コロナ禍に際して医療、経済、国民生活などの状況を改善するためとして日本の知識人や政治家、メディアから批判や提言がされている。彼らの主張のやり方はいくつかに分類できるだろう。一つ目は、ある層や業種の人々、ある分野を擁護する主張をし、他の層や業種、分野に関する主張をしないか、したとしても自らの専門外であるとしたり他の専門家に任せるとしたりする手法である。二つ目は、どの分野も救う主張をするものの、実行不可能な主張や矛盾する主張をし、かつ自分の過去・現在の発言や行動との整合性を無視する手法である。三つ目は、考えていかなければならないや願いたいといった枕詞が語尾につく主張をし、明確な自らの主張を回避する手法である。四つ目は、各分野を救う主張をし、実行可能かつ矛盾しないよう慎重に言葉を選び行動する手法である。

 

 本来、コロナ禍について主張する知識人や政治家、メディア皆が四つ目の手法を取るべきである。無論、専門家であれば自らの専門分野に関する主張が主になるだろうが、それによって影響を受ける他の分野も含めて最低限の知識を持って公の場で主張するべきである。しかし、実際には医療従事者から経済に関する主張が聞かれることは稀であり、専ら経済に携わる人々のうち知識人として主張するような高い地位を持つ人々は自らの従事する業種を擁護する主張をするものの医療に関する話題にお茶を濁すことが多い。実際に四つ目の手法がとられるのは政治家を含めて稀である。

 

 コロナ禍に関して議論する際、少なくとも現状に対する最低限の共通認識、最低限の医療や経済に関する知識がなければ議論はかみ合わないだろう。しかし、専門家の中には上記の一つ目の手法を取ることを明言するものもあり、医療従事者は医療のことのみ考えていればよく判断は政治に任せるといった主張をする、ないし実際にそう言うことはないものの実質的に同じ態度をとるものが多くいるように見える。これは学問の細分化、丸山眞男のいうタコつぼ化によるところも大きいのかもしれない。これは日本に新たな危機を生み出している。すなわち、自らの主張によって擁護する分野以外の分野に対する責任をまぬがれるという意識である。医療を擁護することによって自らの主張が経済に及ぼす影響に対する責任を免れる、ないし経済の擁護によって医療に不要な負担がかかることに対する責任を免れるという意識を無意識的にせよ持つことである。しかし、その免責は他の分野にとどまらない。自らの擁護する分野が過去の自らの主張通りに行っていれば失敗していたことが明白になったとしても、それをなかったことにして同じ専門家が過去の主張を自ら検証し公の場に説明することなく、また公の場に立って新たな主張をするということが繰り返されている。つまり、自らの分野に対してさえも免責されているという意識を持つのである。これを私は無限責任という言葉になぞらえて無限免責と名付ける。

 

 各人が自らの主張に責任を持たず、その検証をしないのであれば学問は危機に陥る。学問は繰り返し検証された過去の主張の積み重ねによって成り立つからだ。自らの主張に対して責任を免れる、ないしなかったことにしてしまうことは適切な批判的精神を携えていないことの証左である。かつて、太平洋戦争の敗戦後、日本の軍首脳部は国体という定義の明らかでないものを守るという雰囲気に逆らうことは不可能だったとして自らの責任を免れようとした。敗戦から76年たった今、同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。

 

※2021/3/31 一段落目「二つ目」を「三つ目」に訂正

 コロナウイルスは、現代の人類史に歴史的転回点をもたらした。すなわち、我々の世界は今までの延長線上にありながらもその様相を大きく変化させた。ある人はコロナウイルスがこれまでの人間社会の変化を加速させる働きをしていると言い、ある人は政治の強権化を促していると言う。リモートワークの普及は人間の生活の中における仕事の形態、すなわち朝起きて身支度をし、ある一定の時間をかけて移動して仕事場へ向かい、仕事をこなして日が暮れたら仕事を終えてまた一定の時間をかけて移動して家に帰るという昔ながらの生活から移動時間を取り去った。緊急時に迅速な対応を行うためとして政府が自らの持つ権限を拡大する傾向は各国にみられ、強権化の傾向は非民主主義的国家での強権的政策の(議論の余地があるだろうが)成功も相まってコロナが収束し平常時に戻っても続く可能性が高い。感染症の危機はほぼすべての業種に悪影響をもたらしたであろうが、悪影響の比較的大きい業種とそうでない業種で明暗が分かれ、解雇された人間の職種には偏りがあるように見える。特に、もともと職を失いやすい立場にあった人々が経済の停滞により職を失い、次の就職先を得ることすらままならなくなった。

 

 コロナウイルスがもたらした影響のうち、特に日本で大きかったのは、政治の国民の生活に及ぼす作用の急速化である。コロナウイルスは、政府の行った政策が今までとは比較にならないほど迅速かつ広範囲の国民に影響を与えた。首相の決断一つで即座に人々は家に閉じこもることを求められ、周りの目が罰則の役割を代替的に果たした。給付金や貸し付けが一週間遅れるだけで倒産・廃業の憂き目を見る事業者が続出し、政府の給付金の迅速さが日単位で求められることは平常時にはありえなかったことである。

 

 コロナウイルスという危機は人間の生活が政府の行動に即座に影響を受ける状況を作り出し、今まで政治に興味の薄かった層でさえ政府の行動を評価することを否応なしに求められた。その評価は決して自らの生活の実態に基づくものでないことはアメリカを見れば一目瞭然である。危機に直面した政府が実行したある政策が失敗した場合、政府のとりうる行為は大きく分けて三つある。一つ目は政策の失敗を真摯に認めて謝罪し、その原因を究明すること、二つ目はディスコミュニケーション等の何らかの手法を用いてその政策が成功したと主張すること、三つ目はその政策自体なかったことにすることである。政策はしばしばある面で成功し、ある面で失敗するが、失敗した側面のみ取り上げれば上記の分類が成り立つ。一つ目の行為は民主主義国家が本来行うべき手法であるが、実際には多くの民主主義国家で二つ目ないし三つ目の手法が用いられている。三つ目の行為は問題として取り上げられることが前の二つよりも珍しいが、主に独裁国家でよく使われ、民主主義国家でも記者や議員の質問に答えず国民の忘却を促すというやり方で使われる。政府の行う意図的な誤った情報の発信の影響は侮れず、場合によっては選挙結果に影響する規模の国民が嘘を真と信じ込むことがつい先日アメリカで実証されたばかりである。

 

 先進国は少なくとも大国間での全面戦争が数十年起こらないほどには安定してきている。これは民主主義世界に長きにわたる平和をもたらした半面、民主主義は常にそれを脅かすものとの闘いの中で保守され続けなければならないという歴史的教訓の忘却を促した。コロナウイルスの影響で急速に民主主義の価値の承認が失われつつある今の世界で、我々は今一度民主主義の意義は何か、それはどうして守られなければならないのかを考えていかなければならない。

 

※2021年1月10日 第二段落「閉じこもるを」を「閉じこもることを」に変更

 

  コロナウイルスは現代の人間が自らの生死に関わる状況、または他者を間接的に殺しかねない状況に陥った時に、何に最も重きを置くかを明らかにした。それは、生物学的死を防ぐことである。物質的な人間の死を防ぐことに重点が置かれ、人と人の空間的距離は遠くなり、感染者は隔離され、近親者との面会は謝絶された。少なくとも初期の流行の段階ではいつ死ぬかわからぬ状態の感染者が近しい人に会うことが許されず、誰にも看取られぬまま孤独な死を迎え、感染予防対策として遺体すら近親者に見せられることなく火葬場に贈られた例があるようである。

 

 物質的な人間の死を防ぐことは重要である。それは歴史上人間が死を遠ざけるために儀式を行い、医学を発達させ、人間が病を患ったときに移動可能な範囲で医療を受けられるような体制を発達させてきたこととも関連している。物質的な死の後に自らの意識が無に帰すことへの恐れは、人間精神が魂として肉体の死の後も何らかの方法で存在し続けるという宗教の信条とも結びついているだろう。

 

 だが、古来から自らの生死の危機、他者を間接的に殺しうる危機に陥った人間が、物質的な人間の死のみをその行動の判断基準においていたわけではない。例えば、干ばつや疫病に見舞われた古代人は生贄を捧げて神の怒りを鎮めた。ローマ帝国においてキリスト教は迫害を受けながらも宗教的目的を捨てずに多くの殉教者を出した。つい最近の日本でさえ、80年前には太平洋戦争で米兵に捕虜とされるよりも死を選ぶという半ば強制的な考えのもと、万歳突撃、集団自決が行われた。集団自決で死んだ人間の中には死にたくなかったにもかかわらず周りの人間に強制的に自決を強要された人間もいるようである。今でも、政治的目的を達成するために自らの命を犠牲にする自爆テロは後を絶たない。現代日本でも、忠臣蔵を見て、大石内蔵助以下47人が死を覚悟して吉良邸に乗り込むシーンに多くの日本人が感銘を受ける。

 

 以上のことから、コロナ禍で自らの生死、他者を間接的に殺しうる状況が現実的問題として考えなければならなくなった現在、最も重きをおく判断基準が生物学的死を防ぐことであるとするのは決して自明の理でなく、説明を必要とする。死に瀕した人間が最後の別れをする権利を否定され、近親者が最後の看取りをする権利を否定されたとき、彼らが感染を防ぐためにその権利を失うことが正しいことなのかと感じることがあるならば、その時点で彼らはまさしく至上命題としての生物学的死を防ぐことに対して疑問を呈したことになる。我々は本来この最も重きを置く判断基準は何かを議論しなければならないのだが、現状ではあたかもわかりきったことであるかのように扱われる。我々は健全な批判的精神をもって、生物学的死を防ぐこと、同時に人間の尊厳を守ること双方にどれほどの価値を与えるかを考えていかねばならない。

 科学とは、本来有限の対象しか知りえぬ我々が、自然という無限の対象を操作し、その結果として生じた有限の対象を用いて無限の対象を理解することである。すなわち、科学の定義はその内に科学の方法を含んでいる。

 

 自然はその無限性故に我々人間がそれを直接理解することは不可能である。しかし、有限の対象は部分的にせよ自然を表現していると考え、それを観察し、何らかの手法を用いた推論を行うことで自然を表す仮説を提案することにより、我々は自然を間接的に理解することができると考える。我々が観察できる有限の対象が無限の対象を表現しているという命題自体が仮説であり、証明不可能であるが、経験的に正しいものとみなされる。我々が提案する仮説はその仮説から導き出される予想の正しさの実験的検証、または他の仮説との整合性の検証にさらされる。当然のことながら、種々の仮説はしばしばこれらの検証によって否定される。すなわち、予想と実験との食い違いによる否定、ないしほかの仮説と整合的でないことによる、いずれかないし両方の仮説の否定である。ただし、仮説を否定するとした実験が、その仮説を誤って解釈しているとして否定になってないとみなされることや、実験に用いた別の仮説が否定されることがあることに注意が必要である。ある仮説Aが別のある仮説Bと整合的でないが、別の仮説Bに特別な条件Cを設けた場合に成立する場合がある。この場合、元の仮説Aは棄却され、元の仮説Aにその条件Cを加えた新たな仮説A+Cが仮説Bと整合的なものになり、生き残る。

 

 いかなる科学の定義も必ず有限の対象を用いて無限の対象を理解するということ含むが、推論の方法、科学的仮説の条件、仮説が否定されたとみなされる条件などにあいまいさがある。推論の方法を除いても、これらを正しく決定することができるのかは私にはわからない。推論の方法は科学という言葉が醸し出す雰囲気とは打って変わって人間臭さが現れ、すでに確立した理論を援用することもあれば、単なるひらめきによるところもある。ひらめくためには、普段から重要な理論をほとんど助けなしに独力で導けるようになっておき、理論への理解を深めておくことや、種々の理論同士を関連づけて覚えておくこと、さらに普段から自然について理論を用いて深く考察しておくことが必要であろう。

 人類の夢、それは未来のより良い生である。我々は、未来での安寧、地位の向上、楽な暮らしを願い、神に祈りを捧げ、現状を保ち向上させるよう努めてきた。親は子に自分より良く生きるよう願いを託し、その成長をあらゆる面から手助けする。現世で病や重税、災害、戦争といった苦しみに見舞われた人々は来世での安寧を求めて神に祈りを捧げる。またはこの苦しみからの解放、すなわち救いを神に求める。現世で自らの思想や芸術、行為が世間に受け入れられそうにない人間の中には、未来で自らの行動が評価されることへの期待をよりどころとして現状変更の働きかけをする。たとえ自らは死んでも、未来を生きる人々がよりよく生きられる、ないし彼らの精神に自分の行為が刻み付けられるのであれば、その願望は成就されたといえよう。

 

 昨今の日本の人々は不確実な未来、落ち行く国、道の先の暗がりを恐れて現状が変更されることを極度に恐れるが、本来未来とは我々が希望を託す先であり、我々が夢見る世界である。先の世に夢を見て、今の世で支度をする。我々の未来の想像図が理想であり、今の世界の姿が現実である。勘違いされることが多いが、現実主義は決して理想を持つことを否定するものではない。現実主義にせよ理想主義にせよ、我々の目指す目的を見据えて動くことが長期的に一貫した行動をするのに不可欠である。目指す目的がすなわち理想であり、我々の夢である。子供の頃の夢は大抵叶わないものだが、成長するにつれて新たな夢、ないし夢という言葉で表すほどではないが、家庭を守ることやそれなりに頑張って生きるといった、漠然とした目的が生まれてくる。個人の夢は砕けてバラバラになってもまた一つの塊としていつの間にか存在していることがよくあり、その夢が自己同一性を支えているのだろう。

 

 世界の夢は、決して構造としての社会や共同体が持っているものでなく、個々人の夢の集合体である。世界には、乗り越えなければならない問題が多くある。しかし、その問題に取り組みことによって少しでも状況が改善し、小さな努力の積み重ねによっていつの日か解決すると皆が意識的ないし無意識のうちにに信じるからこそ、問題解決の取り組みへの強い動機が生まれる。

 

  世界の夢を語るとき、人によってはより良い生を生きる対象がある特定の集団に限られることがある。だが、それでは集団から外れた人を食い物にするなどして苦しめることになりかねない。私は世界の夢に、全人類が等しくより良い生を生きる希望を託そうと思う。