人間とはかけがえのない存在である。一人の人間はその人間固有の歴史を背負っており、他の人間にとって代えることができない。一人の人間はその存在を祝福されるべきであり、行為に対する評価は相手が主体を持った自分と対等な人間であるという意識の上に成立する。何人も特定の他者の存在を否定してはならず、その存在に対して敬意を払わなければならない。この広い世界である特定の他者に出会い、交わることができるのは奇跡である。特定の環境にあれば似通った性質のある人間と出会うことが多いのは確かだが、人それぞれ固有の歴史を背負っており、固有の知識を持っており、固有の思索の方法を持っている。すべての問いかけに対して同じ答えをするような二人の人間がこの世界に存在するわけがなく、皆それぞれ固有の経験から自らの答えを紡ぎ出す。

 

 他者がかけがえのない、代えの利かないことを知るためには、他者と語り合い、その発言のみならず表情や身振り手振りから他者の現実での行為の背景にある経験を想像しなければならない。その過程で、他者をその(先天的でなく)後天的な属性で分類することがあっても、それは便宜的なものであり、いつでもその分類が変更されることを心得ておかなければならないし、その分類がある特定の属性にしか当てはまらないことの重要性は強調してもしすぎることがない。後天的属性を用いた分類による他者の思考の推測だけでなく、他者の発言とほかの発言の関係を探る、他者の背負っている歴史から推測することもできる。我々はこのようなすべをあらゆる機会を通じて受動的に体得していくし、能動的に体得していかなけばなならない。そうしなければ、他者との関係が希薄になり、他者をおもんばかることが少なくなった今の時代、他者の行為の表層だけ見て他者を交換可能なものと考えてしまいかねないからだ。

 

 共同体の復活、それへの参加、人間交流の強化、電子空間でなく同じ現実空間での作業、今まで出会ったことのない属性を備えた他者との出会い、あらゆる方法が他者の特別性の認識に役立つとともに、他者とのつながりを強化する。孤独を感じる人間がその苦しみをいやすには、他者との特別性を備えたつながりを強化するしかない。電子空間でつながりを増やしても、例外はあるものの大抵は交換可能な間柄にとどまるだろう。孤独を紛らわすために行うあらゆる行為は、それが孤独でなくなるという結果をもたらさない限り、自らの精神に、それを巧妙に隠したとしても、孤独という引っ掛かりを残すことになるだろう。

 

 たとえコロナウイルスが市中に蔓延しているときであろうとも、時間の余裕さえあれば我々は可能な限りの手段を通じて、現実に近い形での他者との交流を試みなければならない。他者と交流しなければ孤独を感じるのは自明の理であるし、テキストだけの会話では伝達される情報量が減るため、人間の固有性を感じ取れる可能性が減るからだ。親兄弟、子供、友人だけでなく、交流の場に参加するないし設けることを通じて知らない人間とも交流することができる。対面で会えればよいが、それができずともビデオ通話で交流することができる。だが、それでも身体の一部しか映らないことによる情報量の減少を考えると、感染の問題が解決されれば対面での交流に切り替えるべきだろう。

 

 他者の存在に敬意を示し、その固有性を認識することによってかけがえのなさを認識した上で、固有性を備えた他者とのつながりを強化する。それが孤独という問題を解決し、交換可能でない特別な存在としての他者とこの世界で共に生きる方法である。

 個人主義の台頭やインターネットは、人間に自らの人生のより大きな選択権を与えるはずだった。だが、現実には社会のセーフティネットとしての役割を果たしていた共同体を破壊して個人をより安全志向にし、あふれる情報に圧倒されて情報を公平に判断することを拒否することにより自らの視野を狭める人間を量産している。それどころか、人間の社会性を破壊し、人間に孤独感をもたらしている。そして、孤独感への以前から存在した原因に加えて、コロナウイルスの蔓延が、人々の孤独感をより強いものとした。自分はこの世界で誰からも見られていないのではないか、世界に見捨てられたのではないか、この世界に自分一人しか存在しないのではないか。孤独は多くの場合人間の精神に悪影響を及ぼすものであろうが、どうして我々は孤独になったのかを以下で考える。

 

 個人の自由と権利を保障する個人主義は個人に国家の行く末を自ら考えるよう仕向けたものの、日本では新自由主義と相まって共同体の崩壊を導いている。共同体は、それを維持するための無償労働や個人から資金を集めて運営するといったような形で、個人の自由意志での協力、場合によっては強制的な協力や個人財産の提供を通じて成り立つものである。しかし、新自由主義は個人の利益の最大化を求め、共同体のような各人の持ち出しの活動、自らでなく他者のための活動を自らの直接の利益にそぐわないものとして否定する傾向がある。新自由主義の背景には個人主義の徹底があり、個人主義が主張する個人の自律が民主主義の要であることは確かだが、今や法や規範という形で個人の領域に踏み込まざるを得ない共同体を破壊しているのが実態である。その結果、人間の社会性が弱まり、他者とのつながりを提供する場を失った人間が孤独を感じているのだろう。

 

 インターネットの普及は他者との間のコミュニケーションを即時的なものとした。すなわち、今までは個人が特定の他者と会話をするためには直接会って話す、手紙を書くなどせねばならず、話したいと思った瞬間に話せる状況になかった。電話をかけるにしても携帯電話の普及していない時代には相手が電話をすぐにとれる環境にいなければならなかった。今や我々は電子メールやSNSなどを通じて他者と話したいときに話すことができるようになり、それが会話から希少性を取り去った。また、人の顔を見ない文字のみの短文を用いた会話は会話をする相手をかけがえのないものから他の人へ交換可能なものにした。おそらく、我々は相手によってSNSの文体を変えることをあまりしないのだろう。故に他者との関係は、強く意識に残る経験を共有するのでない限り、交換可能なものという考えが多くの人の無意識にあるようだ。それが他者との関係を希薄にし、人々がつながりを感じることが難しくなっている原因である。

 

 コロナウイルスの世界的蔓延によって現在がこの人間関係の歴史的変化の過渡期であることが誰にでもわかる形で明示された。すなわち、ほかの人間が仕事や勉強をしている光景を見なくても支障をきたすことのない人間と、他者とともに仕事をしたり、ともに授業を受けていたりすることを、同じ現実の空間の共有など明示的な形で感じることができないが故に孤独を感じる人間の両者が今の世界に混在することが明らかになった。むろんコロナウイルスが人間精神に及ぼした負の影響は孤独だけでない。友人との対面での交流を絶たれ、社会的な自粛の抑圧にさらされた人間の感じる負の感情、自らも感染するのではないかという不安、今日明日の生活の苦しみ、政策への不満、矢面に立たされる恐怖。これらの中には解決可能なものもあるが、孤独を和らげることはできても回避することは、感染を防ぐうえで不可能である。

 

 おそらく、すべての人間がこの人間関係の歴史的変化を孤独を感じない形で受け入れることはないだろう。ならば、孤独に苦しむ人間を癒す手段が必要である。それは何か。次回に述べる。

 

※2020年12月12日 第一段落「現実には」の前に「だが、」を加筆

 

 我々の住む世界に存在する差別は、あらゆる形態をとる。差別とは、特定の属性を持つないし持つとみなされる集団に対して特別な対応をすることを指すが、その形態は女性に対する差別、より少ないものの男性に対する差別、高齢者に対する差別、特定の民族に対する差別、肌の色が黒い人間への差別、障害者への差別、認知症罹患者への差別、感染者への差別など、並べればきりがない。我々は、なぜ差別をなくさなければならないのか。それは、差別をなくすことが被差別者だけでなく差別をしている人々の大多数にとっても社会がより生きやすいものになることが期待されるからだ。

 

 例えば、アメリカにおける黒人差別は白人労働者と黒人の分断を生み出し、ともに賃金の向上や労働条件の改善を資本家に求める可能性を失わせる。平均して白人よりも収入が顕著に低い黒人労働者が白人労働者と結びついてより生きやすい社会を作る機会を黒人差別によって喪失している。黒人差別のある社会は必然的に労働者の分断を生み出し、資本家にとって都合がよく、労働者が自らの地位向上を図ることがより困難な社会である。当然のことながら、黒人は差別により大きな精神的迫害、命の危険さえある肉体的迫害を受けるが、白人の大多数にとって黒人差別は黒人のみがその地位を低下させるものでなく自らも地位を低下させていることに注意しなければならない。

 

 同じ話は障害者、認知症罹患者、感染者への差別についてもいえる。彼らを差別する人々(健常者だけなのか、障害者らを含むのかどうかは私の知識不足でわからない)は将来自らが彼らと同じ状態になる可能性を真摯に考慮していないのだろう。我々は同じ人間なれば、程度は違えども常に事故にあい、病気にかかる可能性をはらむ。たとえその病気が先天的なものであり、自らがこの先同じ病気にかからないとしても、後天性の別の病気によって同じような境遇になる可能性を誰も否定できまい。おそらく、差別を行う人々の多くは同質性の高い共同体の中で生きてきて、自分が今のような暮らしをしていなかったらどうなるのかという想像の幅が狭いのだろう。自らが障害者らと同じ境遇になる可能性を能動的ないし受動的に実感する環境にないがために彼らを自分と同じ共同体、社会、人類の一員として認めることができないのであろう。

 

 差別をなくすには如何にすればよいか。差別を撤廃するための実行力を備えた法律を作り、行政がガイドラインの作成や規制を行い差別撤廃の取り組みを行う。企業はその構成員に多様性を増すことがよいことであるという価値観を社会全体で共有する。個人は自らの話したことのないような人々と積極的に交流する。あらゆる種類の共同体が大きく異なる属性を備えた人々の間での交流の場をつくる。これらの前段階として、あらゆる形での積極的なパフォーマンスも効果的だろう。代議士に差別の対象とされている人々を選ぶのもよい。これら以外にも方法は多数ある。差別の撤廃は、前に述べたことを踏まえると、国際法を順守させる十分な実行力を備えた国際的機関を創設するための必要条件であり、この国際的機関を立ち上げるという方法を用いた場合には核廃絶体制の維持、戦争廃絶の必要条件である。したがって、差別の撤廃こそ、この世界を皆がより生きやすいものとする手段であり、足掛かりであるのだ。

 

 私は、全人類にとって未来が今より生きやすいものであることを願っている。

 我々の世界では、意見の食い違いの根源が生き方の違いに基づくがために相反する意見を持つ者同士の言い争いが過激で感情的なものとなり、まったく論理的でない、相手の意見の論理を理解しない、たとえ相手の意見が論理的でなかったとしてもその意見を述べる背景にある相手の思考が何なのかをおもんばかることをしないといったことがよくみられる。特に昨今分断と呼ばれている意見の溝の最前線ではそのような傾向が強くみられる。私ははじめの記事の論考で、自らの主張や行動の正しさを超え、ただ相手の痛みを知り、相手の存在を許すことを説いた。注意しなければならないのは、相手の存在は許すが、相手の意見を認めるとは限らないということだ。そして、この世界にあふれる主張の中で、決して許してはならない主張が存在する。その一つが差別だ。

 

 この世界に存在する差別の根源には、歴史、文化、宗教など、長い時間スケールにわたって築かれてきたものから、メディア、インターネット、社会的影響力のある人間、経済的状況など、昨今の状況によるものがあるだろう。例えば子供は家族の話を聞いてある属性を持つ、ないし持つとされる人間の集団に対し差別の意識を成長させる。親がある人に継続的に悪口を言うとき、子は親が想像する以上にその人に対する憎しみを強くするように思える。また、多くの日本人の内には日本人に対するある種の幻想、神話がある。それは同種性であったり、高潔性であったりする。おそらく、そのような幻想はメディアの言説、社会的影響力のある人間による発言、周りで共に暮らす人々との交流によって再生産されるのだろう。

 

 これらの根拠をもとに、差別は生まれる。例えば人種差別を考えると、日本では、在日朝鮮人の方々、韓国人、中国人に根深い差別がみられる。アイヌ人はすでに存在しないとされることがある。沖縄の人々の中に、本土の人々はそう思っていないだろうが、少なくともここ80年の歴史を通じて本土から不当な負担を押し付けられてきたと感じ、それを根拠に被差別の意識を感じる人間が一定数いるのは確かだ。少なくとも最近の日本には、いわゆる白人とされる人々への憧れが感じられるが、特定の肌の色をした人々への志向が差別をすることへのハードルを下げている可能性がある。差別主義者でないと主張する人の中に、日本にある形での差別が存在することを否定したり、無視することによって、無意識ないし意識的に社会の中の差別の構造の頑健性に一役買っている人がいる。差別主義者でなく、しかも差別が社会に存在することを認めている人々でさえ、誰かが差別の存在を指摘することに眉をひそめ、差別の存在を主張する他者に資格や正当性を求めて元の問題から論点をずらしたり、差別をなくすためにその人がとった手法を批判したりする。最後の場合は取り上げられることが少ないものの、重要な問題である。なぜなら、それは本来ともに差別へ立ち向かう仲間からの攻撃であり、後ろから矢を射られるに等しいからだ。これに関連して、核兵器禁止条約に批准することを拒否したときの理由づけにも同じ構造の問題が見て取れる。

 

 人類と差別の歴史はとても長い。異質な人間を排除し、身内でしか通用しないジェスチャーや言葉を用い、祭りや儀式を通じて結束を高めることによって1つのまとまった共同体が維持されてきたのは確かだが、我々は世界人権宣言を採択し、人間に固有の尊厳があることを認め、人類社会のすべての構成員が平等であると宣言した。理想の人類社会に人種差別は存在しないはずだ。我々は、決して他者をその出自を理由として差別してはならないのである。

 

※2020/12/05 人種差別についての論考を差別に一般化

※2020/12/06 「沖縄の人々は〜ようである」を「沖縄の人々の中に〜は確かだ」と訂正

 今回は、メモ書き程度に古典電磁気学に生ずる制限と一般相対性理論についての面白い問題を記す。科学の理論は世界を理解する上で役立つため、よく知っておくことが必要である。

 

 古典電磁気学でよく知られた問題が、粒子の自己エネルギーの問題である。一つの粒子が外部に生ずるポテンシャルは、静止した粒子ならクーロンの法則、ある既知の軌道の上を動くのであればリエナール・ヴィーヘルト・ポテンシャルで書かれる。いずれにしても観測点と粒子の距離を0に近づければ無限に発散する(ただし、特殊相対論の上でで、考えている時刻に粒子が静止している慣性系をとった場合、スカラー・ポテンシャルのみが発散し、ベクトル・ポテンシャルは0のままであることに注意。しかし、スカラー・ポテンシャルはいかなる慣性系をとっても同じ極限で無限に発散する)。素粒子が大きさを持たない点状の物質とみなせば、素粒子がその存在する点でのスカラー・ポテンシャルに電荷をかけて2で割っただけの自己ポテンシャルエネルギーを持たなければならないため、荷電粒子は必ず絶対値が無限の自己ポテンシャルエネルギーを持つことになる。これと質量から生ずるエネルギーの和である粒子の自己エネルギーが無限に発散することを回避するために、符号が逆の無限大の質量を加えてやることができる。しかし、それによって運動方程式に現れる質量を有限にとどめることができても、1個の荷電粒子の加速的運動に伴う放射の反作用を計算すれば粒子が自己加速し続けるという結果を生む。これは不条理であり、古典論における粒子の自己エネルギーという概念に問題のあることを示す。

 

 一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式は10個の独立な非線形偏微分方程式からなる(両辺とも4次元2階対称テンソルからなる)。電磁場がなくて質量だけがあるとき、これが場を決定するには10個の未知数が必要であり、計量テンソル(これら10個の成分の内、4個の座標に任意の変換をほどこせる)が6個、四元速度(4成分あるが内積をとると1になる)が3個、物質の密度または圧力が1個がその役割を担う。この場合、四元速度は場の量であることに注意しなけらばならない。これは場の方程式であるが、物質を含まない真空中でアインシュタイン方程式(リッチ・テンソルが0であることを示す)から測地線方程式を導けるかという問題が生ずる。最小作用の原理から両方程式は導かれるが、これらは相補的な関係にあるのか。それとも包含関係にあるのか。すでに解答済みの問題かもしれないが、たとえそうであったとしても面白い問題である。