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すべてはうまくいっている! 光と心の調和

横浜の心理カウンセラー ロキのつぶやきブログ
その人がその人らしく
『生まれてきてよかった!」
と思える人生のために。

私のこれまでの様々な出会いの中で、とくに圧倒的に女性に多い事例として

過去に明確なトラウマ(PTSD)や虐待の経験がないにもかかわらず、恋愛対象の男性に対して肉体的接触(ハグ、キス、セックスetc.)に、程度の差はあれ「嫌悪」あるいは「抵抗」「苦手意識」を持つ

ことで悩まれているケースが複数ありました。

 

こういった男性への身体的接触への抵抗を持つ女性は、実際に臨床や研究でも一定数報告されています。かなりセンシティブな問題でなかなか顕在化しにくく、潜在的には統計よりかなり多く存在する可能性もあると考えています。

 

世のお年頃の男性にも、相思相愛の(これ自体が勘違いというケースも多々あれど)女性の理解しにくい拒絶反応に対しての誤解や勘違いを回避していただくために、このような心的傾向を持つ女性が存在することを知っていただきたいと思う次第です。

 

といいますのも、思い切って相手の男性に嫌悪感や不安感を伝えたとしても、女性自身もなぜ強い抵抗が生じるのか明確な原因がつかめておらず、よって男性側も的確な理解が及ばない…という事例がほとんどなのです。

 

恋愛中の彼氏に触れられることが苦手な女性へ

 

これまでに考えられている心理的要因としては、

 

1. 愛着スタイルの影響

・幼少期の養育環境が「過度に距離のあるもの」だった場合、身体的親密さ=侵入・コントロールと感じる傾向が育つことがある

 

2. 性嫌悪 

・性的な接触に対して、根拠のはっきりしない「生理的嫌悪感」「拒絶反応」を感じるケース

・幼少期の性教育・家庭の性に対する価値観が「ネガティブでタブー視されたもの」だった場合、それが身体レベルの嫌悪感として残るケース

 

3. 自己概念と身体像のゆがみ(ボディイメージ/セルフ・スキーマの影響)

・自分の身体に対する否定的な感情(「見られたくない」「魅力的ではないと思われるのが怖い」など)

・特に自己肯定感の低さや身体的羞恥心が強い人は、他者との身体的接触が「恐怖・恥・嫌悪」を引き起こすことがある

 

4. 感覚過敏や神経発達的傾向(HSPやASD傾向)

・ハグや接触自体が「身体的に過剰な刺激」に感じられるケースがある

・これは特に、感覚過敏や神経発達特性の一部として現れることがあるため、必ずしも心理的トラウマに基づくとは限らない

 

5. 未分化な親密さの恐怖(親密=支配・自己喪失という無意識の図式)

・特に自立性を強く大切にする人に見られる

・身体的親密さが「個の境界のあいまいさ」「自分を失う恐怖」と結びついている可能性があるケース

 

稀な実例として、アセクシャルの女性にとって、男性の性的興奮に囚われた状態と通常の状態との乖離が滑稽に感じられ、どうにも可笑しくて真面目に対応できないケース、というのがあります。

 

 

まず最初に、以下のことを当事者の女性に知っていただきたいです。

 

「あなたの感覚は“おかしい”のではなく、“あなたの大切な感覚の一部”」

 

「身体が拒否」しているのは、心や身体を守ろうとする自然な反応であり、故障でも欠陥でもないという視点をもってください。

 

相手に対して、信頼がないからでも愛情がないからでもなく、「安心できる距離感でしか心地よくいられない」から、というのが実情です。愛情があっても「身体が追いつかない」という場合もあるのです。それは「心と身体が丁寧に関わっている証拠」でもあります。

 

社会的・文化的な影響で、「好きな人には触れたくなるはず」「セックスがなければ本物の恋愛じゃない」という『恋愛の定型的なイメージ』に自分を合わせようとして苦しくなる場合もあります。

 

しかし実際には様々な愛情表現のスタイルがあり、「“恋愛=スキンシップができること”という思い込みは手放して、個人によって大きな差があることを受け入れていただきたいです。

 

また、自責に陥る女性のケースでは、自分の“感じ方”を変えようとして「こんなことじゃダメだ」とさらに苦しくなることもあります。しかし実際には、感情や身体反応は「意志」ではどうにもならない領域がとても多いのです。

 

例えば、熱いヤカンに触れて「熱い」と感じるのは意志のせいではありません。それと同じで、「近づかれると怖い感じがする」も、意志ではなく感覚の働き。

 

問題は“怖い”と感じることではなく、その感覚を自分で「否定すること」なのです。自分の反応を「判断せず、逆に「好奇心を持って観察する」ことができるようなると、回復の一歩です。

 

 「“今の感覚”が“永遠に変わらない”わけではない」

 

安心感・信頼関係・自己理解が深まるにつれて、「今はまだ苦手だけど、もしかしたら…」という変化が起きる可能性もあります。

 

あらゆる場面で活用する私の好きな考え方「どっちでもOK!」ではないですが、「今の自分のままでもよく、変化してもいい」と両方を認めてあげることで、過度な自責や不安から自分を自由にできます。

 

 

上記のような心理的要因を知らないと、恋愛対象の男性への身体的接触への拒否・抵抗が、相手の誤解(=「愛されていないのでは」「性的に魅力を感じてもらえてない」など)を招き、恋愛関係の破綻に繋がるケースもあるかもしれません。

 

こうした場合、本人にとっても相手にとっても傷つきは大きく、慎重で丁寧な対応が求められます。

 

次回は、「恋愛中の彼女に触れさせてもらえない男性」へ伝えたいことと、「二人にとっての有効な対応方法」についてです。

人の情動を理解することはひじょうに難しい。
感情の発動は、しばしば当人ですらその明確な動機や原因を理解できず、ましてや、言語化できない繊細な心の揺らぎは、無限に存在する。

 

したがって、例えば、人が人を好きになるのに、他人の理解は必要ない。
 

好意や愛情は、合理や説明を超えたものであり、それは「なぜ好きなのか」という問いを必要としない。

 

理解されなくても、人は人を想う。
その不可解さこそが、人間らしさであり、
情動とは、論理よりも生の深部から湧き上がる衝動なのだ。

 

よく、「何でそう思うの?何でそういうことができるの?あなたのことが理解できない!」という言葉を、相手を責める意味合いで発することがあるけれど、それは自分の自我の延長線上に相手の自我があるという錯覚から起きている。

 

誰もが自分と同じように感じ考えるべき(それが当然である)、という自分と他人の線引きができない未熟な思い込みだ。

 

人には、他人の情動やそれに基づく行為を、正確に理解できる能力はなく、経験や知識を駆使して推測ができる程度。それさえも見当違いのことが多い

 

感情に共感はできるが、理解をする必要はない。

 

「何でそう思うの? 何故そういうことをするの? あなたのことが理解できない!」

それには「当然だ、あなたは私ではないのだから」と応えるしかない。

 

「理解できないけれど、そういう人なのだ」ということを受け入れることができると、かなり楽になる。お互いにね ♪

 

 

他人への無償の援助はとても難しい。

 

つまり、見返りを求めない助け――は、理想的に見えて、実際にはとても繊細な力学を孕んでいる。

 

以下、あえてマイナス面に絞ってみる。

 

受ける側の心を傷つける。

受ける側は、感謝や恩義を抱くと同時に、無力さ、恥、依存への不安、あるいは「対等ではない」という痛みを感じる。

 

主従関係を作り上げる。

助けられたものは、助けた者に頭があがらない。永遠に「貸し」を背負わされたように感じ、その人の前では自由にふるまえない。

 

深い劣等感を植え付ける。

自尊心や「自分の力で生きたい」という本能的欲求を潰す。「恩」という重荷が助けられた者の成長や自立を妨げる。

 

場合によっては、ドストエフスキー小説の登場人物のように、助けられた者が無償の援助者を憎悪し始める場合だってあるかもしれない。

 

助ける側は?

純粋であるほど、それはそれは気持ちいいだろう。

 

考えるに、無償の援助はキリスト教的な人道主義が要請するものなのかもしれない。つまり、一方的に助けられる人の存在をいつまでも必要とする世界観。神と人間。

いや、まだよくわからないが。

 

日本の「お互い様」という感覚は好きだ。

 

 

 

ネットに繋がっていないと不安になる、という心理状態は、いまや各国共通の社会現象となっている。モバイル端末は、不安やネット依存の発生装置にもなる。

 

大量の玉石混交の情報が、砂嵐のように渦巻くIT社会を無傷で生きるためには、情報の真贋を見極める判断基準の確立や情報の判断スキルの習得等々が必要になるのだろうが、まだまだ現状に追いついていない。というより、情報(エントロピー)は増大し続けるという法則からいえば、永遠に追いつかないのかもしれない。

 

自分で思考し、判断し、決断し、行動し、自分の言動の結果に全責任をもつ‥‥といった自我を確立した人間であれば、そう簡単にネット情報に振り回されることはないだろう。しかしネット社会だからこそ、なかなか自分仕様の自分軸で生きている人は少ない。

 

ところで、インターネットは超絶便利なシステムではあるけれど、あまり向いていないものもある。

個人的な交流(コミュニケーション)である。

 

悩みの原因として圧倒的に多い「人間関係の悩み」も、SNSを媒介としたケースが新たに加わり、その占める割合が徐々に大きくなってきている。

 

インターネットというのはネガティブな虚言が増幅する装置でもある。

 

年齢を偽る。性別を偽る。職業を偽る。身分、経歴を偽る。写真を偽る。善人を装う。正義を装う。不安を煽る。憎悪を煽る。欲望を煽る。

 

そして偽ることに対する罪悪感が希薄になり、対面ではためらうようなことも容易にできてしまう。

 

発信する側となっても、本音や素の自分をそのままネット上に晒すのではなく、何かしら自分を演出したくなる。つい、かっこいい自分を演じたくなる。←ワタクシ

 

しかし、ネット上では不可能なこともある。

 

コミュニケーションによって信頼関係を築くこと。

 

生身の人と人との交流の過程で成り立たつ信頼関係は、ネット上での交流をいくら重ねても構築できない。これは断定してもいいように思う。

(もちろん、リアル交流なら必ず信頼関係を築ける、という意味ではない)

 

ここでは主にリアル交流によるメリットを挙げる。

 

リアル交流で得られるメリット------------------

 

1. 触覚・空気感を通じた深い感覚

 空気感や肌感覚で人のぬくもりを感じる

 

⚫︎ 握手、ハグ、肩に触れるなどのスキンシップは、オキシトシン(絆ホルモン)を分泌し、安心感を生む

 

⚫︎ 場の空気を共有することで、共感や安心感、不審感、違和感など言葉以上のものを感じ取れる。

 

⚫︎ 微細な表情変化、呼吸、間(ま)といった要素を感じ取れるため、より深い理解が生まれる。

 

⚫︎ 相手との相互作用による五感の刺激が脳の働きを活発にする。

 

⚫︎ 親しくなると、会話をしていない時間も一緒にいる安心感があり、沈黙の時間を心地よく共有できる。(ネットでは、沈黙が「返信がない=不安」につながりやすい。)

 

 

2. 予測不能な出来事による刺激と成長

  ネットではアルゴリズムによって同じような情報ばかりが集まる。偶発的な出会いや意外性のある交流はリアルなシーンに生じる。

 

⚫︎ 偶然の出会いや出来事による刺激。

たまたま隣に座った人と意気投合する、意外な場所でばったり嫌いな知り合いに会う、など、「予測できないリアルな体験」が生じることで脳を刺激する。

 

⚫︎ リアルな対話の中で瞬時に思考を整理する力がつく。

直接の会話では、その場の流れに応じて即座に返答する必要があり、対話力や対応力が鍛えられる。

 

⚫︎ ネットでは時間をかけて考えた返信ができるため、この「即興の思考力」は磨かれにくい。

 

 

3. 本物の信頼関係の構築

   リアルでは「一緒にいるだけで安心できる」関係が生まれる。

 

⚫︎ 長期的な関わりの中で互いに「偽りのない人間性」を知ることができ、その上で信頼関係を築いてゆける。

 

⚫︎ 実際に何度も会い、言葉や行動の一貫性を確認することで、「この人は信用できる」と判断できる。

 

⚫︎ 長時間一緒に過ごすことで同じ体験を共有し、それが信頼関係を深める。

 

⚫︎ リアルな関係では約束を守る・時間を共有する・トラブルに向き合う、といった責任感が求められ、そこに信頼が生まれる。

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リアルな交流には、実体感のないネット上に浮遊している状態から「生身の人間らしさ」を取り戻す力がある。オキシトシン(絆を深めるホルモン)やエンドルフィン(幸福感をもたらすホルモン)といった神経伝達物質が豊かに分泌され、それは心を落ち着かせ、安定させる。

 

人付き合いが苦手な方が、ネット上での交流に孤独を癒しているのも事実。それも大いに楽しみつつ、リアル交流も味わってほしい。

 

バスを前扉から降りる時、運転手さんに無言でちょっと頭を下げる、するといつもの「ありがとうございました」にほんの少し感情がこもっている。これもリアル交流。

 

勇気を出して、人に会おう!

 

過疎ブログにきてくださる奇特な皆様に、心から感謝しております。