我々の世界では、意見の食い違いの根源が生き方の違いに基づくがために相反する意見を持つ者同士の言い争いが過激で感情的なものとなり、まったく論理的でない、相手の意見の論理を理解しない、たとえ相手の意見が論理的でなかったとしてもその意見を述べる背景にある相手の思考が何なのかをおもんばかることをしないといったことがよくみられる。特に昨今分断と呼ばれている意見の溝の最前線ではそのような傾向が強くみられる。私ははじめの記事の論考で、自らの主張や行動の正しさを超え、ただ相手の痛みを知り、相手の存在を許すことを説いた。注意しなければならないのは、相手の存在は許すが、相手の意見を認めるとは限らないということだ。そして、この世界にあふれる主張の中で、決して許してはならない主張が存在する。その一つが差別だ。

 

 この世界に存在する差別の根源には、歴史、文化、宗教など、長い時間スケールにわたって築かれてきたものから、メディア、インターネット、社会的影響力のある人間、経済的状況など、昨今の状況によるものがあるだろう。例えば子供は家族の話を聞いてある属性を持つ、ないし持つとされる人間の集団に対し差別の意識を成長させる。親がある人に継続的に悪口を言うとき、子は親が想像する以上にその人に対する憎しみを強くするように思える。また、多くの日本人の内には日本人に対するある種の幻想、神話がある。それは同種性であったり、高潔性であったりする。おそらく、そのような幻想はメディアの言説、社会的影響力のある人間による発言、周りで共に暮らす人々との交流によって再生産されるのだろう。

 

 これらの根拠をもとに、差別は生まれる。例えば人種差別を考えると、日本では、在日朝鮮人の方々、韓国人、中国人に根深い差別がみられる。アイヌ人はすでに存在しないとされることがある。沖縄の人々の中に、本土の人々はそう思っていないだろうが、少なくともここ80年の歴史を通じて本土から不当な負担を押し付けられてきたと感じ、それを根拠に被差別の意識を感じる人間が一定数いるのは確かだ。少なくとも最近の日本には、いわゆる白人とされる人々への憧れが感じられるが、特定の肌の色をした人々への志向が差別をすることへのハードルを下げている可能性がある。差別主義者でないと主張する人の中に、日本にある形での差別が存在することを否定したり、無視することによって、無意識ないし意識的に社会の中の差別の構造の頑健性に一役買っている人がいる。差別主義者でなく、しかも差別が社会に存在することを認めている人々でさえ、誰かが差別の存在を指摘することに眉をひそめ、差別の存在を主張する他者に資格や正当性を求めて元の問題から論点をずらしたり、差別をなくすためにその人がとった手法を批判したりする。最後の場合は取り上げられることが少ないものの、重要な問題である。なぜなら、それは本来ともに差別へ立ち向かう仲間からの攻撃であり、後ろから矢を射られるに等しいからだ。これに関連して、核兵器禁止条約に批准することを拒否したときの理由づけにも同じ構造の問題が見て取れる。

 

 人類と差別の歴史はとても長い。異質な人間を排除し、身内でしか通用しないジェスチャーや言葉を用い、祭りや儀式を通じて結束を高めることによって1つのまとまった共同体が維持されてきたのは確かだが、我々は世界人権宣言を採択し、人間に固有の尊厳があることを認め、人類社会のすべての構成員が平等であると宣言した。理想の人類社会に人種差別は存在しないはずだ。我々は、決して他者をその出自を理由として差別してはならないのである。

 

※2020/12/05 人種差別についての論考を差別に一般化

※2020/12/06 「沖縄の人々は〜ようである」を「沖縄の人々の中に〜は確かだ」と訂正