人は何か決定を行うとき、自分には他の選択を選ぶ自由があった、自分の意思で決定したんだと思いたがり、そこに他の何者かの支配的な意思が存在することを好まないし否定したがる。または、自分にとって都合の悪い決定であれば他に選択肢はなかったんだ、仕方なく選んだんだと自身を安堵させようとする。
これらは誤りである。人間は生まれてからずっと社会的規範や文化・慣習・歴史・学問的知識にとらわれている。年を重ね、自身の行動が及ぼす影響がより多くの人間に及ぶようになるにつれてさらに自身の行動は制限される。もちろん枠に収まることを好まずそこから逃れようとする人も多くいる。特に最近は自分に合った人生がきっとあるはずだという主張がテレビなどで盛んに喧伝され、それに若年層の意識が誘導されて会社に就職してすぐやめる新人の増加につながっているのかもしれない。だが、それは今歩んでいる道が自分に合っていないというかなり早急な判断に基づいており、多くの場合本当に今の人生よりも良い人生が歩めるのかをよく検討した結果ではない。それはメディアの宣伝が無意識に刷り込まれた故の行動と言えるだろう。
人間は社会とかかわるうちに知らず知らずのうちにその社会が有する性や人種、社会的立場による偏見、容姿による差別的意識、国民としての意識を規定する文化・歴史観、一般的に正しいとされている科学観などを刷り込まれていく。特に最近でいえば、失われた30年の間に育った若い世代は社会が変化しないものだという意識を持っているようである。特に、日本社会のあり方に対する否定的言動に強い拒絶反応を示すようだ。これもまた自らの中でよく検討して選んだ行動ではなく、緩やかに衰退する日本で育ってその兆候をあらゆるところで見てきたことによる、聞き飽きたという反発であり、むしろ情動に基づく反応であろう。
ここ最近の日本人にみられる大きな特徴は、大人であれ、子供であれ、歯切れの悪い人間が増えていることである。その推論から導き出される結論は一つしかないのに、その最後の一言を言おうとしない。それを言うと自分にとって都合が悪いから黙っているのかもしれない。いや、これだけ多くの人がその最後の一言を言おうとしない以上、それは意識的に黙っていようとしているのではなく無意識のうちに抑制が働いているのだろう。それは言葉に対する誠意が失われ、保身のために虚偽の発言をする人間が跋扈する現代世界の風景と無関係ではあるまい。その反動として非常に歯切れのいい人間が日本でも人気を集めているが、彼らの多くが誤った情報に基づいていたり、誤った推論をしたりしているのをみると、まさにポストトゥルースの時代なのだと実感させられる。
無意識の圧力から逃れるには、まず自らの意識が普段意識していない規範によって誘導されていることを理解し、その規範がいかなるものであるのかを知り、意識下での思考にその規範が影響しているのかどうかを常々確認することが肝心である。こうすることによって無意識を不完全ながらも理解することが可能になり、無意識による意識の支配から逃れることができるようになる。私もよく注意していこうと思う。