科学は人間によって作られた自然を理解するためのプログラムである。故に、その構成は須らく人間の理性のみならず感性の影響を色濃く残している。すなわち、論理的に不完全であっても感覚的に正しい手法で科学理論が作られ、同様の手法で理論が理解される。


 高校で学ぶ化学においてハロゲン化水素の分子結晶の沸点の順番を定性的に説明する際、電気陰性度のみから得られる順番と、電気陰性度とフッ化水素の分子間水素結合を考慮して得られる順番にずれがあることを疑問に思った人はいるだろうか。科学はその理解に論理的とは言えない説明が含まれることがしばしばある。そして物理学ですらいまだ完全に数学の論理のみに基づいて記述されたことがない。特に近似理論では、実際上その近似の適用条件の完全な記述はないのが実情である。


 新しい仮説の科学的妥当性は、それが定説と矛盾しないなら説明力の向上によってその価値を判断され、定説と矛盾するのであれば科学コミュニティからの厳しい査定を受け、定説では説明できないことを説明できるか、既存の科学的知識体系にうまく組み込むことができるかをもってその価値が判断される。


 とはいえ、その判断が正当に行われずに棄却されることも科学史上よくあることである。例えばメンデルは1865年に遺伝現象の基本的な法則をまとめたメンデルの法則を発表したが、長い間注目されることがなかった。メンデルの死後1900年になってようやく論文が再発見され、科学界の注目を集めるようになったことは有名な話である。

 

 それに、相反するとされる二つの概念についてどちらが正しいか何度も定説が入れ替わったこともある。光を構成する要素が波であるか粒子であるか、17世紀以来長い論争があった。ニュートンは光が粒子によって構成されているという説を提示したが、これは同時代のホイヘンスの光の波動説と相いれないものであった。19世紀のマクスウェルによる電磁気学の定式化、そして電磁場の予測とヘルツの実験による検証(これによって本当に電磁場の存在が実証されたかどうかは諸説あるようである)により、光は波動であるという説が科学界で主流となった。しかし、光の波動説では説明できない光電効果の発見、そしてアインシュタインが光の粒子説を用いて光電効果を説明することに成功したことにより、粒子説は再び息を吹き返した。

 

 今では光は波動性と粒子性の両方の性質を併せ持ち、古典的理論の範疇では実験系に現れる最も短い長さスケールよりずっと短い波長で光線の理論(これは光波動理論の短波長近似として導かれる)が用いられたり、むしろ実験系に波長と同程度の長さスケールがあるのであれば波動理論を用いる。量子力学的理論、科学界では場の量子論と呼ばれる光の理論では、光は有限の大きさの閉じた系でとびとびの波数ベクトルと二つの偏りを持つ単色波の集まりとして理解され、それぞれの単色波について、その波が場にいくつ含まれるかが粒子のように数えられる。

 

 17世紀の科学者が今の時代のような光の理解をできるはずもないし、万に一つも思いつけるはずがない。人間は限られた想像の中で自然を理解するためのよりましな理論を作っているにすぎないのである。

 

 数年前、囲碁AI「Alpha Go」が人類最強の棋士と3番勝負をして全勝した。囲碁AIは2000年の歴史で培われてきた囲碁の打ち方とは全く異なる手法を次々と生み出し、人間の中には逆にAIから囲碁の打ち方を学んでいる人もいるようである。科学についてもおそらく同じ道をたどるであろう。特に重要なのは、AIが人間の作り出した科学のプログラムとは別のプログラムを作りうることである。現代の科学における理論の精緻化は、より説明力を有し、より多くの既存の理論を内包する「一つの」理論を作り出すことと実質的に等価である。それは人間が全く異なる新手法を思いつくことはとても難しいことであるという意味で、人間知性の限界でもある。いつか科学から人間性による制限が取り払われ、いくつものプログラムを内包する、より多様な学問になることを期待してやまない。




※2021/6/14 1段落目を加筆、2段落目を追加

 家にいる時間が長いと、身体が感じる季節の感覚が薄れていく。外界から感受する刺激は減り、季節を愉しむことが難しくなる。たまに遠くへ出かけると春の桜、青々と生い茂る木々に出会ってはっと驚くことがあるが、それでは春の季節を謳歌するには足らない。

 

 季節の風物をたまにしか見なくなって気づいたことがある。桜並木を一度だけ通っても心に刻まれる驚きは一時的なものであり、何度も桜を見ることによってはじめて季節を心の奥底まで感受することができるのである。たまの旅行で京都に行って観光名所を巡っても、1000年続く京文化に自らの体が内応しないのと同じことだろう。

 

 とはいえ、長く外に出ないことで新たな発見があった。家にいると季節感を持った刺激は非常に少ない。だが、わずかなりとも季節がどこかにないかと探していたところ、部屋の温かさと湿り気が思った以上に季節を物語ることに気付いた。部屋にいる時間が長いと、時計を見る機会が多くなる。私の机の上にある時計には温度計と湿度計がついており、外の温度や湿度よりも数字が緩慢に変化する。北から寒気が流れてきても家の中の温度はそれほど下がらないし、真夏の陽気の中でも外ほどは暑くない。冬には家の中にいても手がかさかさするが、湿度はそれほど下がっていないようである。最近のように雨が多いと湿度はずいぶんと高くなるが、それでも72%程度が関の山で、それ以上上がることはない。家の外へ出ればやることがいっぱいで、空気の温かさ、湿り気を肌で感じることに気が向いていなかったようである。ささやかな発見だが、今の単調な日々に変化をもたらしてくれる。

 

 そんなことをしていると、いつの間にか温度や湿度の変化をずいぶんとよく感じられるようになった。部屋の空気が変わったと思うたびに時計を見ていたら、1度の温度の変化、5%の湿度の変化に気付くようになった。外では朝、昼、夜と天候が大きく変化するため、微細な天候の変化に鈍感になっていたのかもしれない。強い刺激を受けないことで、逆に弱い信号に気付くこともあるのだとしみじみ思う。

 

 そんな感覚を大切にしていきたい。家にいる時間が長く、人と直接会う機会が減った結果、自分の身体の繊細な感覚、人の感情の機微を読む力が少しずつ失われているのをひしひしと感じている。どうにかしようと思っているのだが、なかなかうまい解決策が思いつかない。体の各部分で感じる微細な感性が徐々に失われているのと対照的に、少ないながらも体全体で感じる新たな感覚が生じたのは本当にうれしいことだ。

 

 長雨が続くが、まだ梅雨には入ってないらしい。春と夏の間のこの時期にしかない特徴、長雨と春よりも少し高い温度、そのじめじめとした気候は割合愉しいものだ。

 人は何か決定を行うとき、自分には他の選択を選ぶ自由があった、自分の意思で決定したんだと思いたがり、そこに他の何者かの支配的な意思が存在することを好まないし否定したがる。または、自分にとって都合の悪い決定であれば他に選択肢はなかったんだ、仕方なく選んだんだと自身を安堵させようとする。

 

 これらは誤りである。人間は生まれてからずっと社会的規範や文化・慣習・歴史・学問的知識にとらわれている。年を重ね、自身の行動が及ぼす影響がより多くの人間に及ぶようになるにつれてさらに自身の行動は制限される。もちろん枠に収まることを好まずそこから逃れようとする人も多くいる。特に最近は自分に合った人生がきっとあるはずだという主張がテレビなどで盛んに喧伝され、それに若年層の意識が誘導されて会社に就職してすぐやめる新人の増加につながっているのかもしれない。だが、それは今歩んでいる道が自分に合っていないというかなり早急な判断に基づいており、多くの場合本当に今の人生よりも良い人生が歩めるのかをよく検討した結果ではない。それはメディアの宣伝が無意識に刷り込まれた故の行動と言えるだろう。

 

 人間は社会とかかわるうちに知らず知らずのうちにその社会が有する性や人種、社会的立場による偏見、容姿による差別的意識、国民としての意識を規定する文化・歴史観、一般的に正しいとされている科学観などを刷り込まれていく。特に最近でいえば、失われた30年の間に育った若い世代は社会が変化しないものだという意識を持っているようである。特に、日本社会のあり方に対する否定的言動に強い拒絶反応を示すようだ。これもまた自らの中でよく検討して選んだ行動ではなく、緩やかに衰退する日本で育ってその兆候をあらゆるところで見てきたことによる、聞き飽きたという反発であり、むしろ情動に基づく反応であろう。

 

 ここ最近の日本人にみられる大きな特徴は、大人であれ、子供であれ、歯切れの悪い人間が増えていることである。その推論から導き出される結論は一つしかないのに、その最後の一言を言おうとしない。それを言うと自分にとって都合が悪いから黙っているのかもしれない。いや、これだけ多くの人がその最後の一言を言おうとしない以上、それは意識的に黙っていようとしているのではなく無意識のうちに抑制が働いているのだろう。それは言葉に対する誠意が失われ、保身のために虚偽の発言をする人間が跋扈する現代世界の風景と無関係ではあるまい。その反動として非常に歯切れのいい人間が日本でも人気を集めているが、彼らの多くが誤った情報に基づいていたり、誤った推論をしたりしているのをみると、まさにポストトゥルースの時代なのだと実感させられる。

 

 無意識の圧力から逃れるには、まず自らの意識が普段意識していない規範によって誘導されていることを理解し、その規範がいかなるものであるのかを知り、意識下での思考にその規範が影響しているのかどうかを常々確認することが肝心である。こうすることによって無意識を不完全ながらも理解することが可能になり、無意識による意識の支配から逃れることができるようになる。私もよく注意していこうと思う。

 

 

 世界はいまだ戦争の惨禍にあえいでいる。アメリカと国連によるアフガニスタン復興の失敗と今度の米兵撤退によりアフガン政府はタリバンに政権を奪取される危機を迎えている。アメリカの中東政策の失敗はイスラム原理主義のテロリズムが世界各国で蔓延することを招いた。ウクライナ問題はいまだ政治的解決を迎えておらず、ウクライナ東部は親露派に制圧されたままであり、再び戦争が起きる可能性を十分に残している。去年のナゴルノ・カラバフ戦争は記憶に新しい。アフリカを見ると、いまだに武装勢力による拉致事件が多発し、去年マリでは軍事クーデターがあった。アフリカにはいまだ政情不安定な国が多くあり、民主主義的な選挙制度のある国でさえも平和的な政権移譲が困難を極める国が多い。

 

 それ以上に大きな戦争の危機を迎えているのは米中間であろう。たとえ直接的な戦いにならずとも、東アジアで両陣営がぶつかり合う可能性が高まっている。米軍司令官がアメリカ議会で中国が6年以内に台湾に侵攻する可能性があると言った。習近平氏の国家主席の任期を考慮して逆算的に割り出された数字であると推察される。これに関しては私の手元に情報が少なく、米太平洋軍の予算の問題ともかかわっているのかもしれないが、中国が米軍の介入があっても台湾を制圧するための準備をしていることは確かであるし、米軍も中国の侵攻を念頭に置いて台湾防衛の準備を進めているだろう。

 

 また、北朝鮮問題も、一次は朝鮮戦争の終戦が宣言される可能性が取り沙汰されるほどに平和への機運が高まったものの、可視化された核放棄プロセスがなければ経済協力が得られないことに対する北朝鮮の反発もあって、米朝間の対立が激しかった数年前の状況程ではないものの少々後退した。朝鮮半島が非核化と平和へ向かっていくかは今後のバイデン政権の動き次第であろう。

 

 日本に住む我々は東アジアの戦争の危機に運命を大きく左右される。米軍がかかわる以上、日本は必ず米軍の後方支援として参戦することになる。この事実は今の日本であまりに軽視されているのではないだろうか。たとえこれらの戦争に自衛隊が直接参戦せずとも、日本は米軍の前線基地となり、特に米軍基地とその周辺に住む住民は常にミサイル着弾の危険にさらされる(しかしそれを行えば日本政府はそれを自国への攻撃と受け止め確実に戦争に参戦することになることが予想されるため、実際に行われるかどうかは定かでない。とはいえ日本への攻撃は相手国の選択肢の一つに必ず入っていることを我々は重く受け止めなければならない)。

 

 さらに、米軍や自陣営の軍事物資等の輸送には日本の交通網が使われる。また、戦争難民を受け入れれば、たとえ人道主義にもとづく支援であろうとも難民の住んでいた国に敵対する国からの反発を受けるだろう。ましてや戦争が長引けば、かつての朝鮮戦争と同じく、台湾や韓国の若者を自衛隊の基地で自衛官が訓練するというグレーな形で日本が戦争に関わることにもなりかねない。また、例えば中国が台湾の物資を遮断するために南シナ海のシーレーンを寸断した場合、当然日本国内にも南アジア経由での貿易船が入ってこられなくなるわけだが、流通網を保護するために自衛隊が南シナ海で中国軍と対峙せねばならなくなる可能性もある。

 

 コロナウイルスが蔓延し始めた初期は各国の軍は感染収束するまで大規模な軍事行動をとれないと言われてきたが、各国のワクチン接種が進み、状況は一年前と変わってきた。感染封じ込めに成功した中国はますます自信を強め、それは特に人権問題を他国から指摘されたときの反発の大きさという形で如実に表れている。アメリカはトランプ氏が退陣し、単独で中国に向き合う戦略から同盟国との連携を重視した形へと大きく戦略を変更した。

 

 中国とアメリカに囲まれた日本は、その地理的条件も相まって、歴史上で最も大きな戦争を起こしうる米中の対立に必然的に向き合わなければならない。そして、我々は必ず東アジアでの戦争を防がなければならない。これを最優先として行動するべきである。


 

 

 

 アリストテレス、孔子、仏陀、ニュートン、オイラー、カント、アインシュタイン...時代を担い、人類文明の未来を永久に変えた抜きんでた知性を持った人間が歴史上に何人かいる。人は彼らの偉業を見て、主に二つの感情を持つだろう。彼らはなんてすごい人間なんだろう。そして自分は彼らを理解できないだろうと。

 

 しかし歴史を紐解けば、時代の永久の変革者となった彼らの事業は時代の支えがあって生まれたものであり、決して彼らが0から生み出したものではなかった。アリストテレスはソクラテス、プラトンの流れを受け継いでおり、ニュートンはケプラー、ガリレオの数学的自然観があって運動学を作ったのであり、アインシュタインはエーテルの問題とローレンツの偉大な発想を基に相対性理論を作ったのである。時代の波に乗り、時代を変革する大きなひと押しをしたことが彼らを歴史上の偉大な知性としたのである。

 

 ならば彼らはどうして時代を動かす大きなひと押しをすることができたのか。どうして他の人間にできなかったのか。彼らに限らず、その時代に優秀と言われた人々は、当時最新の学問の知識体系を己の精神の中で強固に結び付け、その学問が対象とする事象を他の人より多くの視点から理解する能力を持っていた。だが、時代を大きく動かした彼らにはさらに特有の能力があった。それは、その学問が対象とする事象を、一般にそれを理解するのに必要とされている学問の知識体系を超えたさらに広い視点からとらえる能力である。

 

 ニュートンの惑星運動の理論は、彼がそう言ったかどうかにかかわらず、惑星の動きの理解に必要な知識体系の中から神を排除するものであった。少し前の時代にケプラーの法則を発見したヨハネス・ケプラー(1571-1630, ニュートンは1643-1727)の著作を読むと、彼が自然の中に神の介在を認めていた中世の世界像に強く影響されていたことがわかる。しかし、今日われわれがニュートン力学を学ぶときに神の存在を仮定する必要がないことからもわかるように、神の御業がなくとも数学のモデルで自然を記述できることが明らかになったのだ。

 

 さらにいえば、それは長い時間スケールで見れば12世紀のルネサンスにより再発見された古代ギリシャの自然観をすべてでないにせよ受け継いだものともいえる。自然の運動が原因をもつとしたアリストテレスの自然学の影響を受けているのだろう。ニュートンは、古代ギリシャの自然観によりつつもそれとはまったく別の相(特に、運動に究極の原因を求めるのでなく運動を予測する方法論を展開したこと)へ科学を導いたともいえる。

 

 時代は常に変化しつつある。時代を動かす担い手は名もなき多くの人間から一際異彩を放つ一握りの人間までさまざまである。ここまで時代を変える仕事をした人間はどうしてそのようなことができたのかを見てきた。歴史は別の様相を呈しながらも繰り返す。ならば、次の時代を彩る知性がその際立った知性を持つ理由もきっとここで上げた類に漏れないだろう。