すべてはうまくいっている! 光と心の調和 -34ページ目

すべてはうまくいっている! 光と心の調和

横浜の心理カウンセラー ロキのつぶやきブログ
その人がその人らしく
『生まれてきてよかった!」
と思える人生のために。

たとえば一日を通して心の動きに注意を向けていると、自分がかなりの時間を使って、昔の記憶を思い返して夢想に浸ったり、起きてしまったことや終わってしまったことをくよくよ考えたり、後悔したりすることに費やしてしていることに気づく。

また、それと同じくらいの時間を使って、まだ起きていない、好ましい未来や好ましくない未来について、想像したり、心配したり、不安に思ったりすることに費やしてていることにも気づくだろう。



たとえば、帰宅途中に出合った知人と世間話が終わって別れた瞬間に、直前まで知人と話していた内容を反芻し、つまらないことを言ってしまった・・とか、今日はなにか冷たい感じだったな・・といったようなことを考えるのに、かなりの時間とエネルギーを使っていたりする。

夕日が空に美しいグラデーションをつくっていたとしても、ああ奇麗だな・・・と思った次の瞬間には、夕食は何だろうかとか、今日は汗をかいたから先にお風呂に入ろう、きっとビールが美味しいぞ、などと考えている。

旅行先で、名所や文化遺産や有名な街を、過密なスケジュールで見て回り、写真を撮り忘れぬよう必死になり、感動してもすぐに、その美しさや壮大さ思い浮かんだことを話し始め、今その瞬間のストレートな経験を心で感じることなく、すぐに頭の中の記憶に置き換える。

美味しい料理も、口に入れて咀嚼する間もなく同伴者に話しかけ、これは有名な○○という調理法で○○の香辛料を使っている、などと過去の記憶と知識を思い出すのに頭の中はめまぐるしく働き、そのものの味を無心に感じる暇がない。



一日中さまざまなことに思いを馳せることに忙しく、今このとき、この瞬間を充分に味わい、意識し、感じる、ということをしないまま過ごしてしまうことが多くないだろうか。



たとえば、朝、耳を澄ましていると、エサをねだる小雀の甘えたような鳴き声や、ヒヨドリの仲間を呼ぶ甲高い声、カラスのバサバサという羽ばたき、微かに聞こえる虫の羽音、そういったものが明るい日差しと澄んだ空気を通して聞こえてくる。さわやかな風がほおを撫で、ほんのりと花の香りを感じる。ただ何も思い浮かべずに、感じる。見る。聞く。嗅ぐ。



ほんとうに見ないままに見て、ほんとうに味わうことなく食べ、ほんとうに感じないままに触れ、ほんとうに聞かないままに聞き流す。そんな生活をしていないだろうか。

今この瞬間に意識を集中する。
今この瞬間の自分の心の動きに注意を払う。

すると心のレンズから曇りが取り除かれ、ほんのちょっと違った世界が広がる。


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隣のマンションに住むアラエイトの我母が、らっきょうを漬けたのを持ってきてくれた。
「この間来た○○(弟)にもあげたから、あなたにはこれだけなの」
買い物に行く途中だということで、包みだけ置いてそそくさと行ってしまった。

長くなっている包みを開けると、手のひらサイズの深底タッパーにらっきょうの甘酢漬けがぎっしり入っている。いっしょに500gのスパゲティが入っているのが謎だ。

食べてみるととても美味しく漬かっていて、ガリガリと歯ごたえもいい。あとで食べた感想を伝えなければと思うのだけれど、こういう場合警戒を要する。

というのも、母は自ら作った手作りの保存食系をちょっとでも褒められようものなら、これでもか的に立て続けに作るという癖を持っている。梅干しも、ピクルスも、黒酢大豆も美味しいというと、みーんな次々と連作し、結局食べきれないほどもらうことになる。


以前にも書いたが、果実酒もえらいことになってる。
なんと十種類くらいの果実酒が十本以上押し入れのなかに格納されているのである。強盗が入ったら投げつけるつもりなのか、ン十年ものを筆頭にでかい瓶を武器のようにぎっしりと並べている。

戦前、戦中、戦後を生き抜いてきたせいか、食料を適量ですますことができず、大量にふんだんになければ安心できないのかもしれない。そういえば、料理も昔から必ずみんなが食べ残すほど作っていたわ。。

というわけで、へたに「美味しい」などと言おうものなら、またすぐに作るに決まっている。らっきょうばかりで冷蔵庫がいっぱいになるのは避けたい。すでにピクルスが3瓶、黒酢大豆が一瓶占領している。

頭をひねってもうまい言い訳が浮かばないので、ストレートでいくことにする。

「あ、お母さん、さっきのらっきょうすごく美味しかったわ。ありがとう。でも、いっぺんにたくさん食べられないから・・・・あの、もう今年は漬けなくていいと思うんだ。もういいからね」一気に言う。

「何言ってるの、あれぽっちすぐ無くなっちゃうわよ。美味しく漬かったでしょう。だからさっきもう一回漬けようと思って買ってきたわ。今度は2袋よ。2週間くらいでまた持って来れるわよ」一気に返される。


らっきょうの甘酢漬け料理とかないだろうか。あとでクックパッドで探さなくては・・・・




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自己啓発書という一連の書籍がある。

デール・カーネギーの『人を動かす』『道は開ける』などは、もはや自己啓発書の元祖のように言われている。社会人となって間もない頃、カーネギーの2冊にはずいぶんと救われた・・。

大ざっぱな分け方をすると、経済的成功を説く「成功哲学」ものと、人間的向上を説く「人格改造」ものの2種類があるように思う。いや「明るく楽しく生きて、大金持ちになろうよ」といった類いの、両者いっぺんに目指す方が多いかな。

最近本屋さんで自己啓発書とおぼしき十冊くらいをぺらぺらめくってみた。内容は相変わらず、新しい思考を自己暗示によって深層心理に植えつける、といったものが多いようだ。

心理学をある程度応用しているという点については、昔の啓発書と変わっていない。ジェームズ・スキナー、ナポレオン・ヒル、ジョセフ・マーフィーなどの焼き直しといっては言い過ぎかな。精読すれば、もっと新しく且つ深遠な教えを説いていることが分かるのかもしれない。

そういえば、朝の太陽に向かってつぶやく、私の自己流言霊暗示法も同じようなものジャン、などと横浜弁で思ってしまった。


自己啓発書を読んだり自己啓発セミナー等に参加する人々は「いまの自分を変えたい」という強い思いを持っている。熱心に取り組んでいる人のなかには、類書を何冊も読み漁り、次々といくつものセミナーに参加するのだろう。

しかし、こういった自己啓発書がまったく合わない人もいる。クライエントさんにもときどきいらっしゃるけれど、かえって悪影響を受けてしまう場合があるのね。

つまり、本を読んだりセミナーに参加する前より、さらに落ち込んでしまう。

たとえば、「◯◯すればあなたは成功する、生まれ変われる」と言われたとする。しかし、◯◯自体ができない状態にあった場合、それができない自分は駄目だ・・と、ますます自信を喪失してしまうのだ。深刻なうつ状態を引き起こす場合もある。

もちろん、そういった状況のなかにあっても自己啓発書や自己啓発セミナーによって状況が改善される人もいるわけで、一概には言い切れないが。

では、逆効果になってしまう人には何が必要なのか。

自己啓発の類いは、おしなべて心がマイナス状態にある人には向いていない。つまり、自分に自信がなく自己肯定感の低い人や、苦境の渦中にある人。そういう人は自分に対する存在価値を喪失している場合が多い。

そのような人に必要なのは、むやみやたらに「あなたは変われる!」といったポジティブ・シンキングではなく、まず、マイナスを0へともっていく心への働きかけ。ありのままの自分を受け入れてもらう体験であり、ありのままの自分を肯定してもらう体験である。

「変わらなければ」の前に、まず「今」の自分を他者に充分に受け入れてもらい認めてもらうこと。それが自己価値観を上げ、自信をとりもどす力となる。


また、自己啓発書の類いが性格的に合わないとう人もいる。書籍を読んでも、ものごとの対処方法の参考程度にはするが、あまり影響を受けない。生まれつきそういう気質なので、「○○したら○○になれる!」という思考を必要としないのだ。


もちろん、自己啓発書や自己啓発セミナーからとてもよい効果を得る方も大勢いるのだけれど、そうでない場合もふつうにあるよ、ということ。

付け足しだが、自己啓発セミナー(今は自己啓発という言葉は使わず他のさまざまな名称で行っている)では、しばしば心理学をベースにしたテクニックを用いて、ある種の高揚感やカタルシスを参加者に経験させる。しかし、それはつくられた特殊な状況から生み出される計算された感動であり、「一時的」に生まれ変わったような錯覚を起こすかもしれないが、人格や深層心理が変わったわけではない。たいていは、日が経つにつれもとにもどる。

 

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「いやぁ、人間って本当に奇々怪々ですね~」水野晴郎風
というわけで、今回も引き続き『世界史こぼれ話1~6』(三浦一郎/角川文庫・絶版)から抜粋した有名人の逸話シリーズ。

今回も『世界史こぼれ話(3)(4)』よりの抜粋。

言葉というのは、内容よりも「誰が言ったか」で決まってくるようなことがある。同じ言葉でも有名人が言ったのと、無名の一般人が言ったのとでは、その重みやありがたみが違ってきたりする場合も多い。この『世界史こぼれ話』も、世界に名を成した有名人のエピソードだからこそ興味がわく、ということもある。でも、有名人だろうが無名人だろうが、人間て、やっぱり最高に面白い!

今回の抜粋の中の「最低をねらえ」、この諭吉の言葉で思い出した。昔聞いた話だが、ある評論家が昼のワイドショーのゲストとして出演することになり、心配でどんな風にしゃべったらいいかプロデューサーに聞いたそうな。するとプロデューサー曰く「どのゲストの方にもお願いしてますが、なにしろ易しく、中学生以下の子どもに話すつもりでしゃべってください」。現在はどうか知らないけれど。

「われわれ各個人は他人のうちに自己を写す鏡を持っている」(ショウペンハウエル)ということで、今回もいってみよ~

1冊に400~600のエピソードが収録されているので遅々として進まず、やっと(4)からの抜粋も加えることに。

「知らねーよ」という人物もいるでしょうが。。
太字がタイトルで、( )の説明は私が付け足した。

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もらザル
林羅山(1583年生/江戸初期の朱子学派儒学者)にある弟子がいった。「先生、困ったことに私の耳はざるのようで、何をきいても、みなぬけていってしまいます」「心配しないで休まず勉強しなさい。ざるだって水につけっぱなしにしておけば、水はもれないよ。

君の名は
武者小路実篤(1885年生/小説家・詩人・劇作家:白樺派)が志賀直哉(1883年生/小説家:白樺派)の息子の仲人をした。いざ披露という段になって「新郎は・・・・・」といいかけ新郎に「君、君の名はなんてえの」つづいてまた「新婦は・・・・・」とここでもつかえた。


作家と顔
室生犀星(1889年生/明治の詩人・小説家)がある料理屋に行くと、そこの女が彼の顔をつくづくと見て、「あなたはどうしてそういうお顔でああいうことが書けるのかしら・・・・・」という。犀星「そりゃあ顔で書くのじゃないから、顔ばかり見ていてもわからないよ」


手を焼かせたよ
あるときトスカニーニ(1867年生/イタリアの指揮者:短気で有名)のところへ手紙がきた。「私は折角子供を産みましたが死んで生まれました。あまりの悲しさにもう私は生き続ける気力もありませんでした。ある晩のこと夫がつけてくれたラジオから貴方の指揮なさる音楽が聴こえてきました。それを聴いている中に私はこんな美しい音楽がこの世にあるからには生き続けようという気になりました」という感謝状がきた。しかし差出人の名前は書いてなかった。トスカニーニはニューヨーク中の産科病院に片端から電話を掛け、とうとう手紙の主を見つけ出し、自分の写真を贈った。そのサインに曰く。「名探偵アルトウロ・トスカニーニより」


税務署顔マケ
ヴォルテール(1694年生/フランスの哲学者・作家)が蓄財術にたけていたのは有名だが、ヴォルテンベルク公カルル・オイゲンには六十万リーヴル貸し、一割二分の利子をとった。公はしかし利子さえ時々払わなかった。このため、ヴォルテールは二十五年間催促状を出し続けた。


筋は通す
哲学者のスピノザ(1632年生/オランダの哲学者)は金持のユダヤ人の子だったが、大変無欲な人だった。彼の妹はそれをよいことにして、父の遺産を一人で横領しようとした。すると彼は怒って妹を訴えた。裁判は彼の勝訴に終わったが、判決が下ると彼は遺産を全部妹にやってしまった。


申年生まれ?
わが国の作家の中で三大犬ぎらいは、泉鏡花、芥川龍之介、太宰治である。こうあげればこの三人の感じは、犬ぎらいばかりでなく、どこかに共通なものがある。


作家と読書
デューマ(アレキサンドル・デュマ・1802年生/フランスの小説家:代表作『モンテ・クリスト伯』『三銃士』)は自作は書きっぱなしで、読んだこともなかった。しかし死の床で息子にすすめられて自作を次々に読んだ。そして「モンテクリスト」を途中でまで読んだ時、「残念だ!結末がどうなるか読み終えないうちにおれは死にそうだ」


最低をねらえ
尾崎行雄(1858年生/政治家:「憲政の神様」「議会政治の父」と称される)が福沢諭吉を尋ねると諭吉は「誰に読ませるつもりで君は著述するのかね」ときいた。「大方の識者に読んでもらうつもりです」と尾崎が答えると、諭吉「それではだめだ。猿のために書くつもりになれば、それでちょうどよかろう」


ぜいたくは敵だ
イプセン(1828年/ノルウェーの劇作家・詩人:代表作『人形の家』)は交際ぎらいで孤独な生活をし、友人がなかった。彼はある時文学史家のブランデスに手紙を送った。その一節に「・・・・・友人というものは金のかかる贅沢物です。じゃまになるだけです・・・・・」


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息子との会話の流れで、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」という短編小説の話になった。教科書で読まれた方も多いと思う。

中学1年のときの国語の教科書に掲載されていたそうで、ひじょうに印象に残っているという。そういえば、私もヘッセに嵌ったことがあったが、そのきっかけはやはり中学の教科書で読んだこの作品からだった。

で、ちょっとwikipediaで見たら、「現在まで60年間以上も検定(国定)教科書に掲載され続けている。このヘッセの作品は、日本で最も多くの人々に読まれた外国の文学作品と言える。」そうである。いやあ、おそるべしヘッセ。

蝶の収集のとりこになっている主人公の少年「ぼく」と、隣に住む(主人公の少年にいわせると)「非の打ちどころのない悪徳を備えた模範少年」エーミールとの、まったく共感のない二人の交流の過程で、「ぼく」が引き起こしたある「取り返しのつかない行為」によって、「ぼく」の自尊心が完膚なきまでに叩き潰されるという物語。

ストーリーの概略は以下のようなもの。


主人公は友人宅で、友人の子どもの蝶の標本を見せてもらい、自分の少年時代の蝶の収集にまつわる回想を語る。

蝶の収集に情熱を注ぐ「ぼく」は、隣に住む教師の息子で同じ趣味をもつエーミールの存在を知る。同年代の彼は本格的な標本設備を持ち、展翅のための難しい技術も身につけていた。「ぼく」はエーミールをねたみ、賛嘆しながら憎んでいた。

あるとき「ぼく」は珍しい蝶を手に入れ、得意のあまりエーミールに見せるのだが、展翅の仕方に難癖をつけられ、標本の欠陥を指摘され、まるで専門家のようなこっぴどい批判を受ける。

それから数年後、ますます蝶の収集にのめり込む「ぼく」は、酷評を受けて以来交流を断っていたエーミールが、ひじょうに珍しいヤママユガを捕らえたことを知る。どうにも見たい気持ちを抑えられずに「ぼく」は、彼が留守の部屋で、彼の展翅したヤママユガに魅入る。その美しさの虜となり、思わずその蝶を盗んでしまうのだった。

エーミールの家を出る途中でハッと良心に目覚め、もどって返そうとするが、ポケットに入れたヤママユガはすでにバラバラになっていた。愕然としながらも、破壊されたヤママユガをもとの場所に戻し、家に逃げ帰る。

母は「ぼく」の沈んだ様子に気づき、「ぼく」は全てを話す。母はきっぱりと、エーミールにすべてを話して謝り、自分の持っているなかから何でもほしいものを彼にあげて、彼に許してもらうように促す。

「ぼく」は他の友だちであったらすぐにそうする気になるが、エーミールには何を話しても理解してもらえないと感じる。仕方なく意を決して「ぼく」はエーミールに自分のした行為を話し謝罪する。

するとエーミールは激したり怒鳴ったりせずに、低く舌打ちをして次のように言う。

「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」← 名訳ですな。

「ぼく」は彼に自分のおもちゃをみんなやるといい、蝶の収集を全部やるとまで申し出るが、エーミールは冷静かつ侮蔑的にそれをことわる。そんな彼に一瞬、のどぶえに飛びかかりたい衝動にかられる。「ぼく」は「絶対的悪」として認定され、一度起きたことは償うことができないと悟るのだった。

「ぼく」は家に帰り、自分の蝶の標本を一つ一つ取り出して、指でこなごなに握りつぶす。



ふつうの少年少女小説だったら、罵ったり泣いたりなんかしながらも許し理解し合い、最後はふたりに友情が芽生え、頬を赤らめてにっこり微笑み合ったりなんかしてメデタシメデタシなんだろうけれど、ヘッセは違う。いろいろな読み方ができる。

エーミールは単なる「ぼく」との対比人物ではなく、その言葉や態度は、むしろ大人社会を体現した存在として設定され、「ぼく」と対立している。この物語は、少年から大人への、ある種の通過儀礼を描いているようにも感じられる、とても深い作品だ。



「少年の日の思い出」ではないけれど、子どもの時分に大きく傷ついた自尊心というのは、かなり強烈な印象を残して記憶へ刻まれる。

私も幼少時に、たったひと言の言葉によって自尊心を打ち砕かれたことがある。その傷はその後の人生に長く尾を引いた。

幼稚園のとき、一週間に何日かお弁当を持っていくことになっていた。そのころの母は、幼稚園児のお弁当作りに情熱を注いでおり、今で言うキャラ弁に近いようなお弁当を毎回作ってくれていた。

アルミでできた薄いピンクのお弁当箱で、そのふたを開けると近くにいる友だちが発する「わあ、すごい!」とか「ロキちゃんのお母さん、お弁当がじょうずだね!」とかの賛辞に、得意満面であった。

席替えをしたあるとき、お弁当の時間になって例のごとくそっとふたをとると、いつにも増して凝った絵柄のお弁当である。たしか、子どもと動物の絵をご飯とおかずで描いていたと思う。ふたを片手に持ったまま立ち上がり、周りの子に見えるようにすこし席から下がったことを憶えている。

友だちがいつものように「わあ、今日は○○だ!」とか言っているところへ、席替えをして隣になった男の子が覗き込んだ。そして言ったのである。

見せびらかして、自慢してるんだ。

冷水を浴びせられたような、とはこのことですな。
せせら笑われているような、バカにされているような、軽蔑されたような、これまで出あったことのない何ともいえない口調。見透かされてしまったという衝撃。

エーミールの「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」の殺傷力に匹敵する、五歳児のセリフである。

思わぬ言葉に衝撃を受け、そのあと羞恥心がぐわっと沸き上ってきた。とたんに、恥ずかしさと恥ずかしさと恥ずかしさがマックスになり、いそいで蓋を閉めた。そして席に着いたまま、しばらくの間じっと身動きできなかった情景を今でも憶えている。

これまでの、自分が得意げにお弁当を見せている場面が頭の中でぐるぐる回っていた。自分を第三の目で客観視した最初でもあった。次の日から、お弁当のふたをとったらすぐにかき回すようにして食べた。母には内緒で。

この出来事は、これまでの人生のなかでもベスト10に入る、かなり深手の古傷となっている。幼稚園さくら組5歳の出来事。

そのとき以来私は、人に自慢げに受け取られそうな言動がいっさいできなくなってしまった。もちろん今は違うが、それでもこのトラウマの後遺症はまだ残っているかもしれない。

そうした傷をいっぱいつけながら、だんだんと人はかさぶたを増やしていくわけですにゃ。。

 

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