社員の3か月表彰という超短期イベントの背景を書いていて、続いて思い出したのは新入社員教育の問題です。私の所属していた部署にも新入社員が配属されて時々新入社員教育の内容について問いただしたことがあり、その内容は私が40年ほど以前に工場から本社赤字事業部に配属されてコンピュータの教育を受けたのと大差がない事に驚きました。大差が無いというのは、教育内容にプログラム作成という項目があって、私が受講したのはコンピュータを動かす仕組みの説明に続いて簡単な表作成のCOBOLプログラムを作るというものでした。新入社員はJAVAプログラム作成というのでSQL文で検索をするというようなものだと聞いた記憶があります。いづれにしても、営業職の社員にプログラム作成の研修を行うという事には変わりがないのは、そもそも営業職でプログラミングを教えてどんなスキルが身につくかと言う事を考えておらず、営業職の経験の無い社員が長年の惰性で毎年同じ内容の新入社員教育をしていて、教育という重要なイベントをおざなりにしていたという風に感じ、これも何もしないという社風のなかでの出来事なのだろうと感じていました。
世の中がどんどんと変化して情報処理業界のビジネススタイルも変わりつつあるのに対応できていないのを感じていないのは、管理職や役員の情報処理に対する知識や経験の乏しさにもつながっていたと思いました。社員も大多数がなすすべも無く毎日を過ごしていて、顧客からの要望があると慌てて対応策を取ろうとしますが、所詮は一時しのぎしかできないので到底同業他社との差は歴然という状態で、最後は親戚筋の関係とか営業マンの個人的努力によってしか契約が出来ないという実態ではなかったかと思います。
管理職や役員にとどまらず社員に情報処理の下流工程専門会社と言う意識が無いので、少しでも技術的に難しそうな事案を顧客から要求されると、自分の所属する事業部や他事業部でも対応できなくて理不尽な要求に思える様な事も多々あり困惑してしまう場面に何度も遭遇した事がありました。それはシステムエンジニアは上流工程とか技術的に経験の無い最新技術に対応するだけの能力が無いというだけの証であったとも思います。そこには新入社員に対する教育もさりながら社員の技術職に対する教育もおざなりという実態があって、先輩システムエンジニアのレベルが知れるとおのずから後輩の若手システムエンジニアもその程度で良しとされるので、若手システムエンジニアも安心して何の努力もしないという社風になっていいたと思います。
私が新入社員として工場勤務で技師という職位で仕事をしていた時、土日には自宅で関連する専門書や論文を読んで過ごしていていました。職場の高度な技術者集団というので自己満足している面もありましたが、職場でも定型的なルーチンワークにとどまらず色々な技術課題について議論をして、担当する仕事の内容に理解深めていったという経験から考えると、私が転職後に27年間勤務して会社は情報処理会社という看板を掲げながらも実態は商社営業と変わらない技術レベルであり、システムエンジニアのベテランでも所謂営業支援エンジニアと呼ばれる製品説明とか簡単なデモを行うレベルの技術者に思えて、情報処理の下流工程の単純な仕事は請負えても最新技術とかはとても対応が難しそうに思えました。そこには事業部レベルの課題意識の有無と言ういうよりも、管理職や役員の情報処理に対する圧倒的知識不足により現状肯定するという実情があったと思います。

のんべんだらりとした社風を感じ、自身の技術のスキルアップとか活気ある職場で仕事をしたいと考える、出来の良い若手システムエンジニアや若手社員がどんどんと転職していったのも、管理者は転職する当の若手システムエンジニアや若手社員を変わり者だと思うだけであったと推測しています。根底にある問題や対策を考え付くほどの能力も無いので、どれだけの力量があるのか不明のシステムエンジニアを使って、情報処理下流工程の現場作業中心の低い利益率の事案ばかりなのを疑問を持たないで、小さな事案や低利益率の事案にあくせくして対応して毎日を過ごしていたと思いました。
AIとかIOTという言葉ばかりをマスコミが煽る中で、情報処理の仕事では社員教育というのが益々重要になっているとうのが個人的見解ですが、相も変わらず40年も以前と変わらない新入社員教育をしている実態に驚いたという事でした。
ついでに言うと、営業職向けに行われたビジネスマナー教育の講師の話も新入社員から間接的に聞きましたが、長年の営業職を経験をした者から言わせればピント外れに思えて、内容が変だという事も感じない研修主催の担当者とか管理者にも問題ありとも思っていました。
私の勤務していた事業部では3カ月毎に業績優秀者を表彰するという事が行われていましたが、近視眼的な事業運営しかできない管理者とか役員の能力が知れると感じていました。社員が実務として対応している仕事の中身が情報処理という業務にあってどういうものなのか理解が出来ていないという事を感じさせるもので、将来も現場の作業中心と言う情報処理の下流工程をすることを厭わないという事を表明している様にも思えるのでした。一応上場会社なので四半期ごとの業績報告が義務づけられているので、それに合わせての表彰と言うイベントを思いついたのだと思います。
 
情報処理の上流上程というのは業界でも大手の会社が主に手掛けていて、下流工程は外注会社に作業をさせていると思われます。情報処理の上流工程は業務システムとかシステム改編の方針や方式を考えるもので、一朝一夕には出来るものではなく長い経験の積み重ねがベースにあって出来る仕事で、当然ながら担当するエンジニアの能力もそれなりのものが求められます。当然ながら、仕事に対する対価も上流工程の方が利益率は高く下流工程に行くほど低くなります。
並みの頭脳があれば、下流工程は利益が低いので高い利益率の上流工程を目指すにはどうしたら出来るのかという改革案を作らねばならいと考えると思うのですが、私の勤務していた会社では情報処理そのものの理解が出来ない管理職や役員ばかりだったので、そういう思考は考えもつかなかったと思われます。
情報処理の仕事を契約するというのは通常でも半年とか1年以上もかかる場合が多いというのは自説ですが、短期の契約締結という事態を考えると、商社の物品販売するような横流し業務や臨時の作業という程度の事案しか考えられず、四半期ごとの表彰制度を思いついた管理職や役員は現場作業事案で良しとする思考しか頭に無いという裏返しでもあり、低利益率を改善するのは顧客に高値の見積もりを出せばよい考えていた証でもあって、事業の本質的な改革で利益を向上させようとするのは能力的には無理なことだったかも知れないと思っていました。
 
私の勤務していた会社では、下流工程を如何にも難しい言葉で言いかえて対外イメージの体裁を整えようとしていましたが、現場作業中心である下流工程にも関わらず社内ではリスク費用を見積金額に加算するのが規則なので高価になり、顧客との折衝でもめる原因の一つでした。現場作業にリスクがあるという思考は役員が考え付いた事だと思いますが、常識的に考えれば現場作業は決められた通りに作業をするだけの単純作業なのでリスクなどはある筈もなく、そこにリスクがあるとすれば作業者であるシステムエンジニアの能力が作業をするだけの能力が足りないという事になると考えられるのですが、情報処理のイロハも知らない役員が単に損をするのは嫌だからという理由でリスク費用を上乗せするという事を思いついたのだと思います。そこには自社の社員の能力レベルが世間並であるという思い込みがあって、管理者や役員が社員能力評価もまともにできないという背景もあったと思います。社員の能力判定というので毎年マクロで作成された表を作成していましたが、内容は項目が多く詳細なのですが下流工程が中心の社員の仕事に対しては的外れで頓珍漢な内容で呆れさせるものと思っていました。
私が勤務していた会社のシステムエンジニアの能力が低くて現場作業の出来も如何なものかと思わせたというのを再認識させられたのは、以前のブログで紹介した通り67歳で退職後に情報処理大手の派遣社員として勤務していた時でした。その時、外注会社のシステムエンジニアと会話をしたり仕事振りを見て、仕事は正確で予定通りにこなしているのを見ると、私の勤務していた会社のシステムエンジニアよりも余程頼りになる高い能力レベルだと感じました、そうなると私の勤務していた会社は大手情報処理会社の外注先のシステムエンジニアよりもかなり落ちるレベルであったと思い知らされたのでした。
このような事を書いていると、情報処理の下流工程専門である会社という認識も無く、システム開発を正確に理解する事も無くプログラム開発と混同するような実態が、役所体質の顧客の基幹システム開発で行った間違った作業につながっていたのだと改めて認識をしました。
職場での出来事を思い出せば出すほどに共産党国家との類似性があるのが明確になるように思えますが、底辺に流れる思考は一貫して現状維持という一見安定している様にも見えますが、世間の流れからは取り残されていたのではなかったのかと思います。
毎年12月から次年度の予算編成が始まるのですが、現場から現状維持の数字を提示しても会社からは必ず上積みされた数字だけが返ってきて不思議で仕方ありませんでした。会社は毎年成長するという思考で現場に数字だけが投げられてくるので、毎年4月の新年度の始まりは息苦しいだけの事でした。現場で達成出来ると思われる数字に、上乗せされた数字については上意下達の会社なので否応なく呑まされるのでした。新年度の方針とか称する事業部の社員全員を集めて架空の物語を聞かされて、あとは頑張れと言う戦前の日本軍の出鱈目な行動を精神論で誤魔化しているというようにしか思えませんでした。
会社が業績を上げる前提として、毎年の情報処理業界や製品動向というような事前の調査やマーケティングを実施して、管理部門で業界の流行現状を把握し且つ自分の会社の身の丈にあった製品とかサービスを探し出すということが必須と思います。何度も書いていますが、私の勤務していた会社では管理職や役員の情報処に対する知識が薄弱という事実認識が無い中では、業績と言うと数字だけが躍るという結末になっていたのは仕方のない悲しい現実だったと思います。
 
現状より業績を増やすには新しい投資が必須で、その投資の対価として業績が増えるというのは常識だと思いますが、私の勤務していた会社では新規投資をしないで個人の努力だけで業績を上げようという思考が当然のように社内に蔓延していて、現場の長である部長連も誰一人として予算の数字が無理に上乗せされた方針に逆らう社員がいなかったのは、社風としての自由闊達さが失せて暗い雰囲気が漂う社内を映し出す背景ではないかと感じていました。以前に書いた社員の顔つきも、こういう社内の雰囲気から醸成されて変な顔つきに変化していたと思っています。
当然のことながら7月ころには予算の修正がされ始めて、現実に達成出来そうな数字に書き換えが進み、一応上場会社なので業績見通しも公表しないといけないという事情もあり、格好のつきそうな業績予想が出されていたと思います。
年度予算を修正するというのは見通しが甘いとか事実誤認があったという事なので、会社として予算作成の責任問題と言う事につながると思いますが、管理職や役員に責任を感ずるという能力が欠けているらしく業績修正をしても正々堂々と社内を闊歩していたのは不思議で仕方ありませんでした、そこには管理職とか役員と言う職位をぶらさげていれば社内は誰一人としても文句も言えず通るのだというサラリーマン根性が見え隠れしているという風に思えました。
共産国家では計画経済と称して、現実離れした机上の空論を正として如何にも華々しく成長しているように見せかける施政が行われ一般国民は疲弊していたと思います。現実を知らないとか理解できないという事の恐ろしさを共産国家というものが証明していたと思いますが、私の勤務していた会社も共産国家と五十歩百歩ではなかったかと思っています。
共産党国家では一般市民が生活向上したいとか名誉を得たいとかしてプロパガンダを繰り広げていると思いますが、私の勤務していた会社でもあからさまなプロパガンダをしていた社員もいました。
私が新規に契約にこぎつけた顧客を、管理職や役員が何故あの男が契約できたのが訝しがり、且つねたみをもって社内でも時々発言するのを聞いていたシステムエンジニア連中の中には、私がシステムエンジニアに仕事を依頼するとわざと嫌々にしか対応しないという事がありました。その顧客から新規にソフトウエアを導入するという事案の際には、新入社員を一人だけ現場に派遣してきたので驚きました。結局受注したソフトウエアは導入作業が出来なくて顧客の担当者が手伝いをして何とか作業を終了させたという事がありました。パソコンを千台近く受注した時も導入作業の手伝いをお願いしても忙しいからと一人だけしか出せないと断られて、熱心な担当部長が体力勝負で頑張り私も作業に参画して何とか乗り切ったという事がありました。
管理職や役員が部下の仕事ぶりをねたむというのは、自身の能力が足りないという事の裏返しだと思います。そういう管理職や役員の発言に耳を立てて何とか目立とうとするヒラメとかコバンザメとか言われる社員が多数いたのを実証していましたし、人材の能力レベルが限りなく低いのかなと思わせるものでした。こういう社員の行動が共産党国家のプロパガンダというイデオロギーと私の勤務していた会社の社風が同質では無かったのかと思わせます。
社員の行動が興味深かったことがありました、事業部長が出入りの業者から散々接待されていていい思いをしているのを横目で見ていたシステムエンジニアが、自分も同様に業者に取り込みされたいと思ったらしく行動していた時でした。或る事案では、競争相手の情報を事業部長に取り入っていた業者に全部提供して公正な取引をつぶしていて悦に入っていた事でした。こういう社風が堂々とまかり通っているのだというのを再認識もさせられましたが、普通の会社ならば社員モラルの問題にまで言及されることなのかと思いました。
 
色々な会社が合併した会社であるという事情もあるのかどうかは不明ですが、社員は雑多な価値感を持っていて意識がばらばらであるという雰囲気がありました。ゴルフ大会とか運動会とか社内の行事をしたところで、普段の職場では硬直した役所体質の中での仕事をする事であったり、上意下達が常識となっている社風では、義務的に参加していることで免罪符を手にしたようなもので楽しくもうれしくも無いというのが実態と思えて、私は一度もそういうやらせと同じ発想から行われていた社内行事には参加しようとする気分にさえなれませんでした。これも、共産党国家では市民が一体ということ世界に知らしめるために、市民を駆り出して大規模な行事をするのと同じで、社員からの自発ではなく会社が事前に決めた予定行事として実行していただけのことだったと思います。
社員の意識がばらばらであるというのを管理職や役員は認識をすることも出来なくて、唯我独尊の会社経営が延々とされていたと感じています。
共産党国家は建前を前面に押し出して本音は隠すというような姿勢で、改革とか進歩というような利権を壊すことには慎重で現状維持をするのが常套となっていると思いますが、私が27年間勤務していた会社の風土との同類性が見られたと思っています。
私にパワハラを仕掛けた事業部長が社内循環取引で粉飾決算がバレて異動した後、次々と話の分かりやすそうな事業部長が就任したので、新しい事業部長に対して私が担当している業務についての疑義について色々と指摘をした結果、事業部長から私の疑義に対する質問が現場のシステムエンジニアに対して行われたことがありました。当のシステムエンジニアには対応能力が無くて出来なかったのか、それとも厳しい指摘に対して反感を持って何もしなかったのか、挙句の果てには体裁だけを整えるようなやっけ仕事をして知らん顔をするような事がありました。私もシステムエンジニアの能力が自分では理解しているつもりだったのですが肩透かしを食らったような気分になったことがあります。
 
私は営業職でありながら長年の情報処理業界という中にいて多々経験を積んでいて、システムエンジニアの能力というのは少しばかり様子を見ていれば自ずと知れるし、レベルの低いシステムエンジニアを指名されると仕事がはかどらず返って邪魔くさいというように思う事がありました。何故、システムエンジニアの質が低いのかというのは、会社の情報処理業界での売上げが低いという位置づけというだけでなく、仕事の内容も現場作業中心の下流工程が主になっていて、肝心の作業は担当エンジニアでは段取りが出来なくて、元請会社のシステムエンジニアから明確で素人わかりする仕様書とか作業手順書をもらわないと実務が出来ない事も多々ありました。現場では実務を外注会社に丸投げする事も多々あり、システムエンジニアが十分に理解しない儘、元請会社来た仕様書をそのまま外注のエンジニアに渡して任せていた実態も能力低下の一因になっていたと思います。
システムエンジニアの上司の能力レベルが低く、部下は上司の能力以上にならないのは自然の成り行きであって、社内では負の連鎖が続いていたのですが、こういう実態を管理職や役員が認識することもなく問題が起きなければ幸いというような感覚が優先されて長年の間続いていたのが、システムエンジニアの能力レベルの低さにつながっていたと思います。

大きなシステム開発プロジェクトでリスクがあっても乗り越えるだけの力量というのは実際に経験しないと得られないもので、管理者や役員が何かあるたびにリスクがリスクがと大声で言い建てるのを聞いていると、顧客のリスクよりも仕事を請け負う側の管理職や役員の能力レベルのリスクの方が余程高いのではないかという風に感じていました。顧客に提示する価格にはリスク分を何十パーセントも上乗せしろというような規則が出来たのは、システムエンジニアの能力レベルの低さを象徴するようなものだと思っていました。
これが情報処理の下流工程を生業としている会社の実態と言う風に感じていて、私の顧客に対しては自分自身で技術面のカバーを出来るだけしないと新しい仕事が回ってこないなと考えて行動をしていました。社内では私を見ては、彼奴は何をしているのだろうと訝しく思われていた事もあったと想像をしていましたが、業績は人並み以上に挙げていたので自身の仕事に対する方針に誤りはないと確信をしていました。
共産党国家と私が勤務していた会社の類似性を見ていますが、考えれば考えるほどに類似性があるという事に気が付いて面白く思っています。ロシアも仮面をかぶった共産党国家と思いますが、書面重視・手続き重視・プロパガンダ主義・教条主義と言った表向きは極めてまっとうな事を主張しているように思えますが、そこには国民不在・独裁主義と言ったことがはびこる国ではないかと思います。経済が全世界で繋がると共産党国家は不効率・非生産性が露になって通貨の下落に繋がっていくという負の側面が見えてきているのではないかと思っています。世界経済では最早一国の独りよがりの政策だけでは立ち行かないという事になり、共産党国家がいずれは経済面から崩れざるを得ない時が来ると想像をしています。
 
私の勤務していた会社では情報処理業という割合に先進的な業務を生業としていたのにも関わらず、経営実態は3・40年も前の日本の企業に染みついていた、何事も良きに計らい問題を起こさないという安全運転するという自己保身の伝統と思われる思考が充満しており、最新の技術を扱う実務を実行している現場実態と大半の社員の思考には大きな乖離があったと思っています。
共産党国家で重視されていた書面主義は、管理者や役員が合理化をするという発想も無く手作業の事務処理が連綿として続いていたし、手続き重視はルールを守るという如何にももっともらしい事を金科玉条のように社内に喧伝して、社員はがんじがらめなっているので自由な発想での事業展開は出来る筈も無く、業績の現状維持が精々という状況につながっていたと思います。尤も多くの社員の能力不足から仕事の仕方も平凡そのもので、新しい発想は出る素地や環境も無かったので、正しいかどうかも不明な上司から言われる事に従順に従っている社員ばかりでした。
共産党一党独裁国家で使われるのと同じ意味で会社のプロパガンダと言われるのは、社の方針に従順というのではなく、おべっか使いとかごますりと卑下される様な言葉ですが、管理職や役員は見識が低いこともあって、ヒラメとかコバンザメ社員が管理職や役員に取り付いて、そういう連中が仕事そっちのけでうろうろと社内を徘徊していたのも共産党国家との類似性が極めて高いことを証明していたと思います。こういう社員の姿勢は会社の取引先である顧客よりも自身の保身という思考に常にスイッチが入り放しで、取引上で何か事故・事件が起きても自社優先の行動をとるので顧客は不利益を被るという状況になり、顧客は甚だ迷惑な業者であると言う評価をせざるを得ず、そういう悪い取引環境でも耐えられる顧客のみが取引先として残るので業績は上がらないという事につながっていたと思います。
教条主義は一旦決めたことは守り抜くみたいな良い事のように聞こえますが、状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度をさしていうもので、会社で言えば新規に事業をおこしたものの失敗しても保身から失敗とは言わずに屁理屈をつけて見かけだけ成功したように誤魔化すのを堂々とやってのけるという事が多々行われていたと思います。管理職や役員の不手際や失敗もそのまま残されてしまうので、社内には失敗の痕跡ともいえる部署が延々として残っていて、ローマの遺跡群でも見る様な気持ちになったことがあります。失敗を的確に評価する能力も無いのに新規に事業や新規取引を始めるなどと言うのは自らの無能をさらけ出しているようなものですが、ヒラメやコバンザメ社員が管理職や役員の失策をほめちぎっているので益々おかしな事態になっていったと見えていました。
こういう共産党一党独裁みたいな会社でも何とか持ちこたえていたのは不思議で、推測では親会社の名前を語って雑多な小さな仕事があったからだろうと思いますが、今どきには珍しいマンネリという社風を延々と続けていた会社なのかという感想を持っています
学生の頃には、共産国家という名前を聞くと日本よりも住みやすいのではないかとイメージだけで想像をしていたのですが、年を経るうちに共産国家の色々な事件が起きるを見聞して、これでは自由も何もなかろうというのが理解でき、共産国家に対する嫌悪感が醸成されたと思います。
共産国家では貧富の格差が大きいとか、自由な発言が許されていないという中で、庶民は国の方針に反発も出来ずに言われるが儘に従わざるを得ない環境にあると思います。国家は庶民の反発を抑えるために、対策として一部の民衆に普通よりは良好な住居や生活を保障してプロパガンダ活動をする人たちを必要悪として育てていたと思います。民衆も少しでも良い生活を望むのは当然で、その為には他人のことより利己的な行動をしなくてはならんというので、大声で政権を賛美したり場合によっては他人を貶めたりしても、少しでも世間に目立つ存在となり生活の向上を願って、政権に取り入ろうとする人たちが存在するのは人間の本能から考えても自然かも知れません。これは本末転倒の好例で、国が富の再分配を民衆のために行えば解決できると思いますが、国としての対外上の見栄えとか体裁を作らないと共産党一党独裁という国のイメージが悪くなるので、どうしても国の政策として目立つ都市を作りで対外的なイメージ向上を図りたいという事になるのだと思います。その思考には現場感覚は無く、机上の空論という理屈をこねまわしただけの産物と言えると思います。
 
先回に続き、私の27年間勤務していた会社と共産党一党独裁国家との類似性を見ることができるのかと思った次第です。私の勤務していた会社では、親会社の業種とは全く毛色の違う情報処理業という業界に新規参入したこともあり、何度も書いていますが管理職や役員は情報処理とか情報システムという分野には知識も碌に持ち合わせないど素人な筈なのですが、耳学問だけで事業が出来ると考えていて勘違いをしている事に全く気づいていないという事だったと思います。
自社の事務処理をシステム化による合理化も出来ずに不便な手作業が多々発生する現状を顧みず、社外の顧客に対してシステム開発とか構築を行なおうとする姿勢には驚きを通り越して呆れていたことを思い出します。そこには共産国家と同じく、現場不在の頭でだけ考えるという思考があり、理屈をこねただけで方針を決めていた事だと思いました。
管理職や役員はシステムというものに対しても言葉上の意味しか理解できていないし、ましてシステム化による事務合理化などというのは考えもつかない思考なので、やることなすこと頓珍漢なことばかりになるのは当然だと思いました。同時に、管理職や役員は自社のシステム開発や構築に対する社員の力量を正確に把握できていないので、何か新しい事業を始めるにしても金銭目的だけのコンサルタントにコピペで適当に作成した資料を提示されて、その内容が自分の会社で実現できりかどうかさえも判断は出来なくて、何となく実現できそうな気がしていたのを無謀にも実行しておかしな結果に陥っていったのだと思います。
共産国家との同一性は、理屈だけで事を進めるというのにとどまらず、失敗と言う結果が見えたにも関わらず何とか体裁を整えて内容を少し変えたり延命させようとして、失敗と言う文字を表さないようにするという事だと思います。そういう経営は保身の上に立っていると考えざるを得ませんでした。
公平な会社であるという割には、管理者や役員の為す事やる事の不出来・不始末は何の咎めも無く、定年で規定通りの退職金をもらうというのはご都合主義がまかり通っているという裏返しではないかと思っていました。失敗を認めないというのはサラリーマンとして自己保身ですが、失敗を認めてこなかった歴史が結果として、新しい事にチャレンジしようとした時に正確な判断を出来なくしているという素地を作りだし、企業としての成長を阻害している要因であると考えたのは社員の中でも私一人であろうと思っていました。
現在国名がロシアとなった旧共産国家ソ連は、平等主義というあからさまなご都合主義を標榜して、男女を問わず全ての国民に労働を強いて富は国家に吸い上げられました。国民から吸い上げられた富は共産国家として対外上目立つ公共施設とか工業分野に投資されて、一般庶民の生活は最低限度という程度にしかなっていなかったと思います。国名がロシアに変わった今でもプーチンによる一党独裁は変わらず、批判勢力は圧迫されるという事情は共産国家の歴史を延々と引き継いでいるように見えます。日本とロシアの関わりは宇宙開発での連携が思い出されれますが、報道ではロシアの陽の面ばかりが強調されているような気がしてなりません。数年前にロシアの地方都市を旅した時、庶民の生活レベルは日本の70年代の生活レベルであるという風に感じた事があります。ロシアが最先端の宇宙技術や軍事力に国家として取り組んで世界にアピールしている一方で、庶民の生活はなおざりにされているという実態を垣間見たと思いました。
ロシア在住の日本人が日本から送られた荷物を受け取るのに、10枚位の書類を提出しなければならなくて何度も何度も役所に足を運び、全部揃うと職員から完璧だと言われて漸く荷物を受け取ることが出来るという記事を読んだことがあります、究極の書面主義がはびこっているという事だと思いました。
ロシアに入出国する時には、日本ならパスポートにポンポンとハンコを押してさっさと通してくれますが、ロシアではパスポートを見て先ず写真と本人を見比べてからパスポートを全部読んで疑義がないかを一人一人確認するので、入出国の手続きに時間がかかるだけでなく静寂で異様な雰囲気を感じた時があります。これは決められた通りに仕事をして自分の勤務時間を過ごすという自己都合主義がまかり通り、そこにはサービス精神という概念が皆無で、それを国として認めているという事だと思いました。
 
こうした前置きを書いた理由は、考えてみると私が27年間勤務した会社と共産国ソ連の国家としてのありようが極めて似ているのではないかと思ったからでした。わが社は平等主義ですと言っていた管理者がいましたが、何が平等なのか全く理解が出来ませんでした。企業と言うものが業績で成り立っているならば、社員の評価は業績の上げ方とか業績の程度で社員が評価されなくてはならないのに、所謂ヒラメとかコバンザメとか言われる個人的な人間関係で評価がされているのが実態なので、そういう実態を曲げて社員に堂々と説明をする管理者とか役員がいたのは、形式主義とかご都合主義を重視する、共産国家と同じ思考は社員が意識しないほどに社風としてしみ込んでいたのではなかったのかと思います。業績よりも対外的な面子とか自己保身が優先されても、それを非難する管理者や役員が皆無であったということでもあったのかと思います。
文書主義の一端を表すケースとして決裁文書を承認してもらう場合、役所の10以上のハンコが並ぶほどではないにしても、4個や5個のハンコを押してもらうのに時間と労力を掛けていました。社内には大量の紙が保管された倉庫もあり、古い文書を探すのに苦労をしたこともあります。私が在籍していた当時、こういう決済システムが電子化されていないのにも違和感がありましたが、情報処理会社といいながら基本的は自社の電子化には極めて疎いというのは、管理職や役員が現場仕事を経験していないので仕事の現状を知らず、机上の空論を毎日会議で振り回して無駄な時間を過ごしていた証でもあると感じていました。仕事の効率化という本質的な改善は無く、得体も知れぬ業者からそそのかされたと想像されるような変なサービスとかツールが突然導入されて現場の仕事が益々非効率になったのは、現場の仕事の経験が無い管理者や役員ばかりであったということの証かなと思って苦々しく感じていました。
企業を私物化して独裁するというケースは大きな規模の会社でも間々見られますが、私の勤務していた会社では共産国家の思想に通じるような形式主義が重要視されて業績は二の次であるという社内環境であったと評価することができると思います。
転職後に27年間勤務した会社の回想について書いてきましたが、表面上の現象について果たしてその実態は如何なるものから生まれたのかというのも考えてみたいと思います。西洋哲学では人間とは何かを考えて、デカルトは肉体と精神と言うものに分けて考えましたが、日本仏教の禅宗では全ては無につながるとして考えているようです、卑見ながら私の27年間の職場環境の実態とは何であったのか順次に解き明かしていきたいと思います。
 
最初に思いつくのは、大学生が何故私の勤務していた会社に入社してくるかを考えてみました。私の勤務していた会社は大手情報処理業界でも下位クラスなので入社する志望動機は極めて曖昧にならざるを得ないと考えられます。理系の学科で学んでいる学生や、文系でも専門分野に特化した学科で学ぶ学生の就職先は、企業業種や希望企業は自ずと範囲が特定されてくると思います。しかし、文系の経済・商学・法学等々で学ぶ学生は専門性が低く、所謂汎用製品みたないもので建築に使う釘やネジという類に例えられる学生なので、事務職とか営業職とか区別なく専門性の低い社員不足と言う埋め合わせ社員にしか採用され得ないと思います。そうなると入社する企業は名が売れている会社の方がいいという一時的な現象に目がくらみ客観的な評価を置き去りにして、マスコミで取り上げられている会社に殺到するという安易な発想にならざるを得ないのかと思います。理系にしても学生時代に学んだ専門知識が会社入社して役に立たないのは日本の大学のありかたのせいではありますが、しかしながら会社に入社して仕事の専門分野をかじってきただけでも基礎から教え込むのとは大違いで即戦力となる場合もあります。私も工場に新入社員として配属され大量の英文図面を渡されてドキッとした経験がありますが、それでもやり方を指導されると直ぐに独り立ちできたのは専門性が基礎となっていたのは間違ないと思います。

理系の優秀な学生は就職希望する大手企業上位ランクを希望するのが当然で、下位グループ企業となると理系の学業優秀な学生からは敬遠されるので、その不足を専門知識のない文系学生が余白をうめるような形で私の勤務していた会社に入り込んできているのではないかと推測をしていました。
情報処理業も製造業の一種でシステムという目に見えないものを創造し、ソフトウエアを製造するという事を生業としているので、高度な専門性が求められます。業界でも上位の情報処理会社は当然ながらシステムと言う目に見えない創造物を生み出す上流工程と言われる考える仕事が主になりますが、下位情報処理会社では必然的に下流工程と言われるシステム構築と言われる作業が主体になります。情報処理ではシステム構築という定義が曖昧で、私の勤務していた会社では大半の管理職・役員や社員が誤解をしていてシステム設計という名前を聞いて上流工程と思っていたと想像されました。実態を考えてみれば、新入社員の能力がそもそも会社の業務を理解できないレベルの学生が入社して、職場の管理者や同僚も同様の能力レベルなので一般常識から外れた世界で仕事を解釈していたのではないかと思われるシーンが多々あったと思います。
学生や中途入社員を採用する時、以前も少し触れた気がしますが、採用する側の面接者の能力や会社の実力以上の社員は採用できないという、隠れた原則があるという事を認識していないという決定的な欠陥があったと思います。社内にはブランド大学の出身者が多数しますが、それと業績評価とどうつながっているのか怪しいと思う社員が多数いて、過去の自慢話をする社員に限って平凡な思考しか持ちえないと思われました。平凡を好んで危険な賭けに出ないで何もしないのを好む管理職や役員が多数を占めていたので、それが社風ともなっていたと思います。その社風に染まった採用面接社員が学生や中途入社員をいくら面接しても、所詮色眼鏡に染まっている事や自身の能力も社内では高いつもりでも世間では並み以下という実態では、採用する社員の質も同類になるという必然性が存在していたと思いました。
 
下位情報処理会社は上位情報処理会社の下請けの外注会社になる場合もありますが、同じ下請けでも一次下請けと二次下請け以下では作業する内容がどんどんと現場寄りの作業となります。私の勤務していた事業部では現場作業ベースの仕事が多くて、下位情報処理業者の悲哀を感じながら仕事していました。こういう実態を管理者や役員は実態を改善しようとする方策も考え付かず、事業に対する気迫や気概も持ちえず、売り上げや利益と言う幼稚園児でも思いつくレベルの項目ばかりにしか目がが行かない現実を直視していましたし、同時にそれこそが会社としての実力であり社員の能力レベルを標榜していると理解をしていました。
昨今、日銀の金融政策が金融緩和による弊害が出ているという理由で若干の長期金利上昇を認めるという方向転換がされるという報道がされているのを見た感想は、日銀が5年前に発表した2%の物価上昇というのはそもそも無理な数字であったというのを認めたくないので嫌々ながら小手先の手段でやり過ごそうという自己保身からきていると感じました。新聞記事でも黒田総裁の打ち出した2%物価上昇という目標そのものに疑問符が寄せられているのを見ても、日銀は世間常識というのもから乖離した世界で理屈をこねまわしているだけではないかと思いました。同時に、米国との金利差が今後どうのように日本経済に影響するかは見通せませんが、将来的には何かが起こる予感がしています。それでも日銀は相変わらずバブル期の後始末時同様にまともな政策が打ち出せなかった時と同様に、つけを全部国民に押し付けてくると想像をしています。
 
こうした感想を書いたのは、27年在籍した会社でも同様に唯我独尊みたいな経営がされていて、自分の考えは正しいみたいな態度や発言をしている役員がいたので日銀総裁との同類性を見たと思いました。
普通に民間会社であれば年々の業績をどう向上させるかという思考になると思うのですが、私の勤務していた会社では業績が横ばいにしかならいのを特に問題視をすることも無く、あれこれ一時的な問題ですとか理屈をつけて言い逃れをしていたと思います。これは色々な理由が考えられますが、社員は社風として何もしないというのを意識していないで仕事をしていた事だと思います。そこには一見仕事熱心にしている様に見える社員の仕事ぶりはケインズ経済学を地で行くような、穴を掘ってはまた埋めているような仕事をしているとしか見えませんでした。退職した身なので過去に勤務していた会社がどうなろうと知ったことではありませんが、私が勤務していた時にはこういう感覚を持っていたという事です。
 
時はあっというまに過ぎてしますという風に感想を述べる人がいますが、私がサラリーマンとして過ごしていた48年間はあっという間ではなく、とてつもなく長く感じられた時であったと思っています。30歳代に製造会社の本社勤務していた頃の緊張感の無い通勤光景は数え切れない程の記憶の断片として残っています。後半の転職後27年間は、在籍した会社が何もしない社風なのに業績数値だけが独り歩きしている環境であったせいか、以前のブログで紹介したような興味深い色々な出来事を目撃したのを記憶にとどめています。
無為無策という思考は何時から日本に根付いたのか調べてみるのも面白いかなと思うこの頃です。鎌倉・室町時代の地方自治ともいえる時代が、江戸時代には武士が官僚として長年その座に居座ると自然と何もしないのが良策という空気が生まれてきて、それが明治政府の官僚政治で確立されて現在に至っていて、官僚が現状維持で何も変えいないという基本的な思考となっているのではないかというが私見です。