コロナウイルスは現代の人間が自らの生死に関わる状況、または他者を間接的に殺しかねない状況に陥った時に、何に最も重きを置くかを明らかにした。それは、生物学的死を防ぐことである。物質的な人間の死を防ぐことに重点が置かれ、人と人の空間的距離は遠くなり、感染者は隔離され、近親者との面会は謝絶された。少なくとも初期の流行の段階ではいつ死ぬかわからぬ状態の感染者が近しい人に会うことが許されず、誰にも看取られぬまま孤独な死を迎え、感染予防対策として遺体すら近親者に見せられることなく火葬場に贈られた例があるようである。
物質的な人間の死を防ぐことは重要である。それは歴史上人間が死を遠ざけるために儀式を行い、医学を発達させ、人間が病を患ったときに移動可能な範囲で医療を受けられるような体制を発達させてきたこととも関連している。物質的な死の後に自らの意識が無に帰すことへの恐れは、人間精神が魂として肉体の死の後も何らかの方法で存在し続けるという宗教の信条とも結びついているだろう。
だが、古来から自らの生死の危機、他者を間接的に殺しうる危機に陥った人間が、物質的な人間の死のみをその行動の判断基準においていたわけではない。例えば、干ばつや疫病に見舞われた古代人は生贄を捧げて神の怒りを鎮めた。ローマ帝国においてキリスト教は迫害を受けながらも宗教的目的を捨てずに多くの殉教者を出した。つい最近の日本でさえ、80年前には太平洋戦争で米兵に捕虜とされるよりも死を選ぶという半ば強制的な考えのもと、万歳突撃、集団自決が行われた。集団自決で死んだ人間の中には死にたくなかったにもかかわらず周りの人間に強制的に自決を強要された人間もいるようである。今でも、政治的目的を達成するために自らの命を犠牲にする自爆テロは後を絶たない。現代日本でも、忠臣蔵を見て、大石内蔵助以下47人が死を覚悟して吉良邸に乗り込むシーンに多くの日本人が感銘を受ける。
以上のことから、コロナ禍で自らの生死、他者を間接的に殺しうる状況が現実的問題として考えなければならなくなった現在、最も重きをおく判断基準が生物学的死を防ぐことであるとするのは決して自明の理でなく、説明を必要とする。死に瀕した人間が最後の別れをする権利を否定され、近親者が最後の看取りをする権利を否定されたとき、彼らが感染を防ぐためにその権利を失うことが正しいことなのかと感じることがあるならば、その時点で彼らはまさしく至上命題としての生物学的死を防ぐことに対して疑問を呈したことになる。我々は本来この最も重きを置く判断基準は何かを議論しなければならないのだが、現状ではあたかもわかりきったことであるかのように扱われる。我々は健全な批判的精神をもって、生物学的死を防ぐこと、同時に人間の尊厳を守ること双方にどれほどの価値を与えるかを考えていかねばならない。