今回は、自らの経験を基にいかに自分の感情と向き合い、理性的な生き方に活かすかを述べる。私が人生の中でいろんな人に出会って分かったことは、理性的に生きるとは本当に難しいということである。故に、この論考は理性に一定の価値を認める者にとって一見に値すると信じる。本当なら、人の感情とはいかなるものかをまず語りたいところだが、それを語るには私はいまだ未熟なため、未来の自分に託すことにする。
私は、前回も述べたが、昔から批判的精神と時に批判を差し置いてでもあえて物事を受け入れるという柔軟性を持とうと努力してきた。これは理性的に生きようということと結びついており、故に自らの感情といかに向き合うかという問題に取り組む必要があった。私は長年自分自身の感情と向き合い、感情を、理性的に生きるというプログラムを壊さずむしろ促進する形で組み込もうとしてきた。とはいえ決して論理だった手法を取ったわけでなく、うまくいく方法を実践と評価を通して手探りで探していったのだが、その結果、自らの心と感情の距離を一定の距離に保つことを第一として、喜びやうれしさ、場の流れに同調する感情などを次の行動への動機付けに結びつけ、悲しみや苦しみ、痛みや後悔などをその原因の批判的分析と次に同じような場面があった時の行動の改善に結びつけるとうまくいくことがわかった。 記憶はあいまいだが、中学生のころに同じ問題に取り組んでいた覚えがあり、高校生になった初めのころまでにはこの解決策の方針に沿って行動していたと思う。
自らの心とあらゆる感情との距離を保つという考えは後になって仏教に通ずるところがわかった。だが、おそらく感情を自らの理性的な生き方に活かすという考えは仏教にはないと思う(仏教に詳しくないため、断言はできないが)。あらゆる感情と距離を保つことにより、常に感情を比較的弱い水準、すなわち理性的な判断に必要以上の悪影響を及ぼさない水準以下に保つ。そして、感情の流れを適切に誘導する、すなわち感情の自らの精神への作用を適切に誘導することにより、現在ないし未来の理性的判断に良い影響を及ぼすようにする。それによって、感情を自らの理性的判断に活かすことができる。いくつかの種類の感情について、感情の流れを誘導する大まかな手続きは前の段落で述べた。より細かい手続きは具体的な実践の種類によるところが大きく、前に述べた大まかな手続きを繰り返しながら失敗と改善を繰り返すことによって獲得していくことができる。
私はこの手法を遅くとも高校生の初めのころから今まで長く用いてきた。その途中で大きな失敗も何度かしたものの、理性的に生きることを志しながらも感情を決して排除せず良い形で受け入れながら生きることができたと思っている。普段以上に理性的判断が重視されるコロナ禍だからこそ、理性的な生き方が大切であろう。