我々の時代は知性を欠いている。これは、言葉に対する敬意の喪失によるところが大きい。最近、食言を繰り替える人間があまりにも多い。自らの発言が過去の発言と食い違うこと、自らの発した言葉に一貫性がないことに罪悪感を覚えない人間がここ数年間で増えた気がする。彼らは自らの発する言葉の意味をその場で立ち止まって考える、ないし後で顧みることがないのだろう。彼らの論理性の欠落がいかにして生じ、それを許容する精神が生まれたのかは、重要な問題であるが今の私に語る能力がない。嘘を許容し、公に誤魔化しをすること、これらに対する心理的障壁を下げた原因がどこにあるかはよく論じられている。重要なのは、その原因を決して一か所に求めてはならないということだ。その原因は、政治にあり、インターネットにあり、我々の生き方の変化にある。民主主義の零落はもはや民主制の国家を独裁制へ移行しかねないほどまでになったが、一部の民主主義国家の首脳部が民主主義を軽視している、ないしその選挙結果によって選出された我々の成すことは皆民意を反映していると、それが建前であろうが主張するのは、そう主張しようとも自らを選出した支持者らは離れないと考えているからに他ならない。民主主義を軽視する首脳部に一票を投じた人々は、そうでなければもはやその矛盾が明らかになった新自由主義を掲げる候補者に投票しなければならないということもあるのかもしれないが、民主主義にたいする敬意が足りないのだろう。

 前回、現代の核兵器の責任体制の危険について論じた。我々は人類を愚かしい滅亡の危機にさらさないためにも、核兵器を廃絶しなけらばならない。核兵器廃絶の試みは世界中で行われており、最近も核兵器禁止条約が国連総会で採択された。この条約は、長い時間はかかるだろうが世界中の人々に核兵器に対する忌避をもたらしうる重要性をもつ。核兵器をなくすための多面的な取り組みは同時並行で行われるべきであり、核兵器削減の取り組みも精力的に行われなければならない。大国の核保有数削減はあまりうまく行っていないが、例えば、計算上核の冬を引き起こさない数のみの核保有に限定してみてはどうだろうか。核の冬は人類の滅亡を意味するため、これ以上の数の核を使用することは実際上ありえないし、ありえてはならない。核の冬を引き起こす核兵器の数は各国の核保有数の十分妥当な上限となりうる。

 

 とはいえ、仮に核兵器がこの地球上から消えたとして、その状態は持続するのか。ずいぶん先の話になるだろうから不確実性が大きいが、私はかなり疑わしいと考える。かつて毒ガスも第一次大戦後にジュネーブ条約でその使用が禁じられたが、最近でもシリアの内戦で使われたし、国が存亡の危機に立たされた時に開発能力さえあれば首脳部が勝つために非道の方策をとることは十分にありうるからだ。核兵器が宗教団体の使用例もある毒ガスほど安易に作れるとは考えにくいが、国が国策として開発・製造に踏み切った時の開発の速さは昨今の新型コロナウイルスのワクチン開発を見ればわかることである。特に技術力のある国では北朝鮮やイランの比でない速さで核兵器を開発できる。ゆえに、核を開発・保持・使用する利点が存在する限り、核廃絶体制は根本的な不安定要因を抱えたままになるだろう。

 

 ならば、核廃絶体制を維持するには如何にすればよいか。核廃絶体制の持続性を乱すのは、戦争が起こるかもしれない可能性である。故に、核廃絶体制を永続的なものにするには、戦争をなくすしかない。そして、永遠平和を成すためには、各国に戦争禁止の法を順守させる実行力を持った国際組織が必要だろう。人がその所属する国の法によって縛られ、順守する義務を負うように、国もその所属する国際組織の法によって縛られ、順守する義務を負わねばならない。それを順守させる実行機関としての武力は必要だろうが、それ以上に国際組織が国の上位概念であるという意識を全人類が持たねばならない。そのためには、地球上の人々は同じ規範に従う土壌を持っていなければならないだろう。私はこの規範が共和的かつ民主的であると信じているが、将来新たにこれに代わる概念が生まれる可能性は否定できない。同じ規範に従う土壌を得るためには、人々は人権や自由の思想、同じ地球人であるという意識を共通認識として獲得しなければならないだろう。故に、戦争をなくすこのプログラムのために今できる方策は、世界中にはびこる格差を是正し、十分な教育を受けられる環境を整えることである。

 核兵器は、現代の人類が直面し続けてきた地球規模の脅威である。核戦争の危機は核保有国を含む国同士での緊張が高まるごとに人々の脳裏に浮かび、我々はかつてのチェルノブイリのような地球規模での放射性物質の拡散の脅威に怯える。20世紀の後半は冷戦の時代であり、同時に核戦争の脅威に怯え続けた時代でもあったが、その脅威は21世紀になってメインプレイヤーを変えて今でも続いている。台頭する新興国が古き大国に挑戦するのは歴史的必然と言えるほどに繰り返されてきたことであり、新興国が自国の脅威や国の統一などを建前として自ら戦争を仕掛ける可能性は、たいていの人々が考える以上に高いのかもしれない。戦争の脅威が近づくごとに核保有国は公然と核の使用をちらつかせ、そうでなくても核の先制使用は、建前がどうであれ常に核保有国の選択肢の一つに入っているはずである。

 

 では、核の使用は誰が決定するのか。核戦争は常に核の冬、すなわち全地球的環境変動による太陽光の遮蔽に伴う気温の低下の脅威を伴い、それは人類含め地上の大型動物の絶滅の可能性をはらむ。ゆえに、核の発射に対する責任の所在は決して曖昧であってはならない。アメリカでは核のフットボールに代表されているように最終的責任は大統領にあるとされていると推測される。しかし、核のフットボールなどを用いてアメリカ大統領が核の発射命令を下すというのは本当に正しいのか。例えば、キューバ危機では核保有国間での戦闘準備態勢がとられている中で、海中のソ連潜水艦に対して米軍の爆雷が投下され、ソ連潜水艦内では核魚雷の発射が検討されたという有名なエピソードがあるが、我々はこの話に注目するとき、検討したのはあくまで潜水艦乗組員の幹部らであって、フルシチョフでないことに注意しなければならない。考えてみれば当然のことである。海中では短波長の電磁波が速く減衰し、通信手段として実用的でない。ソ連本土と長距離通信を行う場合には、海底調査でやられるようにケーブルをつなぐか海面近くに近づかなくてはならないだろう。故に本土に核発射の確認をとろうともできなかったのだろう。同様のことはアメリカとソ連が逆でも、または他の国の組み合わせでも十分に起こりうることだし、当然21世紀でも起こりうる。現実的に考えて、米軍はこのような場合に、特に平時でなく戦時ないし準戦時においては核発射の権限を現場に移譲するのではないか。アメリカ大統領が寝ているなど即座の判断ができない場合は当然あるし、そのわずかな間に敵国の攻撃は、敵国の領空近くを飛ぶ米軍機を撃墜し、敵国に近い米軍基地を壊滅させうるからだ。そして、実際にソ連ではこの権限の委譲が行われていたことがこのエピソードからわかる。同様の議論はは米国だけでなく、当然ほかの核保有国でも成り立つ。

 

 だが、この権限の委譲は非常に危険である。偶発的な核戦争の危険を増大する上に、核発射の責任の所在をあいまいにするからだ。この権限の委譲は、特に本国が壊滅したときに報復としての核攻撃を行うゾンビのような計画でこそ真価を発揮する。このような計画が存在する場合、核攻撃においてまず責任を負うべき国の首脳部が存在しない可能性があるし、命令に従って実行した現場が核発射の責任を負う覚悟があるかは疑わしい。まさに、無責任体制のまま核の冬による人類滅亡につながりかねない行動をとるわけだ。

 

 核の権限移譲の危険性を論じた。当然、大勢の人を殺し、広大な土地を放射性物質で汚染することなど、核使用の他の問題はあるし、各所で論じられている。核保有国は、核の冬という不要な脅威を核非保有国に押し付けている。核拡散防止条約は核を独占することを国連常任理事国のみに認めたが、核は世界各国に拡散している。これには、特定の国にのみ核保有を認める不条理、核保有国が核の使用をちらつかせた恫喝的な外交を繰り返してきたことも関係しているのかもしれない。非核保有国にあっても核保有国の核抑止力に期待する国が多くあるが、核保有国の核の傘は、翻って先んじて核の雨を降らせうるものであることに、よくよく用心しなければならない。

 人は噓と欺瞞に満ちた世界に生きながら、他者を愛し、信頼する。だが信頼は常に裏切られる可能性をはらむ。信頼していた他者に裏切られたとき人は悲しみ、苦しみ、怒り、様々な負の感情を抱くことが多く、そうでなくとも多くの場合気落ちし、自らの精神に悪影響を及ぼす。信頼を裏切られることを恐れ、他者を信頼せず、他者との交流に感情を介在させなくすれば、人はよき同胞との心のつながりを得ることができず、孤独になる。さらに、他者を信頼しないようにふるまおうとする人間は、共同体の中で生活する以上、見知らぬ者、一過性の物であるとしても他者を信頼しなければならない場面が多々あり、自らの信条との矛盾にさいなまれる可能性をはらむ。

 

 共同体、企業、国、機関など、あらゆる組織は少なからず信頼の上に成立しており、法や規範からの逸脱など裏切られる可能性を考慮に入れつつその組織の頑健性を保つ努力がなされている。人間が社会的動物である限り、社会の信頼関係の上で生きなければならないし、社会からの信頼を自ら積極的に求め、そこに充足感を得る傾向があるのは間違いないだろう。それが人間の本性に関わるものなのかはわからないが、他者から自分が求めている形での信頼を受けると、人は心が軽くなり、精神を安定させることができる。他者とのつながりが人を孤独感から解放し、社会の中に居場所を持つ存在として認められていると感じさせる。

 

 人が他者に与える最低限の信頼とはいかなるものか。それは、他者に対する存在肯定である。どんなに愚かな人間であろうとも、この世界で生きることを我々は否定してはならない。むしろ、彼らがこの世界に存在すること、この世に生あるものとして生まれてきたことを祝福しなければならない。なぜなら、我々は誰しも生きているうえで多くの間違いを犯し、それがある他者に容認しがたいほどの苦痛を与えたことが多々あるからだ。人は全能の存在ではなく、間違いを犯し他者を傷つけ、迷惑をかけて生きる動物であるからこそ、我々は愚かな他者の存在を否定してはならない。人間の行為は非難の対象となれども、人間の存在は否定の対象であってはならない。

 

 他者の存在を祝福する。それは人間社会で生きる我らの使命であり、我らがより穏やかに生きる方法である。

 人は弱さを見せることを恐れがちだ。自らの弱みを他者に見せるまいと話題をそらし、ごまかしの言葉を口にし、口を閉ざす。他者に自らの弱みを見せることは、それが自らにとって致命的であるほど勇気を必要とする。人が腹の内を明かし、よき同胞として強さも弱さもひっくるめて語り合うことは、大人になるにつれて難しくなる。年を重ねれば重ねるほど両手を背に回して隠し持つ弱みは増す一方であり、他者に見せぬ目的を超えて、自らからも見えないように自分に嘘をつく。自分についた嘘は時を重ねるにつれて自分ですら気づくことができなくなる。だからこそ人は弱みを見せることのできる人間に親しみと憧れの情を抱くのである。

 

 自分にない強さを持っている人間に人は尊敬の念を抱き、時には嫉妬する。この世界、さらには時をを超えて人類の歴史には常に自分より優れた人間が存在しており、常に尊敬や憧れの情でいられれば良いものの、それが自分にとって他者からの優越性を象徴する特性であればあるほど、嫉妬を抑えることが難しくなる。この傾向は、社会で競争にさらされてきた人間ほど強いのかもしれない。

 

 現実に生きる我々は皆、その内にある弱さと共に生きなければならない。これは人間が感情的動物としてある限り永遠に続く苦しみであり、逃れることはできない。弱みに対処する消極的方法はいくつかある。他者にそれを見せないよう慎重にふるまう。その弱みが、事実がどうであれ大したものでないと自らをごまかす。現実を逆にとらえ、それを強みであると偽る。弱みを見ないようにする。これらは決してくだらないなどと一蹴できるものでない。そうしなければ、精神に不調をきたし、日常生活に支障が出るかもしれないからだ。だが、弱みに正面から向き合わない方法は人間の心に引っ掛かりを残し、それが慢性的な精神の衰弱につながる可能性がある。また、弱みに対処する積極的方法もある。弱さを自ら積極的に他者に明かし、笑いの種としたり、他者から受けるひがみを中和したりする。自分はほかに強みがあるから弱みがあってもよいとみなす。弱さがあるのは自然の摂理だと考える。弱みに立ち向かい、行動を起こしてそれを強みに変える。これらの方法ができれば消極的な方法よりも精神的に健全であろうが、その難しさは人類の歴史が証明している。その弱みが自分にとっての存立基盤に関われば関わるほどに。

 

 人間の弱みに対処する方法は以上のように色々とある。苦しみの多いこの世界に生きる人々が、少しでも心を軽くして生きることを願わずにはいられない。