すべてはうまくいっている! 光と心の調和

すべてはうまくいっている! 光と心の調和

横浜の心理カウンセラー ロキのつぶやきブログ
その人がその人らしく
『生まれてきてよかった!」
と思える人生のために。

見つけてくださってありがとう!

「あの人が自信満々なのは、本当は能力が低いから」

「言動が攻撃的なのは、劣等感が強い証拠」

「他人を批判するのは、自分の問題を投影しているから」

 

ネットを眺めていると、こんな「心理学的解説」に出会うことが多々ある。

偉そうな上司や、嫌いな同僚を思い浮かべながら読むと、なかなか気分がいい。「なるほど。あいつは偉そうにしているけれど、本当は大したことないんだ」、少し溜飲が下がる。

 

しかし、この妙な気持ちよさ。人によってはどこかで出会ったことがあるかも。

阿Qの精神勝利法ですな。

魯迅の小説『阿Q正伝』には、阿Qという男が登場する。現実にはボロ負けしている。屈辱も受ける。バカにされまくる。

 

ところが阿Qは、その現実を頭の中で解釈し直すことで、「自分は負けていない」という心理的勝利をつくり出す。いわゆる「阿Q式精神勝利法」だ。

 

池乃めだか師匠のように、ボコボコにされた後ヨロヨロ起き上がって、パンパンと手の塵を払い「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ!」と意気揚々に言い放つ感じ? ちょっと違うか。。

 

もちろん、現代のネット利用者が阿Qそのものだ、という話ではない。ただ、人間には誰にでも、傷ついた自尊心を守るために、現実を少し自分に都合よく解釈したくなるところがある。

そして現代には、阿Qの時代にはなかった便利な道具がある。誰もが大好き心理学用語だ。

 

「あいつは無能」を心理学が証明してくれる?

 

よく登場する代表例がダニングクルーガー効果

この心理学用語には、何やら説得力を増強する「ダニングクルーガー効果曲線」の添付図、までがワンセットだ。

 

上記の心理学研究を根拠に、ネットではしばしば「能力の低い人ほど、当人は有能だと思っている」と説明される。そのため、自信満々で偉そうな人を見ると、「典型的なダニングクルーガーだw」と言いたくなる。

 

しかし、本来の研究はそんな単純な話ではない。研究で調べられたのは、論理的推論や文法など特定の課題について、実際の成績と本人の自己評価がどの程度ズレるかという、心理的な認知バイアスを扱ったものだ。「偉そうな人は能力が低い」という研究ではない。

 

そもそも「自信満々」という状態は、自分の能力を過大評価しているのか? 単に自己主張が強いのか? 本当に能力が高いから自信があるのか? 不安を隠し強く振る舞っているのか?

外から見ただけでは区別できない。

 

にもかかわらず、

自信満々 → 自己評価が高い → 実際には無能 

と変換してしまえば、嫌いな相手を一瞬で「実は自分より下」にできる。

 

現実の力関係は何一つ変わっていないのに、頭の中では逆転勝利。阿Q先生、21世紀でもなかなかご活躍だ。

 

心理学は、とても便利な自己防衛の武器にもなる

 

同じことは他の心理学用語でも起きる。

「あんなに威張るのは劣等感があるから」

「頻繁なSNS投稿は承認欲求が強いから」

「自慢ばかりするのは自信がない証拠」

「批判するのは自分を投影しているから」etc.

 

もちろん、そういう可能性は大いにあるが、可能性があることと、その人が実際にそうであることは別の次元だ。

 

心理学を少し知ると、人間の外から見える行動について、考えられる説明は増える。

ところが、その「説明候補」を「真相」と取り違えると、心理学は自己理解の道具ではなく、他人を診断して自分を安心させる道具になる。しかも厄介なことに、ただの悪口より知的に見えるのがエグい。

 

「あいつは嫌いだ」なら個人的感情だとわかりる。しかし、「あの攻撃性は劣等感を補償するための防衛機制だ」と言えば、なんだか科学的分析のように聞こえる。(そもそも心理学は純粋な科学か?という問題は棚に上げても)自分の好き嫌いに心理学という立派そうな箔が付いて、ちょっと鼻も高くなったりする。

 

けっして精神勝利が悪いわけではない。傷ついた心が安らぐ効果は重要だ。

 

人間は誰でも、自分に都合よく現実を解釈する。自分に都合のよい物語に惹かれる。嫌な相手について「あいつにも問題がある」と考えることで心が楽になるなら、それ自体が悪いわけではない。

 

けれども、そこで満足して終わってしまうのはもったいない。

問題になるのは、それによって現実から学ぶ必要までなくなってしまったときだ。「あの上司は無能だ」それが事実かもしれない。しかし「では、自分は何を改善できるだろう」という問いとは別問題だ。相手を心理学的に分析して完全勝利しても、こちらの能力は1%も上がらない。現実世界の経験値はゼロのままである。

 

心理学は望遠鏡より鏡として使う方が得るものは多い

 

心理学は、人間の心と行動というひじょうに複雑で測りにくい対象を、可能な限り科学的方法によって研究しようとする研究だ。だからこそ、常にその結論には確率と不確実性がついて回り、そのため統計学への依存度が非常に高い。

 

私の好きな言葉で、これまでも何度か引用しているが、心理学者ヘンリー・マレー&文化人類学者クライド・クラックホーンの、

 

1. すべての人間は、ある面においては他のすべての人間と同じであり

2. ある面においては他の幾人かの人間と同じであり

3. ある面においては誰とも似ていない

(要旨)

 

これが人の心の実態に近いのではと考えている。

 

心理学を学ぶと、他人の行動についていろいろな仮説を考えられるようになる。しかし本当に心理学的な態度とは、「あいつはこういう人間だ」と断定することではなく、「そういう可能性もある。でも本当のところはわからない」と複数の可能性を残しておくことではないだろうか。

 

「あいつはダニングクルーガーだ!」と思ったときには、ほんの一瞬だけ「ところで、自分自身の能力評価はどのくらい正確なのだろう?」と考えてみる。

「あいつは劣等感から攻撃している」と思ったなら、「では、自分がこれほど相手を気にしているのはなぜだろう?」とも考えてみる。

 

心理学は、(距離のある)他人を覗くための望遠鏡として使うのもよい。が、自分自身を知るための鏡として使ったほうが、案外たくさんのものが見えてきて有益だったりする。

 

もっとも、嫌いな相手を心の中で一度か、二度か三度くらいまで?コテンパンにする程度なら、それこそが人間の醍醐味。大いにやるべし。

 

以上、ここまで「阿Qの精神勝利法」で武装した人間からの発信でした。

あ、あの世から魯迅先生の冷めた視線を感じる。。

だから私はこうなった

 

で終われば、過去による現在の正当化。ここで終わってもよい。

 

だから私はこうなった

では、ここから私はどうするか

 

さらに進みたいのであれば、ここから自己物語が防衛から主体性へ転換する。

どうしたらじたい欲求と破壊的にならず付き合えるのか?

 

人間の脳には、もともと生存戦略として、「親を信じる」「強いものに従う」「物語を信じる」「権威を信じる」という回路があるということを述べた。

 

では、人間に本来備わっている信じたいという欲求を、ビジネスに利用されない、騙されないようにコントロールするにはどうしたらよいのか。

 

かんたんに言えば、信念(自分が正しいと固く信じる考え)を自己同一化しない。つまり、現在は正しいと考えていても、「絶対に」正しいものはないという、メタ認知(客観)の視点をつねに持ち続けることだ。

 

例えば、ある宗教やイデオロギーを信じる場合、それを絶対視するあまり、自分が信じる対象以外の宗教やイデオロギーを「劣ったもの」「排除すべきもの」とみなし、過剰に敵対視して執拗に攻撃することがある。

 

このような攻撃性の背景には、自らが抱える不安や劣等コンプレックス・葛藤などを和らげようとする防衛機制が働いていると考えられる。つまり、絶対的な価値をもつと信じた宗教やイデオロギーの価値観を自我に取り込むことで、心理的安定を維持しているからだ。

 

その結果、信じる対象を否定されることは、自分自身を否定されることと同義になってしまう。批判者に対し、側からみると異常な敵意や憎悪を剥き出しにしたりする様はその所以だ。

 

このように、信念と自己が分離できなくなった状態は、心理学的には「自己同一化(最近の表現ではアイデンティティの融合)」と捉える。

 

それを避けるためには、「仮説として信じる」「必要がなくなったら捨てられる」「複数の解釈を許容できる」というように、「盲信」しないことだ。

 

反証や批判されても自分が否定されたと思わずに、自我と信念を分離できる。そこが健全な「信じる」と病的な「信じる」の違いである。

 

とはいっても「アイデンティティの融合」状態だからこそ、楽ちんに人生を送る人たちも存在する。

信念に関連する様々な事柄を、自分で思考判断する必要はなく、信じている教義や理論に丸投げできるからだ。

 

 

信じる力そのものは、本来人間に備わっている強力な回復力。

しかしその性質が、他者の利益の為に利用されたり、葛藤や苦悩の原因となるなら、それは生きる上でのデメリットになる。

 

これまでも何度か書いているが、

「何を信じるか?」よりも「どのように信じるか?」

「自分の世界を広げるのか?、狭めるのか?

 

ここが健全な信心と狂信の分水嶺ではないかと考えている。

 

好きなだけ信じていいのは、自分だけ ♪

 

 

 

 

 

 

 

なぜビジネスとセットになるのか?

 

ここがエグいところ。

「信じたい欲求」には「生き延びるための生存戦略」を満たすため、つねに 不安・依存・希望・救済願望がくっついている。

 

そこに、

・これで救われる!

・これで成功する!

・これで安心!

を置いたら、無限市場が広がる

 

それを強化するのが

成功 → 教義の正しさ

失敗 → 本人の問題

 

論理的には永久に否定できない構造になっている。

宗教も、スピリチュアルも、マルチも、自己啓発も、カルトも同じ。

 

これって悪いことなのか?

 

人の信じたい欲求というのは、愚かだからでも弱いからでもない。

むしろ「意味を欲しがる」「希望を欲しがる」「世界(宇宙)とつながりたい」「自分の生に意味を持たせたい」といった、ひじょうに人間的な機能が働いている証拠でもある。

 

問題は、

信じる対象 → 検証不能(似非科学)→ 排他性 → 金・権力とつながったときに、

信仰 → 狂信

希望 → 依存

物語(解釈)→ 無謬の教義 

に変わること。

 

だから同じように 心理学も、AIも、危うい。

媒体は違うが、人間社会においては永遠になくならないテーマ。

 

宗教が弱くなればスピリチュアルが来る

スピが飽きられたら心理学・脳科学が来る

心理学・脳科学が疑われたら

自律的AI・シンギュラリティが来る‥

 

中身は「これを信じれば大丈夫」という救済装置。

 

 

人間が信じたいのは「神」ではなく「不確実性がない世界」

 

だから、「全部説明してくれる」「迷わなくていい」「自分が正しいと思える」という物語に、どうしても引き寄せられてしまうのだ。

 

繰り返すが、なぜ人間は信じたいのか?

 世界が意味を持ってほしいから

 

・ そうでないと不安に耐えられない

・ 誰かと同じ物語を共有したい

・ 何者かに委ねたい

・ 希望を持ちたい etc.

 

これは特別な心理ではなく、「不安を除き安心したい」という人間本来の生存仕様なのだ。

 

「ケッ! 生きることに意味なんてネエヨ」というカッチョイイ台詞もあるけれど、それも「意味なんてねえ」という解釈(意味付け)で自分を納得させているのだ。屁理屈っぽいけど。

 

 

時代を通じて、人間のそうした欲求を「うまいことビジネスにつなげて儲けよう」という、これまたとても人間的な思考も必ず生じる。

 

いまや、SNSで再生数を稼ぐためには不安を煽るのが最も効果的、と皆気づいており、そういった情報発信の仕方がかなり多い。「怖い〇〇!」「〇〇しなければたいへん!」「危ない〇〇!」「〇〇してはダメ!」的なものがてんこ盛り。

 

人が根源的にもつ不安感や恐怖心をビジネスとセットにする→ 不安解消のために飛びつく

大昔から現在まで、あらゆるかたちで不安ビジネスは存在し続けてきた。

 

ただ、一概に善悪では語れないのも事実。

後になって大金を毟り取られたことに気づき怒り狂うケースもあれば、信じることで安心満足な人生を手に入れたと喜ぶケースもある。

 

次回は、どうしたら信じたい欲求と破壊的にならず付き合えるのか?について。

ネット上では膨大な情報が日々更新され続け、最近では驚異的な生成AIも登場し、ますます真贋の見極めが難しい状況になっている。

 

当然、偽情報を信じることによる被害発生も凡ゆるかたちで増大している。

 

余談だが、私は生物全般の生態を扱う動画配信が大好きである。そのなかに、生成AIで事実のようにつくられた『動物と人との感動エピソード」のフェイク動画が多数混じっている。違和感により気がつくケースがほとんどだが、つい感動しちまって後からわかったときは、恥意識と自己信頼が揺さぶられひじょーに不快である。

 

なぜ人間には『信じたい欲求』があるのか?

 

答えを一言でいうなら、

『世界が意味を持ってほしい』

から。

 

人間にとっていちばん耐え難い状況をごく大雑把に挙げるとすれば、無意味・偶然・理不尽・コントロール不能ということになる。

 

例えば、

・良い人が難病に罹る

・子どもが事故に巻き込まれ亡くなる

・いくら努力しても報われない

このような状況を

 

「たまたまですな」「意味はないでしゅ」

という解釈で受け止められる脳はない。

 

そこで脳はこうする

「意味を作る」

「理由を作る」

「背景に何ものかの意思を置く」

 

つまり『物語を作る』。

 

進化心理学的にみると、信じる能力は人類の共存に便利だったということになる。

 

昔の人類は雷が鳴ると

「神がお怒りじゃ!」→ 集団で祈る→ 集団の結束が高まる→ 生存率アップ

 

つまり、「目に見えない意思を想定」し「同じ物語を共有」する。

 

これは、「集団をまとめる」「行動を統一する」「恐怖・不安を抑える」

につながり、集団生活を営む人類にとっての実用スキルとなる。

 

「神がお怒りじゃ!」の神は『崇高で偉大なる何か』を想定している。

 

では「崇高で偉大なる何か』はどこから来ている?

 

人間の脳には、もともと生存戦略として、

・親を信じる

・強いものに従う

・物語を信じる

・権威を信じる

という回路がある。

 

赤ちゃんは親を「信じる」能力がないと死ぬ。

したがって、

 

・親は絶対

・神は絶対

・真理は絶対

・自己啓発やスピリチュアルや超能力の絶対

・AIは絶対  ←今ここ?

 

対象だけが時代で入れ替わってきている。

 

ネット情報で心を惹きつけられたとき、上記のようなことを頭に入れておくと盲信を免れる、、と思う。

 

なぜ、「信じたい!」はビジネスとセットになっているのか?を次回に。