転職後に27年間勤務した会社の回想について書いてきましたが、表面上の現象について果たしてその実態は如何なるものから生まれたのかというのも考えてみたいと思います。西洋哲学では人間とは何かを考えて、デカルトは肉体と精神と言うものに分けて考えましたが、日本仏教の禅宗では全ては無につながるとして考えているようです、卑見ながら私の27年間の職場環境の実態とは何であったのか順次に解き明かしていきたいと思います。
 
最初に思いつくのは、大学生が何故私の勤務していた会社に入社してくるかを考えてみました。私の勤務していた会社は大手情報処理業界でも下位クラスなので入社する志望動機は極めて曖昧にならざるを得ないと考えられます。理系の学科で学んでいる学生や、文系でも専門分野に特化した学科で学ぶ学生の就職先は、企業業種や希望企業は自ずと範囲が特定されてくると思います。しかし、文系の経済・商学・法学等々で学ぶ学生は専門性が低く、所謂汎用製品みたないもので建築に使う釘やネジという類に例えられる学生なので、事務職とか営業職とか区別なく専門性の低い社員不足と言う埋め合わせ社員にしか採用され得ないと思います。そうなると入社する企業は名が売れている会社の方がいいという一時的な現象に目がくらみ客観的な評価を置き去りにして、マスコミで取り上げられている会社に殺到するという安易な発想にならざるを得ないのかと思います。理系にしても学生時代に学んだ専門知識が会社入社して役に立たないのは日本の大学のありかたのせいではありますが、しかしながら会社に入社して仕事の専門分野をかじってきただけでも基礎から教え込むのとは大違いで即戦力となる場合もあります。私も工場に新入社員として配属され大量の英文図面を渡されてドキッとした経験がありますが、それでもやり方を指導されると直ぐに独り立ちできたのは専門性が基礎となっていたのは間違ないと思います。

理系の優秀な学生は就職希望する大手企業上位ランクを希望するのが当然で、下位グループ企業となると理系の学業優秀な学生からは敬遠されるので、その不足を専門知識のない文系学生が余白をうめるような形で私の勤務していた会社に入り込んできているのではないかと推測をしていました。
情報処理業も製造業の一種でシステムという目に見えないものを創造し、ソフトウエアを製造するという事を生業としているので、高度な専門性が求められます。業界でも上位の情報処理会社は当然ながらシステムと言う目に見えない創造物を生み出す上流工程と言われる考える仕事が主になりますが、下位情報処理会社では必然的に下流工程と言われるシステム構築と言われる作業が主体になります。情報処理ではシステム構築という定義が曖昧で、私の勤務していた会社では大半の管理職・役員や社員が誤解をしていてシステム設計という名前を聞いて上流工程と思っていたと想像されました。実態を考えてみれば、新入社員の能力がそもそも会社の業務を理解できないレベルの学生が入社して、職場の管理者や同僚も同様の能力レベルなので一般常識から外れた世界で仕事を解釈していたのではないかと思われるシーンが多々あったと思います。
学生や中途入社員を採用する時、以前も少し触れた気がしますが、採用する側の面接者の能力や会社の実力以上の社員は採用できないという、隠れた原則があるという事を認識していないという決定的な欠陥があったと思います。社内にはブランド大学の出身者が多数しますが、それと業績評価とどうつながっているのか怪しいと思う社員が多数いて、過去の自慢話をする社員に限って平凡な思考しか持ちえないと思われました。平凡を好んで危険な賭けに出ないで何もしないのを好む管理職や役員が多数を占めていたので、それが社風ともなっていたと思います。その社風に染まった採用面接社員が学生や中途入社員をいくら面接しても、所詮色眼鏡に染まっている事や自身の能力も社内では高いつもりでも世間では並み以下という実態では、採用する社員の質も同類になるという必然性が存在していたと思いました。
 
下位情報処理会社は上位情報処理会社の下請けの外注会社になる場合もありますが、同じ下請けでも一次下請けと二次下請け以下では作業する内容がどんどんと現場寄りの作業となります。私の勤務していた事業部では現場作業ベースの仕事が多くて、下位情報処理業者の悲哀を感じながら仕事していました。こういう実態を管理者や役員は実態を改善しようとする方策も考え付かず、事業に対する気迫や気概も持ちえず、売り上げや利益と言う幼稚園児でも思いつくレベルの項目ばかりにしか目がが行かない現実を直視していましたし、同時にそれこそが会社としての実力であり社員の能力レベルを標榜していると理解をしていました。