頭の悪そうな顔をした事業部長が変人の新しい営業部長を連れてきて、私がデータセンターの顧客として受注した顧客を私から全て取り上げて、別の担当者に割り当てると当然ながら随分と暇になりました。
事業部長は私をみてはにやにやして笑っていましたが、今頃でいうパワハラそのものでした。事業部長は私が嫌がらせで会社を辞めてくれれば幸いと思っていたのだろうと思います。こういう人間が会社にいるというのが、私の勤務していた会社の実態なので多分今頃でもそういう社風は変わっていないだろうと思います。たとえるならば、一見立派そうに見える建物も裏側は虫食いだらけの汚いものを見てぞっとする心境でした。
そういう嫌がらせを受けての出社なのでこちらも仕事が無くても堂々としていて、毎日インターネットを閲覧しては日々すごすようなことになりました。

この時、営業部に他事業部から異動してきた男がいて毎日ぶらぶらして煙草をふかしていました。この男が知り合いの関連会社の営業マンからの紹介というアウトソーシング案件を持ち込んできました。
どうせガセネタだろうと思って話を聞いていると、コンピュータの型式からいうと割合に大きいものだというのが分かりました。最初はその男が窓口となり自分で営業担当をしようという気になっていたのですが、データセンターの段取りとか費用見積もりとかいうことになると作業が分からず面倒になったと思ったのか、私に役回りがきて関連会社の営業マンとのコンタクトも取るように変わりました。
私が担当になればデータセンターの見学とか見積もりは何の問題もなく行う事ができました。当然ながら、営業部長や事業部長は外して全部私が一人で営業を行うということになるのは当然のことでした。
この顧客は利用中のデータセンターのサービスが悪いので他社に変えたいというような意向を持っていることがわかり、渡りに船というような状態であるとこがわかりました。その上に、割合に急ぎであるというような事情もあるらしく悠長に何社かのデータセンターを検討するというよりも早く決めたいというような意向でした。
関連会社の営業マンと顧客の部長や課長は信頼関係があるいようにみえて、データセンターの選定はその営業マンに一任されているようにも思えたのでした。
事業部長が嫌がらせで私の受注した顧客を全て取り上げたら、今度は私の前に別のお客様が現れたという真に奇妙な図式ができていたのでした。時期的には私が暇になってから丁度2年後くらい後の事でした。
これは次の項で触れる事ですが、たまたま新しいデータセンターを探すというような出来事と重なり、私の人生と言うのは何時も忙しく過ごすのか運命かと思った時でした。
自然の成り行きで私はこの顧客を新しいデータセンターの顧客第一号として受注して定年までいお付き合いすることになりましが、これはこれで波乱万丈のお付き合いにあるのですが、年季の入った私だから対応ができたのだろうと思えるほど、ある意味特別なお客様でもありました。
身の程を知らないという人が社長というは案外どこの会社でもあるのかなと思えるような時もありますが、仕事のできる能力とか人間力という評価点がおろそかにされて人事が行われている会社でもあるというのを知らされた時がありました。
頭の悪そうな顔をした営業部長が事業部長に昇格してから暫く後に、当時の社長が年始の業界賀詞交歓会で当時飛ぶ鳥も落とす勢いのある会社の社長と話をして「一緒に仕事をしたい」というようなことを言ったようです。相手も大勢のいる席でぐずぐず言われるのも嫌だなと思ったらしく「それではxx部長にどうそ」というような話で逃げたようでした。そもそも、形式だけの会合にそういう仕事の話をすること自体が非常識といようなものの上に、何ができるのかも知れない会社から唐突な依頼をされたら相手も困るだろうというのが、全く分からない程のビジネスマナーが理解できていない社長でした。この社長は体が太っており一見偉ぶって見えるのですが小心者に思えました。

社長は意気揚々と会社に帰り、頭の悪そうな顔をした事業部長に、この会社とコンタクトを取れと言ったのでした。当然ながら、頭の悪そうな顔をした事業部長は社外の顧客とまともな会話ができる人間でもなく御用聞き程度しかできないレベルだったので困った顔をしていました。
最初、頭の悪そうな顔をした事業部長は相手の会社に電話して「社長から仕事がもらえるときいたもので・・・」というような話をしていました。
そもそも、こんな変な話を電話一本で済むわけがないだろうというのかというのが、電話の会話を聞いていた私の感想でした。相手も「突然に仕事がありませんかといわれても困る」というのが分かるような会話に終始していました。
事業部長も社長の機嫌を損ねないようにと思ったのは当然だと思い、焦って後日その会社に出向いて何か仕事は無いかと相談したようです。
相手の会社も「自分の会社の社長からの依頼で」というのを主張されて困ったのか考えた挙句にシステムエンジニアを安値で派遣してほしいと言ったようでした。その会社からすれば安値なので何れ根を上げて自分から辞めていくだろという算段があったものと思います。
事業部内の派遣担当者も驚くばかりで「それでは赤字なので」と相当に反対されたのですが、頭の悪そうな顔をした事業部長は社長の面子が優先とばかりに赤字契約を強行したのでした。現場の担当者は自分で赤字の後処理をしなくてはいけないので怒り心頭でした。
しかしながら、システムエンジニアを派遣できたのは半年ほどで自然と仕事もなくなり終了したのでした。

無能な社長に会社中が踊らされた一事件でしたが、そういう事はいつの間にか忘れ去られて社長はのうのうと会長になってサラリーマンを謳歌していたようでした。一将功なりて万骨枯るというには大げさすぎますが、こういうことが日常茶飯事に起きても会社は倒産するわけでもなく、小さなけがで済んでよかったと思ったものでした。
20年以上も前に竣工したばかりのデータセンターに客がいないというので、私が異動して顧客探しを始めて以来、5年後くらいには満床となり漸く一件落着したかに見えました。その後、頭の悪そうな顔をした営業部長が事業部長に昇格して、営業部長に変人を連れてくるわ、私の開拓した顧客を担当から外すわと、事業部長は本当に頭の悪いのを証明するようなことばかりをしていました。
データセンターに入居していた顧客は営業マンが変わると雰囲気も変わって、何事にも柔軟で顧客のためになることは進んでやるという姿勢は全く無くなりました。無くなったというよりも出来ないという方が正確だと思います。
会社は元々親会社の体質を受け継ぎ役所体質なので、建前が重要で実態は客のことなんか考えることは思いもつかず、自分が大事というのが隠れた会社のポリシーでした。年始の挨拶や新規受注の御礼の際には、そういう本心をおくびにも出さず挨拶をするなんぞと言うのは自然に出来てしまうので伝統芸能かと思えたものでした。

私がデータセンターの営業担当から外されてから、このデータセンターからぽつぽつと客が出ていくようになりました。私の勤務していた会社では客の事情を考えることをしないので、顧客は何か機会があれば他のもっとましな会社と付き合おうと思うのは至極当然な成り行きであったと思います。私が退職する頃には、散々に契約や見積金額で嫌な思いをした携帯電話会社がデータセンターから退去したので、残った客は少なくデータセンターはもぬけの殻となり赤字転落となったようでした。
私は20年も前から、携帯電話会社との関係は水面下では険悪なので、将来退去という事態を予想しました。頭の悪そうな顔をした事業部長に対策を考えねばと忠告しましたが、頭が悪そうに見えた事業部長は頭が悪かったのは本当らしく、私の意見をきこうとしない結果が20年後に現れたのだと思いました。

こういう経緯を考えてみると、そういう先見性を元々会社は求めていなかったというのも事実だろうと思いました。その場その場で当面の数字が問題なければそれでよしとしていたからだろうと思いました。
頭の悪そうな顔をした事業部長はとっくに退職しているので今更何の責任もありませんが、当時の役員や社長はこの男を事業部長として承認していて事業を任せた結果20年後にとんでもないことになったという事なので、当時の役員の責任はどうだったのかと普通の会社では話題になりますが、この会社ではそんな事すら思いつかないと思います。
ビジネススパンが長いので、当面顧客から金を貰えているだけで満足して、歴代の事業部長は無為無策で放置していた結果でもあると思いました。
私個人としては、折角色々な顧客とつながりを作ったのに、その顧客との関係が無くなるのは非常に残念な気がしました。残念というよりもむなしいという言葉の方が正しいかもしれません。
又、私が40歳も過ぎたころにがむしゃらに頑張った成果はことごとく消え去り、サラリーマンとして生きてきた証がなくなったようにも思えるのでした。
私がサラリーマンとして電機会社入社後に設計した飛行機用のレーダーは、20年もの間現役で使われて、転職後も「あんたの作成した図面が保管してあります」と同僚から言われたことがありました。そういうサラリーマン生活前半の成果に比べると、転職後40歳から50歳の頃までの成果は砂漠の如くと言えるものだったかも知れません。
一時期、会社の社員食堂が閉鎖になったことがありました。私の勤務していた会社のビルは元々オーナーさんが建築したビルで当初はオーナーさんの奥さんが趣味で喫茶店兼レストランをしていてそこを利用していました。その後、その喫茶店も無くなると社員食堂ができました。味は別にして安価で昼食が食べられるので利用をしていましたが、何かの理由で無くなることになりました。多分、事業を拡大するので社員が座る席が必要と言うことだったのではないかと思います。
この食堂は定時以降ビールが飲める場所になるので、帰り際に安酒をあおって帰る人も多々いましたが、そういう人は常連でした。特に夏場は冷房の利いた場所でビールが飲めるのが楽しみだった人が多いようでした。官庁では、帰り際に職場に仕切りををした隅の席で冷蔵庫に入れておいた私用の酒を飲んで帰るという習慣のあるところもありますが、民間会社でも社員食堂で帰り際に、金を掛けないで酒を飲むという発想は同じだと思いました。

この食堂が無くなるというので私は仕方なく弁当を毎日作る羽目になりました。外食すると当時では千円が相場でしたので一か月で2万円もかかり少しばかり抵抗がありました。
弁当のご飯は一週間分炊いて冷凍がきくので問題はありませんでしたが、おかずは毎週土曜日や日曜日に仕込むという別の仕事が増えてしまいました。長年ひとり者生活をしていたので料理は苦にはなりませんでしたが、一度に一週間分作るのは手間がかかりました。冷凍食品は使いたくないという自分のポリシーもあり、出来るだけ生の食材から作っていました。
こういう生活を始めると、毎日子供たちに弁当を作る主婦がどうしているのかと想像したのでした。朝の少しの時間では煮炊きは殆どできないのでろくなものは作れないだろうと実感しました。ウィンナソーセージを焼くにしても、少しゆっくりしていると5分は必要なので準備や後始末までいれると10-20分は必要になり、他のおかずの準備も含めると1時間は必要なのかと思いました。よほどマメな人でないとつづけられないかなと自身の弁当作りでよく理解できました。
私の弁当は、事前に作り置きした魚の煮物や鶏の空揚げ加えて、野菜だけは毎朝切って詰めるだけのものでしたのでそれほど時間は要しませんでした。ご飯は毎日白米では飽きるので炊き込みごはんも作りました。

こういう弁当持参の生活を始めると、仕事上はどういう変化があるかというと、昼飯を考えた行動になってしまうという事でした。毎日弁当を持参して出社して直ぐに職場の冷蔵庫に入れて、食べる前に電子レンジで温めていました。弁当を食べるという一つの仕事が増えると何時も弁当の事が頭に浮かぶので、スケジュールもできるだけ昼前に終わるようにとか、弁当を食べてから出かけるとか、弁当中心の生活になりました。
弁当持参というのは営業職には少々不適当な昼食かなと反省をさせられることもありました。営業職と言いながら、管理職と称し毎日呆然自失、会議とか打ち合わせばかりしている輩には何の問題もないと思いましたが、私の様に何時も現場に駆け付けるという姿勢がしみ込んでいる人間には昼食は後回しにするくらいにしないといけないと思ったのでした。こういう弁当生活が少しは出来たのも、データセンターがほぼ満床に近くなってからでしたので、一時期よりは外出の時間が減ったのも一因だったのだろうと思います。
私がデータセンターの営業をしていて何社かの顧客を受注したのは変わり者の事業部長の時でした。この事業部長については以前の項で紹介したのですが、散々に事業部内の部員を異動させたのが自分に回ってきたのか千葉の奥にある子会社に異動になってしまいました。その後釜に来た事業部長は非常に大人しい人で、その大人しいのは対人恐怖症らしく顧客に行くのを極端に嫌がっていました。自分は内勤だけに注力するというような姿勢でした。私は多くの顧客を開拓した実績を買われていたので何かあれば良く相談にのってほしいと言われました。当時は頭の悪そうな顔をした男が営業部長で、頭越しに直接私に相談しているという事も癪に障るような小人の態度があからさまでした。この時からこの男は私を非常に煙たがっていたのでした。

その事業部長は苗字も一文字は石がついていたので、まさに動かざること山の如しというのが名前通りだなと思っていました。ある意味では賢いとも思え、自分が不得意な事にあえてチャレンジしないのも筋が通っていると思って感心もしたのでした。
この事業部長は悪い人ではなく人はよいので、色々な世間話も盛り上がることもありました。この事業部長は50歳も過ぎていたと思いますが、再婚するということで新築の家を建てたという事でした。
その時近所の人が家を見せてくれと上がり込んで来たので驚いたという話を受けて、私の実家のある名古屋では嫁入りすると家の中まで近所の人が上がり込んで、箪笥の中も全部調べてどんな着物を持ってきたか点検しますよと言うと、件の事業部長は「その人は名古屋の出だと言っていたね」と言って得心するような会話もありました。家の不用品を整理していると「リサイクル屋がブランド物のセーターを100円で買っていくんだね」とかいう生活感あふれる話も聞かされたのでした。
私が転職前の会社では「会社ではうんこしてはいけないとしつけられていました。腹具合が悪いときだけトイレに行けと言われていました。毎朝、自宅で食事をしてうんこを出して、会社では仕事ができる心構えをしてから来いと言われたものです」という訓話みたいな話をすると、以後「今日は腹の調子が悪いからね」と言い訳を言いながらトイレに行っていたのがユーモラスに感じられました。
この事業部長の友人筋を頼って仕事させてほしいという50歳を過ぎた男がきたことがありました。「学校はT大のxx学部で」というような話が聞こえてきました、年配者が学歴を持ち出すのはよほど仕事が出来ずに前職を首になったのだろうと思いました。当然ながら採用はされなかったようでした。
この事業部長はある意味では非常に常識人で羽目を外すことはありませんでした、それで頭の悪そうな顔をした営業部長を「事業部長に推薦したよ」と私に告げたのでした。仕事のできる男と馬鹿な男との区別はついていたようで、同時に私とその男は仲が悪いのを知っていたので、敢えて事前に私に告白して心構えをしなさいということだったかもしれません。
この事業部長は後に母校に技術職で就職したというので驚きましたが、それも終わると人材派遣会社に入社して、「派遣の仕事はありませんか」と言って再び私の前に現れたのには少しながら驚きがありました。元々金持ちなので仕事なんかする必要も無いだろうと思っていたので、余計にそういう人が人材派遣会社に就職したと知って驚いたのでした。
データセンターの仕事に関わったのはサラリーマン人生の後半20数年でした。新築のデータセンターの顧客開拓に社内でただ一人駈けずりまわって、自分なりの成果を得たつもりでしたが出世とは縁が遠かったのも事実です。元々転職組ということもあり、ごまをすらないし、真面目さばかりで面白くない奴だと思われていたようです。何を言わなくても自ら進んで仕事をするという私を便利使いされていたと思います。事業部内では何度も形ばかりの表彰をされましたが、そういう事で喜ぶほどの子供心などは持ち合わせていませんでした。
この会社では自己中心的な人物が役員になるので、私のような存在はやっかいとしか映らなかったと思います。業績なんかは適当に数字を作って関係者に放り投げて、業績は達成しなくても得意の屁理屈をこねての言い訳で、社長からは「そりゃ大変だったと」慰められてかえって評価が上がるという落語の世界がそのままあるような会社でした。

そういう会社の人事部では何時も「優秀な人材が来てくれれば」というので中途採用をしていましたが、外資系の会社で余剰の社員ばかりがよく採用されていました。私の知る限りでは国内の有名どころのコンピュータ会社からは誰一人として中途採用で入社していなかったと思います。不思議なのは外資系の会社から部長職で中途採用された人は皆出来の悪い連中ばかりでした。
ある時、頭の悪そうな顔をした男が事業部長をしていた時、どういう訳か外資系コンピュータ会社から中途入社した男が異動で営業部に来ました。丁度期初なので一人一人が自分の目標をプレゼンするという時の事でした。皆が自分の今季目標をプロジェクターで大画面に映して説明しましたが、この男は「こんにちは」という文字を大写しにしていました。これは外資系のプレゼンテーションで時々あることなので私は例のやつだなと思いましたが、それにしても場違いな説明に同席の皆は呆然としていました。それから20年、この男は役員になりました、落語の世界が実現しているのでした。私が勤務している時、私とすれ違う時は本性を知っている私を見て、当然ながら知らん顔をして通り過ぎていました。
もう一人も、頭の悪そうな顔をした事業部長にごますり三昧していた男がいました。私がデータセンターの顧客を開拓した後のことで、いつ来たかも知れない男でしたがおおぴっらに「ごまをすらないとなあ・・・」と言って「ゴルフに行きましょうよ」と営業部長や事業部長を誘っていました。頭の悪そうな顔をした事業部長はそういう態度が余程気に入ったと見えてどんどんと昇格させていました。当然ながらこの男に私は口をきいたこともないし話もしたいと思わないので会話をした記憶はありません。
頭の悪そうな顔をした男は事業部をもう一つ作ってそこの営業部長にこの男を据え、後にこの男は事業部長に昇格しました。しかし、無能なので事業は時の運とばかりの事で自然と数字は落ちて、この男は事業部長から子会社の社長に異動となったようでした。
外資系コンピュータ会社から転職してきた二人共、兎にも角にも口先だけは非常に達者なので、外資系のコンピュータ会社は落語家を養成しているのかなとも思えるのでした。

こういう有象無象が中途入社できる会社とは如何なるものかと考えると、やはり会社の持つ能力そのものが低いと思わざるを得ませんでした。人を見る能力が無いので、ついつい会社名とか学歴が気になるのではないかと思いました。
そんな社風なので、妙に学歴を気にしたりしてする時がありました。実績よりも学歴を重んじていては会社の業績は向上しないと思いつかない役員がそろっている歌舞伎役者集団とも思えました。中にはブラック企業の社長を持ち上げている役員いたので常識が通用しない会社かなとも思えたことがあります。
40年以上もコンピュータに関連するシステムやソフトウエア開発の営業を担当してきてインターネットという新しい道具が画期的だったという風に感じております。今ではパーソナルユースでのゲームとかSNSとかが世間では物議をかもしていますが、便利である反面それだけ問題も多いということを認識させられるこの頃です。
私は企業にコンピュータシステムを導入してもらうという営業をしていましたので、インターネットに関わるシステムを色々販売した経験から感ずるのは、ビジネスの分野でも色々な問題があり、簡単であるように見えて奥が深い道具ではないかと思っています。
インターネットが出現するまでは、オンラインシステムというものがあって、企業の受注から出荷までの一連の業務を人手よりも早くこなすことができるような仕組みがありました。そこにインターネットという、顧客が直接企業のサービスを受けられるシステムが出来て、業種によっては仕事の仕組みが様変わりしたのではないかと思います。私の仕事はインターネットで新しい仕組みを構築して従来のシステムと連携させるというような仕事を退職までの20年位行ってきました。

インターネット出現までは、大型ホストコンピュータやサーバー等、ハードウエアに開発したソフトウエアと関連するソフトウエアをインストールするだけのもので、ある程度決まりきった一連の作業でできました。インターネット関連のシステムでは技術の幅が質的に変化し、より幅広い知識が必要とされる仕事でした。
そういう意味では、そういう複雑性を理解して提案から納品まで、営業マンとしてどう采配を振るえるかどうかが一つのキーワードになります。知識のない営業マンはシステムエンジニアに技術面のサポートを貰うのですが、これが私の勤務していた会社では問題でした。

私は自身が技術屋出身ということもあって、客先の話を聞いて提案書から見積・構築まで一貫して対応することが出来たので、納期も厳しいサーバー導入に対応が出来ました。
私の勤務していた会社ではエンジニアが特定の製品しか対応できないので、私の受注する仕事は殆どが対応不可なため社外のエンジニアリング会社を探して連携して仕事をしていました。注文から納品までのプロジェクトマネージメントを自らしていました。
何か問題が発生しても全部自分の手の内で対応策を考えて実行しましたので、金の問題も含めて気苦労が絶えませんでした。それでも一仕事終えた時の達成感がそういう苦労を乗り越えさせるエネルギーでもありました。社内でもイレギュラーな仕事の仕方だとは思いましたが、事業部には一銭の損失も与える事は一度も無く遂行しました。

こういう芸当ができない営業マンは、社内の技術レベルの低い社内のエンジニアに頼るしかないので提案で競争に負けたり、受注後問題を起こすことが多々ありました。そういう意味では、インターネット関連の仕事では私の過去の経験が生かされたというべきシーンでもあったのかと思います。
システム構築はハードウエアとソフトウエアの組み合わせだけでなく、それらを結びつける接続の仕組みとかネットワークとの接続問題とかを頭に思い描く必要があるので、単純なサーバー販売は出来てもシステム構築となると素人では対応が難しくなった時代になったと思います。技術が多岐にわたるだけに一人ではこなせない時代になったのもインターネットという新しい道具が普及してからのことかと思っています。
残念ながら、私の勤務していた会社のエンジニアの技術レベルが低いせいもあり、少し難しいシステムはリスクが高いと言っては部長や役員は受注したくないと何時も言っていました。元々チャレンジ精神などは皆無で、事なかれ主義が正々堂々とまかり通っている会社でしたので、余計にそういう傾向が強かったと印象づけられております。
インターネットとの関わり合いは、私がデータセンターを受注した広告会社から、「インターネットで利用するパソコンを導入します」と言われてパソコンの注文をもらった時でした。30年も前には、インターネットの様に共用で使えるネットワークは世界でも数例しか無かったのを思い出して「インターネットも一時の流行になるだけかも知れません」と発注してくれた女性に懸念を言った記憶があります。
このインターネットでビジネス上はいい思い出は無く、個人的には新しい道具を手に入れて文化が革命的に前進したと感じています。同時に、私は40年以上コンピュータの営業マンとして色々な製品を扱ってきましたが、人生の半分以上はインターネットの発展と歩んだと思います。

インターネットがキーワードとなってサーバーとかマイクロソフトの製品を販売をしましたが、どれも低い利益しか稼ぐことが出来ませんでした。ビジネスの水平化でどこの会社が仕入れても値段が同じで、自社の利益を薄くしてしか注文がもらえないからでした。これはサーバーやソフトウエアを製造する会社は潤っても、それを取り扱う商社は全くその恩恵に浴せなかったのでした。こういうビジネス構造が、OSを仮想化したり、無償OSや無償ソフトが出回る一因になっていると思います。特にマイクロソフトは巨額の利益を得て反感を買ってハッカーの狙い撃ちにあっています。マイクロソフトの製品も無償のオープンソースにするとどれだけウィルス対策が減るか知れないと思っています。
客先からマイクロソフトのオフィスとかウィンドウズの見積もり依頼があるたびに、少なからず疲れが自然と出たのが忘れられません。

インターネットで恩恵に浴せたのは、自分のパソコンから全世界に窓口が開いたことでした。欲しい情報は世界中のインターネットに接続している人と話し合えることでした。コンピュータの仕事をしていると米国の調査とかを見て流行り廃りが分かるような気がしました。少々の英語が出来るということはこの時に初めて役にたったと感じた時でもありました。
趣味の世界ではインターネットオークションに参加してクラシックカメラを色々な国から購入したことが私の仕事の合間の楽しみになりました。
欲しかったライカは最初は日本よりも米国の方が安くて購入しましたが、きれい好きの日本人好みでは無く文化の差を感じました。当時はクラシックカメラを扱う店舗では米国やヨーロッパで仕入れて修理して日本国内で販売することが多かったので、インターネットで出物を買ったときは得をしたような気分になったものでした。一時は米国からカメラを仕入れて日本で販売する商売が成り立つかと思いましたが、直ぐにそういう事は皆が気づいて実現できませんでした。
買い物も、物によってはインターネットで購入した方が安価で早く入手できるものもあって、生活には必需品と感じさせられている今日この頃です。
会社で私の受注したデータセンターの顧客の営業担当を外されて暇になった時、インターネットの色々なサイトを閲覧するだけで一日があっという間にくれていったのも辛いながら日々耐えたという思い出です。

インターネットで一番の恩恵はメールシステムの導入でした。電話しなくても文章でやりとり出来て確実に内容が伝わるし、何せ相手が不在でも送っておけば読んでもらえるのでビジネスでは革新的なツールになりました。しかし、マイクロソフトのメールソフトはハッカーの標的となり、何度もウィルスに感染したことがあります。
しかし、我々世代のように文書で相手に通知するという教育をうけた人間は多くはメールでも礼儀を忘れませんが、そういう教育なしに育った人のなかにはメールで文章ではなく話し言葉で送信する人たちが出てきたのも問題でした。
私がデータセンターの営業を担当して5年も経過すると、私が受注した新しい顧客5社と、私が異動する前に契約をしていて私が営業担当をしている携帯電話会社を合わせた6社が私の営業担当となりました。その後、携帯電話会社を通じて交換機を納入している会社も事務所を賃貸したいというので、1階の茶室を壊して事務所に仕立てて貸し出しました。データセンターには親会社と一般の会社9社が契約をしていました。この6階建てデータセンターの契約社8社のうち私は7社の営業担当となり、このデータセンターを訪問するとまるで私がオーナーをしているような気分になることもありました。
一人で7社の対応をするというのがいかに大変なものかを多分当時の営業部長や事業部長は何も理解していなかったと思います。あの男が毎日あたふたしながら仕事をしているなというくらいにしか思っていなかったと思われます。何といっても私の勤務していた会社の役員以下管理者や担当者は、本当の意味での営業を経験していないので、理解しろというのが無理だったかも知れません。そういう歴史は今も引き継がれていて、日本の官僚機構同様に会社の筋というのは簡単には変われないと思います。
私の営業方針は何でも引き受けるというような事だったので、あらゆる困りごとが私のところに舞い込んで来ました。外注で使いたいシステムエンジニアの紹介をしてほしいとか、ソフトウエアの調査をしてほしいくらいは何とかこなせました。中には物流倉庫をデータセンターの近くに作りたいので土地を探して欲しいとか、飲料会社から競争相手の使っている缶の製造会社を調べてほしいとか、まあ本当に困るようなことも多々ありましたので、気苦労もたまりました。

元々忙しくて趣味の時間も無いとは言いながらも、土日にはぐったりしていても気分転換にならないので、書店の店先でカメラ雑誌にライカの写真をみてから私の収集癖に火がついてしまいました。30歳の初めの頃まで、逗子のアパートに住んでいたころには、近所に住んでいた課長からゴルフ練習のお誘いが無い限りは鎌倉や江の島を巡って写真撮影をするのが趣味でした。それが転職してからは仕事しかしない生活ですっかり忘れていたのですが、データセンターが満床になり新しい顧客を見つけるというハードな仕事から解放されてほんの少し心に余裕ができたので、再び写真という世界に入ることになりました。
当時はクラシックカメラがブームでとガラクタカメラがとてつもない価格で中古カメラ店に出ていました。今ではそういう事はなくなり市場もすっかり縮小して中古のカメラ屋も青色吐息で商売をしていると思われます。
クラシックカメラはライカのカメラだけでなくレンズにも凝りだすときりがなく途中であきらめました。今も残骸が防湿庫で眠っています。更に高画質のハッセルブラッドやローライフレックスとかを購入して悦にいるのが、ストレス発散をしていました。
そのうちに、カメラメーカーが主催するモデル撮影会なるものがあるものを知って、望遠レンズを購入して撮影会に行き、何百枚と撮影したネガから何枚か四つ切に引き延ばして投稿するのが楽しみになりました。何度か入選したのですが、考えてみれば大勢のカメラマンが撮影するので大抵はどれも同じようなものしか撮影できておらず、入選するしないは選者のプロカメラマンの気まぐれでしかないだろうと思うと何だかバカバカしくなって最近では行くことも無くなりました。
又、写真撮影のために50ccバイクを利用して都内を異動していましたが、遠くに行くにはバイクが必要かなと思い立って教習所で大型バイクの免許も取得しました。毎週日曜日だけでしたが、半年ほど通ってバイクの普通と大型免許を取得しました。
悪い事に教習所に毎週通う途中にハーレーダビッドソンの販売店があって気になっていましたが、大型免許取得後直ぐに後先考えないでハーレーの大型バイクを取得してしまいました。
50歳を過ぎてから年寄りの冷や水と思わるような、カメラ収集、写真撮影、それにバイク免許とかを取得して休日をすごしてストレスを発散するようになりました。いい事か悪い事かは分かりませんが、いずれにしても金はたいそうかかりました。
携帯電話のサービス用にパソコンを何百台も設置したお客様とデータセンター契約を結んだのは、私がデータセンターの営業を担当してから5年程も経過していました。私が小ぶりの顧客を次々と受注しても未だデータセンターの6階と5階の半分が売れ残っていました。
当時の事業部長は変人で薄い青色の入った眼鏡を掛けていたのが目立っていました。何か家庭の事情が複雑で離婚がどうのこうのというので、会話では触れていけないと言われていました。何もないときはトランプゲームをするのが趣味らしく飽きないで毎日朝から晩までゲームをしていました。

この変人の事業部長は、自分の部下として後に事業部長になった頭の悪そうな顔をした営業部長と真面目一筋の技術者を連れてきました。事業部長は前任事業部長が子分として連れてきた技術部長を直ぐに担当部長にして、その後釜に自分の連れてきた真面目一筋の技術者を技術部長に据えて、営業と技術の両部長を自分の子飼いの部下に据えたのでした。
営業部も、人の良いグループリーダーから営業部長になっていた人は担当部長になり、暫くして広島の通信会社に出向で飛ばされてしまいました。当人は「実家があるのでそこから通えます」と言って負けん気でしたが、東京にマンションを購入したばかりで、単身で赴任しました。
この事業部長は半期毎に事業部内の人を異動させるのが趣味らしく、どんどんと気に食わない人を他事業部や関連会社に出していました。
幸い私は営業マンとして注文を取ってくるというのが認められていて、事業部長から「好きにやってください」と言われていました。性格も変わり者同士というのがあったのか、私も気も使う事は無く、割合気楽に過ごせたときでもありました。それでも頭の悪そうな営業部長とはお互いに嫌な奴だと思っていました。

この変人の事業部長は、親会社が利用していた他社データセンターに設置していたコンピュータを新しいデータセンターに移転させることを画策して成功したようでした。当時親会社のコンピュータは晴海のデータセンターに設置してあり、移転すると新しいデータセンターの6階の四分の三は利用してもらえるので漸く満床の期が近づいてきて事業部の雰囲気も少しは明るくなったような気がしました。
親会社のコンピュータ移転は正月で、丁度私が受注した食品製造会社のコンピュータ移転とも重なり、12月31日から1月1日にかけてデータセンターは移転担当の人たちでごった返しました。1回エントランスは親会社のコンピュータを移転する数十人の技術者が食べた後の大量のカップラーメンの残骸が大きなビニール袋に捨ててあり、その匂いがずっと漂っていたのが今でも思い出すたびに鼻につくような気がするほどでした。
良い事は重なるもので、当時データセンターが竣工した時に入居していた携帯電話会社の事業が予想よりも5倍も成長するというような状況になり、賃料は高いながらと文句を言われながらも場所が必要というので借り増しの要望がありました。要望を入れるとフロアは無いというような事になり、5階の半分と6階の四分の一の場所に交換機を置いてもらう事になりました。
携帯電話会社が設置する交換機は大きな容量の直流を使うのでケーブルも太く、下から上に通すダクトが必要でしたが、データセンターが満床になると使えるダクトが無くなり、仕方なく既に契約している会社のフロアを一部借りてケーブルを通すというようなこともありました。
こういう時は賃料が高いと文句を言われる携帯電話会社の設備課長からも、契約書は急ぎですと言うと容易にもらうことが出来て気疲れも少ない時でした。
こうして漸くデータセンターは満床となり私は漸くデータセンター営業で新規に客先を探すという日々から解放されることになり数年は楽に過ごすことが出来ました。しかし、既に契約した会社からは毎日のようにあれこれと仕事が舞い込むので、相変わらず忙しい毎日で何もしないで過ごすことは出来ませんでした。