人は噓と欺瞞に満ちた世界に生きながら、他者を愛し、信頼する。だが信頼は常に裏切られる可能性をはらむ。信頼していた他者に裏切られたとき人は悲しみ、苦しみ、怒り、様々な負の感情を抱くことが多く、そうでなくとも多くの場合気落ちし、自らの精神に悪影響を及ぼす。信頼を裏切られることを恐れ、他者を信頼せず、他者との交流に感情を介在させなくすれば、人はよき同胞との心のつながりを得ることができず、孤独になる。さらに、他者を信頼しないようにふるまおうとする人間は、共同体の中で生活する以上、見知らぬ者、一過性の物であるとしても他者を信頼しなければならない場面が多々あり、自らの信条との矛盾にさいなまれる可能性をはらむ。

 

 共同体、企業、国、機関など、あらゆる組織は少なからず信頼の上に成立しており、法や規範からの逸脱など裏切られる可能性を考慮に入れつつその組織の頑健性を保つ努力がなされている。人間が社会的動物である限り、社会の信頼関係の上で生きなければならないし、社会からの信頼を自ら積極的に求め、そこに充足感を得る傾向があるのは間違いないだろう。それが人間の本性に関わるものなのかはわからないが、他者から自分が求めている形での信頼を受けると、人は心が軽くなり、精神を安定させることができる。他者とのつながりが人を孤独感から解放し、社会の中に居場所を持つ存在として認められていると感じさせる。

 

 人が他者に与える最低限の信頼とはいかなるものか。それは、他者に対する存在肯定である。どんなに愚かな人間であろうとも、この世界で生きることを我々は否定してはならない。むしろ、彼らがこの世界に存在すること、この世に生あるものとして生まれてきたことを祝福しなければならない。なぜなら、我々は誰しも生きているうえで多くの間違いを犯し、それがある他者に容認しがたいほどの苦痛を与えたことが多々あるからだ。人は全能の存在ではなく、間違いを犯し他者を傷つけ、迷惑をかけて生きる動物であるからこそ、我々は愚かな他者の存在を否定してはならない。人間の行為は非難の対象となれども、人間の存在は否定の対象であってはならない。

 

 他者の存在を祝福する。それは人間社会で生きる我らの使命であり、我らがより穏やかに生きる方法である。