人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如しという言葉がある。徳川家康の遺訓とされる言葉であり、家康が幼少期に今川義元のもとで人質生活を送った苦労、織田信長との盟約、強大な武田家の脅威、豊臣秀吉への臣従など、徳川家康の長きにわたる苦節が感じられる(もっとも、こう言った類の名言にたいてい付随する真偽の問題があり、本当に家康が言ったのか私はわからない)。

 

 長い人生、大きな事業を成すにはそれ相応の年月、努力、運が必要である。しかし、長い間をかけて一つのことのために努力することは容易なことではないし、たとえ長い時間をかけて努力をしたからと言って大事を成せるとは限らない。運や環境に恵まれず失敗することも多い。だから、例えば一人で努力するのでなく誰かの助けを借り、みんなで一緒に努力したり、一つのことのみにとらわれるのでなく逃げ道を用意したり、失敗しても繰り返し挑戦したりするのである。

 

 目的が遠いほど、今日の努力で自分が目的の達成に近づいているのか不安になることがある。すでに他の人によって整備された道があるときでさえどうしようもなく心配になることがある。自分の心に感じた不安は隠そうとしても隠し切れず、隠したと思っても心のどこかに引っ掛かり続ける。ならば、不安を不安として受け止めながらも歩み続けるのがよいだろう。十分考えたうえに選んだのであれば、それは今日の自分の歩みで長い人生の先にある目的の達成に近づいていると信じる根拠になる。

 

 たとえ結果的に目的を達成できなかったとしても、いくらかの財産と時間などを失うかもしれないが、その目的を達成するための努力の過程で得た経験が今後の人生の糧になる。見方を変え、どうすればその経験を生かせるのかよく考えれば思わぬところで過去の経験は役に立つものである。

 

 長い時間をかけて目的を達成したときの喜びは言葉では表せないほどのものだろう。努力が報われたと感じ、今までの努力に目的を達成した努力としての新たな価値が加わる。この喜びは、学校での勉強、仕事上の事業、家庭での出来事、その節目節目に感じるものだ。長い人生はこの長い時間をかけた努力、それによる目的達成と隣り合わせである。私はこのようなことを考えながら長い先を見据えて自分の仕事をこなしていこうと思う。

 自然は数学によって表される。それはピタゴラスの万物は数という思想に代表されるように古くからある主張である。時代の開きはあったものの、ケプラー、ガリレオ、ニュートンらによる近代科学を基礎づける多くの重要な発見や思想、特に自然現象が適切な数学的モデルと驚くほどよく一致するという発見があった。そしてデカルトによる機械論的世界観といった哲学的な支えを得つつ、数学的モデルを利用するという手法が地球の運動や振子の運動、斜面を重力に従って滑り落ちる質点の運動といったものを超えて流体や電気や磁気など幅広く適用できることがわかったこと、理性を判断の唯一のよりどころとする啓蒙主義との相性が良かったことがあり、近代科学はヨーロッパの人々があらゆる判断をする上でよりどころにする主要な思想の一つとなった(私は科学史に明るくないため、この認識はまちがっているかもしれない)。

 

 もちろん自然科学の手法は数学的モデルを用いるものだけではない。生物学は仮説を立てて多くの観察をもとに検証するという帰納法的手法を使うことのほうが多いだろうし、化学の合成実験には数学的モデルよりもむしろ今まで蓄えられてきた多くの化学的知識を基にして行われ、その結果いかなる物質が合成されたかが検証される。しかし、自然界の第一原理は数学を用いて記述されるだろうという考えは物理学者の共通の考えであり、科学者の中でそれに疑いを持つ人間は私の知る限り存在しない。したがって、あらゆる自然の対象を最小単位である素粒子に還元すれば必ずそれは数学によって記述されると信じられているし、完全ではないにせよ素粒子の動きを記述する数学的手法を探す試みは今まで大きな成功を収めてきた。

 

 では、我々の存在する世界はどうして数学によって記述されるのか?これはニュートン以来、多くの科学者が考えてきたであろう問いであり、いまだ未解決の問題である。この問題を考える上で重要なのは、物理学における自然の時間変化を表す数学的モデルとは基本的に微分方程式を用いたモデルであるという制限があることだ。このとき我々は世界に時間の最小単位が存在し、この世界はその時間の最小単位を1ステップとして漸化式または反復写像を用いるまるでパラパラ漫画のような世界観を暗に除外しているということに注意しなければならない(時間の最小単位を考慮した物理学の理論もあるそうだが、残念ながら私はそれに詳しくない)。

 

 そして、世界を記述するのが微分方程式であれ、漸化式であれ、パラパラ漫画であれ、それによって表される自然の時間変化は決定論的である。ただし、この決定論という言葉の意味には注意する必要がある。十分大きい物体の十分大きな距離の運動に関しては近似的に物体を空間的な広がりを持ったものとみなして物体の各小部分のある時刻の位置と速度を与えるとその後の運動が決定される。しかし、素粒子のような比較的小さい物体では素粒子の空間的な広がりに形式的に対応する波動関数という概念について、位置と時間(とスピン)の関数である波動関数のある時刻での値とその時間微分の値(と境界条件)を与えるとその後の運動が決定される。また、厳密には物質の生成・消滅があるため、単一物体しか存在しないという数学的モデルを考えることに問題があり、生成・消滅を考慮した波動関数を用いる必要がある。また、空間自体の性質が時間的に変化するため、物体の時間変化と同様に空間の時間変化の数学的記述もおこなわなければならない。

 

 今まで、物理学者がどのようにして自然の時間変化を数学的に記述するのかを述べた(数学的モデルは自然の時間変化以外にも利用されることに注意すべきである)。そこには我々の存在する世界はどうして数学によって記述されるのか、そもそも数学的に記述されない世界はいかなるものかを考える上で重要なヒントが含まれている。それは、自然は時間的・空間的に少しずつ変化するということだ。この事実は我々が用いる時間変化の数学的記述に微分方程式を用いてよいことの根拠の一つになっている。

 

 仮に、いかに小さい時間をとっても、その小さな時間経った後の世界が全く別の様相であったならば、その世界に存在する物体はニュートンの運動方程式、シュレーディンガー方程式のような短い微分方程式で記述されることはなかっただろうし、そもそも微分方程式で記述することが不可能かもしれない。ただし、この場合には漸化式・反復写像で記述できる可能性が残る。

 

 もし仮に漸化式や反復写像で記述できない場合、(その世界が時間と空間を持つと仮定するが)ある瞬間における物体のと別の時刻における物体の位置に相関があるかが重要となってくる。漸化式や反復写像で記述できない物体の運動について、その物体の次の時刻にどの位置をとるかが何らかの確率を持って表される(波動関数のようなものとは限らない)のであれば、ある時間間隔をおいた物体の位置の相関がいかなる量になるか数学的に検証できる可能性がある。相関があるのであれば、その相関をもって決定論ほど強くないにしても自然の数学的記述が可能になってくる。相関がないのであれば、つまり物体の運動が乱数のようにランダムであれば、数学的記述は不可能かもしれない(それでも自然は乱数程度のランダムさで運動するという自然法則が成立する)。ただし、以上の議論は数学がいかなる世界でも存在することを仮定していることに注意しなければならない。また、観測者は我々と同程度の知性を備えていると仮定している。

 こう考えると、世界が数学的に記述されない可能性は意外と小さいように思える。我々が十分な数学の知識を持ち、科学の実験と検証のプロセスを行うことによって、世界が乱数のようにランダムに時間変化するのでなければ、前後の時間における物体の位置に一定の相関を見つけることができる。その相関の分布を十分に調べることによって、逆にその相関を形作る確率的関数を知ることができるだろう。

 

 最後に、以上の議論にいわゆる神の存在を想定しなかったことを付記しておく。おそらく我々は世界を規定するという意味での神の役割を人によって千差万別にとらえているであろう。その中から自然が数学的に記述されるように我々に認識させ、かつ自らの存在を隠すという条件を持った神についていかなるものが可能かを考察することは面白いテーマだが、少し疲れたためここではそれを行わないことにする。
 

 個人の判断は、常に独断である。それがいかなる外部要因に影響されていたとしても、自らの考えを決めるという行為についてその行為を起こす主体が自分である限り、決断をするのは必ず自分一人である。そうでなければその行為は個人の判断とは言えない(ただし、個人がその判断の責任を免れるとは限らない)。そして、個人の判断が独断であるが故にそれは常に公平を欠く可能性を含む。個人の生きる社会の常識やコミュニティ内での共通認識は個人の判断に大きな影響を与えるが、それはコミュニティで生きるためのルールを与え、コミュニティに適合するための手がかりを与えると同時に、往々にして論理的に正しくないもの、現実に反するものを含むし、たとえ反証されずとも支持する根拠に乏しいものも含む。

 

 世界を見渡せば、人々の生活が曲がりなりにも豊かになり趣味嗜好に費やすための金銭的・時間的・精神的余裕を有する人間の割合が増え、人口自体も増える中で、多種多様な文化・嗜好が生まれてきたこと、昔からある諸地域の文化や歴史に光が当てられたこと、個人により多くの政治的・社会的権利を与えることを求める動きが高まりごく一部の人間による政治から多種多様な大衆が動かす政治へと変化しつつあること、科学技術の発展により大衆に馴染み深い工業製品で大衆がその動作プロセスを理解することがますます困難になっていることが、世界を一層複雑にしている。だが大衆の動きを見ていると、より複雑になった社会をむしろ単純化してとらえる傾向が強まっているように見える。本来なら社会が複雑になったのであれば、文化・経済・政治・歴史・宗教・科学などに分野別でわけ、必要であればより細分化してそれぞれを理解すると同時に、社会の全体像を見渡してそれらを関連付ける構造を知ることが大事であるのに、世界の大まかな動きの原因をごく少数の影の支配者や特定の政党に結びつける陰謀論がはびこっている。ただし、特定の民族に結びつける陰謀論、つまり差別主義的な陰謀論がより強まっているかは私にはわからない。これらはネットにそう書かれていたから、有力者がそれを信奉しているから、自分の友達が言っていたからといったことを根拠にしているのだろうが、判断の公平性・妥当性を著しく欠いているだろう。

 

 私はこうした陰謀論が現実に照らし合わせて間違いであると断言するが、理性に基づいて合理的に行ったと信じる判断であっても常に独断であるが故の間違いの可能性をはらみ、実際に私も多くの判断の間違いを犯してきた。特に、自分に都合よく解釈し、ひとりよがりな判断をすることが失敗につながることが多かった。これは他者に相談しないこと、他者との意思疎通を図らないこと、批判的検討が足りないことなどが原因だろう。独断のまどろみに陥らないためには、常に自らの考えを批判的に検討すること、他者との意見交換を怠らないこと、判断に関連する知識を集めること、社会やコミュニティの共通認識と照らし合わせることが重要である。意見交換をする他者は信頼のおける人間、より多くの人間であればあるほど望ましい。

 

 社会の中で暮らす人間は独善的であるべきでない。だが私もそうであったように、人間はいつでも独善的になりうることを認識しておかなければならない。
 

 他者とのかかわりの中で、相手が自分に対して想定していた範囲を逸脱した行動をとってしまうこと、ないしわかっていながら逸脱した行動をとることがある。その行動によって相手がいかなる感情を持ち、判断をするかはその行動の内容が一般的な観念、倫理道徳と照らし合わせることによるところが大きいが、そればかりでなく自分と相手の関係性、相手の背負っている歴史といった長い時間スケールでのことや、その行動を起こした場所、時間、その前後の行動との関連といった短い時間スケールでのことも考慮される。

 

 自分の考える相手の想定していた範囲と相手の想定していた範囲の齟齬は、主に互いに自らが常識と考えていることや互いの関係において自らが許容範囲と考えていることの違い、自分と相手の関係性に対する互いの考えが異なること、相手の背負っている歴史を知らないことにある。前者を後者に近づけようと相手の考えを理解する努力をすれば、時間はかかるものの、はじめ相手の心の表層すら見えなかったものが少しずつ奥深くまで見えてくるだろう。しかし、相手の心の深くまで理解できるのは稀であるし、理解できたと思ってもそれが部分的であったり間違いであることは多々ある。親や兄弟姉妹でさえその行動の背景にある心の内がわからないこともある。

 

 真に理解できたと言えない状況で逸脱した行動をとらないためには、安全のために想定範囲の境界近くの行動をとらないことが賢明である。しかし、あえて逸脱した行動をとるのであれば、それによって相手がいかなる感情を持ち、行動するかを十分に考慮しなければならない。倫理的に十分許容される行動ならば問題ない。倫理的に逸脱しかねない行動である場合、相手がその行動に対して自由に行使できる拒否権を持っていないのであればその行動を行うべきでない。しかし、倫理的に逸脱しかねない行動を自由に拒否権を行使できる相手に行うことについて、私にはその行動をとってよいかどうかはよくわからない。ただ、相手がその行動によって傷ついたのであれば、それを癒すための適切な行動をしなければならないことは確かである。

 

 想定範囲を逸脱した行動について以上のように述べたが、私はまだまだ未熟ゆえ、自分の都合よく相手の心を解釈し、多くの失敗をしてきた。その中には人を傷つけたことや傷つけたであろうこともあった。後悔先に立たず。上記に従って行動するときに都合よく相手の心を解釈することは失敗のもととなるため、ゆめゆめ注意しなければならない。悲しみ、怒り、恐怖といったものから、喜び、安心、感心といったものまで、感情は多様性と程度の幅広さを併せ持つが、想定範囲を逸脱した行動をとる前に相手がその行動に対してこれらの感情のうちいかなるものを感じるかを、自戒も込めてよく注意しなければならない。

 今回は、自らの経験を基にいかに自分の感情と向き合い、理性的な生き方に活かすかを述べる。私が人生の中でいろんな人に出会って分かったことは、理性的に生きるとは本当に難しいということである。故に、この論考は理性に一定の価値を認める者にとって一見に値すると信じる。本当なら、人の感情とはいかなるものかをまず語りたいところだが、それを語るには私はいまだ未熟なため、未来の自分に託すことにする。

 

 私は、前回も述べたが、昔から批判的精神と時に批判を差し置いてでもあえて物事を受け入れるという柔軟性を持とうと努力してきた。これは理性的に生きようということと結びついており、故に自らの感情といかに向き合うかという問題に取り組む必要があった。私は長年自分自身の感情と向き合い、感情を、理性的に生きるというプログラムを壊さずむしろ促進する形で組み込もうとしてきた。とはいえ決して論理だった手法を取ったわけでなく、うまくいく方法を実践と評価を通して手探りで探していったのだが、その結果、自らの心と感情の距離を一定の距離に保つことを第一として、喜びやうれしさ、場の流れに同調する感情などを次の行動への動機付けに結びつけ、悲しみや苦しみ、痛みや後悔などをその原因の批判的分析と次に同じような場面があった時の行動の改善に結びつけるとうまくいくことがわかった。 記憶はあいまいだが、中学生のころに同じ問題に取り組んでいた覚えがあり、高校生になった初めのころまでにはこの解決策の方針に沿って行動していたと思う。

 

 自らの心とあらゆる感情との距離を保つという考えは後になって仏教に通ずるところがわかった。だが、おそらく感情を自らの理性的な生き方に活かすという考えは仏教にはないと思う(仏教に詳しくないため、断言はできないが)。あらゆる感情と距離を保つことにより、常に感情を比較的弱い水準、すなわち理性的な判断に必要以上の悪影響を及ぼさない水準以下に保つ。そして、感情の流れを適切に誘導する、すなわち感情の自らの精神への作用を適切に誘導することにより、現在ないし未来の理性的判断に良い影響を及ぼすようにする。それによって、感情を自らの理性的判断に活かすことができる。いくつかの種類の感情について、感情の流れを誘導する大まかな手続きは前の段落で述べた。より細かい手続きは具体的な実践の種類によるところが大きく、前に述べた大まかな手続きを繰り返しながら失敗と改善を繰り返すことによって獲得していくことができる。

 

 私はこの手法を遅くとも高校生の初めのころから今まで長く用いてきた。その途中で大きな失敗も何度かしたものの、理性的に生きることを志しながらも感情を決して排除せず良い形で受け入れながら生きることができたと思っている。普段以上に理性的判断が重視されるコロナ禍だからこそ、理性的な生き方が大切であろう。