自然は数学によって表される。それはピタゴラスの万物は数という思想に代表されるように古くからある主張である。時代の開きはあったものの、ケプラー、ガリレオ、ニュートンらによる近代科学を基礎づける多くの重要な発見や思想、特に自然現象が適切な数学的モデルと驚くほどよく一致するという発見があった。そしてデカルトによる機械論的世界観といった哲学的な支えを得つつ、数学的モデルを利用するという手法が地球の運動や振子の運動、斜面を重力に従って滑り落ちる質点の運動といったものを超えて流体や電気や磁気など幅広く適用できることがわかったこと、理性を判断の唯一のよりどころとする啓蒙主義との相性が良かったことがあり、近代科学はヨーロッパの人々があらゆる判断をする上でよりどころにする主要な思想の一つとなった(私は科学史に明るくないため、この認識はまちがっているかもしれない)。
もちろん自然科学の手法は数学的モデルを用いるものだけではない。生物学は仮説を立てて多くの観察をもとに検証するという帰納法的手法を使うことのほうが多いだろうし、化学の合成実験には数学的モデルよりもむしろ今まで蓄えられてきた多くの化学的知識を基にして行われ、その結果いかなる物質が合成されたかが検証される。しかし、自然界の第一原理は数学を用いて記述されるだろうという考えは物理学者の共通の考えであり、科学者の中でそれに疑いを持つ人間は私の知る限り存在しない。したがって、あらゆる自然の対象を最小単位である素粒子に還元すれば必ずそれは数学によって記述されると信じられているし、完全ではないにせよ素粒子の動きを記述する数学的手法を探す試みは今まで大きな成功を収めてきた。
では、我々の存在する世界はどうして数学によって記述されるのか?これはニュートン以来、多くの科学者が考えてきたであろう問いであり、いまだ未解決の問題である。この問題を考える上で重要なのは、物理学における自然の時間変化を表す数学的モデルとは基本的に微分方程式を用いたモデルであるという制限があることだ。このとき我々は世界に時間の最小単位が存在し、この世界はその時間の最小単位を1ステップとして漸化式または反復写像を用いるまるでパラパラ漫画のような世界観を暗に除外しているということに注意しなければならない(時間の最小単位を考慮した物理学の理論もあるそうだが、残念ながら私はそれに詳しくない)。
そして、世界を記述するのが微分方程式であれ、漸化式であれ、パラパラ漫画であれ、それによって表される自然の時間変化は決定論的である。ただし、この決定論という言葉の意味には注意する必要がある。十分大きい物体の十分大きな距離の運動に関しては近似的に物体を空間的な広がりを持ったものとみなして物体の各小部分のある時刻の位置と速度を与えるとその後の運動が決定される。しかし、素粒子のような比較的小さい物体では素粒子の空間的な広がりに形式的に対応する波動関数という概念について、位置と時間(とスピン)の関数である波動関数のある時刻での値とその時間微分の値(と境界条件)を与えるとその後の運動が決定される。また、厳密には物質の生成・消滅があるため、単一物体しか存在しないという数学的モデルを考えることに問題があり、生成・消滅を考慮した波動関数を用いる必要がある。また、空間自体の性質が時間的に変化するため、物体の時間変化と同様に空間の時間変化の数学的記述もおこなわなければならない。
今まで、物理学者がどのようにして自然の時間変化を数学的に記述するのかを述べた(数学的モデルは自然の時間変化以外にも利用されることに注意すべきである)。そこには我々の存在する世界はどうして数学によって記述されるのか、そもそも数学的に記述されない世界はいかなるものかを考える上で重要なヒントが含まれている。それは、自然は時間的・空間的に少しずつ変化するということだ。この事実は我々が用いる時間変化の数学的記述に微分方程式を用いてよいことの根拠の一つになっている。
仮に、いかに小さい時間をとっても、その小さな時間経った後の世界が全く別の様相であったならば、その世界に存在する物体はニュートンの運動方程式、シュレーディンガー方程式のような短い微分方程式で記述されることはなかっただろうし、そもそも微分方程式で記述することが不可能かもしれない。ただし、この場合には漸化式・反復写像で記述できる可能性が残る。
もし仮に漸化式や反復写像で記述できない場合、(その世界が時間と空間を持つと仮定するが)ある瞬間における物体のと別の時刻における物体の位置に相関があるかが重要となってくる。漸化式や反復写像で記述できない物体の運動について、その物体の次の時刻にどの位置をとるかが何らかの確率を持って表される(波動関数のようなものとは限らない)のであれば、ある時間間隔をおいた物体の位置の相関がいかなる量になるか数学的に検証できる可能性がある。相関があるのであれば、その相関をもって決定論ほど強くないにしても自然の数学的記述が可能になってくる。相関がないのであれば、つまり物体の運動が乱数のようにランダムであれば、数学的記述は不可能かもしれない(それでも自然は乱数程度のランダムさで運動するという自然法則が成立する)。ただし、以上の議論は数学がいかなる世界でも存在することを仮定していることに注意しなければならない。また、観測者は我々と同程度の知性を備えていると仮定している。
こう考えると、世界が数学的に記述されない可能性は意外と小さいように思える。我々が十分な数学の知識を持ち、科学の実験と検証のプロセスを行うことによって、世界が乱数のようにランダムに時間変化するのでなければ、前後の時間における物体の位置に一定の相関を見つけることができる。その相関の分布を十分に調べることによって、逆にその相関を形作る確率的関数を知ることができるだろう。
最後に、以上の議論にいわゆる神の存在を想定しなかったことを付記しておく。おそらく我々は世界を規定するという意味での神の役割を人によって千差万別にとらえているであろう。その中から自然が数学的に記述されるように我々に認識させ、かつ自らの存在を隠すという条件を持った神についていかなるものが可能かを考察することは面白いテーマだが、少し疲れたためここではそれを行わないことにする。