我々の住む世界に存在する差別は、あらゆる形態をとる。差別とは、特定の属性を持つないし持つとみなされる集団に対して特別な対応をすることを指すが、その形態は女性に対する差別、より少ないものの男性に対する差別、高齢者に対する差別、特定の民族に対する差別、肌の色が黒い人間への差別、障害者への差別、認知症罹患者への差別、感染者への差別など、並べればきりがない。我々は、なぜ差別をなくさなければならないのか。それは、差別をなくすことが被差別者だけでなく差別をしている人々の大多数にとっても社会がより生きやすいものになることが期待されるからだ。
例えば、アメリカにおける黒人差別は白人労働者と黒人の分断を生み出し、ともに賃金の向上や労働条件の改善を資本家に求める可能性を失わせる。平均して白人よりも収入が顕著に低い黒人労働者が白人労働者と結びついてより生きやすい社会を作る機会を黒人差別によって喪失している。黒人差別のある社会は必然的に労働者の分断を生み出し、資本家にとって都合がよく、労働者が自らの地位向上を図ることがより困難な社会である。当然のことながら、黒人は差別により大きな精神的迫害、命の危険さえある肉体的迫害を受けるが、白人の大多数にとって黒人差別は黒人のみがその地位を低下させるものでなく自らも地位を低下させていることに注意しなければならない。
同じ話は障害者、認知症罹患者、感染者への差別についてもいえる。彼らを差別する人々(健常者だけなのか、障害者らを含むのかどうかは私の知識不足でわからない)は将来自らが彼らと同じ状態になる可能性を真摯に考慮していないのだろう。我々は同じ人間なれば、程度は違えども常に事故にあい、病気にかかる可能性をはらむ。たとえその病気が先天的なものであり、自らがこの先同じ病気にかからないとしても、後天性の別の病気によって同じような境遇になる可能性を誰も否定できまい。おそらく、差別を行う人々の多くは同質性の高い共同体の中で生きてきて、自分が今のような暮らしをしていなかったらどうなるのかという想像の幅が狭いのだろう。自らが障害者らと同じ境遇になる可能性を能動的ないし受動的に実感する環境にないがために彼らを自分と同じ共同体、社会、人類の一員として認めることができないのであろう。
差別をなくすには如何にすればよいか。差別を撤廃するための実行力を備えた法律を作り、行政がガイドラインの作成や規制を行い差別撤廃の取り組みを行う。企業はその構成員に多様性を増すことがよいことであるという価値観を社会全体で共有する。個人は自らの話したことのないような人々と積極的に交流する。あらゆる種類の共同体が大きく異なる属性を備えた人々の間での交流の場をつくる。これらの前段階として、あらゆる形での積極的なパフォーマンスも効果的だろう。代議士に差別の対象とされている人々を選ぶのもよい。これら以外にも方法は多数ある。差別の撤廃は、前に述べたことを踏まえると、国際法を順守させる十分な実行力を備えた国際的機関を創設するための必要条件であり、この国際的機関を立ち上げるという方法を用いた場合には核廃絶体制の維持、戦争廃絶の必要条件である。したがって、差別の撤廃こそ、この世界を皆がより生きやすいものとする手段であり、足掛かりであるのだ。
私は、全人類にとって未来が今より生きやすいものであることを願っている。