自然科学の営みは、繰り返される観測とそれを理解するための知識体系を構築しようとする試みである。それは一人の人間が担うにはあまりにも膨大で、複雑で、時間がかかりすぎる試みであり、ガリレオ以来、科学は数多の科学者らによって少しずつ組み立てられ、壊され、また組み立てられることを繰り返しながら巨大な構造体となっていった。

 

 この構造体の組み立て方には特徴がある。科学の構造を眺めると、大まかに物理、化学、生物、地学、天文学、情報学、工学などといった大きな構造、各領域をさらに細かく分ける下部構造、そして領域間をつなげる連結構造がある。大きな構造は独立に始まったものもあれば、他の構造とは全く無関係に始まったものもある。しかし観測と理論という科学の方法は構造全体で共有されている。

 

 ここ4,500年の科学というものは、初めに大きな構造を創始する試みがあって、次にその構造の内部の細かい部分を組み立て、壊すことを繰り返し、同時に大きな構造の中でも離れた部分を結び付け、そして矛盾する部分を解消するように構造を変更する作業をしてきた。大きな構造、すなわち物理、化学、生物、地学、天文学、情報学、工学などといったものを結び付ける試みは常に行われてきたし、例えば物理と工学のようにその組み合わせによっては結び付けるのに大きく成功したものもある。

 

 そして今の科学をみると、科学は創始時代を抜けたものの、いまだ成熟には程遠く、発展途上の段階である。各分野に未解決の問題があまたに存在し、どの分野であっても理論の核となる第一原理が見直される十分な可能性を有する、またはわかっていないのが現状である。分野間交流は活発に行われているものの、物理と化学、そして生物をすべて(数式でもそれ以外でも)同じ言葉で理解することは到底望めない。さらに、最も数学の言葉を多く使う物理学であっても、物理学を数学のように公理から演繹的に進めることは(過去そのような試みはあったようだが)うまくいっておらず、どこかで数学的な厳密さを落としてあいまいなまま議論を進めている。科学は発見的学問であるし、数学的に厳密に組み立てるのはあまりに煩雑であるにしても、それができるに越したことはない。あいまいさの残る議論で抜けていた部分から新たな発見が生まれることもあるからだ。

 

 したがって今後500年の科学は、発展期から成熟期へと向かっていくにつれて、大きな構造が同じ言葉で理解される程度に各分野間の結びつきを強め、そしてあいまいでなくより厳密なものにする作業が大きな部分を占めていくだろう。当然、今までのような大きな構造を精密化する試みも同時に行われる。これから先、理論を整合的なものにするために取り入れられたその場限りの仮定、不自然な仮定は取り除かれるか、別のより汎用性の高い仮定に置き換えられるだろう。生物学も物理学も同じ言葉で理解されることが統一的理解のためには望ましいだろうが、生物のように複雑で個別性のあるものを数学的に表現できるかどうかはわからない。だが、物理学の利用できる部分はすでに多く生物学にも取り入れられているし、これからも分野間融合が促進されていくだろう。
 

 ひらめきとは不可思議なものである。どこからともなく表れて抱えていた問題を解決してしまったり、時には理解不可能な結論を導いて困惑に陥れる。我々が既存の概念から外れたものを作り出そうとするとき、長い時間をかけて考えていてもなかなかいい案が思い浮かばないことが多々ある。ひらめきは、問題を解決しようとあれこれ考えているとき、そうではなく問題とは関係のない全く別のことを考えているとき、そもそも全く問題がないと思っている既存の領域のことについて考えているとき、突然現れる。

 

 ひらめきにも、わかりやすいひらめきと、わかりにくいひらめきがある。思いついた瞬間にその有用性と利用手段、ないしその発想の根拠を理解することができるものは簡単だ。しかるべき場所にそれを適用することができる。だが、後者は真に難しい発想で、そうはいかない。あまりにも既存の概念からかけ離れていてそれの意味するところが分からない、それを支持する根拠はあるが、それに反する証拠もたくさんあるように見え、正しいと確信することができないといったことが起こる。

 

 わかりにくいひらめきでも、それを決定的に否定する証拠がないのであれば、その発想が正しい根拠を既存の事象の中から探す、ないし正しいと仮定したときにどのような結論が得られるのかを考えてみる。他の人に相談するのもよい。それらもうまくいかないのであれば、いずれ解決するだろうと期待をこめて、発想を寝かしておく。この場合、その発想を文字や絵に書き留めておかなければならない。時間がたつにつれて発想自体を少しずつ忘れていくだろうが、強烈な印象を残した発想は長い間心の片隅に据え置かれる。いつの日か解決する日が来るかもしれないし、来ないかもしれないが、その時の自分には到底わかりえないことだ。

 

 常日頃から考えているもの、そしてそれに関連することもよく考えているようなものについて、良いひらめきが生まれやすいようだ。ここでいう良いひらめきとは、その人が求めているものを導くひらめきである。そして、本当に良いひらめきが生まれたときの喜びは至上のものだろう。

 『理論物理学教程』は、理論物理学の数ある古典的な教科書の中でも有名なシリーズである。その文体は他の教科書と比べても独特であり、物理的な厳密性に細心の注意を払って記述されている。読者はその難解な議論を追うのに苦労するだろうが、注意深く読めばその議論のほとんどは物理学的に妥当な論法で構成されていることがわかる。ランダウの天才が現れた教程の中での独特な議論は物理学の諸原理や定理にのっとって進められており、既存の議論よりも厳密であったり、短く済んだりすることがしばしばみられる。

 

 また、『場の古典論』にみられる特殊相対論をベースにした真空中の電磁気学の理論の展開など、他の本にはない構成が見られたり、『量子力学』では距離の2乗に比例するポテンシャルエネルギーの下でのシュレーディンガー方程式の解を考えるといった独自のテーマがみられる。そして、すべての巻を通して理論の適用範囲の議論、すなわち系の物理量のオーダーの議論を多くしていることが特徴的である。

 

 私はディラック『量子力学』、ファインマン物理学、ゴールドスタイン『古典力学』、ジャクソン『電磁気学』、キッテル『固体物理学入門』など、物理学の古典的名著と言われる本を多く読んできたが、ランダウと上記の前二人のような物理学で傑出した才能を持つといわれた天才の書いた本と、それ以外の物理学者の書いた本では際立って異なる点がある。それは、議論の美しさと独自性である。天才の書いた本を読むと、彼らが物理学の常識的理解とは異なる独自の理解をしており、それでいて常識的な物理学の議論で導き出される結果と同じかそれ以上の結論を、時にはより早く厳密に導いていることに気付く。読者は彼らの思考を追体験することで常識的理解を超えたより広い視点で物理学を理解することができるし、それは概して楽しいことだろう。

 

 また、天才の書いた本にみられる特徴は、数式を用いない文章での議論を多くすることである。数式を明示的に用いないが、物理学的描像を頭の中に思い浮かべて議論する。思考実験を用いることも多い。読者がその議論についていくためには数式をただ追うのとは別の能力が必要であり、物理学の深い理解が必要である。

 

 そういった天才の書いた本を読み比べることで、それぞれの天才の個性を知ることができる。ランダウとディラックの『量子力学』を読み比べると、ディラックのほうが物理的・数学的に厳密であることを重視しており、量子力学の理論を展開する上で必要となる数学の諸定理をならべ、証明している。それと比べると、ランダウの量子力学は、他のあまたの教科書よりも厳密であるがディラックよりも大雑把に議論を進めていることがわかる。しかし、議論が不十分に感じるところがあっても抜け落ちているところの多くは重要でないため、議論から導き出された結論が正しいと確信できる。

 

個々の巻は

  1. 力学(第3版)
  2. 場の古典論(第6版 日本語版書名は場の古典論―電気力学,特殊および一般相対性理論)
  3. 量子力学(第3版 日本語版書名は量子力学―非相対論的理論)
  4. 量子電気力学(第2版 日本語版書名は相対論的量子力学)
  5. 統計物理学(第3版)
  6. 流体力学(第3版)
  7. 弾性理論(第4版)
  8. 媒質中の電気力学(第2版 日本語版書名は電磁気学)
  9. 量子統計物理学
  10. 物理学的運動学(日本語版書名は物理的運動学)

からなり、計十巻ある(Wikipediaより転載)。これを読めば物理学の諸分野の入門的な知識が得られるほか、理論物理学の研究をするための思考力、計算能力が養われる。私は去年の7月からこのシリーズを読み始め、『力学』、『場の古典論』、『量子力学』、『統計物理学』、『流体力学』上巻、『弾性理論』、『電磁気学』を読んだ。今は『流体力学』の下巻を読んでおり、これで理論物理学教程のうちランダウが書いた7巻をすべて読み終える予定だ。

 

 ランダウが著者に入っていない巻『相対論的量子力学』、『量子統計物理学』、『物理学的運動学』を読むのには注意が必要である。私は『相対論的量子力学』の冒頭100ページほどを読んだが、ランダウが書いた巻に比べて物理学的に妥当と言えない議論が多くあり、読みづらかった。私はこれら3冊を読むのをとりあえず後回しにする予定である。




※2021年6月23日 第2段落1行目「ベースにして真空中の電磁気学の理論を展開する」を「ベースにした真空中の電磁気学の理論の展開」に変更

 「夢を追う。」この言葉を聞いて、どんな想像をするだろうか。甲子園の夢を追いかけて日々努力する高校野球少年、アニメーターや声優を目指す若者、途中退職して自分のやりたいことで生計を立てること、人によって様々だろう。夢を追うことを美しい、憧れるという人もいれば、そんなことはできやしない、安定した職業に就くべきだという人もいるだろう。

 

 夢を追うことは生活面での苦難を伴うかもしれないが、自分の好きなことをして生きられることはきっと楽しいだろう。こんな誤解を皆がするようになったのはいつからだろうか。よほどの運か才能に恵まれない場合、こんなことはありえない。競争の激しい領域で自分の好きなように生きたいのであれば、他人よりもよほど抜き出た能力があるか、(領域によっても異なるが)ある程度の運があるか、またはその両方が必要である。

 

 自分が他人よりもずっと高い能力があるように見えても、環境が変われば自分よりも能力が高い人間がたくさんおり、井の中の蛙であったなんてことはよくあることだ。自分のやりたい仕事は自分よりも能力があったり幸運に恵まれていたりする競争相手に奪われ、自分が望んでいなかった仕事で生計を立てる、もしくは仕事にすらありつけないことがある。

 

 ならばどのようにして自分のやりたい仕事を得るか。いくつか方法がある。一つは、他人よりもずっと多くの努力、効率的な努力をして、卓越した能力を得る。または、競争相手が真似しづらい、自分にしかない能力を得る。仕事相手からの個人的信頼を得るのもよい。情報を集めたりいろんなところに足を運んだりして仕事を手に入れる機会を増やす。いずれにせよ、どうすれば仕事が得られるか自分でよく考え、努力ないし行動することが必要だ。

 

 だが今の夢追い人を見ていると、自らの能力を高めるために包括的に努力するということを軽視している人が多いように見える。卓越した仕事をする、名声を得るにはまず不断の努力が必要なのは言うまでもない。自分の好きなことについてのみ努力しても好きな仕事をするための能力はある程度得られるだろうが、たいていの場合自分の好きなことは好きな仕事にかかわる領域のごく一部であるため、狭い専門的な能力しか得られない。したがって、卓越した仕事、特に創造的な仕事をするためには、自分の好きでないことについても努力して自分の仕事と間接的にかかわる領域を自分の仕事に活かす能力が必要である。

 

 それは決して楽しいことばかりでなく、大きな苦労を伴うものだ。時にはさして好きではないような領域のことでさえ、自分の好きな仕事に活かせる程度の能力を得るために場合によっては数か月努力しなければならない。自分の目的を達成するためには回り道することも必要である。

 

 私はテレビや雑誌の夢追い人を見ていて、彼らは自分の好きな仕事に直接関係するあまりに狭い領域にとらわれているように見えた。このブログのタイトルにもあるが、本来世界は非常に複雑であり、普段明示的に意識せずとも自分の仕事とかかわりのある領域はたくさんある。自分の仕事に直接かかわりのある領域にとらわれ、あまりに専門的になりすぎると、世界が複雑で各領域が密接につながりあっているという単純な事実を見逃してしまう。

 

 今を生きる夢追い人にはもっと広い視野で自分の夢を眺めてほしいと思う。つぶさに見れば、自分が思うよりも様々なことが自分の夢に関わっているし、それらは自分のやりたいことに活かせるものだと気づくだろう。