私は、自らの思索をより深いものとするべくあらゆる対象に対して批判的検討を行ってきたと自負している。それと同時に、人の悲しみや苦しみを分かち合い、共感しようと努力してきた。だが、今まで何度かうまくいかなかったことがある。最近になって、人の気持ちを理解しそれに寄り添うことと、その人の行為や行動に対して自分の意見を表明することは時に矛盾することに気付いた。人は落ち込んでいるとき、ただ自分の悲しみや苦しみをはっきりとした感情や曖昧な言葉にして誰かに伝えたくなるものだ。だが、それは決して自分の悩みに対して相手に意見を求めているとは限らず、時に自分の行為が間違っているんだとわかっていても、話し相手に否定せずにただ聞き手となって自分の感情を受け止めてもらいたくなることがある。ここで聞き手となる人間が自分の意見を表明するべきか、ただ相手の言葉に共感する、共感できなかったとしてもただ聞いてあげるべきか、判断がその都度分かれるところだ。その判断は、相手の感情の強さ、行為の及ぼす影響、自分と相手との関係などに依存する。

 

 また、私は他者に自分と同じような基準を求めることが、相手に苦痛を与えることがあることにも注意を払ってこなかった。自分たちはどうあるべきであるかを述べた言葉が、あまりにストイックで相手に、とくに友人に重しをのせてしまったのかもしれないと今では少し後悔している。昔から他者を知り、他者がどんな背景知識、思想、思考法を持っているのかを推察し、その人を理解することに努めてきたが、その人の目指すもの、しようとしていることが私の目指す理想とは異なるのは当たり前だ。自分と異なる方針を持って生きる人間が存在するという単純な事実に改めて注意する必要があるだろう。

 

 私は中学生、高校生の頃、二つの原則を持っていた。常に批判的であれ、常に柔軟であれというこの二つの言葉が自らの精神的・身体的活動の源泉となっていた。批判することにより既存の概念、主張、構造などが破壊され、柔軟であることにより再構築ないし全く新しいものとなりさらに良いものとなる。故にこの二つの原則があればよりよいものを作りうるという意味での創造性が導かれるのだと信じていた。今でもそう信じることができる。だが、いつの間にか私は常に柔軟であれという言葉を忘れてしまっていたようだ。批判的精神は時に現実の事象にうまく対応することができないことがある。それを私は十分に理解していなかったように思える。これからは、どうふるまうかによらず、まず柔軟であることを意識していこうと思う。

 

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 あらゆる学知は人間のより良い生、偏見からの解放、世界の理解に役立つ。特に、学問は人間が世界を理解するための道具として使うことができる。例えば、科学の知識を得ることにより我々は世界の諸部分(これは有限でなければならない)を抽象化し、具体的な物理学の問題に変換することができる。以下で一例を示そう。

 

 建物の中で床を力いっぱい踏みつければ音が鳴る。ちょっとした観察で、この音の大きさは加えた撃力の大きさについて単調増加し、音の高さは足の接地面積に応じて単調減少することがわかる。足を非常にゆっくりと床へおろせば音は少なくとも立っている人間の耳には届かない。また、床の材質が変われば音の強さ、音の高さも変化する。音は0.1s程度で減衰し、すぐに聞こえなくなる。踏みつけた床の変位を足で感じ取ることはできないが、十分に大きい力で足を床に押し付けておかなければ足は床から跳ね返って自分の方向へ戻ってくる。もしかすると十分に広い床でなく、例えば寸法が1m四方の程度の大きさを持つ床であればまた新たな現象が生まれるのかもしれない。また、地上の土を踏むときにも、薄い板でできた建物の床と異なる挙動を示す可能性がある。

 

 このような床の振動によって音が生ずる問題は弾性理論によって解答をあたえることができる。問題をこの手法を用いて説くためには、問題を抽象化する必要がある。今回の場合、無限平面をもつ厚さの定まった薄い床にたいして、ある圧力分布をもつ外力を指定された時間だけ加えたときに起こる床の内部の座標の変位を求める問題となる。外力は変位の満たす運動方程式に直接含まれるのではなく、床の内部応力の満たす境界条件に含まれる。このようにして、具体的な物理学の問題に書き直すことができたため、これを解くことにより、床の内部の座標の変位の振動数や振幅が求まるであろう。そして今度は床が音叉のように自らの変位によりその境界を通して空気中に振動を伝播する(これは流体力学の問題である)という問題を考えれば、音波が床から耳まで届いたときに我々の耳がいかなる振動数、振幅の音をどれだけの時間感知するのかがわかるであろう。

 

 この例が示すように、十分な科学的素養があれば複雑でない限りたいていの自然現象に関わる問題は物理学の問題に変換することができるだろう。ただし、生物がかかわる問題やカオス的な問題は簡単に変換できないため、単純な場合分けや定性的ないし非量子力学的な確率的性質をもとに理解を進めることで物理学による理解の部分的な代替とすることができる。これらの手法により驚くほど多くの自然現象を物理学ないしそれ以外の問題に置き換え、観察や実験、理論を通して理解を深めることができる。自然現象を科学の問題に置き換えることができる人間はまさしく科学的自由人と呼ぶにふさわしいであろう。

 

 まぶたを閉じれば、我々の視界は闇に閉ざされる。我々が睡眠時に必ず行う動作であり、その暗闇の世界に今まで地上で生を受けたすべての人類があらゆる想像を投影してきた。今回は、この暗闇を考察する。

 

 まぶたの裏の暗闇も、今自分がいる場所に光があればまぶたの薄い皮膚を透過して光が眼に差し込んでくる。この時に我々が見る暗闇は、暗闇であるにもかかわらず光のない場所にいる時と比べて明るく感じる。眼をいろいろな方向に向けると、その方向が明るいかに応じて暗闇の「明るさ」も連続的に変化する。そして、その変化のさまも決して暗闇が同時に一様に明るくなるのではなく、暗いところから明るいところへ眼を向けると、先に明るいところへ入った部分から暗闇は明るくなることがわかる。ただ、その変化は小さく、光量の比較的大きな変化でなければ意識して初めて気づくほどのものである。

 

 睡眠時、真っ暗闇の場所で床についているときも、暗闇は場合によっては豊かな色彩を見せる。暗闇と言っても意識を向ければ流体のようなグラデーションがあることがわかる。ただ、これははっきりと輪郭を持ったものではなく、ぼんやりとぼやけたものである。この輪郭のないぼやけた色彩がかすかに見える暗闇に、我々は簡単な像を投影することができる。丸、三角、四角といった簡単なものから、ぼやけた人間の顔、ぼやけた数式、ぼやけた風景がまぶたの裏の暗闇に映し出される。しかし、それを長時間維持するのは難しく、たいていは短時間で消えてしまうか、自分の思いがけない方向へ想像が移っていく。また、動画として映し出すことは難しく、やろうとしても静止画のパラパラ漫画のようになってしまう。

 

 睡眠前には、今日あった出来事を振り返り、うれしくなったりいい気分になることもあれば、失敗を悔しがったりさびしい気分になることもある。将来への期待に夢を膨らませれば、逆に不安に精神を支配されることもある。過去の楽しかった出来事に思いをはせれば、逆に苦しみや後悔の感情を思い出すこともある。複雑な人間の精神の記憶と記憶の相互作用、ないし記憶と今の精神状態との相互作用がそうさせるのであろう。だが、どんなことを考えていようとも見えるのは暗闇だけで、過去や未来に飛ぶことはおろか、現在の懸案を片付けることすらおぼつかない。身体が睡眠の圧力で動かず精神だけが活発に活動するとき、人間は普段の生活とはまた違う世界にいるのである。まぶたの裏の暗闇は、人間が生まれながらにして持ち、部分的にせよ身体を超えた世界なのである。

 前回、日本は未曾有の混乱の中にあり、不可能に近い要求をされた日本人は自らを信じられなくなったと書いたが、もう一度眺めてみると正しくなかったようである。むしろある種の諦観、すなわち自分たちが何をしようがどうせコロナウイルスの感染拡大は止まらない、時短要請に協力はするし感染拡大が止まることを願うが心のどこかで自分のやっていることに意味がないのではないかと思ってしまう心理状態に多くの日本人があるようだ。これら諦観のもとにあるのは、自分たちの行動が社会の変容に結びつかないという虚無感、社会の閉塞感、下り坂の経済といった、人間の心理の解放感を圧迫し、閉じた方向に向かわせるここ最近の日本の状況があるのだろう。

 今、日本は未曽有の混乱の中にある。政治家が公の場で重要な行動変容を促すないし強制的にさせる発言をしておきながら、いつの間にか何もなかったかのように議論自体が立ち消えになるということが何度も繰り返されてきた。また、昨日まで正しいとされていた経済活動が今日否定されるという朝令暮改の方策が、説明なく繰り返されている。なにより政治家自らが定めた規則を自らが守っていないことが、どれだけ感染防止の行動をとろうとする人々を失望させたか察するに余りある。特措法の改正で政府が新たに罰則を求めた際、野党が行き過ぎた罰則に歯止めをかけようとしたことは理解できるし、罰則を設けるのは外出自粛などで売り上げの減った事業者への救済措置を取ってからだとする主張も理解できるが、おそらく多くの日本人には、正しい行動が何なのかよくわからなくなっている状況で、休業要請に従わず営業を続ける事業者に課す罰則の範囲や重さがいかほどの物であるべきかを考える余力はないだろう。

 

 今の日本で、政府や地方自治体の求める厳しい感染防止の行動をすべて守ることのできる日本人は少ないに違いない。マスクをするべき空間は家の中まで拡張され、家族に感染させないための行動を我々は他人にするのと同じようにしなければならない。誰かとともに食事をするときは、マスク会食の呼びかけに従い、食事を口に運ぶごとにマスクを外し、入れたらすぐにマスクをつけるという数十回に及ぶ行為を、朝昼晩、毎日続けなければならない。それだけでなく、五つの小にのっとって、家族団らんの食事であっても会話は小声で行い、料理は小皿に分け、小まめに換気や消毒をしなければならない。これだけのことをできる人間がどれほどいるだろうか。

 

 この不可能に近い要求は、それを守ることのできない多くの日本人を生み出した。自らが感染しないため、そして他者に感染させないために行政の感染防止の呼びかけに積極的に応じようとしてきた人間も、その呼びかけの一部を守ることはできても、そのすべてを守ることは難しい。感染防止を守ろうと必死な人間ほど、日々変わる行政の方針についていけなかったり、厳しすぎる感染防止対策を守ることができなかったりする自分に苦痛を覚えるのではないか。当然、もとより政府の呼びかけに従う気がない人間もいるが、そのような人々でさえ今回ばかりは感染することが周りからの非難の目を受けたり家族を危機に陥れかねない、ないし周囲の人々からの強い呼びかけもあって、多少なりとも罪悪感を感じる人が多いように感じる(全く感じない人間がいることは論を待たないが)。いずれにせよ、コロナ禍の感染防止対策について、それを守ろうとする人間も、破ることをいとわない人間も、自らを信じることができなくなっているのだろう。今の日本は、私にはどうにも居心地が悪い。