2つ目のデータセンターの営業をしていると、こちらは大手情報会社が運営するデータセンターなので運営する人や方法には、私が勤務している会社が自前で建築したデータセンターの運営とは随分と違うものだと分かりました。会社が違うので運営方針も違うといえばそれまでですが、考え方の違いに驚かされて、自分の勤務していた会社がいかに劣っているかというのを理解したのでした。
データセンターを運営しているのは社員なのですが、私が勤務していた会社の最初のデータセンターでは、親会社で同様な設備を運営していた人間が配置されていました。そういう現場育ちの人間はとにかく失敗を恐れて何事もマイナス思考でしか考えないくせがついていました。
たとえば緊急にデータセンターに入館したいと突然データセンターに来たとしても、事前申請が無いから入れませんと言って、事情を汲むということはしませんでした。同様に、データセンターには顧客が送付する色々な種類の荷物が届きますが、そういうものは関わりがないので受け取れませんと平気で言ってのけるのでした。顧客は困って営業担当にクレームをつけても対応は変わらないので、データセンターに営業マンが行って受け取るか又は関係者をデータセンターに行かせて荷物を受け取るようにしなくてはならんという、信じられないような運営がされていたのでした。
当然ながら担当者には顧客からクレームがくるので上司に相談しますが、上司はそんな揉め事に手を出すと昇格に響くので対応したくないという態度があからさまで、のらりくらりと知らん振りを決め込んでいたので何の改善もされないのでした。
こういう現実というのは、2チャンネルくらいでしか披露されないような話なので、現実に自分が見聞きするとすごい会社だな内心感心しながら帰宅したことが多々ありました。

これは会社の社風によるもので、多少の個人差はありましたが現場の担当者だけでなく部課長や役員まで広く行われていたことなので驚きには値しませんでしたが、顧客の事情は二の次どころか考えもしないという思考が徹底していただけのことでした。
仕事は会社のルール通りやっていれば事足りるというのは、ちょいとした親切心でやったことが大事件になった時は悪く評価されるのが分かっているので、貝が蓋を閉ざすようにしっかりと閉めて他人がどうなろうと知ったことではないと知らんふりをすることで、それが社風でした。
会社の社風から、営業部という業績に一番重要な部署でさえ、営業経験もなく実績も全くない人間が責任者になることが多い会社でした。特に役員の顔を見ると、この人は果たしてどのくらい会社の業績に寄与したのか甚だ疑問と思えるような連中がずらりと並んでいました。
私は営業で顧客を開拓するのは自分の仕事だと信じて、顧客満足と会社の利益を考えながら行動していましたが、退職した今頃考えてみれば会社に多大な利益を与えだけで馬鹿なことをしたものだと反省するばかりです。同時に、強引に顧客にしたお客様に対して自責の念も禁じえず、申し訳なかったとも思っています。
データセンター運営というのが社風を表していたのですが、2つ目のデータセンターも大手情報会社が運営していたのですが、データセンターを利用している会社の人間に対しては失礼なことはしていけないという態度が見えてとれ、自社データセンター運営との落差を会社の格の違いかとも感じたのでした。
私は転職前の軍隊のような会社の営業部では色々な事を教えて貰いました。その一つが顧客の環境を調べるということで、その意味するところは顧客との会話に同調できるほどの情報を身に着けろと教育されたことでした。転職後の会社では、自分の力では顧客なんぞは見つける能力も無いので、顧客を紹介してくれる社内外からの情報待ちだけで、いざ顧客に行くとしても「xxさんの紹介で」といような調子で、顧客の情報などには全く知りたくも無い、知りたいのは注文を貰えるような案件があるかどうかという非常に狭い視野の営業でした。顧客とは仲良しというよりも、きちんと接待するのが仲良しになることだと勝手に思っているのが精々のレベルでした。それは表面的な付き合いしかできないという事でした。それでも「やるだけましだろう」というのが営業部長や役員の言い分でした。

2つ目のデータセンターが出来ると、地下鉄の駅から歩いて7・8分の一番近い道とは別に、地元のスーパーとかがある小さな商店街を巡って見ました。書店も有名書店の支店がビルの一角に入居していましたが量が限られるので金太郎飴状態でした。別のルートを歩いて古書店を見つけたのですが、規模が小さく私がこのデータセンターを訪ねるようになってから数年のちには店が無くなっていました。
一方で、食い物屋はサラリーマン向けの飲み屋は駅の周りに散在していて需要はそれなりにありそうでしたが、私は酒を飲まないのでそういう店には全く興味がわきませんでした。それよりも昼飯を食わせる店が無いかと探しましたが、数件の和食店やレストランしかありませんでした。住宅街が立ち並ぶ地区なのでもっと沢山あってもいいだろうと思ったのですが、住んでいる人の年齢が割合に若い人が多いので外食も少ないのだろうと理解しました。
データセンターで夜食が10食以上も必要になった時、駅近くの弁当屋で事足りるかと思っていたら意外にも夕方は弁当屋も店を閉めているような状態でした。仕方なしに、わざわざ都心の百貨店地下の弁当屋まで仕入れにいったことも度々ありました。
レストランは一軒だけ気に入った店があって、ランチ定食は味も量も愛想もまあまあという和食の店を探し出したので、顧客がデータセンターに行く際の昼飯に誘える場所ができたのでした。
地下鉄が高架になっている場所で、地下鉄の駅の高架下には飲み屋と食堂を兼ねた店がぞろぞろとあり、わざわざ店を探す気も無いときはそういう店に入れば腹の足しにはなるような事もありました。
住宅街というには毎日の食事のための買い物位しかできないレベルの店ばかりで、少しばかり気の利いたものを買うには地下鉄で都心まで行くような立地だと理解ができました。ビジネスホテルも数軒あり、都心よりも値段が安いのが地方からの出張者には人気があるというのも自分の会社で地方から出てくる人から聞いて知りました。
住宅街だけにホームセンターは大きな店が道路沿いにあり、私の住んでいる地区のホームセンターでは売っていないようなものを買った記憶があります。
一番驚いたのは、データセンターの近くに24時間営業の風呂屋があり人気だと聞きましたが、暫くして営業が中止になりましたので、需要が足りなかったのかなと思いました。それにその風呂屋の営業には私の勤務していた会社の親会社が関与していたとも聞いていたので、武家の商法だったのかも知れないと営業中止の話を聞いた時思いました。
データセンターの周りは住宅街だけに夜は早くに暗くなり、高層マンションの明かりが点々と光るばかりで、地下鉄の駅近辺の飲み屋の赤提灯だけが夜遅くまで揺れているというような、割合に都心に近いとはいえ寂しい場所であるというのも分かりました。
12月31日夜に、データセンターの顧客がコンピュータの停止とか入替とかをする時には、データセンターで顧客の担当者、私と技術者は徹夜になる事が何回かありました。午前1時から2時過ぎにデータセンターを出て帰りのタクシーを捕まえようとすると、寒風吹きすさぶ中でなかなか捕まらなかったというような経験もしたのが楽しくも思えたのでした。
私が勤務していた会社が最初に建築したデータセンターは以前にも書いたように、某外資系コンピューター会社の営業マンの口車に会社の役員が乗せられて建築した経緯がありました。建築当時の建築責任者は私が異動して営業を始めた時にはとっくに左遷されて別の子会社に出向していました。たまたま私を転職に誘った男と駅のホームで話をしている時に現れたのが最初で最後でした。真面目そうな人なので、データセンター建築も親会社の建築事業部から言われるがままに作ったのだろうなというのは容易に想像がつきました。真面目が悪いわけではないのですが、そこには普通に考えて常識的な判断が無いとおかしなものができてしまうと考えさせられたのでした。

2つ目のデータセンターは自分が選定したというので、自然と愛着と言うのがわくのは当然でした。データセンター見学で顧客を玄関前で待っている時も、周りの木立の様子や、季節によっては植栽の紅葉の様子などを見て長時間立っていても苦にはなりませんでした。そういう私の様子を見ていて、隣の小さな公園で遊んでいる子供が不思議に思ったらしく「おじさんは何でそこにいるの」と金網越しに質問されたこともありました。
このデータセンターは高層マンションに囲まれていたので不思議な立地だと最初思ったので調べてみると、元々はバブル末期にマンションとして建築しようとしていたのが資金繰りがつかず、情報会社に売却されてデータセンターに作り変えられたというのが分かりました。建築途中で作り変えられたので、各階のエレベータホールはまさにマンションではないかと思えるような小奇麗な作りになっていました。
同時に住宅地なので、どこにでもいるらしいという某政党を名乗る騒音にはやたら五月蠅い輩がいたので、重量物の搬出とか搬入は日ある時間帯しか行えないという不便さがありました。通常は深夜に機器を搬入して徹夜で組み上げて朝にはサービス開始するというような、一般的にコンピュータシステムを構築するというような時には配慮が必要と言う事が欠点でもありました。

最寄りの地下鉄の駅からこのデータセンターに来るまでは6・7分かかる場所でした。その途中には私が好きな昔ながらの八百屋がありました。データセンターで徹夜作業がある時には、この八百屋で美味しい蜜柑を選んで差入するのが楽しみでした。八百屋の親父が蜜柑の能書きを聞くのが楽しかったということかも知れません。昨今のスーパーマーケットしでは商品は見たままの物ですが、昔ながらの八百屋の親父の威勢のいい声を聴くと蜜柑もより美味しく思えていたのでした。
元来、学生時代に4年間も学生寮という共同生活を送ってきた経験者は、データセンターで徹夜作業があると聞くと、作業する技術者に対して何かしてあげなくてはいけないと言うような発想が常に湧きました。転職前の会社の顧客でコンピュータを徹夜で設置する時などは、室長の奥さんが味噌汁を作り室長自ら現場に持ってきたという経験もしている人間なので、転職した会社の文化とは全然違うと常々感じていました。
私の勤務していた会社では、技術者のやる仕事に営業マンが立ち会うのかという事は必要無しというのが普通の考えでした。それは決められた仕事を決められた通りやるのが当たり前という縦割りの役所仕事の流儀が会社の風土でした。お互いにやるべき事だけきちんとやる事が間違いかね?と言われれば筋は通っているが人間性は無視をする役所体質が見えて、自己保身主義がまかり通り、それが顧客に対しても同様に行われるという会社でした。
2つ目のデータセンターを契約した時に、仲介会社の営業部長が「是非ゴルフ」と誘われた時には「残念ですが、道具は持っていますがしませんので」と断りました。相手は自分のゴルフ道楽に丁度いい口実で自分の楽しもうというのが見え見えだったのも私には気に入りませんでした。その時、契約条件の中で賃貸期間の少しの誤りがあって、私が見積書の金額誤りを訂正するようにと言ったことの方が相手には響いていたようでした。厳しく対応する人間と判断されたと思います。

契約後はカタログを作るために自分で写真撮影をするためにデータセンターに行きました。当時はフィルムの時代で35mmフィルムカメラで写りはあまりよいとは思えませんでしたが、カタログの小さな写真にしたら何とかボロを出さないで済みました。このカタログも私が作ったので事業部長や営業部長は気に入らないらしく、暫くして印刷しないということになりました。なにせ、営業なんかしなくても何とかなると思っている連中が役員にぞろぞろ揃っていて、全く現場感覚が欠損している会社だと何度も感じさせられた一コマでした。
又、コンピュータを設置するためにオーナー会社との設備工事の打ち合わせを行いましたが、携帯電話会社の設備工事で勝手に工事を進めて請求書だけ私に渡すというマナーの仲の悪い技術者を同行しました。相手はさすがに一流会社の技術者だけに融通も利かない真面目な技術者でしたが、私がかろうじて顧客という事は認識をしてくれたようで固い態度も少しは妥協をしてくれたような気がして好感が持てました。それは私の勤務していた会社の技術者に比べればまともだと思えたこともありました。
私はこの会社の技術者と打ち合わせをしたのは現場であるデータセンターだけでなく、事務所のある海浜地区にも行きました。それは何故覚えているかというと、ビルの一階受付前に自動演奏のピアノがあって朝からライトクラシック音楽が流れていたからでした。総務部か役員に音楽が好きな人がいてそういう事をしていたのだろうと思いましたが、会社の格が余りにも違いすぎるような気がして、自分の勤務していた会社がみすぼらしく思えたので印象に強く残っています。この会社の社員と打ち合わせをしていても人的な能力レベルの差以上に、私の勤務していた会社には存在しない品位をというものを感じたので余計に落差を肌で感じ取ったのだろうと思いました。

この新しいデータセンターに顧客を呼び込まなくてはいけないというので、頭の悪そうな事業部長は体裁をつけるために懇意にしていた関連会社のコンピュータを満床にした筈のデータセンターから移転させるということを画策しました。勿論費用は私の勤務していた会社の事業部もちなので相手には損をさせないで移転をして貰ったのでした。この事案は、私と仲の悪い設備技術者と頭の悪そうな顔をした事業部長とで組んで実行しました。
この時、丁度私が転職した時に在籍していた事業部がデータセンターを借りるという話が出てきました。しかし、この事業部の癖のある営業マンは取引上別会社に決めたいという風に言ってきました。又、同時にその事業部の部長が打ち合わせをしたいと申し出て私の在籍する事業部まで来て頭の悪そうな顔をした事業部長に「別会社に決めたい」と説明していました。大した取引でもなかったのですが、その事業部ではデータセンター事業もしている某社は事業部にとって将来性があると勘違いをしていたようでした。私は昔のよしみで何としてでも新しいデータセンタを使ってもらいたいと思い、費用や条件を特別に作り提案しました。相手は嫌な奴が割り込んできたと思ったとは感じていましたが、そういう感情は私が悪者になって全て受け入れました。相手も同じ会社で好条件なのに採用しないわけにはいかないというので嫌々ながらサーバー2ラック分の契約を決めてくれたのでした。
この案件を実行する時には、打ち合わせの都度、私を非難するような態度が相手の事業部の技術者から見え隠れましたが、そういう非難されるような時でも心情は理解しながらも受け流していました。それよりも、その事業部で期待していた某社との関係は、データセンターを利用するとか利用しないとは無関係に疎遠になっていったので、結果的には同じ会社のデータセンターにサーバーを設置したのは正しかったと後日に分かったのでした。
この事案は私が新しいデータセンターに何とか顧客を入れなければならいという使命感から行ったことで、頭の悪そうな顔をした事業部長からすると社内でがたがたと波風を立ててもらうのは甚だ迷惑であるという風に思っていたに違いないと思いました。
私の勤務していた会社では、データセンターの場所を貸すという事を事業として行っていましたが、最初のデータセンター営業をしていた頃から「不動産営業だ」と言われていました。賃貸ビルのオフィスを貸すのに不動産営業という職種がありますが、私の勤務している会社は曲がりなりにも情報産業という部類に属する会社だったので、コンピュータの設置場所を貸すという意味での不動産営業というようなものでした。データセンターの賃貸と同時にコンピュータの運営業務を一緒に受託できれば本来の情報産業の業務と言えるのですが、場所だけ貸しているというのは不動産営業と言われても仕方のない事でした。最初に建築したデータセンターも大半が場所貸しの契約で、賃貸先の会社のコンピュータ運用は賃貸先の会社が以前から起用している会社が担当して切り崩すことは出来ませんでした。
この理由は営業している営業マンの能力だけでなく、それを支援するシステムエンジニアの能力も顧客を納得させるだけの能力も無いので、自然と顧客は場所だけ貸す顧客が多くなるのは当然の成り行きでした。その顧客にはベンチャー企業が割合多かったというのも会社の実力相当と思っていました。

最初のデータセンターを建築してから5年以上もかけて無理をして何とか満床にしたのですが、その後そういう営業の苦労を知らない役員とか社長は新しいデータセンターを作って売上を増やそうと考えたのでした。
最初に建築したデータセンターは散々に金を使い途中で余りの事に金をケチって一部設備を簡略化したので、後ほど私が欠陥を指摘して事業部内で物議をかもしました。そういう経緯もあって、今度は他社のデータセンターの一部を借りて事業をしようという事にしたのでした。この発想は初期投資が少ないのでハードルが低かったので、私が探した2個目のデータセンター以後複数のデータセンターを借りていました。私の探したデータセンターは大手情報会社の運営するデータセンターなので私はそういう安心感も採用のポイントとして考えていました。
又、以後のデータセンターは営業部主体ではなく技術部主体で探すという方針にかわりました。そうすると、どういう訳か不動産会社が運営するデータセンターばかりを探してくるようになりました。私は技術力や知識の不足する会社であるという原点を忘れているのではないかと思って見ていました。3つ目のデータセンターの選定の時には、パソコン事業で大損をした役員が出てきて「俺が決めた」と自慢して、そいのまま退職してしまいました。世間一般の会社では大きな事業損失をしたような管理者は閑職につくのが普通だと思いますが、私の勤務していた会社ではそういうことは殆どありませんでした。
この3つ目のデータセンターは、理由は不明でしたが最新のデータセンターと言いながら長い間売れ残っているのが業界でも知られており、データセンターを賃貸している不動産会社の系列会社からも入居を拒否されていたといういわくつきのものでした。詰まる所、選定者自身の能力にあったデータセンターしか選定はできないというのが分かるような気がしました。

この3つ目のデータセンターと次に賃貸したデータセンターでは電源が止まるというデータセンターとしては致命的な事故が発生したのですが、その時には技術部門の責任者が「設備が悪くて発生した事故で自分の部署には責任が無い」という説明をしていました。私には何のことか理解が出来ませんでしたが、要するに大事故の責任を認めたくなくて、責任は設備を作った会社にあるというものでした。その設備を作れと注文した主が、しかも技術を知り尽くしている筈の技術責任者が言うので、何ともへんてこな理由に聞こえました。
その技術責任者は他人には何時も「それは間違っている」とか色々なケチばかりをつける輩だったので余計にその落差が際立っていたのでした。私は社風からどうせうやむやになるので静かにしていた方が得策ではないかと思って横目でそういう嬌態を観察していました。
データセンターが満床となり、頭の悪そうな顔をした事業部長は体裁ばかり気にする社長から売上増のために新しいデータセンターを探すことを申し渡されたのでした。会社としては毎年少しでも売り上げを上げて形ばかりを良く見せたいというのは凡人の社長ならば誰でも思う事で、社員の能力とか世の中の事情などは分かっていないので何かの拍子に他人から強く言われると簡単にそういう話に乗ってしまうのだろうと推測していました。
私の勤務していた会社の社長は人の良い人格者もいましたが、理由は不明ですが中には表面ばかり気にする凡人が多く社長になっていました。多分、そういう人を社長に据えた人物も同様な部類の人間だと思います、まさに類は類を呼ぶ格言が生きていると感じておりました。

私が自分の受注した顧客の営業担当を外されて2年程も経った、平成12年位だったと思います。この位というのは理由があって、私が会社を退職するときには自分が書いた営業報告書も持ち出してはいけないと言われて、会社の人事部長が自宅に来て私のパソコンを調べて営業報告書を消去したので正確には言えないという意味です。しかしながら、私自身の事なのでデータが無くても脳みそには記憶のカスが残っているのでこうして書ける訳です。いやはや何とも嫌味な会社だと退職後も感じさせられたのでした。
当然ながら頭の悪そうな顔をした事業部長は私には声も掛けられないので別の担当者を子分に見たてて調査を始めたのですが一向に新しいデータセンターは決まる見通しがありませんでした。営業も御用聞き程度の能力の人間が新しいデータセンターを探すことが出来ないというのは当然だと思いながら、私はうろうろしている頭の悪そうな顔をした事業部長と若い担当者を横目で見て笑っていました。何とかしてくれんかねというような態度も見え隠れしたのですが、パワハラを受けた私は頭の悪そうな顔をした事業部長に部下だからいう理由でぺこぺこと頭を下げることはしませんでした。
三か月以上も経過しても何の成果もなく頭の悪そうな顔をした事業部長は若い担当者に無理な注文をするようになっていました。自分が出来ない事を部下にやらせようとしても無理なのは見ていても分かるほどでした。日本では大部屋で仕事をしているので、こういう時の状況と言うのも全て見聞きできてしまうのは、こういう不出来な仕事を周りに聞かれているというのは何とも不都合なシステムだと思いました。
私は暇なので自分なりに調べて仲介する会社もまともな会社とコンタクトをしていました。
そういう気持ちになったのは、仕事が暇だったという理由だけでなくワーカーホリックというような気質が身についていたという事と、頭の悪そうな顔をした事業部長が若い営業マンをいじめているのが何とも切なくて自然とそういう行動にいったと思います。
とうとうある日、私が自分で調べた仲介会社から得た情報の3か所程のデータセンターの情報を若い営業マンに渡したのが自分の仕事の始まりでもありました。
頭の悪そうな顔をした事業部長は渡りに船というような調子で私が調査した結果を聞いていたのでした。後日、実際に賃借検討の3か所のデータセンター見学しようというので頭の悪そうな顔をした事業部長を連れて出掛けたのでした。私は気分的にこの事業部長と近くと歩くのが嫌なので一番離れてあるきました。見学には、頭の悪そうな顔をした事業部長の他に若い営業マンと業務の担当者2名程と私の5人で一緒に見学して皆が納得する場所にしよう事でした。
データセンターの検討を始めて半年以上も経過していましたが、私が探したデータセンターで新しいデータセンター事業をしようという事に決まりました。データセンター採用の説明資料の作成は頭の悪そうな顔をした事業部長は私に話が出来ないので、間に業務担当者が入るという変な形でした。私と頭の悪そうな顔をした事業部長との関係を知っている業務担当者がいたので、ある意味では仕事が順調に進みました。私は新しいデータセンターの選定理由から、いい加減にでっち上げた事業見通しも全部私が書いたのでした。しかし、資料の説明をしたのは頭の悪そうな顔をした事業部長が体裁ばかり気にする社長にしたのでした。
データセンター営業をしていて第二センター探索の話に入る前に愛想の悪い社長の話をせねばならないと思い立ちました。
頭の悪そうな顔をした事業部長とこの愛想の悪い社長と同期入社だという話は聞いていました。私も何度か社長室に行って説明をしたことがありますが頭が切れるとかいう印象はなくて暗くて不愛想な印象を持ちました。おでこが光っていたので、頭が切れるのではないかと勘違いしていた社員は多数いたと思います。
私の勤務していた会社の事業部長や役員は全員とは言いませんが根暗な人が多いと思いました。私が退職する直前に某社のシステム開発を受注し、色々な揉め事が起きましたが、この話は最後の方でまとめて書くことになると思います。この某社の情報システム部長が私の勤務していた会社の事業部長と話をした時の感想を、後日聞くことがありました。情報システム部長の第一声は「おたくの会社の事業部長は普通では考えられない程の超鈍感ですな」という事と、会話の中でも都合の悪い話が出ると「それでは撤回します」と自らの発言を否定して「保身」に走るということでした。ここらあたりの詳細は後ほど書くという事ですが、この「超鈍感」とか「保身」とかいうのは、顧客の事情などはどうでもよくて自分が大切という社風からきていると感じておりました。
頭の悪そうな顔をした事業部長が事業部長に営業部長から昇格した後、この事業部長は三ケ月毎に海外出張と称して海外に遊びに出かていたとか、中国での出張での失態とかのほかに、社内で事業部売上偽装のために社内で循環取引をしたので担当部長に降格になりましたが、その時の愛想の悪い社長の話です。

その愛想の悪い社長がしでかした一番の問題は自社株を社員に勧めたことでした。普通ならば、社員は仕事も頑張り自社株も買って値が上がって自分の資産を増やして、この会社に入社してよかったと思うことだと思いますが、私の勤務していた会社では全く事情が異なりました。私も会社から勧められるままに毎月積み立てて少しづつ自社株を購入していたのですが、株式はいつの間にか増資されて価値が落ちて購入してから株式は下がり続けました。それでも性善説を信じて退職するまで積み立てていましたが、退職時には百万円以上の損失のある状態でした。昨今の株高で漸く購入金額と同額になったものの、とっくの昔に資金を必要とした時に損を知りながら自社株を少しづつ切り売りしていたので損はそのまま残ってしまいました。
社員に株を勧める時には少なくとも先行きに見通しをつけてすべきところを事務的に進めて後は自己責任というような事で社員が株で損をしていても知らん顔をして社長をしていたのでした。又、社内ではそういう事をあからさまに言うと昇格に響くというので、逆にその社長を持ち上げたりしている連中が多数いたのにも仰天するばかりでした。社長がマラソンをするというと付和雷同して大勢がコバンザメとして走ったという話も聞きました。
そのマラソンに社長の奥さんも出ていて「社員を笑って見ていた」という話を聞くに及ぶと不機嫌な顔をして「超鈍感」なのは夫婦揃ってのことかとも思ったのでした。不機嫌なのは勝手ですが、社員に損をさせてその責任は知らんというのは何とも許せないとも思ったのでした。この話をあちこちの会社で披露すると普通には「信じられないですね」という感想が返ってきて同情されるばかりでした。

それからもう一つの勘違いは身の程知らずという事を自らしていた事でした。当時は日本の会社のシステムエンジニアの費用が高く中国に事業所を作るということが情報産業の業界で流行っていました。今から20年も前なので中国人プログラマのコストも安かったので、そのような事がありました。
この愛想の悪い社長は、自分の会社でも日本の情報産業の有名どころの会社と同じ実力があると思い込んでいる節があって「他社もとうとう出たか」と言っていました。他社が中国に出てから随分と時間が経ってから、中国に会社を作ってしまうということをしでかしたのでした。設立時期も断然遅かったということもあり形だけできたというような事でした。私が某社から受注したシステムも中国の関連会社から見積もりを取ると、費用は日本と変わらないと言われたことがあります。その中国の会社も段々と現地人に任せていったのも自然の流れだろうと思いました。結論からいえば必要のない会社を勘違いで作ったということだと思っています。
自分の会社の社員の能力とか事業内容を社長が知らない裸の王様状態だったというのが露見したということだろうと思いました。
昨今テレビで阪神大震災20年とか地下鉄サリン事件が報道されているのをみて、当時の自分の勤務していた会社のことなどを思い出しました。こういう一連の事故ニュースの中で福知山線の大事故も思い出してしまいした。

データセンターの営業を担当してから最初に出くわした大事件は、平成7年に発生した阪神淡路大震災でした。
当日は新聞やニュースで連日報道されていましたが、東京にいる者は何も出来ないで見ているだけでした。しかし、当時私の担当していた携帯電話会社の何時も喧嘩をしていた設備課長から「震災直後、リュックサックに携帯電話を詰め込んで大阪まで行った」という話を聞かされたのでした。
同時に東京でも地震に対する関心が急速に高まり、私の担当していたデータセンターは急に脚光を浴びて、今までぐずぐずとして進まないデータセンターへのコンピュータ移転も急速に進みました。この震災以降にデータセンターはほどなく満床になったので、その影響と言うのは非常に大きいと感じさせられたのでした。
しかし、そういう震災があったのに毎年年賀状しか送らない友人に翌年も事務的に年賀状を送ったら返送されてきて、震災の時に連絡をしなければならなかったのかと後悔したことがありました。
当時の震災現場の様子は関西の支社のシステムエンジニアが東京に上京した時に聞かされたのでした。木造の二階建ての一階の部屋に住んでいて、酒を飲んだ後炬燵の中で寝ていたので、アパートが崩れても炬燵の隙間で助かったという男もいたとか、一番悲惨なのは腕とか足をがれきに挟まれて動くけない人を見かえたという話も聞かされると、本当に地獄のような現場だったというのが分かりぞっとした覚えがあります。
この時、説明をしてくれたシステムエンジニアの腕には数珠があったので理由を尋ねると「こうしていないといけないような現場を見ています」という事でした。このブログでも書けないような悲惨な体験したとうことでした。
この時の地震は活断層が動いたというもので初めてそういう事が起きるのだと知りました。
当時数少ない発行部数だった「日本の活断層」という本を会社の図書費で直ぐに購入したのですが、今までずっと売れない本が急に在庫が無くなったとも聞きました。その本で自社のデータセンターの近くに活断層があるのが分かりましたが、暫くは動かないという解説を見てほっとして顧客にも説明しました。
この震災時のコンピュータがどういう状況になったのかについても、各コンピュータ会社から報告者が作成されたので入手して退職時まで保管していました。親会社の同業が神戸にありビルが傾いてコンピュータが使えなくなり、業務を止めるわけにはいかないので親会社が業務を代行するというようなこともあり、敵に塩を送るようなことが現代にも行われたと思ったのでした。相手に塩を送るだけでなく、同時に敵の機密情報も明らかになってしまうのですが、それは背に腹は代えられないというようなことだったと思いました。
建物が倒壊したり少しでも傾いたビルに設置していた会社のコンピュータは殆どが使えなくなりましたが、コンピュータのディスクや磁気テープからデータを復元することが大変な作業だったようでした。語り草としては、1社だけ関東地区にバックアップのコンピュータがあって1週間くらいで業務が再開でいたという話を聞いたことがあります。

地下鉄サリンの事件は当日朝の会社のテレビで放映されているのを見て知りました。私は何時も朝7時30分には会社に出社していました。当時は変わり者の事業部長が離婚で朝飯も食えないせいかどうか分かりませんでしたが、私と同じくらいの朝7時30分位には出社していました。当日、私は仕事の準備で資料を作成していたのですが、突然事業部長が騒ぎ出して「築地で人がバタバタ倒れているよ」と大声で叫んだので「えっ、本当」と言って、フロアにいた数人が端に置いてあるテレビの前に行きました。
テレビでは地下鉄日比谷線築地駅の上空ヘリから、地下鉄の駅から人が運び出されているのを放映していました。その時は、何故人がそういう風に人が運び出されているのか当時は理由が分からず不思議なことがあるものだとテレビを見ていました。
「ところでうちのメンバーは大丈夫か」と事業部長が言ったので、見回すと何時も早めに出社しているメンバーは全員がいました。事業部長が「社員の安否を確認してくれ」という事で、9時過ぎに事業部のメンバーを確認すると全員が事件に巻き込まれていないというのが分かり一安心したというような状況でした。
こんな大事件が起きたので警察は直ぐに動くのかと思っていたら対応が遅いように思いました。1か月もした後に、警察官が地下鉄に乗り込んできて通勤客全員に「当時は事件のあった電車に乗っていたか」と全員に聞き回っていましたが、殆ど全員が「いいえ」という答えをしていました。質問に回る警察官も大変だなと思いましたが、対応が遅すぎるのではないかという印象だけが残りました。

福知山線脱線事故は阪神淡路大震災から10年後というのも何か因縁めいていますが、この時は社員のインタビューがテレビで放映されたのが問題になりました。
この時、事業部長は頭の悪そうな顔をした事業部長は降格されて異動した後で、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた真面目な事業部長が異動してきて私が色々と事業部の暗部を説明していたりした時期でした。
事故の後、自宅でテレビを見ていると、見たことのある顔の男がインタビューに答えていて「実は我々はこれから事故を起こした会社に打ち合わせのために訪問するところでして困っています」という下りが放映されていました。テレビ撮影では多数の事故現場の人にインタビューして、その中から衝撃度のありそうなものを選択してニュースに流していたのだろうと思いましたが、まさに事故を起こした会社にこれから向かおうとしていた乗客がいたというので採用されたのだろうと思いました。
しかしながら、翌日会社ではテレビを見ていた部長や役員から「あいつは余計な事を言って、会社に迷惑をかける気か」というような風評が飛び交っていました。「何処に行こうが黙っているというのが常識だ」というような言われ方で、それは自分に何か被害が及ぶのが困るというだけの理由だろうと思われました。
私の勤務していた会社は何時も役所体質だと感じていましたが、こういう場面ではほんの小さな火の粉でも身に掛かるのを会社中で恐れているのがよく分かりました。顧客に対しても正直が一番だと常日頃から相手の立場をわきまえず勝手な発言しているににも関わらず、一旦社内の話になると途端にうまく立ち回れというような自己中心的な発想がそのまま表れていました。
会社での仕事が暇になると、50歳も半ばでしたが体が楽なったせいか趣味の写真撮影に時間がとれるようになりました。都内の桜の名所巡りとか、公園の四季を撮影をしていました。当時は未だフィルムカメラ主流でデジカメ一眼もなく、ひたすらにフィルムを無駄に買ってはフィルムメーカーの業績に貢献していました。画質も35mmカメラで満足できなくなると中判のハッセルブラッドというカメラを購入して風景写真を撮影していました。

この時、都内を移動するのに原付バイクバイクを利用していました。日曜日、たまたま銀座を通り日比谷方向に向かおうとしていた時に交差点を避けて地下道に入り出口を上がると、待っていましたとばかりに警察官に止められました。理由は「原付バイクでは地下道は通れない」というもので交通違反切符を切られてしまいました。警察官も大都会ならではのルールを知らない素人狙って、トンネルの出口で待っているという後ろめたさがあったのか極めて丁重な言葉遣いでした。警察官の期末の点数稼ぎに協力をしたというだろうと思いました。
この件をきっかけにして私の反骨精神に火がついて「それならば、二輪の免許を取ってやろう」という気になったのでした。自宅から一番近いとはいっても原付バイクで30分もかかる埼玉県との境にある有名な自動車教習場の二輪教習を受けることにしました。
毎週日曜日だけ2間程の教習で半年程係りました。教習の最初には10段階もあるというのを見て驚きましたが、毎回指定された段階レベルの番号を胸に付けて750ccのバイクで練習場を回りました。S字とかクランクは自動車教習でもありましたが、二輪特有のスラローム・一本橋と急停止が面白かったと思いました。
教習は17・8歳が15人くらいで50・60歳は2・3人というような人数で行われていました。若い人ばかりなので自然と気持ちも若くなるような気がしました。
ここでも縁を感じたことが2つありました。一つ目は、私がデータセンター営業をしていた時、データセンターに顧客が訪問する度にお茶出しをしていた事務員のおばさんの苗字が非常に変わっていたので覚えていました。この教習場の先生に同じ苗字の若い男がいたので多分そのおばさんの息子だろうと咄嗟に思いつきました。おばさんが住んでいた社宅も自動車教習場から近いというのも理由でした。
もう一件は若い女でした、毎回教習場に通うと同じ顔が見えてきて、たまたま私が椅子に座っていた横に若い女が座ったので「普通自動車の免許を取ったので二輪免許をとろうとしているのですか」と質問すると「普通自動車の免許なんかありませんよ。二輪に乗りたいので来ているのです」と答えたので変わった人だなと思ったのが最初でした。容姿は普通で美人でもないので特に記憶には残りませんでしたが、それから半年も経って私が森林公園に写真撮影のために東武池袋のホームで電車を待っていると、何処かで見た若い女がいたので必死になって思い出すと教習場で出会った女だと気づきました。相手も私をじろじろみていたので多分同じ事を思っていたのではないかと思いました。ここまでは偶然かなと思ったのですが、それから5年以上も経ってから杉並公会堂でアマチュアオーケストラの演奏会場で開演前に座席座っていると周りで何回も足早に私の前を通り過ぎる若い女がいたので見ると、教習場で出会った女でした。相手は私を相当に意識しているというのが伝わって困ってしまいましたが、演奏会が終わると逃げるように荻窪駅まで走りました。

二輪の教習では、毎週日曜日に普通二輪から大型二輪の免許を取得するという時間を半年以上も続けました。50歳半ばを過ぎての免許取得なので年寄りの冷や水みたなものかと思いました。教習をしている時、バイクに乗っている時の爽快感は自動車運転では得られないものだと体が感じているのが分かり、以後健康のためにもバイクを乗るようになったのでした。これも仕事が暇だった時の遺産かなとも思える時でした。
前項で述べたように私は自分が受注した顧客を全て取り上げられると、仕事が無くなり暇になりました。次の新しい顧客とかデータセンター選定の仕事が回ってくるまでの2年位は毎日が日曜日状態でした。頭の悪そうな顔をした事業部長のやっていることを見ているのが仕事だったかも知れません。
この頭の悪そうな事業部長は、私に言わせれば色々やらかしたのですが、上司である役員とか社長からは何のお咎めも無かったようでした、そういう意味では一蓮托生というべきかも知れません。何せ出来が悪くても非難もされずにぬけぬけと毎日が過ごせるので、この頭の悪そうに見える顔をした事業部長にとっては3年程は天国気分だったと思います。

この頭の悪そうな顔をした事業部長がやらかしたのは、3か月毎に海外出張をすることでした。約3年間の間に12回以上も海外に行っていました。本人曰く「いや現地で少し会議して後は観光だ!」と笑いながら大きな声で話しているのが何度も聞こえました。事業部長になるとかように海外旅行ができるのだというのを社内に披露をしていました。仕事の出来ないのは棚の上に置いて、金を使う事だけは人一倍すごかったという事実が残っています。私が苦労して稼いだ金を、出来の悪い上司が浪費しているとう風に思うと随分と腹だしく思えたこともあります。
私の勤務していた会社では、建前の理由がつけば容易に海外出張していましたが、どういう訳か何時も行く人が決まっていて、事業部長とか執行役員が多分海外に行きたくて仕方がないのだろうと思いました。特に、今頃はインターネットやメールがあり情報は全て入手できる筈なのに、わざわざ海外に行くというのは余程仕事が出来ないというのを自ら証明しているようなものだと思いました。時々海外に行く連中を見ていると役得みたいに見えたものです。
当然ながら、この事業部長の友人や仲間内の宴席も決まった店で行われていたのは、定期的に請求書が来ているのを目にして分かっていました。

頭の悪そうな顔をした事業部長が営業部長から昇格した時は、問題のデータセンターが満床になって大きな問題が片付いたところでした。その時、たまたま私の受注した食品会社がコンピュータ会社と合弁会社を設立するという話があって、私が担当から外れていて情報もないので自然と相手に負けました。その後も、同様の出資話が何度かありましたが、全て負けました。全敗ということでしたが、これについても何のお咎めもありませんでした。一時期社内で騒いだだけで、金も使っているわけでもなく損失もないので、社内では役員以下がそんなことがあったのかねと言う他人行儀な調子でした。役員以下管理者が事業に対する責任感が欠如していとしか思えませんでした。そもそも会社の役員とか事業部長がそういう無責任な態度では、出資をされる会社からみれば迷惑なだけで、面談をしていても本性を見抜かれて、競争相手を自然と利したのだろうと思います。
その出資話も1社だけ成功した会社がありました。これは米国のベンチャー企業で、当時私の勤務していた会社の事業部でも取り扱っていた商品でした。米国ベンチャーなので出資額も小さかったのですんなりと社内の承認が得られたようでした。最初の頃は「配当がもらえたのは俺の腕がいいからだ」と大きな声で自慢をしていましたが、4・5年もすると会社の技術が陳腐化して消えて無くなり出資金を全て失ったのでした。詐欺でもよくある少しの配当を支払ってはいるものの倒産して出資金を返せないというケースを会社でしていたのかなと思ったのでした。

この事業部長は調子に乗って中国に頻繁に出張している時に恥ずかしい事件を起こして事業部長から担当部長に降格されて他事業部に異動になりました。事業自得だなと感じた時でしたが、これほどに仕事をしないで金ばかり使った人間はサラリーマン人生でも初めてでした。普通ならば退職を勧告されるとか思うのですが、役員も自分に責任が及ぶのを恐れてお咎めなしにしたのだろうと思いました。同時にサラリーマン管理者にとって、こんな住み心地の良い会社は世間にはそうはないとも思えた時でした。