が起きました。

バブル崩壊は元はと言えば、一見賢そうに見えますが実は何も知らなかった日銀総裁の見誤りから発したものだというのは今では定説ですが、当時は一度下り坂を下り始めたら何処まで行くのだろうという雰囲気だったと思います。当時の日銀総裁のビデオ映像が流れることがありますが、そういうレベルの人間しか日銀にはいなかったのだというのを評論家諸氏から発言を聞いたことがありません。個人が悪かったような話ばかりですが、そういう人を総裁にした組織に問題があるのであって、そういう本音を言うと飯の種がなくなるので個人の問題にすり替えているのではないかと思えるような話が横行するのは日本を象徴していると思います。
そういう経済下降期でしたので、経済事件に巻き込まれる会社も沢山ありました、その会社の一つが広告代理店がコンピュータを預けているデータセンターを運営している会社に発生しているのを新聞記事で読みました。急ぎの用件でもないので自分の時間のある時に、神田にある古めかしい広告代理店の情報システム室長を訪問しました。

その広告代理店は古い歴史があり、古い建物の受け付けはかなりの昔風で玄関に美人の受付嬢がいました。昔から広告代理店は人気の業種らしく、受付嬢も並の会社とは違うものだというのが第一印象です。又、個人的には古い建物が好きで、若いころに奈良の社寺を訪問したのを彷彿とさせるので、この会社を訪問するのはある意味での楽しみがありました。外側はレンガ造りの木造の建物ですが、内部はやや薄暗いのが何とも言えない雰囲気があると感じていましたが、今どきの感覚からいえば古びた古民家くらいにしか思われないかも知れません。
その古びた受付の横にある天井の高い暗い応接室で、情報システム室長に契約しているデータセンターの会社の経営状況を説明しました。経営状況が悪くなってもサービスが悪くなることとは連動していませんから、室長の反応はいまいち良くはありませんでした。その場では新聞記事をコピーしたものを見せただけなので迫力不足だと思い、後日別の資料を持参しますという事で説明は終わりました。相手に不安を与えるというきっかけにはなったと思いました。
会社でその会社の信用調査書類を取り寄せてみると克明に内容が書いてあり、評価も悪かったので、この資料ならば衝撃を与えられるだろうと思って、再び神田の広告代理店を訪問しました。そして私が入手した資料で会社が危うい状況にある旨を説明すると、さすがに情報システム室長の顔色が変わって硬直していくのがわかるような気がしました。この後で情報システム室長としては経営の危険な会社にコンピュータを預けておくことは出来ないと思ったらしく、データセンターの移転検討を指示したのだろうと思います。
その後は情報システム室内に3人のデータセンター移転検討チームが出来て、データセンター移転の検討が始まることになりました。

この案件は、私が仕掛けた情報戦で動き出したという事に意義を感じていたので、非常に痛快にも感じまた。しかし一方では、当時はこの会社のデータセンター検討が始まったのはいいとしても、私一人だけで強力なライバルに立ち向かうことになるとう図式に相当のプレッシャーがかかっていたというのが実態でした。私の勤務していた会社は、口先ばかりの社員の集まりの烏合の衆でした。自分一人で対策を考えて実行しなければならなかったので、その烏合の衆は邪魔になることはあっても助けにはならなかったという事でした。そういう会社の体質は多分今でも変わっていないだろうと思います。
食品製造会社の情報システム部の担当者で、コンピュータをデータセンターに移転してからしばらくすると突然「名古屋に転勤になります」と言って姿が見えなくなった社員がいました。情報システム部は元々専門職みたいなもので異動というのは少ないはずだったのですが、この社員の場合はあまりにも唐突だったので驚きました。理由を情報システム部の人からは何も聞けなかったので何か事件でも起こしたのかと想像したのでした。唯一想像出来たのは、この社員は株式取引に熱心だったので若いのに珍しいなあと思って、この社員の株式で設けた自慢話を何時も聞いていましたので、インサイダー取引でもしたのかかということ位でした。
私にとっては、この会社に初めて出入りした頃に一番お世話になったという気持ちがあるので余計に何があったのかと気になったのでした。会議は何時も屋上に近いきれいに手入れされた植栽が見える会議室を予約してくれていたことだけが印象に残っていて、その社員の顔は思い出せないという思い出があります。結局、私が担当を外れてしまうまでには、その社員とは一度も再会することはありませんでした。

情報システム部の課長、次長、部長は年功序列で順番に昇格をしていきました。特に次長さんから部長、その後は取締役までを歴任された社員とは気が合ったのか良く雑談をするために訪問していました。
当時、私は丁度私は子会社へ出向から転籍になった時期で、切れ目として若いころの営業マンとして苦労した話を茶化した小説を書いたので手渡して感想を求めました。その方からは「最後に日比谷公園に行った主人公はどうなってしまったのでしょうか」という質問をされて、続きが必要ではないかと言われたように思えました。
この人は他人に率先して行動する人で、余り担当者だからとか部長だからとか役職を意識していないようでした、頼まれれば力仕事でも率先してやりますと言っていたのが、人物として好印象を持てる原因かなとも思ったのでした。毎回訪問するたびに、他人の芝生は青く見えるというのを何時も感じさせられた人たちのいる会社であったと覚えております。

これは会社の風土といえるようなものです。その会社と付き合って初めて分かるもので、大学生は4年生になり色々な会社を訪問して試験を受けて合格して入社するわけですが、その会社に入社した後に、本人との相性もあり、運がいいのか悪いのかは初めて分かるという類のものだという事です。表面ばかりの情報や先輩との面談なんかでは分かるものではないものだと思います。かくいう私は転職前の電気メーカーと転職後情報システム会社の2回は共に外れました。自分自身は仕事を覚えた後は自分で考えて磨きを上げるタイプなので、社員の大多数を占める付和雷同する人たちとは少し違うという事を今頃気づいたということです。無事にサラリーマン生活を終えただけよかったと思わなくてならんのかと思うこの頃です。
食品製造会社は古い体質だというのが分かったのは、情報システム部の部長さんと話をしていて社内文書の話になり「私の会社では公文と言います」といのを聞いて驚きました。私が転職して勤務していた会社は教育が出来ない会社で文章も本人次第というようなありさまで惨憺たるものでしたが、転職前の会社は役所体質でしたので社内では他部署への連絡依頼はすべて「公文」という名前で呼ばれた文書が正式な書状として流通していました。そんな事情もあり、10年近く前に勤務していた会社と、社内文書を同じ呼び方をしていたので、この会社も役所体質かと想像しましたが、少し違いました。
私の転職前に勤務していたのは電機メーカーで、法人や役所が顧客でした。電力会社や役所は、表面的には賢そうな顔をした有名大学卒の知ったかぶりをする技術者の尤もらしい話をなるほどなるほどと感心して聞いて、そんな表面的な建前で事業をしていました。しかしながら、この会社は食品製造で最終消費者を対象にしているので、そういう事は殆ど感じさせませんでした、逆に家族的な付き合いを求められました。

ある時突然、情報システム部の何時もは殆ど挨拶しかしないような人から電話があり「xxさんの親父さんが無くなりました、葬儀に参列してください」と有無を言わせず強要されたようなことがありました。会社から領収書無しのわずかな金額の香典では恥ずかしく、自分の気持ちを足した香典を持参して葬儀に参列したこともありました。そういう連絡があるほどに相手の会社には認識されていたのかも知れません。
この食品製造会社は野球にも力をいれていました。野球チームが優勝すると、情報システム部から連絡がありました。私は「どういうお酒がいいですか」という要望を聞いてから、近所の酒屋に電話注文してもってきてもらうということをしていました。大抵は一升瓶の日本酒3本というのを所望されたように覚えています。この会社の玄関で大壇幕の下で樽酒がふるまいされていますが、私はお酒が飲めないので升と記念品をもらいました。
かような具合にお客様から何かの時には連絡があるというのは非常に嬉しいものでした。接待の飲酒のような表面的な付き合いとか、色々注文を付けられる仕事だけでは無く、普段の付き合いができるというのが楽しいので、サラリーマンとしての生きがいかもしれないという思い出が強く残っています。

この会社は古くはオーナー会社というので、オーナー専用の接待部屋が残っていました。年始になると情報システム部長が「普段お世話になっていていますので」と言って営業マンとデータセンターのオペレータをねぎらって接待をしてくれるような事がずっと続きました。接待されるばかりでは申し訳ないと、相手の出席者分のお菓子を持参するようになりました。
このオーナーさんの作ったという部屋はビルの中の隠れ部屋みたいで、10畳ほどの広さで、こじんまりとした落ち着いた部屋でした。板戸で土壁もあり、ビルの中に和室を作ったような部屋で、カラオケ装置も置いてありました。かっては名のある有名人が招待されていましたという話を聞くに及ぶと、場違いな場所にいるようで凡人には何となく居心地が悪くなるような気がしました。二三度そのオーナーさんの接待部屋で接待をしてもらい、その後はビルの地下にある飲み屋の一角で接待されて、ようやく普通になったのかと感じたのでした。
年に1回、冷凍食品会社も現場のオペレータを接待してくれましたし、この食品製造会社でも現場のオペレータを接待してくれたので、食品業界はこういう習慣があるのかと思ったほどでした。しかし理由はさておき、お客様から日ごろの仕事ぶりをねぎらってくれるというのは非常に嬉しく感じる時でした。
一方の私の勤務する会社では、仕事振りに感謝するという思想は皆無で、もうからん客だとかいうのを平気で堂々と威張って公言するような風土でしたので、その落差たるやものすごいものだなと肌身で感じていました。私が担当を外れると、私の勤務していた会社の風土が相手にも伝わり、どんどんと取引が縮小していったのは自然の成り行きだったのだと思いました。
食品製造会社のコンピュータのデータセンター移転は規模は大きくなかったので容易に出来ましたが、一番の苦労はオペレーションでした。元々社員で社内業務に忠実に従ってプリント出力したり、特定のジョブを流すというようなことをしていたものを、作業の標準化をしないままデータセンターのオペレータに引き継ぎました。そのオペレーションは職人技みたいなもので、24時間のオペレータ4名が覚えるには能力も必要でしたしかなりの時間も必要でした。このオペレーションは延々と今でも引き継がれていると思います。
こういう苦労を経るとお客様とは自然と仲良くなるもので、その後社内のメールシステム構築の注文をもらいました。全国支店での作業がありました、私が勤務していた会社では手におえないので、かっての付き合いのあった業者さんに手伝ってもらいシステムを導入することが出来ました。この時、担当したシステムエンジニアは一風変わった職人気質の人で、私と同じ事業部の技術部に丁度異動したばかりの頃でした。年配の割にPCに詳しいので素人集団の知ったかぶりをする連中には煙たがれていた人でした。そういう気質から私とは相性がよく、次に注文をもらったお客様でも1000台のPCを導入するときには嬉々として一緒に仕事が出来ました。技術者は少々偏屈で凝り性の方がお客様にも真摯さが伝わって評価されることが多いと思いました。

食品製造会社では社会人スポーツにも力を入れており、マラソンの選手が情報システム部にも配属されていました。情報システム部の女性陣は「マラソン選手はもてますよ」という話をしているのを聞いたことがありました。新人のマラソン選手が情報システム部に配属されて、当時は毎朝10Kmを走って会社に来るので午前中は仕事が出来ず、午後から仕事をするというスケジュールだと聞きました。
「どんな仕事をするのですか」と半分冗談交じりに質問すると「社員教育を担当しています」という返事があり、面白くもない内容に拍子抜けしたような気になりました。私は「何もしていません」という答えを期待していただけに余りにも平凡な内容で期待外れであったということでした。
そのマラソンをしていた男性は、女性陣の前評判通りにしばらくすると結婚しますという話を聞いたので、なるほど体格もいいし顔だってスポーツマンらしい爽やかな顔をしていたので早い結婚話に得心出来ました。
しかしながら、先輩に同じマラソン選手だったという真面目な人がいて、課長から「xx大学のマラソン部出身です」と紹介されたのですが、理系という学校の特性をかって採用したという感じはなくマラソンが買われて入社しように思えました。「今でも走るのですか」と質問すると「ええ、時々」という答えがあり、気分転換になるというような話を聞きました。その男性は、先述のメールシステムを一緒に作業したので色々な話をしましたが、こちらの人は真面目すぎて女性が敬遠しているようだと感じました。先日、インターネット上に、この男性がユーザー紹介という頁に写真が出ていたので見ると、相変わらずの真面目な顔つきで、頭髪に白髪が混じったということだけで風貌は変わっていなかったので直ぐにこの人だと分かりました。
この男性をマラソン部出身ですと話してくれた課長さんも、聞けば実は大学時代はマラソン部でしたというので、情報システム部はマラソン選手の指定席かと思いました。この課長さんに、当時話題の小出監督の事を聞くとよく知っているというので話が延々と続きました、合いの手をいれるとあっという間に1時間や2時間が過ぎていくのでした。
私の勤務していた会社の役員にスポーツをしていたという人がいましたが「俺はスポーツ心臓だ」というのを自慢ばかりする人で私には気持ちの悪い存在でした、この食品製造会社のマラソンをしていた社員の爽やかな印象とはまるで違い、その落差をいつも感じていました。
私は子会社のデータセンター営業を担当してから誰にも頼まれる訳でもなく、自らの意志でサラリーマンとしてのなすべきことを考えて、自ら新規顧客開拓の計画を立てて訪問して会社紹介と事業紹介を延々と1年以上も続けていました。他の営業マンは確かに素人ばかりですが、親戚頼みの営業の殻を破れないままに毎日を忙しそうに会議に明け暮れていました。事業部として何とか食っていけるベースを親会社からもらっていたので、そういう人たちには営業職は好きこんで担当しているわけでもなく仕方なくやらされているのだという意識があったと思います。そういう意識は自ら考えて動こうという事にはならないので、必然的に一日中座って誰からか電話を来るのを待っているしかないという日常を送っているという勤務態度に現れていると思いました。それが年配だけの組織のうちはそれですんでいましたが、人の新陳代謝が起きてもそういう風土は文化となっていったのを目にしたのでした。
そういう環境の中で変わり者が一人でしこしこと仕事をしていると思わぬことが起きて驚かされました。次なる新しいお客様になったのは偶然ではなく、そういう姿勢が評価されたのだろうと考えております。

データセンターの新規顧客開拓のために可能性のありそうな顧客を洗い出して、訪問計画をたてて100社位の情報システム部長と面談してきました。ちょうど100社目に訪問をした飲料販売会社から受注してコンピュータの移転も終わり、次の冷凍食品会社のデータセンター移転案件が具体化している頃の事でした。今から20年も以前のことです。
突然事務所にある飲料製造会社の情報システム部長から「再訪してほしい」という連絡があったので驚いたのでした。驚いた理由というのは、この顧客には私が最初に毎日新しい顧客を訪問している時に、3年も前に一度だけ面会した人でした。
当時、この会社ではコンピュータを新橋の自社ビル内に設置していて、情報システム部員と派遣外注社員がオペレーションをしていて、コンピュータをデータセンターに移そうという計画はなかったので、単なるデータセンターや会社の紹介だけで終わったのでした。当然見込み客とはならないので放置しておいたところに向こうから電話がきたという筋書きでした。後ほど情報システム部の担当の人から当時の事情を聴くと「部長はあなたの説明を聞いて非常に驚き、ずっと記憶に残っていたそうですよ」ということでした。私は自己流の分かりやすい説明を心掛けていたつもりでしたが、そういう説明が人によっては新鮮に聞こえたのかも知れないと思いましたが、一営業マンとしては3年前の訪問の事をずっと記憶してもらっていた事の方がよほどうれしく思えて忘れられない顧客の一つとなりました。この顧客も同じコンピュータメーカー2社とは20年以上の長い付き合いがあって、馴れ馴れしい営業マンとの落差が新鮮に思えたのではないかとも考えたのでした。

当時はデータセンターにコンピュータを設置することは少ない時代という事もあり、費用をかけてまでする仕事かどうかと選択を迷う企画でもありました。
私はビル内でのコンピュータ設置は地震時には問題がありますという問題を提起しました。11階に設置されていたコンピュータが地震時にどうなるか、ビルを建築したゼネコンに問い合わせたところ、地震時にはコンピュータが動いて壊れる可能もありますとの回答があったと聞きました。これが契機となってコンピュータのデータセンター移転検討が具体化したのでした。
当然ながら既に取引のあるコンピュータベンダーと私の勤務していた会社との一騎打ちでしたが、何時ものあることないことまくしたてて優位性を強調したことと、費用でもぎりぎりの費用で何とか受注をすることが出来ました。
こういう苦労を知らない口先だけの部長や役員は、費用が安い安いと悪口を社内で広めるのでした。そういう事は気にしても仕方ないので、サラリーマンとして会社の業績に寄与しているという自負に置き換えて知らん顔をせざるを得ませんでした。
この冷凍食品会社のデータセンター案件を受注してから7・8年後に、頭の悪そうな顔をした事業部長が私を部長職につけたくないと思い他部署に移動させようと画策しました。
普通の順序では異動先と話をつけてから本人に話すところを間違えて、先に私の担当している客先を外したのでした。私の場合はプロパー社員でもないし、麻雀仲間でも無いので、社内でも面識が殆ど無いのでそうは問屋が下ろさず、結局相手の了解を得られず異動は実現しませんでした。
そういう嫌な仕事は、その事業部長が連れてきた、同じ学校を卒業したという常識が尋常では無い営業部長が担当していました。この男は人事権も無いのに、支社の営業マンに役職を営業部長に名刺を書き換えろと指導するし、この冷凍食品会社の人たちとは酒さえ飲んでいれば仕事が済むとか思っていたとか、常軌を逸したことをしていました。しばらくして、この男は事業部長の上司である役員から促されたらしく、子会社へ異動をさせられたのでした。当の事業部長は、本当に人を見る目も無いのはこの時に証明されてしまいました。
又、この営業部長は自宅から鉢植えを自分の机の横に置いていましたが、水やりや日当たりが良くないせいか2度も枯れさせたのでした。その時に目の前に座っている私に向かって言った言葉が「あなたの毒気で枯れてしまいました」というので、私は「はあ・・・」と呆れて返事をするばかりでした。

その後、事業部長は上司の役員からも勧められた私と同年の男を連れてきて営業部長に据えて直ぐに事件が起きました。この冷凍食品会社の情報システム部を分社した上に他社との共同出資会社を設立するというもので、提案を求められたのでした。
困った事業部長は子飼いの部下に提案書を作成させて出しましたが、簡単に相手が勝ってしまいました。その上に、データセンターの費用も競争相手が安値を提示したので、私が原価すれすれできつい価格折衝をして決めたものをあっさり割ったのでした。
私はもうこの会社とは縁が切れてしまうのかと思いましたが、社内での評判を気にした事業部長や上司の役員も大きな赤字受注を了解して、引き続きデータセンターの仕事だけは残してもらうという事にしたのでした。事業内容よりも社内での体面が大切というサラリーマン人生の鉄則を見事にやってのけるのが丸見えでした。
この時、冷凍食品会社から担当を外れた私に電話があり「本件、相談しいたのですが・・・」という話でしたが、私は大きな声で事業部長にまで届くような声で「担当から外れたので、新しい営業部長と相談して貰えませんか」と言って電話を切りました。相手も何とか私の勤務していた会社を助けるつもりだったのでしょうが好意を生かせず、事業部長が私を担当から外したばかりに、この会社との合弁会社設立どころか、従来からの受託事業は赤字になってしまったのでした。
この時、社内には「何とか踏みとどまりました」という報告を上げたのでしょうが、事業部の明細なんぞは誰も気にしないので赤字事業かどうかなぞというのは随分と後になって社内に広まったのでした。
しかもそういう状況を役員が何十年と見過ごして何の対応をしなかったのは、今頃のガバナンスという定義からすれば大いに問題ということになるのだと思います。ゴルフとか飲食とかそんな当たり前のことばかりをして時を過ごしていたようでした。当然ながら、社内では部長や役員は担当者が悪いという事にして、自分たちは悪くないということにしていたのだと思います。

この事件が起きたのは、私が担当を外されて間もない事だったので、私が裏で色々画策してこんなことになったのだと、都合の悪いときには人のせいにしかできない当の事業部長はそう考えていたのだろうと思います。
この客先のことは私が一番内部に通じているのは分かっている筈なのに、無理矢理に担当を外した経緯から私に一言も相談もできないという事情を見れば、最初から負ける勝負だというのは自然の理なのに、そんな簡単な理屈も分からずに提案をしていました。まことにもって会社の力というのはこういう時に現れるもので、情けない程の能力だというのも証明されてしまいました。
この事件は全くもって予見をしていないもので、たまたま色々な事情が交錯した時に起きたのは、何とも不思議な事件だと思いました。